二人で酒を酌み交わした時、室内に反響した戛然は、訣別の音色になった筈だった。しかし、どうだ。田辺は、今も野田を前にしている。長年の付き合いで築き上げてきた友情は、揺れはしたものの壊れることはなかった。思い返してみれば、野田には、これまで田辺を亡き者にする機会などいくらでもあったのだ。だが、田辺は今も生きている。
「この事態は、あの死体の山は、貴方が招いた罪の証です。そして、九州地方で起きている惨状すらも......」
周囲が固唾を飲んで見守る中、横たわる野田との距離を縮めていきつつ、ピクリとも反応を示さない野田へ田辺は一方的に語りかける。
「だけど......浜岡さんの言葉ですが、罪は消えないものですが、罰は形を変えるものです。そして......」
野田が聞いていてもいなくても、構わなかった。田辺は、倒れたままの野田へ右手を差し出して言った。
「罰を変えるには、周囲の人間による助けが必要です。野田さん、最後に二人で酒を呑んだ時のことを覚えていますか?」
野田は、相変わらず沈黙を答えとし、田辺もまた、それを受け取り、野田の左手を掴んだ。
「僕は、あの時、野田さんとの繋がりを絶ってしまおうと思っていました......ですが、貴方を絶つ覚悟をする為の犠牲など見当たらなかった」
何かを成したいのであれば、犠牲を払えとは斎藤の言葉だ。取捨選択は、時として残酷な結果を産み出してしまう。
この場合、九州地方を助けたければ、野田を切れという意味になる。だが、野田との長年の記憶を簡単に捨てることなど出来なかった。記憶とは命だ。人や動物は、記憶があるから生きていける。
「見つからない......見付けることができない......それはつまり、僕には、まだまだ貴方が必要......いや、違いますね」
田辺が力強く野田の腕を引っ張れば、隠れていた両目が露になった。ゆっくりと清冽な水が流れたような涙の跡は、まるで、はっきりとした答えを得た証のように、顎先でパタリと切れている。
野田は、一人で苦しんできたのだろう。決して許されることはないが、それでも、田辺は野田の存在を消すことなど不可能だった。だからこそ、田辺は片膝をついて、視線を合わせて言った。
「僕は貴方との友情を壊すことなどしたくありません。世界中が敵になろうとも、僕だけは味方でいます。それだけの覚悟はできました」
田辺の黒目は、震えもせず、揺れもせずに真っ直ぐに野田を捉えて離さない、毅然たる瞳だった。野田はその眼を見ていると、吸い込まれていく感覚を味わった。
ああ、そうか。俺の時間は、あの日から、良子を東に奪われた瞬間から動いていなかった。仇をとるためだけに生きて、もし良子がいたのなら、なんと言うのかすらも考えず、自分に全て合わせてしまっていたのか。野田は奥歯を噛んで、田辺へ尋ねる。
「なあ、田辺......お前は何を犠牲にして......俺との友情を守る覚悟を固めたんだ?」
田辺は、笑って答えた。
「復讐という名の瞋恚に燃える野田さんです」
僕だけは、貴方を許します。
田辺は、そういう意味を込めたのだろう。野田は、そんなものは犠牲とは呼べないと破顔した。
どれだけ大きな事件を起こしても、最後には隣で、笑って許してくれる友人が一人でもいる。それだけで、野田は救われた気がした。
腹の奥にあった黒い靄が霧散していくと、同時に田辺の背後に良子が立って、あの頃と同じように笑っている姿が見えた。もう、野田の胸中で、復讐を囁きかけてくる妻はいない。長くはないだろうが、また三人で共に残された時間を笑い合えるだろうか。
「すまなかった......田辺、良子......貴子......」
ようやく、動き始めた車輪は、これから先の展開を劇的に変えることになるだろう。噛み合わない轍ほど、進みにくい道はない。