「あの時は、本当に大変だったね。怒り狂った君が、追っていた殺人鬼に逃げられ、散々な結果だけ残した」
田辺は、滲み出てくる悔しさを伏せた顔の奥で、キリリッと奥歯を締めて噛み砕いた。とにかく今は湧き水のように吹き出る後悔を消すことに全力を注いだ。
浜岡は、田辺の中では、タブーな話題にわざと触れた。それは、田辺に足りない部分を補わせる為にだ。
「君の推測通りに、あの事件が繋がっているなら、君の正義感が生んだ事件と言っても過言じゃないと思っている。もしも、あの殺人鬼を追いかけなければ、起きなかった事件かもしれない」
「......はい」
腹の底が、ふつふつと脈を打ち始める中、田辺は絞り出すように呟いた。
もしも、頭をあげていれば、浜岡に反駁していたことだろう。四角い机を挟み、浜岡は、そんな田辺の肩に手を置いて、懐かしむように言った。
「田辺君、何度も言うが、君の正義感は嫌いじゃないよ。けれど、君の正義には、伴わなければならないものが欠けている」
田辺は、目を見開いて初めて顔をあげた。
「欠けているもの?」
浜岡は、首肯して机から、書類を一枚取り出して机上に置いた。それは、田辺が初めて世の中に出した新聞の切り抜きだった。ほんの一部の小さな記事だが、田辺はどこか温かさを覚えた。当時、問題視されていた児童虐待により、保護された子供を題材にした内容の筈だ。すっかり記憶から抜け落ちていた記事に、浜岡は視線を落とした。
「この文章には、ある単語が多く使われている。なんだか分かるかい?」
田辺は、つまむように持ち、文章に目を通した。
児童虐待により、保護された少年少女が抱える問題は根深い。子供を産み、育てる事にかかる責任の重さは、果たしてそれほど軽いものだろうか。育児放棄により、餓死した子供を題材にした映画が、先日、発表された。こんなにも悲しい現実が、世界のどこかで日常的に起きている事実はいつまでも変わらないのだろうか。そこにあるべき大人の責任は一体、どこへ消えてしまったのだろう。子供を育てる、それは、命を預かることと同じであり、命の責任を背負うことではないのだろうか。抱えきれない責任は、背負うべきではない。背負うならば、信頼できる誰かと分けてもらうべきだ。
田辺は、浜岡の言葉の意味が分からずに首を捻った。
「分からないかい?責任だよ」
「......責任」
「そう、責任だ」
一拍置いて後ろを振り向き、ブラインドを開いた。そろそろ、出勤時間が迫っている。
他の社員がいる空気の中では、言いにくいことは口にできない。浜岡は、鋭く言った。
「君に足りていないのは、大きすぎる正義感に見合うだけの覚悟だよ。田辺君、人は体験を覚えただけ幸福を得るが、同じだけの悲しみを知ることになる。君の正義感の根本に何があるのかは分からないが、正しさを掲げたいのであれば、それだけの責任を負えるのかい?」
「......分かりません」
浜岡は、田辺の返事を聞くと、短く吐息をつき、提出された退職届けを両手で持ち上げ、ビリビリと真っ二つに破いてしまう。非難の眼差しを受けながらも、キッパリと告げた。
「なら、これを受理する訳にはいかないね」
ああ、疲れたw