幽瞑を連想させる血の臭いと生温かさしかない中を駆け回ってきた二人にとっては、心が和む光景だが、自然と緩んだ頬は、犬がその全身を現した途端に引き締まった。犬の腹から垂れた腸は、床に接触し長い血のあとを残している。そして、二人の姿を認識した瞬間、犬歯を剥き出しにして唸りをあげる。
「くそ!」
真一は、下げた拳銃を再び持ち上げるが遅かった。脚力にものを言わせた犬は真一に飛びかかる。咄嗟に身をかわしたが、拳銃が犬の身体に当たり宙を舞った。
「真一さん!」
「大丈夫だ!袖を少し裂かれたたけだ!」
駆け寄ろうとする祐介を右の掌を向けて止めると、ナイフを握った。数多の死者と対峙してきた真一は、すぐに感染した動物の危険性に気付いた。人間とは違い、常に鋭利な牙を持ち、俊敏に動くことが出来る。現に、真一は構えた拳銃を撃つことすら許されなかった。いや、よしんば撃てたとしても、犬のように小型で素早く動く動物相手に弾丸を当てるなど自信がない。
「祐介、動くなよ......」
真一は犬から目を離さずに立ち上がる。見失えば終わりだ。死角に回られ身体のどこかに傷を負えば感染してしまうだろう。
涎にまみれた袖の一部が口から落ちる。威嚇でもするように体躯を下げた犬の濁った双眸を見据えつつ、真一は中腰の姿勢をとり、右手のナイフを腰の位置で構えた。
一瞬に賭けるしかない。犬が駆け出したその時こそが勝負だ。後ろ脚が跳ね、大口の奥に光る牙が迫り、真一はナイフを振り上げた。刃先は飛び上がった犬の横腹を貫き勢いを殺す。
「うおあああああ!」
裂拍の雄叫びと共に、左手で顎を下から抑えつけ、短い悲鳴をあげた犬の身体を地面に叩きつける。
固い骨が砕ける音を聴いた祐介は、へなへなと座り込んだ。緊張の糸が切れたのだろう。肺に溜めていた空気が口から一気に吹き出した。長年、蓄積された疲労が一度に襲ってきたような気だるさを覚えつつ、真一は犬の潰れた頭部から手を離す。
「祐介......急いで浩太達と合流するぜ......こいつは、ちょっとマズイことになりそうだ」
血にまみれた左手を払いながら、真一が言うと、祐介は首を傾けた。
「どういう意味ですか?」
真一はナイフを納めると、祐介に向き直り続ける。
「こんなクソッタレな世界になって、今日で約三日目......なのに、感染した犬が襲ってきたのは今回が初めてだぜ?」
言いたいことは分かるだろ、という含みを持たせて真一は言葉を切った。思案顔になった祐介は、数秒後、何かに思い至ったのか、喉を大きく鳴らして口を開いた。
「......死者が襲う対象が増えているってことですよね?」
確認をするような口調に、真一はなにも言わずに深く頷いて返す。
それは、つまり、生き残り組みにとって敵が増えるという意味だった。祐介の顔色が次第に黒くなる。
「別行動は控えたほうが良いみたいだぜ......こんな奴等が死者みたいに群れてきたら......」
拳銃を心強く感じていたが、弾丸が当たらなければ意味がない。そう教えられた気がした。飛ばされた拳銃を拾いながら、銃は生き残るための手段に過ぎないのだと真一は痛感する。必要なのは、武器よりも信頼に足る仲間なのだろう。
「さっさとあいつらと合流しなきゃな。祐介、立てるか?」
「......はい」
二人はトラックの荷台に火器を詰め込むと、足早に八幡西区警察署を後にした。