その問い掛けに亜里沙は緘黙したまま頷く。達也は精神的に参っているのだろうと思い、それほど気に止めず熊と東へ振り向いた。
熊は夢中で東の肉体へと歯を埋め続けており、これならば、時間を稼げるだろう。あとは逃走ルートだが、最短距離ならば熊の背中を通ることになるので、素直にフロアを半周するしかない。ただ一つの気掛かりとしては、やはり死者の存在だ。熊がここに来るまでに蹴散らしてきたであろう死者の大群だが、それに匹敵する人数が集まりつつあるかもしれない。ただでさえ、熊の一撃によりバリケードを破壊されてしまった今、いつ死者が押し寄せてきても不思議はない。武器無くして乗り越えられる修羅場ではないだろう。
そこまで考えた達也が、一刻も早く屋上へ向かおうと振り返ろうとした瞬間、背中に重い衝撃を受け、鋭くも鈍い激痛が腰に走った。
「……え?」
首だけで振り向いた達也の目に亜里沙の頭が映る。次いで視線を下げていけば、腰の位置に亜里沙の両手が添えられており、マイナスドライバーの刃を伝ってポタポタと落ちていく血を視認した。
亜里沙が震える身体と両手を引いた直後、達也の膝が笑い始め、力が入らずカクリと折れた。
「あ……亜里沙……ちゃん……?」
「あ……あ……あぁ……」
亜里沙はひどく狼狽しながら後ずさっていき、壁に背中がつくと、強引に喉を抉じ開けるように唾を飲んで言った。
「だって……だって、しょうがないじゃない……アタシだってこんなことしたくなかった……けど……だって……こうでもしないと彰一君が……アタシ……アタシは……」
ぎっ、と唇を締めた亜里沙は、膝をついた達也を見下ろし、再び、マイナスドライバーを水平に立てる。まるで、リングを囲むロープで反動をつけるように壁から背中を放し、達也の頭部を目掛けて尖端を向けた。
達也の顔から血の気が引いていく中、亜里沙は目を見開いてマイナスドライバーを振り掲げ、呼吸を挟まずに振り下ろす。頭上でどうにか止めることは出来たものの、腰に走った鋭痛に表情を歪ませ、その隙をついたのか、亜里沙が一息に体重を乗せた。
「ぐっ……うぅぅぅ!」
堪らず仰向けに倒れこんだ達也の目前に迫る刃物のように重いマイナスドライバーの尖端は、額の中心へ狂いなく落とされようとしている。
もしも、腰の怪我がなければ、すぐさま亜里沙をはねのけて武器を奪い説得に入るのだが、それもできそうにない。歯を食い縛った達也は、マウントを取った亜里沙の両手を下から支えることしかできなかった。亜里沙の顔が、穴生で出逢い達也が殺した女医と被ってしまう。