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野田は、誰もいないことを確認すると、トイレの個室に慌てた様子で入り、鍵を閉めた。便座の上蓋を開き、倒れるように膝まずき口を抑える。だが、その抵抗は、なす統べなく無駄に終わった。
「......うっ!」
便座の淵に両手を置いて、便器の中に吐瀉物を吐き出した。荒い呼吸を繰り返し、数秒後、再び込み上げてきたものは、もはや胃に残された物ではなかった。透明な液体だ。田辺と酒を交わした辺りから、連日、容態が優れない。風邪や病ではなく、精神的な問題だろう。
野田の心に刻まれた田辺の言葉は、甦った死者が奴隷のように働かされていたという事実だった。想像しただけでも罪悪感に押し潰されそうになる。限りなく近いことの片棒を担いでいる、野田には、その自覚がありありと心の底に根付いていた。苦しみの呻きは、やがて、啜り泣く声に変わった。
「うっ......ぐっ......ふううぅぅ......」
罪悪感を、感情を、不安や恐怖を、声と共に圧し殺す。
落ち着きを取り戻すまで、数分の時間を要した野田が最後に行き着くのは、決まって胸の内にいる良子だ。あの凄惨な事件の被害者である妻は、身元が確認されて以来、野田の胸中に住みついていている。そして、囁きかけるのだ。
仇をとって。私を殺した奴に、私が味わった以上の恐怖を与えてと。
綿密に計画を建てた。下げたくもない頭も下げてきた。ここで後退する訳にはいかない。
「......待ってろよ良子......」
どれだけ、人道に反する行為であろうと、野田は決めたのだ。どんな手を使ってでも、あの殺人鬼だけは生かしておかない。奴を殺す為なら、どんな犠牲も厭わない。政治家として、人間として、限りなく間違った道だとしても、どれだけ邪魔が入ろうと、突き進む。そう決めたのだ。
そして、奴を......良子を殺した殺人鬼、東を必ず......!
ギリッ、と奥歯を噛み締めた野田は、立ち上がって個室を荒々しく出た。洗面台で顔を洗い、数度のうがいの後、野田は戸部のいる執務室へ向かい、なに食わぬ顔で扉を開く。
「遅れてしまい、申し訳ありません、総理」
「五分も遅れている。上にたつ人間を待たせるのは、あまり感心しないな」
開口一番、そう言い放った戸部は、背凭れを軋ませた。矜持をそのまま現したような、傲然とした態度に対して野田は頭を垂れた。
悪どいというよりは、ズル賢い。そんな半端者、持ち上げられただけの、お山の大将、それが野田か戸辺に抱く評価だった。
あ……ラジオ聴くの忘れてた……と思ったw