何が起きたのかと、目を白黒させていた戸部は、視線だけを仰ぎ、悠然と自身を見下ろす人物を見て、瞠目することになる。そこに立っていたのは、野田だったからだ。突然の裏切りにより生じた記憶の混乱、思考の乱れをどうにか落ち着けようとする暇もなく、野田が戸部へ諭すような声音で言った。
「総理、長らくお疲れ様でした」
なんの皮肉だろうか。
腹から沸々と沸き上がる怒りが頂点に達する直前、それは戸部の顔面に背後から回された。ヒヤリとした感触が、顔の右半分に当たる。右目には黒く太い線が入っていた。そして、それが、戸部の右目が写した最後の光景となった。
「......ひぎ......ひぎゃああああああ!」
顔をとてつもない違和感が駆け巡った。いや、これは、異質な物体を捻りこまれたような異物感だ。
氷を押し付けられた、キンキンに冷やされた冷水をかけられた、そのどちらともとれない冷たい感触の後に、猛烈な熱が痛みを伴って眉間を中心とした右側に襲い掛かる。続けざま、大きく開かれた左頬へフックのような何かが掛けられた。無意識のうち、戸部は身を捩って逃れようとしたが、野田の右足が戸部の頭を檻へと押し付け、血にまみれたスーツを見下ろしながら、無感動に、ぐっ、と力を込めた。
「野田!のだあああああ!」
「......ああ、駄目ですよ総理、貴方はここから逃げるべきではない」
その言葉と共に、戸部の唇がミリミリと音をたてて横に裂かれた。あまりにも倒懸な悲鳴に、その場にいた野田以外の一同は目を見開きつつ、耳を塞ぎたくなった。
たった一人の少女が、白濁とした眼球に野田を写し、餓えた獣のように戸部を掴んで放そうともしない。凶悪な三白眼よりも、よっぽど凶相に思える。
戸部が発する痛苦の悲鳴に混じり、野田が静涼な声で言う。
「隠れ蓑としては、とても優秀でした。しかし、こうなってしまっては、とてもじゃないが利用できませんね。貴方の口ぶりは、叶わない理想を抱いた独裁者のそれと同じだ。それも、かなり程度の低い幼稚な思想とも言える。はっきりも口にするとすれば、もう、用無しだよ」
重ねられる激痛から、本能的に逃げようとする戸部を野田は逃さない。裂かれた頬と潰された右目から止めどなく流れる血を多分に吸った紺色のスーツが重みを増していく。そして、戸部は唯一の手段とばかりに、野田を両手で突き飛ばした。身体を起こしたことにより、右目への侵入を更に深くしてしまい、少女の指は戸部の眼窩へと吸い込まれたかのように埋まってしまう。想像を絶するであろう痛みの中、その行動が田辺を始めとする全員の意識をこの場に引き戻す。
「ぐうううう......あああぁぁぁ!」
ずびゅ、と妙な粘着をもつ音を残し、戸部は少女から距離をとり、床に倒れた。右の眼から垂れてくる血を止めようとしているのだろうか、それとも、心持ちだけでそうしているのだろうか、必死に両手を押し付けている。
「熱......!熱い、熱い、熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱いぃぃぃぃぃぃ!」
もう、痛みいう段階を越えているのだろう。焼けるような疼きは、少女とは違い、決して逃れようのない刻印として戸部に刻まれていた。野田に暫時の猶予を請う余裕なぞ微塵もない。