野田は鼻で息を吸うと、ゆっくりと吐き出し言った。
「考えを改めることはないか?」
田辺の背後で、二人が動きだそうとしている空気が伝わる。それを敏感に察した田辺は、左の掌を広げてみせた。
「ええ、残念ながら、あり得ません」
野田の眉が曇り、目元に影が落ちた。
こうしてみると、田辺の存在は、野田にとって大きく、それだけ重要だった。だからこそ、警戒していたのだ。そして、こうなることを、腹のどこかで分かっていたのかもしれない。引き金に指を掛け、息を止めた。あとは、人差し指に力を込めるだけだ。落ちた陰が僅かな明かりを取り戻していく。しかし、銃口の暗く深い穴と同種の闇を携えた、灯りの届かない眼だった。
対照的に、田辺は額の中央に当てられた銃口を意にも介さず、ただただ、野田を見据えている。曇りもなく、陰りもない、まっすぐな視線だ。野田の唇が動く。
「本当に......本当に残念だ......」
野田の人差し指に、確かな力が込められた。あと一ミリでも引けば、弾丸が発射されるだろう。その瞬間、激しく手を打ち鳴らす拍手が室内に響いた。その場にいる全員が瞠目し、一斉に音の発生源へと振り返る。
そこに立っていたのは、綺麗なオールバックで髪を固めた壮年の男性だった。その顔は、誰もがよく知っている。斎藤が喉に絡まる唾を呑み込んでから、囁くように言った。
「戸部......総理......」
一際、大きく両手を打ち付けた戸部が、大股で室内へ入ると、野田の腕に自らの手を被せる。
「野田、彼は実に優秀な人材だな。ここで脱落させるには、惜しいと思わないか?」
くるりと首を回し、戸部は田辺を見る。
「度胸もあり、頭も良い。なにより芯があるところは気に入った」
「......それはどうも」
田辺の皮肉を受け流し、くっくっ、と黒く笑みを漏らすと続けて言う。
「饒舌ではない所も良いな。なあ、君は田辺君とで間違いないな?ああ、分かっている、こちらの事が気にくわないのだろう?ならば、何故、このような事態を引き起こしたか、知りたくないか?」
戸部の言葉に、田辺は小首を傾げた。理由ならば、もう野田から訊いている。だが、戸部のこちらを探るような口振りが、どうにも腑に落ちない。田辺の沈黙を肯定と捉えたのか、戸部は揚々とした調子で口火を切った。
「現在、日本が抱えている負債はどのくらいか。記者という職に就いている君なら分かるだろう?」
「......馬鹿にしているのですか?」
そう、横入りをしたのは浜岡だった。