ままゆがプロデューサーを好きで好きでたまらない話。

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佐久間まゆ「プロデューサーだけど愛さえあれば関係ないよねっ」

 父と母は決して仲のいい夫婦ではなかった。とはいえ、喧嘩をすることは滅多になく、仲が悪いと言うわけでもない。たとえるなら母は、父によって閉じこめられた、カゴの中の小鳥。

 父は母を愛していた。愛していたから、母を家に閉じこめ、子どもという鎖で縛り付け、逃げ出さないようにした。母はそんな父を嫌ってこそいなかったが、決して愛してはいなかった。父は母を愛し、母は父を受け止める。ただそれだけの関係。

 私は母によく似た容姿をしていて、父は、そんな私を好いていた。そしてそれを、母はいつも哀しそうな目で見ていた。私は父と母を好いていたが、愛してはいなかった。

「愛とは惜しみなく捧げなければならないものだ」

 いつも母ばかりをみていた父だったが、時おり、そんな言葉を言って聞かせた。事実父は母に対してそうしていたし、それをみていた私も、なるほど、愛とはそういうものなのか、と納得していた。

 思春期にはいると、今まで気にもとめていなかった男子から話しかけられることが多くなり、困惑することとなった。何度も話したことのない子から告白までされるようになって、ようやく、自分の容姿が魅力を持つものだという自覚が芽生えたが、さりとてそれを生かそうという考えには及ばなかった。自分の容姿に無頓着ということではなく(むしろファッションやメイクの話題は大好きだ)、そういうことを気にするような相手がいなかったので、単に思い浮かばなかっただけといえる。それはモデルとしてスカウトされても同じだった。可愛い服を着るのも、綺麗にメイクをしてもらうのも楽しかったけれど、それ以上のものはなかった。

 読者モデルとしての知名度が上がってきたころ、変質者と遭遇することとなった。聞けば私のストーカーなのだという。逃げて逃げて追いつめられた路地裏は、まだ日も高いというのに薄暗く、じめじめとした雰囲気を醸し出していた。手に何か武器となるようなものを持っているわけでもなく、特別恐ろしい風貌をしているわけでもない。けれど、目の前にいる男の、その執念のようなものが宿った視線や、ひどく粘着質な声色は、私を恐怖ですくませるには十分だった。

「やめろ! 警察を呼ぶぞ!」

 もう襲われる、と目をつむったとき、そんな男の声が聞こえた。おそるおそる見ると、汗をかき息をあらげた若い男の人が、携帯電話を耳に当てながらこちらに向かって叫んでいた。慌てて逃げていく不審者の姿が見えなくなると、その人は怖い顔をやめて息をつき、恐怖でへたり込んだ私に向かって手をさしのべてくれた。

「怪我はないか? もう大丈夫だから」

 そう言って差し出す手は震えていて、よく見れば顔も少し強ばっていた。じっと手を見ていた私に気づいた彼は、照れたように笑いながらやや強引に手を取って立ち上がらせ、「とりあえず駅まで送るよ」と少し距離を置いて歩き出した。きっと彼も怖かったのだろう。それでも見知らぬ私のために、走って、助けてくれた。今だって、襲われたばかりの私に気を使ってくれている。私が安心できるように、身が震えるような恐怖を悟られないようにして、過度に近づかないようにして。それに気づくと、胸の奥が、これまで感じたことのない熱で満たされた。

 ああ──なんということだ。彼は、この人は、今まで会ってきた人とは違う。今まで口だけの愛をささやいてきた男とは全然違う。一目惚れ? 吊り橋効果? ──いいや、違う。運命……そう、これは運命だったのだ! 会ったばかりだなんて関係ない。今出会ったのだから、それで充分なのだ。名前も、趣味嗜好も、性格も人柄も、全部これから知っていけばいいのだから。そう思えばさっきの不審者にだって優しくなれそうだ。なんといっても彼と引き合わせてくれたのだから。感謝さえ感じている。

 ああ、私はようやく見つけたのだ。私の運命。私の愛する人。私の──人生のすべてを。

 

   §

 

 結局その後、駅で別れるまで私は何も出来なかった。初めて感じる熱情を持て余し、次にどうやって会おうか、どうやってこの熱を伝えようか、すっかりと飛んでしまっていた。それでも、離れたくないという思いだけは形となって、どうにか彼を引き留めようとする私に、「何かあったら連絡してくれ」と名刺を渡してくれた。芸能プロダクション。プロデューサー。アイドルになれば、彼に会うことが出来る。離れていく彼の背中か見えなくなると、すぐさま家に帰り、上京しアイドルになる旨を相談した。

 私の申し出に、父はたいそう喜んだ。私がアイドルになるからじゃない。私が家を出ることで、母と二人になれるから。母はいつものように悲しい目で父を見て、私のことを応援してくれた。

「信頼すること。受け入れること。尊重しあうこと。それが愛するということよ」

 いざ家を出るときになって言われた母の言葉は、きっと私の持て余すこの熱情を制御するための楔となるだろうと、いつまでも耳に残った。

 

   §

 

 彼のもとへとたどり着くと、驚いた素振りを見せたあと、「歓迎するよ。きみなら必ずトップアイドルになれる」と笑顔で迎えてくれた。彼は芸能プロダクションで働いていて、女性アイドルのプロデュースを担当している。当然私も彼の担当アイドルとなり、新人アイドルとして──ではなく、アイドル候補生として鍛えられることとなった。定期的に彼に会えるのは嬉しいが、渋谷凛のような名のあるアイドルを受け持っている彼には私のような人間に割ける時間は少なく、余計に寂しさを募らせることとなった。もっと見てほしい。もっと話してほしい。もっと触れてほしい。アイドル候補生じゃあの人の側にいられない。私の中の熱情は、こんなところでまごつくことを許すはずもなかった。

 無事にアイドルとしてデビューすると、思惑通り彼の側にいられる時間が格段に増えた。新人である私はプロデューサーである彼の力を必要とすることも多く、その分時間を私のために割いてくれるのだ。しばらくはこの幸福をかみしめていられたが、ふと、父の言葉を思い出した。私は彼に、まだ、何も返していない。何もしていない。何も捧げていない。彼を喜ばせたい。彼のために何かしたい。彼を愛したい。彼はプロデューサーで、トップアイドルを作り出そうとしている。ならば私は何をすればいい? そんなこと、考えるまでもないことだった。

 しばらく活動するといつの間にか私も人気が出てきて忙しくなった。彼はそれを喜んでくれたが、同時に、処理すべき案件も増えたので、以前よりも忙しそうにしていた。おれが忙しいのはきみたちが頑張ってくれるからだ、と彼は笑顔で私たちに言い、ありがとう、と礼まで述べた。彼が喜んでいるのはとても幸せなことだが、余りに忙しいので、少しでも心が安まれば、とコーヒーを淹れたところ、たいそう嬉しそうにしてくれた。

 思えば、アイドル活動に夢中になりすぎて、彼自身に意識して何かしようとはしてこなかった。私は彼のことをこんなにも愛しているというのに、なんということだ、あまりにも受動的ではないか。トップアイドルになるのはあくまで手段でしかない。そのことを再確認し、その上で、改めて彼に何が出来るかを考えた。

 彼はトップアイドルを育てようとしている。担当アイドルも増え、仕事が忙しく休む暇もない。仕事に真面目で喜びを感じているため、私生活を疎かにしがち。アイドルとは気安く接しているが、同時に業界人としての立場を弁えていて、一線を引いている。──彼を信頼し、受け入れ、尊重する。私が彼に捧げる愛は、彼を支えるものでなくてはならない。

「……まゆ、なんでここにいるんだ」

「ごめんなさい。けれど、どうしても心配になって」

 申し訳なさそうに、けれど譲らない。彼は優しいから、一線を越えなければ、注意はしても拒むことはしない。

「誰かに見つかったらどうするんだ」

「ちゃんと変装しましたから。それに、売れてきたとはいえまだまだ知名度の低いまゆに、記者の方だって注意は向けません」

 ほほえみながら答えれば、ほら、ため息をついても渋々でも、私のことを受け入れてくれる。しかめっ面も、目の前に並べられた料理につけると和らぎ、「うまいな」と褒めてくれた。それだけでもう達してしまいそうだった。

 忙しくて私生活を疎かにしている。ならば私が支えればいい。そう思って夕飯を作りにいったが、どうやら成功したようだった。後から思えば結構な無茶をしたものだが、この時は加減がわからなかったのだ。それから何度か食事を作りにいくと、家には食材や調味料が置かれるようになり、作りに行く合図なども自然と決められた。彼と外で私的に会うことはなく、夕飯を作って食べ、少し話したりするだけで特に何もすることはなかった。お弁当を作ることも考えたが、同僚や営業先とのつき合いなどを考えて控えた。他の人に気づかれないように配慮したのは、彼や私の立場を考えてのことではなく、浅ましいことに、二人だけの秘密を守るためだった。

 ところで、彼のフランクながらも一線を守る態度は、担当アイドルに安心感を与えるようだった。彼はほかの同業者と比べても担当アイドルが多いが(彼の有能さの証左にほかならない!)、とりわけ前述の渋谷凛などは付き合いも長く、その分彼と気安い関係となっている。彼と親しげに話しているところを見た。彼に気兼ねなく触れているところを見た。ああ、私の知らない彼を、彼女は知っているのだ。

 誰かをこんなにも妬ましく疎ましく羨ましくなるなんて初めてだった。けれど私にはどうすることも出来ない。私の愛では過去を変えることは出来ない。どうすればいいのだろう、と考えたが、簡単だ、彼女の知る彼を私も知ればいいのだ。そして、わたしだけが知る彼が多くなればいい。わざわざ対立したところで手に入れられるものは少ない。それに、アイドルを傷つけたら、彼は悲しむだろう。私が傷つけたことも、彼女が傷つけられたことも、彼はきっと悲しむだろう。だから私は彼女たちと仲良くすることにした。愛とは彼を尊重することなのだから。

 

   §

 

「まゆはプロデューサーのことが好きなの?」

 テレビの撮影が終わり、彼に会うために事務所へ行くと、渋谷凛が一人でソファに座り雑誌を読んでいた。彼の仕事は長引いて不在で、かつ他の人もそれぞれ用事のため外出しているらしく、事務所には渋谷凛一人しかいないのだという。そこで暇つぶしにとマフラーを編んでいるところにそんな質問をされた。突然のことに目を瞬かせていると、「それ、プロデューサーのでしょ」と編みかけのマフラーを指され、なるほど、とうなずいた。

「ええ、好きですよ。事務所で彼のことを嫌いな人なんていませんよ」

 当たり障りのない言葉。実際、事務所の誰もが彼のことを好いていたし、慕っていた。担当アイドルをテレビで見ない日がないくらいの能力と、見ず知らずの人でも身を挺して助けようとする人柄。決して大きいとは言えない規模の事務所にとって、彼は欠かすことのできない人物であった。けれど、案の定私の返事は彼女の気に召さなかったらしく、そうじゃなくて、と広げていた雑誌を閉じて脇に置いた。

「プロデューサーのこと、好きなんでしょ。人としてじゃなくて、男として」

 彼女の語調は、質問ではなく、あくまで最終確認をするかのようで、たとえどんな返事をしたとしても彼女の確信を覆すことはできないだろうということが分かった。そんな、彼女の憶測でものを語ろうとしないところを、私は気に入っていた。

「ええ、好きですよ」

 先と同じように肯定する。

「ずいぶんあっさり認めるんだね」

「ええ。別に隠しているわけではありませんしね」

 もちろんスキャンダラスな事にはならないように細心の注意を払っている。彼の迷惑になるようなことは極力排除しなければならない。笑顔でそう答えてみせると、ふうん、と自分から振ったにしては興味なさそうにうなずいた。

「うちの事務所、別に恋愛禁止じゃないしね」

「かといって、アイドルとしてはやっぱり自重するべきなんでしょうけれど」

「……だね。そうだね」

 「恋は人を成長させる」という社長の持論により、仮にもアイドル事務所であるにもかかわらず、恋愛を禁止どころか推奨している節さえある。とはいえ、ファンは私たちアイドルに処女性を求めていて、アイドルはファンがいてこその商売であるから、表立って恋愛関係を公表するようなことはできない。逆に言えば、ばれないところでは案外そういった話の種が尽きない。かくいう私も彼には我ながら大胆な行動を起こしていたが、それはさておいて。

 そのまま、なんとなく会話が途切れた。結局、渋谷凛が何を言いたかったのかはわからないが、かといってあえて広げるようなことでもない。こちらからも彼女のことを聞くべきだったのかもしれないが、私にとっての「愛」とは、そんな軽々しいものではない。まるでファッションや趣味のように恋愛を扱う人たちのことを、一六年間生きてきて、私はいまだに理解できそうになかった。

 中断していた編み物を再開し、つらつらと考えごとをしていると、また渋谷凛が口を開いた。それも、率直な物言いをする彼女には珍しく、とても言いにくそうに。

「私、好きな人がいるんだ」

「あら、そうなんですか」

「うん。で、この間告白して、そしたら付き合うことになって」

「おめでとうございます」

 だから、つまり。

「──プロデューサーと、付き合うことになったんだ」

 

   §

 

 人気アイドルである渋谷凛が自身のプロデューサーとの交際を発表したことは世間に大きな衝撃をもたらした。人気アイドルの恋愛事情というだけでなく、アイドルとプロデューサーという関係性、そして高校生と社会人という年の差は話題性に富み、連日テレビや雑誌に取り上げられることとなった。

 それはもちろん同じ事務所に所属している私たちにも影響を及ぼした。直接仕事に関わりはないものの、何度か記者に意見を求められることはあったし、共演者から聞かれることもあった。そのほとんどは興味半分で、事の真相なんかではなく、いかに面白いことが聞けるか、それだけが求められた。彼ら彼女らにとって、この騒動はしょせん他人事で、対岸の火事で、自分がいかに楽しめるかということにしか価値がないのだ。別にそれは悪いことではないし、私自身もそういうところはもちろんある。ただ一つ言えるのは、巻き込まれただけの私にとって、彼ら彼女らの追及をかわすのはとても疲れるということだ。

 事務所に帰り、休憩室に誰もいないことを確認すると、ソファに倒れこみながら大きく息をついた。疲れた。肉体的にも、精神的にも。こんな姿を誰かに見られたら──そう思うも、改めて座り直す気力がわかない。ソファにうつむけに寝そべりながら、背もたれに顔をうずめた。

 一週間。渋谷凛からの告白を聞いてから一週間、ずっと考えてきた。どうすれば彼といられるのか、何をすれば彼のためになるのか。彼の気持ちを思えば、渋谷凛との交際を祝福すべきなのだろう。誰よりも仕事に真摯で、何よりもアイドルが好きな彼が、渋谷凛との交際が仕事に悪影響を及ぼすことを考えないはずがない。その上で、彼は、渋谷凛のことを好きになり、告白を受け入れ、世間に公表したということになる。そしてそれは、私には、もう彼の心を手に入れることができないことを意味していた。

「あら、まゆちゃん。めずらしい格好ですね」

 休憩室の扉を開け、千川ちひろが声をかけてきた。慌てて体を起こして挨拶すると、彼女はその特徴的な黄緑色の上着を背もたれにかけ、対面のソファに座った。彼のアシスタントを務めている彼女はもっぱら事務所での作業が多く、外へ出て直接仕事を取ってくることの多い彼を事務面で支えている。私も彼女には世話になっていて、彼ほどではないにしても、感謝の念を感じていた。

「お疲れ様です、ちひろさん」

「ええ、まゆちゃんもお疲れ様です。お仕事大変だったでしょう」

「いえ、プロデューサーさんのためですから」

 そう言うと、彼女の疲れた顔に小さく笑顔が浮かんだ。実のところ、(くだん)の騒動において最も被害を受けているのは事務所で働く事務員たちだった。ファンやマスコミからの電話への対応にはじまり、記者会見など急遽決まった予定によるスケジュール変更とその連絡、そして過激なファンや愉快犯による危険な郵便物の処理等、この一週間は職員全員が普段の何倍もストレスのかかる仕事を処理してきたのだ。もちろんその間、彼もまた多大な仕事におわれていたため、一週間、彼の顔を見ることすらかなわなかった。

「今お茶を入れますから。コーヒーと紅茶、どっちがいいですか?」

「ごめんなさい、ありがとう。コーヒーをお願いします」

 立ち上がり、水を入れたやかんに火をかける。なんとなく面倒な作業がしたくなり、棚からコーヒーミルと豆を取り出した。コーヒーが好きな彼のために用意したものだ。豆はそこまで高価なものではないが、それでも評判のいいものを実際に飲み比べ、彼の好みに合ったものを選んでいるため、それなりに楽しむことができる。電動式ではなく手挽きのミルなのは、私自身の嗜好が強い。あまりうるさいのは好きになれない。

 そういえば、以前、コーヒーを淹れている姿を彼に褒められたことを思い出す(もちろん彼の言葉を忘れるはずがないので、より正確に言えば、思い返す、が正しいのだが、それはともかく)。あのころはただ、疲れた彼を癒すことができれば、というだけでコーヒーに大した思い入れもなかったが、今ではそれなりにこだわるようにまでなった。それはとても誇らしいことで、何よりも自慢できるものだ。彼に褒めてもらうためならどんなことでも頑張れるし、彼がほめてくれたものなら誰よりも上手になれる。

「どうぞ。お待たせしました」

「ありがとう、まゆちゃん」

 千川ちひろは角砂糖をひとつ入れると、おいしいわ、と笑いかけてくる。その微笑みを見ると、改めて千川ちひろが魅力的な女性であることを知る。なんなら、そう、今すぐにでもアイドルになれるくらいに。そんな女性と長い時間一緒に仕事をして、それでも彼は千川ちひろではなく渋谷凛を選んだ。世間体や社会的制裁を考慮して、それでも彼は、そんなリスクを踏まえても渋谷凛を選んだ。何のリスクもなく、誰もが祝福してくれるだろう千川ちひろではなく。

「まゆちゃんはコーヒーを入れるのが上手なのね。プロデューサーさんが褒めるのもわかるわ」

「プロデューサーさんに中途半端な出来のものは差し上げられませんから」

「そうね」と千川ちひろは小さく笑った。「でもプロデューサーさんは言ってたわよ。特技欄に書くことを勧めたら断られた、って」

「プロデューサーさん以外に淹れるつもりはありませんから。本当はお料理や編み物だって書くのは嫌だったんです」

「あら。じゃあコーヒーをお願いしたのは悪かったかしら」

「いいえ、それはこっちが言い出したことですから。でも今日だけの特別ですよ」

「それじゃあゆっくり楽しむことにするわ」

 にっこりと笑いあう。こうして話をしているだけで、少しだけ、この一週間でたまっていた疲労感が和らいでいくような気がした。それが、千川ちひろの人柄ゆえなのか、単にこのひと時が気分転換になったのか、それとも──

「ねえ、まゆちゃん」

「はい、なんですか」

「これからどうするの?」

「これから、というのは……」

「アイドル。続けるの?」

 先と変わらない調子、表情。それでも千川ちひろの目は、真剣味のある光を放っている。

「まゆちゃんが彼を好きなのは知ってるわ。彼がいるからアイドルを始めたことも」

「……そう、ですね。そのとおりです。まゆは、プロデューサーさんがいるからアイドルを始めたし、プロデューサーさんのためにトップアイドルを目指しています」

「でも、プロデューサーさんはまゆちゃんじゃなくて凛ちゃんを選んだ」

「……」 

「ごめんなさい。馬鹿にしているわけではないの。けれど、プロデューサーさんが凛ちゃんと付き合い始めて、まゆちゃんがアイドルを続ける理由がなくなってしまったじゃない。凛ちゃんからまゆちゃんに乗り換えるなんて、そんな不誠実なことを彼がするはずないって、まゆちゃんもわかるでしょう」

 だから、どうするのかな、って。彼女の言葉にはこちらを労わる気持ちが感じられたし、彼女自身不躾な質問だとわかっているのだろう。それでも、彼女は事務所に所属する職員であり、彼のアシスタントとして、このやりとりは必要なことだ。

 ‐‐でも、彼女は一つ、勘違いをしている。

「アイドルは、やめませんよ」

「……そう、わかったわ」

「アイドルをやめたら、彼に会えなくなるじゃないですか」

「え?」千川ちひろが怪訝そうにこちらをうかがう。「彼のことをあきらめない、ってこと?」

「どうしてまゆがプロデューサーさんのことをあきらめなくちゃいけないんですか」

「まゆちゃん。あなたの想いの強さはわかるけれど、それはとても不毛なことよ。彼はきっと凛ちゃんと別れることはないわ」諭すように、優しげに。「諦めろ、なんて言って悪かったわ。けれど、彼だけを見続けることはやめなさい。それはまゆちゃんのためにならないわ」

「まゆのためってなんですか。プロデューサーさんがいなくなったまゆにいったい何が残るんですか。そんな残りかすのためになるものが何になるというんですか。彼が渋谷凛と付き合ったからなんですか。彼がまゆと付き合えないからなんですか。その程度のことでどうしてまゆが彼をあきらめなくちゃいけないんですか。その程度のことでどうして彼への愛が揺らがなきゃいけないんですか」

 とまらない。やめられない。彼への愛があふれ出てくる。よくない。これはよろしくない。これは目の前の女には言う必要のないことだ。この女には()()()()()()

 ぐっと口角を上げて口をしめる。これで口からあふれ出るものを止められる。ついでに目を細めて、目じりを下げれば、ほら。

「……うふっ」

 にっこり。遠くから足音が聞こえる。彼の音だ。彼が帰ってきた。いかなくちゃ。目の前で呆然と座る女にはもう用事はない。見たい。会いたい。聴きたい。触れたい。感じたい。

 休憩室の扉を開け、事務室に向かう。ああ、やっと会えた。果たして何時間ぶりだろう。地獄のような時は終わったのだ。

「おかえりなさい、プロデューサーさん。今コーヒーを淹れますね」

 ああ、あの豆はどこにしまったんだったか。

 

   §

 

 「愛」というものがある。人間愛。家族愛。恋愛。友愛。親愛。信愛。敬愛。

 「愛」には形がある。優しくすること。厳しくすること。鞭打つこと。労わること。慈しむこと。大事にすること。酷使すること。

 父の「愛」は籠むことだった。母の「愛」はあきらめることだった。彼の「愛」は誠実であることだ。

 では私の「愛」は何だろう。佐久間まゆの心の裡にある、この狂おしいほどにあふれ出そうなこの愛は、いったいどうすればいいのだろう。彼と結ばれることがない佐久間まゆは、どうすれば彼を愛せるのだろう。

 佐久間まゆは彼を愛している。佐久間まゆは愛のために生きている。彼への愛でできている。彼を愛さなければ生きていけない。彼を愛したい。彼を愛していたい。彼に愛されたい。彼を愛さなければ愛してもらえない。彼を愛せば愛してもらえる。彼を愛さなければならない。彼への愛を示さなければならない。彼への愛を見せなければならない。彼への愛を見せつけなければならない。

 ああ、彼が渋谷凛と付き合いだしたからなんだというのだろうか。愛とは彼を、信頼し、受け入れ、尊重することだ。佐久間まゆは彼を愛している。ならば彼が愛する人だって愛そうではないか。彼の渋谷凛への気持ちだって受け入れ、尊重しようではないか。そのために佐久間まゆは捧げようじゃないか。この身も心も喜びも哀しみも幸せも不幸も苦しみも張り裂けそうなこの痛みも、あなたへの愛に捧げようじゃないか。

 愛だ。愛こそがすべてだ。彼を愛さなければ、私はもう、生きていけない。

 プロデューサーさん。ねえ、プロデューサーさん。

 私はあなたを愛しています。

 あなたが彼女を愛していても。私の愛が受け入れられなくても。

 プロデューサーさん。

 私はあなたを愛しています。




そんな事務所の隅で白菊ほたるを幸せにするために奔走してるのが俺Pです。
束縛度を下げてその分依存性を増し増し。

以下チラシの裏に書いた設定


・まゆの一人称
 自分のことを「まゆ」と呼んでいるのはプロデューサーの意識に少しでも「佐久間まゆ」という存在を刻み付けるため。つまり自分で「まゆ」と連呼することでプロデューサーの耳に「まゆ」という音が残り、頭から離れないようにするため。なので地の文ではまゆ本来の一人称である「私」で書かれている。
 これはひとえにぶりっこで計算高い女の子が好きな俺Pの趣味によるもの。

・事務所
 もちろんちひろと社長以外にもいっぱいいる。でも346プロみたいな規模じゃない。アイドルは属性関係なく2,30人くらい。プロデューサーはだいたい4,5人くらいずつ担当してる。事務員だっていっぱい。でもたぶんマネージャーはいない。
 常識的に考えて200人近いアイドルをプロデューサーとアシスタントの二人だけで面倒見れるわけがない。

・プロデューサー
 渋谷凛と付き合ってまゆに愛されてるイケメン。近年まれにみる好青年。たぶん凛のことも暴漢かストーカーから救ってる。
 気が向いたら後日談か何かをこいつ視点で書くかも。
 
・佐久間夫妻
 佐久間母が彼氏に振られたとか身内に不幸があったとかで失意に沈んでいるところを、以前から交友があった佐久間父が慰めて結ばれる。佐久間母は佐久間父に愛情はないけど義理は感じていて、加えて済し崩しで子どももできちゃったので別れることもできず、佐久間父からの身に余るほどの愛をうっとうしく思っている反面応えられないことに罪悪感を覚えている。佐久間父はそんな佐久間母の心情を全部わかって受け入れた上で愛してるので、歪ながらも破綻することはない。一人娘のまゆのことは大事に思っている。
 俺Pから言わせると、夫婦関係に恋愛感情は不要。


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