感染   作:saijya

375 / 432
第8話

怪訝に眉間を狭めると、細い声が鼓膜を揺らす。

 

「だめ……お姉ちゃん……だめだよ……」

 

達也はおろか、亜里沙でさえ耳にしたことがない幼い声音だった。

何が起きているのか理解が追い付かない達也は、意を決して両目を開き瞠目した。

マイナスドライバーを振り上げた亜里沙の背中から胸に回された小さな掌が、絡めた指を精一杯に締めている。そして、あの幼い声が再び亜里沙の背中から聞こえた。

 

「彰一お兄ちゃんは、そんなことしてほしくないって思ってるよ……裕介お兄ちゃんだって……お姉ちゃん、覚えてる?彰一お兄ちゃんが言ったこと」

 

亜里沙は、彰一君が、と囁くように口にした。加奈子は亜里沙の背中に抱き付いたまま、俯いて続ける。

 

「私たちの誰かが、死んじゃったら、誰かに殺されちゃったら、それをした人がもしも、お友達だったらすごく怒る……けど、そうしたら、お友達を信じる気持ちが無くなっちゃう……お姉ちゃんが達也のおじちゃんにそんことをするなんて……彰一お兄ちゃんだって絶対に嫌だよ……」

 

矮躯を背中にぴったりと付け、啜り泣く加奈子の言葉に、亜里沙の瞳が小さくなり、唇が顫動する。掲げた両手からマイナスドライバーが滑り落ちると、大の字で横たわる達也の左手にマイナスドライバーの柄が当たり音をたて、薄く開いた亜里沙の口から漏れだしたのは嗚咽だった。

 

「分かってるよ……加奈子ちゃん、そんなことは分かってる……けどね?もう、お姉ちゃんはどうしたら良いかが分からないの」

 

亜里沙の背中から加奈子の温もりが離れる。お腹に回された腕は残っているので、単純に加奈子は疑問が沸き上がり、頭を離したのだろう。

小首を傾げるような、無垢な口調で加奈子が言った。

 

「お姉ちゃんは生きたくないの?甘いものをいっぱい、たべたくないの?」

 

加奈子の一言に、亜里沙は息を詰まらせ目を剥いた。

八幡西警察署で、生き残った裕介、彰一、加奈子、そして亜里沙は、九州地方を脱出したときにやりたいことを決めた。甘いものを一杯食べる、それが亜里沙の目標だった。彰一の目標は、自分を犠牲にしてでも誰かを助ける人間になりたいだ。中間のショッパーズモールで、彰一は自身を盾にして三人を逃がす為、安倍という男を命を掛けて足止めしてくれた。そのお陰で亜里沙は今も生きている。

 

「加奈子はね……生きたいよ。生きて、彰一お兄ちゃんが悔しがるくらいな女の子になりたい……彰一お兄ちゃん言ってたよ、お姉ちゃんを見本にしろって……だから……」

 

加奈子は、再び、亜里沙の背中に頭を乗せてる。

 

「お姉ちゃん……こんなところで居なくならないで……」


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。