邦子がリュックサックのジッパーを滑らせ、東に渡す。その後、安部の首を取りだし、床に置いた聖書の上に、慎重な手付きで鎮座させる。白濁とした双眸で東を見上げ、顎を動かし歯を合わせ続けている姿は、東が使徒と呼ぶ者達と寸分も違わない。短く息をついた東は、自身の胸に両手を重ねた。
「未来というのは、いくつもの名前をもっている。弱き者には不可能という名。卑怯者にはわからないという名。そして勇者と賢人には理想という名がある......安部さん、アンタは間違いなく賢人だ」
そこで、ようやく東は邦子を見る。同時に、教会の周囲から、無数の使徒の伸吟が幾重にも聞こえ始める。狼狽する邦子は、上擦った声で言った。
「東さん、早く行きませんか?彼ら、ここに集まってきていますよ」
「ああ、みたいだな......」
「みたいって......」
そこで、邦子は喉を絞めた。東の両目が憂愁を帯びていたからだ。真っ直ぐに見れず、邦子は顔を背ける。
やがて、窓に覚束ない足取りの影がチラホラと写り始め、足音が次第に、窓を揺らす甲高い響きへと変わり始めた。短い悲鳴をあげ、邦子は尻餅をつく。張り付いた陰影は、その数を増やし続け、色濃く教会内部へと獣声を届かせている。もう、邦子は限界だった。
「東さん!東さん!早く逃げましょうよ!早く!早く!」
その叫びが終わると同時に、ついに数枚の窓が激しく音をたてて破られた。
侵入してきたのは、腹から臓器を垂らした者、口を裂かれ舌を引きちぎられた者、喉から胸にかけて開かれた者と、様々な姿を呈している。歪に残った窓に上半身を預け、ずるずると枠に腸を残して頭から落下した一人の使徒が、生気の抜け落ちた顔と白濁とした眼球を二人に向けて吼えた。
「いやぁぁぁぁぁ!東さん!東さん!」
矢継ぎ早に増えていく使徒に、とうとう邦子は堰が切れたのか、四肢をバタつかせながら後退りを始め、東の右足にすがり付く。東は仲間と遭遇したかのような呻き声をあげる安部の生首を見下ろしていたが、ようやく、動きを見せ始めた。邦子を乱暴に払うと、形容し難い染みを表紙につけた聖書から生首を持ち上げ、視線を合わせた。まるで、なんらかの儀式でも行っているような厳かな雰囲気を纏いつつ、東は邦子にも聞こえない声量で呟いた。
「安部さん......アンタと俺は、この場所でこそ完璧になれる」
次の瞬間、東の足元に伏していた邦子の顔面に真っ赤な液体が降り注いだ。