だとすれば、この少女、新崎優奈はどうしてこのような状態になっているのだろうか。当然、こんな疑問が湧き、そこでようやく田辺は気づいた。そう、九州地方では、今、何が起きている。
「死者が動くなど有り得ない。田辺は、九重とのやり取りを思い出す。
摂食行動は視床下部を中心として、大脳皮質から脊髄までの神経ネットワークによって制御されている。神経ネットワークの中核には摂食行動を促進する神経細胞と、摂食行動を抑制する神経細胞と二つある。この内、促進する細胞が活性化したとなれば、話しは分かりやすい」
「では、歩き回るという点については?」
「最近の研究で明らかになったことだが、食事から遠ざかっていると、通常は食欲を抑制している神経細胞が全く別の行動である反復行動を司るようになるという発見があった。動物なら、毛ずくろいをするとかね。つまり、多目的な活動を排除され、ただ、一点のみに集中する」
「それが、人間の場合は?」
「さてね。それは、人体実験の領域だ。科学ではご法度だよ。ただ、人間というのは、リミッターが外れると基本的には三大欲求が顕著に表れる。それが、食欲に大きく振られた場合は、人が人を食べるような事態になってもおかしくはない、とあたしは思うよ」
田辺の膝が大きく震え始める。動物を血抜きもせずに貪るほどの貪欲な食欲、見るからに、血の気の失せた全身、何も写さない白く濁った瞳、これら全てが繋がった。
「ま......まさか、まさか!この少女が!」
田辺の慟哭のような声に対し、野田はどこまでも泰然としたまま答えた。
「お前にしては、察しが悪かったな......そうだ、その通りだ田辺」
数歩だけ近寄れば、声帯が破裂したかのような、澱みきった唸りをあげて、狭い檻の中を少女が移動し、顔面を捻りこむ勢いで野田へ両腕を伸ばす。掴まれる寸前の距離で、新崎優奈を眺めつつ、野田は昂然と言った。
「この少女こそが、俺の試検体なんだよ。そして、九州地方に蔓延する死者よりも早く誕生した生ける屍だ!」
野田へ顔を向ける余裕もない。反論する気力もない。田辺を始め、一同は獰猛に顎を動かす少女から目を離すことが出来なかった。一言で済ませるならば、おぞましい。更に言葉を加えるならば、死を迎えてなおも死ねず、安らかに眠ることすら許されていないなど、これほどの冒涜があっていいのだろうか、という道徳心に満ちた怒りの言だ。
「野田さん......貴方は......貴方は......!」
「言いたいことは、充分に理解している」
「ならば、なぜ!なぜ、このようなことを!」
「田辺、お前は俺の怒りの始まりを知っているだろう?」
野田は、特に感情のない訥々とした口調で振り返り、田辺を見下ろす。
「全ては復讐の為だ。あの東を殺すには、あの狂った殺人鬼を殺すには!俺は悪魔に魂を売る必要があった!その礎となったのが、そこにいる新崎優奈だ!」
あまりの落差に、田辺は喉を鳴らした。
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