主はわが牧主、我は羊、主は我を導き給いて、緑の牧場に我を伏させ、憩いの水際に伴い給う。主は我を魂を蘇らせ、その手に我が手をとって、正しき道に導き給う。神の名に添うために、死の影の谷を歩むとも、我は悩みを恐れず、主は常に我と共にありて。
ふと、脳裏を過ったのは、どこかで見た一節だった。
こだっただろうか。いや、そんなことは今となってはどうでも良いことだ。
ピチャリ、と足元で鳴った水音は東の足音に埋もれて消えた。膝を曲げて伸ばし階段を一段あがる、それだけの簡単な動作にも力が込められているのか、東が右手で無造作に持っている物体が大きく揺れている。
「戦争で罪のない命が奪われるのは許されて、害のある命を奪うことは許されないのか。老婆を殺したが、犯罪だとは思わない。こちらに罪はないのに、なぜ懲役刑という罰を受けなくてはいけないのか。懲役刑を受けることは、なんの意味があるのか……ラスコーリニコフも粋なもんだよなぁ」
階段を登りながら語り掛けるような口調で呟いた。
視線の先は右手に提げたものの当てられており、さきほどの東の言葉は、独り言のつもりで語っていないのだろう。返事はないが構わずに続ける。
「やっぱよぉ、戦争ってのは殺人の聖化しちまうんだよなぁ……そうしてみると、果たして正義と悪ってのはなんなんだろうなぁ」
再び、段を上がったとき、頭上で爆発音がした。東は口角を吊り上げると、衝撃で天井から落ちてきた埃が肩に落ちる。それらを軽く払いながら新たに一歩を踏み出す。
「正義ってのは世の為に、悪ってのは自分の為にだ。しかし、人類の歴史が逆転させちまってるとは思わねえか?今の世の中、世の為人の為ってイディオムが狂っちまってやがんだよ。悪が自分の為ってんなら、世の中は悪人だらけだ」
東はついに、あるあるシティの七階へ到着した。そこから上に行くには、梯子を使い天井にある鉄板をずらすしか方法はない。だが、そちらを動かした形跡はなく、次に連絡通路を見やるも、使徒を阻む為に打ち付けられた板にも損傷が見当たらなかった。響いた爆発音からすれば、必ず痕跡が残るはずだ。だとすれば、残された道は一つしかない。
東は振り返り、真っ直ぐに視線を伸ばす。その先にあるのは、一枚の扉、つまりは屋上だ。
「科学は、たいていの害悪に対する解決策を見出したかもしれないが、その何にもまして最悪のものに対する救済策を見出してはいない。つまりよぉ、これはこういう意味なんだろうな」
靴音を響かせ東は歩きだし、瞬く間に屋上への扉に手を掛けた。
「人間の無関心さに対する策は、科学では解明できねえってよ」
第33部始まります