感染   作:saijya

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エピローグ

 都内の病院に一際大きな産声が響いた。

 二千六百グラムの適正体重で産まれた男の子は分娩室で助産師にとりあげられ、約九ヶ月を経て母親と対面する。

 当然、母親は積み重なった疲労と心労、そして満面の笑顔をもって泣きじゃくる子供と出会う。

 この瞬間だ、この命を産み出す瞬間とは、なんと素晴らしいものだろうか、と助産師の女性も、つい目頭を熱くさせてしまったようだ。そもそも生まれることが難しかった赤子が健康児と同じ体重、そして大きく泣き声を発していることが堪らなく嬉しかった。

 額に大粒の汗を水を被ったように浮かせ、穏やかな眼差しで我が子を抱く母親に助産師が声を掛けた。

 

「おめでとうございます。本当に、本当に……」

 

 堪えきれなくなった助産師の頬に涙が一筋流れ出す。それを受けた母親は、一度だけ頷く。

 

「はい、ありがとうございます」

 

 慈愛の表情に見合う声音は、助産師の鼓膜すら優しく揺らす。

 元気な産声が徐々に小さくなっていく頃、ストレッチャーに乗せられた女性と助産師が分娩室を出て、赤ん坊が無菌室へ運ばれた。現在、出産直後から同室となるのが一般的になっているが、こればかりは仕方のないことだと助産師が顔をしかめる。心苦しいが、母親はあの九州地方感染事件から生き延びた数少ない人間の一人、赤ん坊は少しの検査を余儀なくされてしまい、母親も了承済みだった。

 病室に到着し、ストレッチャーからベッドに移る途中、助産師は励ます為に女性に言った。

 

「大丈夫ですよ。きっと、何事もなく検査も終了しますから」

 

 女性は微塵の不安も感じていないのか、分娩室と同じ顔付きで微笑んだ。

 

「はい、私もそう思います。なにせ、あの人の子供ですから……」

 

 入院期間、見舞いにきたのは同じく九州地方を生き延びた数人のみ、しかし、事件を思い出してしまうからと面会を拒絶してきた。そうした経緯を思い出し、助産師は謝罪を口にした。きっと、あの赤ん坊の父親は、もうこの世にはいないのだろう。それでも、女性は生きて新たな命を、亡くなった男性の一部とも言える男の子を産み落とした。そんな偉大な女性は、助産師の謝罪も、気にしないでください、とだけ返す。それでも感じてしまう気まずさを払拭しようと、助産師は話題を変える為、明るく訊いた。

 

「そうだ、お子さんのお名前は、もう決められたのですか?」

 

 女性は、首肯して顔をあげた。

 

「ええ、彼の名字はそのままに……彼にとって、とても大切な方の名前をあげようと思っています」

 

「是非、聞かせてもらってもよろしいですか?邦子さん」

 

 本来であれば旦那となる男の役目なのだろう。けれど、その役目を果たせる人がいないのであれば、と助産師は考えて言った。

 女性はその気遣いを知ってか知らずか、変わらぬ口調で言った。

 

「勿論……あの子の名前は、東……東孝之です」

 

 邦子の病室へ一際甲高い泣き声をあげながら、簡単な検査を終えた赤ん坊が戻ってくると、再び、母親となった邦子の腕に、長い旅を終え、巡ってきた小さな命が包まれた。

 

                感染 終わり




次回あとがきです
遊びますw

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