「こんな話があります。とある男性が発見され、身元を調べると、二十年も前に死亡した男性だった。しかし、彼は生きています。そして、なによりも異常だったのは、いくら質問しようと、聾唖者のように声にならない声を出していたという点でした」
「......詐欺か?」
障害者を死亡したとして扱い、多額の金額を得る、今で言う保険金詐欺というものだ。だが、そんなものがないほど古い話だと、きっぱりと否定され、野田は猜疑を込めたように眉間を狭める。
九州地方感染事件に直結する話なだけに、野田も慎重になっているようだ。田辺は、気にもしていない体裁を装い続ける。
「警察は、保護した男性を調べました。そして、ある農場にいきつき、彼らは驚くべき光景を目の当たりにします」
乾いた喉にビールを少量だけ流す。ボロを出さないように意識した話は、緊迫した空気も手伝ってか、存外、疲労が溜まるものだ。
「その農場では、保護した男性と同じ状態の人間達が働いていました。事態を重く見た警察は、農場の主を逮捕し、詰問した所、彼らは一度死んで甦った人間だと供述します」
途端、野田は吹き出した。保険金を利用していないとなれば、真実味を欠いた与太話だと判断したのだろう。信じられる筈がない。
「記者会見の場といい、今といい、お前は妄想癖でもついたのか?いや、良い息抜きにはなったよ。こんなに笑ったのは久しぶりだ」
くっくっ、と喉の奥を鳴らす。話し半分どころか、まるで漫才でも見ているような笑い方だった。
大理石のテーブルに置いていたグラスが、叩かれた振動で水滴を落とす様を見ていた田辺は、低い声で吐息でも漏らすように呟く。
「テトロドトキシン......」
野田の爆笑が、ぴたりと止まり、眉をひそめた。
「......なに?」
「彼らには、揃って使用された粉があったんです。その成分を学者が調べたところ、テトロドトキシンが検出されたそうです。野田さんなら、これがどういう意味か理解できるでしょう?」
テトロドトキシンは、神経毒だ。
神経伝達を遮断して麻痺を起こし、脳からの呼吸に関する指令が遮られ、呼吸器系の障害が起き、それが死につながるのである。しかし、素早く人工呼吸などの適切な処置がなされれば救命率は高いとされるが、その話しを聞く限りでは、奴隷のような扱いを受けていたのだろう。
そんな人間に対し、人工呼吸を行う訳がない。
うまく分量を調整し、服用させ、仮死状態に陥らせる。目覚めた時には、酸欠により脳が深刻なダメージを受けている。生き返った時に異常をきたし、能動的には活動出来なくなるだろう。
考えることも、話すことも、心を無くし身体が朽ちるまで、ただ働かされる。
野田は、それがもしも、自らに行われたらと想像する。あまりのおぞましさに両手で口を塞いだ。
そして、限りなく近いことの片棒を担いでいる事実から吐き気を覚えた。
そんな野田を、黙然と眺めていた田辺は、ある確信を持った。
「......野田さん、世界には沢山の謎がありますが、僕は全てこういった事実が隠されていると考えています。今回もそうです。なんの薬品が漏洩したかなどはどうでも良い。そんなのは、偉い学者先生に任せます。今回の一件、テロリストにしては、杜撰すぎる。僕は、必ずこの事故を操作していた人間がいると考えています」
「......それに俺が関与しているとでも言いたいのか?」
「まさか、そんなことはありませんよ」
残った半分を一息で飲み干した。舌を通る冷えた感触は、まるで、田辺の心境を表しているかのように冷たい。
「しかし、聞かせて頂きたい事はあります。野田さん、ここからは友人ではなく厚労省の代表として答えてもらえますか?僕は、あなたを疑いたくはない......」
「......なんだ?」
野田は、もうグラスに注がれた黄金色のビールに手をつけてすらいなかった。両手を組み、上半身をソファーの背凭れに預ける。
一息に、田辺が言った。
「あなたは、この事件に関わっていませんよね?」
「......やはり、疑っているんじゃないか。俺は関わっていない」
田辺は、目尻を落とし、胸中で囁いた。
相変わらず、嘘をつく時、瞬きの回数が増える癖がなおっていませんね。
「分かりました。よく分かりましたよ野田さん」
田辺は、グラスに瓶を傾け、野田に瓶を渡し、すっ、と持ち上げる。
「......乾杯しませんか?僕達の新たな旅立ちとこれからに」
野田は、本当に人が変わったようだ、と豪快に笑い、グラスを持ち上げた。二人のグラスがぶつかり、発っした戛然は、田辺にとっての訣別の音色となった。
今回少し長くなったな……
次回より第7部に入ります!