田辺が振りほどかれると同時に、達也はこの地獄と化した九州地方で出逢った人物の中で、もっとも勇敢な男の意思が宿った右の拳へ、身体に残った全ての力を注ぎ込んだ。骨が折れるのではないかと思えるほどに固く握り締めた一撃はどんな攻撃よりも重い。
東が二人に気付いた瞬間、態勢を整えるよりも早く、達也は右腕を引いて叫んだ。
「小金井からの預かりもんだ!受け取れ東ィ!」
達也の拳は、東の左頬へと吸い込まれるように沈み、身体を後方へと弾き飛ばす。
ぐっ、と短い呻きをあげた東は、背中を預けるフェンスが破壊されていることを事前に確認していた為、ふらつきながらも、どうにか縁の手前に踵を置くことが出来た。吹き抜けていく風が東のうなじを撫でた所で顔を戻せば、崩れるように倒れた達也を見て哄笑をあげた。
「ひひ……ひゃあはははははは!残念だったなぁ!ええ!自衛官よお!」
達也の背は、ゆっくりと上下はしていたが、腰にある血痕の広さは、限界をとうに超えていることを如実に物語っている。東は嬉々として達也へ止めを刺そうと一歩を踏み出し、異変に気付いた。
もう一人、残された浩太という自衛官はどこにいったのだろうか。
そう、思考に過った次の瞬間、裕介のイングラムにより奪われた右側の死角から声がした。
「まだ終わりじゃねえ!これが俺達の奇跡が生んだ一撃だぁ!」
「しまっ……!」
咄嗟に顔を動かした東のこめかみに、浩太の拳が直撃した。ぎりっ、と奥歯を喰い縛り、全力で東の頭部を打った拳に全体重をかける。
「ウオオオオオオオアアアアア!」
浩太の絶叫も伴った一発は、ついに振り抜き、東の身体ごとフェンスの外へと吹き飛ばした。
「うっ……あ……あ……?」
途方もない無重力、途轍もない違和感、東の左目に映るのは、白い雲が漂う空だった。
呆然とした意識の中、東は凄まじい勢いで、あるあるシティの屋上が遠ざかっていくのを実感する。
違う、屋上が遠ざかっていっているのではない。これまで味わったことのない背中に当たる気圧、目だけを下げれば破壊されたフェンスの奥から覗く浩太の顔があり、それらが意味することを理解するも、全てがもう遅かった。腕や足は万力に絞められたように動かせず、浩太の一撃により逆様の状態で落下していくことに抗えない。
徐々に皮膚や損傷が回復していくにつれ、視界を取り戻したが、それが東に新たな感情を生み出した。いや、思い出したという方が正しいかもしれない。
股間が縮まり、意思とは関係なく歯列が震えて音をたてる。やがて、胸から去来した黒い渦のような強い不安により、東はそれが何という感情であるかを悟った。