貴子の全身は目に見えて震えていた。そもそも、貴子にとって田辺は、年の離れた兄のような存在なのだ。良子が亡くなった時、父親である野田は今まで以上に仕事へ没頭していき、その寂しさを和らげていたのは、田辺だった。そんな二人が争っている場面など誰よりも目にしたくはないのだろう。どんな理由があるにしろ、現状、もっとも辛い気持ちを抱えているのは、貴子だ。
「田辺さんは悪くない!悪いのは......悪いのは、その東って人でしょ!だから、これ以上、酷いことしないで!」
「......貴子さん」
田辺は、貴子の言葉に心まで救われた。あれだけの事実を受け入れてくれている。それが、なによりも嬉しく思える。野田の拳からも力が抜けていき、やがて掌の皺が覗く。
「......貴子、お前はここに残れ......おい!」
銃を持った男が、軽く頷き、まずは、斎藤に手を掛けて立ち上がらせた。血相を変えて貴子が叫ぶ。
「お父さん!」
「良いんです、貴子さん!ここから先、野田さんは我々には危害を加えません!」
ぐっ、と言葉を呑み込んだのは貴子だった。勿論、保証なんてものはどこにもない。なにより貴子は、野田に今回の件について、田辺から訊いていると口走ってしまったのだ。どう転ぼうと無事には済まないだろう。
野田が田辺の声を奪うには、充分すぎるほどの理由が出来上がっている。
「......何をしている。早くしろ」
野田の声と、しゃくった顎を一見した覆面は、やはり僅かに頷くだけだった。そこで、違和感を感じたのは、田辺だけではない。いや、田辺よりも早く、浜岡は既に気付いていたようだ。
喋れない、という訳ではなく、喋らない。言葉に関する、なんらかの事情を抱えている。となれば、答えは一つしかないのではないだろうか。田辺の視線を察した浜岡は、鼻をひくつかせ顔をあげた。
「......そちらのかたは、野田大臣の関係者ですか?」
浜岡の問いに対して、野田は不遜に言う。
「そんなこと、貴方に関係はない」
「ああ、確かにそうですねえ......これはこれは、大変失礼致しました」
覆面は構わずに浜岡の身体を起こす。その際、浜岡はある点に注目し、確信を得たのか、眉を曇らせた。浜岡と野田の会話にも触れず、この場で、自身に興味の対象を移されたにも関わらず、動揺した様子もない。加えて、覆面がいた位置も悪い。
貴子への護衛ならば、三人が転がっていた足元に立てば良いのだ。その方が、より高圧的に写るだろう。浜岡の表情を読み取り、田辺も同じく眉間を狭めた。どうやら、嫌な予感が的中してしまったようだ。
「田辺、何を考えているのかは知らんが、余計なことをするなよ?」
野田の鋭い指摘に、田辺は吐息をついて返す。
「この状況で、そんな馬鹿なことはしませんよ......それに、貴子さんの目もありますしね」
貴子の名前を出すことで、僅かでも野田の判断力を鈍らせる。出汁に使うようでバツが悪いが、それは、貴子も承諾したのだろう。ちらり、と目線を田辺へ向けた。