感染   作:saijya

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第5話

 引いた弦を打ち出すことが出来ず、斎藤は強かに頬を殴られたが、よろめくことはあっても倒れはしなかった。それどころか、目線だけは外さずに男を見据えている。その眼光に男が二の足を踏んだのち、締めた奥歯を緩め、踵を返し、浜岡に肩を借す。

 

「すみません、斎藤さん......」

 

「......痛かったぞ......」

 

 すくと立ち上がり、自らの足で歩き、浜岡は再び信条の眼前で止まった。変わらぬ佇まい、しかし、その口調には先程までの余裕ではなく、明らかな怒気が含まれていた。孕んだ熱はあるのに声質は冷たい、そんな矛盾がまぜこぜになっている。

 

「信条さん、貴方に一つお伝えしたいことが、こちらにはありました」

 

 異なる空気に触れ、信条は喉を締めた。粘ついた唾が口内に満ちていくのを防ぐようなしゃがれた声で訊いた。

 

「......なんだ?」

 

「もう、十年以上前、最後の二十代を終えようとしていた頃、取材のために、貴方に会いに行きました。その時、こちらは貴方の欺瞞を突いて失脚させてやろうと......けれど、こちらは貴方に対して何も言えなくなってしまった。まあ、畢竟とでも言いましょうかね、この十数年、本当に悔しかった......陥穽にはまり、言い放たれた言葉を覚えていますか?」

 

 信条は、顎を傾けると、短く唸った。まるで、覚えがないのだろう。まったく予想通りだとばかりに、抑揚もなく浜岡が言った。

 

「物事を観察する時に必要なのは適切な距離をどれだけとれるか、あの一言は胸に楔を打ち込まれたかと錯覚するほど、強烈なものでしたよ」

 

 浜岡の後ろで、斎藤が、はっ、と顔をあげた。そのフレーズどこかで聞いたことがある。

 首を傾ける斎藤は置いて、先を進める。

 

「今、部下にある男がいましてねえ......当時のこちらに、よく似ているからこそ、危なかっしくて肝を冷やされていまして......彼の教育には、さきの一言、非常に役立っています。ありがとうございました」

 

 始めこそ言われた意味が分からずに、呆けていた信条だが、次第に剣が強まっていき、声高に吠えた。

 

「若造ごときが!私が本質を見抜けていないと言うのか!」

 

「ええ、その通りですよ。貴方は本当に大切なことを知らない。いや、自身の為に目を背けている」

 

 ボディーガードが三度踏み出すも、力強く突き出された信条の右腕に阻まれ、オズオズと下がっていく。

 信条は、もう、浜岡しか見えていない。

 

「小僧がよくぞ言い切ったものだな!ならば、貴様に訊こう!私が見えていないものとはなんだ!」


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