男の膝蹴りが腹部に突き刺さっているのを視認すると同時に、左の頬を通して奥歯が折れる感触が伝わる。男の打ち上げた左拳が倒れながら見えた。
「ひゃはははは!どおしたよ筋肉自慢!」
男の声に、車内にいた新崎がハッチから顔を出し、驚愕の表情を浮かべた。岩神が素手の闘いで倒されていることが意外だったのだろう。ましてや、相手は体格が格段に劣る。新崎は、危機感から鋭く声をあげた。
「坂下!戦車を停めろ!」
轟音を響かせている戦車は、死人を呼び寄せる。すでに戦車を追いかけている人数は多く、瞬く間に戦車は囲まれた。男は新崎の登場に、待ってました、とばかりに口角をひりあげ、車上を駆け出す。新崎は男の狙いを察した。男は戦車自体を乗っ取ろうとしている。
男の蹴りでハッチの蓋が閉められる前に新崎は車内へと逃げた。
「......やっぱ、そう簡単にはいかねえか」
ちらり、と岩神へ振り返る。この一連の行動はある事実を突きつける。岩神は捨てられたのだろう。生き残るには男に勝たなければならない。立ち上がる岩神に男が言った。
「お前、見捨てられちまったみてえだな」
「......うるせえ」
吐き捨てるように呟いた。
戦死扱いの厄介払いのような状況に絶望はしない。
今はただ、目の前の男への報復しか頭になかった。潰れた眼を掌で戻した岩神は冷たい視線で男を睨む。ここが、常識とはかけ離れた世界で良かった。戦車を囲む死人、眼球を潰されようとも問題にならず、こうして見殺しに近い扱いを受ける。生きるか死ぬかだけの世界に触れて、岩神は悟った。
これこそ、弱肉強食だ。
ならば、人を本当に殺すことにも躊躇いはない。力だけが正義だ。
岩神は踏み込み、拳を振り上げた。咄嗟のガードが間に合った男の腕ごと振り抜き、男が虚をつかれた隙に腹部へ拳を叩き込んだ。
「......良いじゃねえか」
身体が九の字になるほど深々と刺さっている。しかし、男は何食わぬ顔で岩神の髪を掴んで言った。
「殺すつもりだったろ?俺の未来なんざ考えもしなかったろ?伝わってきた殺意だけは群を抜いてたんだけどなぁ」
掴んだ髪をあげ、岩神は強引に男と眼を合わせられた瞬間に、全身から冷たい汗が吹き出す。
眼を見て初めて気付いた。こいつは、見えているものが違いすぎる。胸から込み上げるざわつく感情、ザラザラとしたものが体内を巡り、息が荒くなる。
「お前に良いこと教えてやるよ。本当に喧嘩が強い奴ってのはな......」
されるがままに倒され、男に髪を持ったまま車上を引き回される。出鱈目な握力は抵抗を嘲笑うように、更に強くなった。聞こえてきたのは、死人の騒ぎ声だ。岩神は自らの身に起きた悲劇を涙を流して嘆く。こいつは悪魔だ。いや、死神なのかもしれない。
車上の縁に立った男は、岩神へと最後の言葉を投げ掛ける。
「時代や場所に関係なく人を殺せる奴のことを言うんだよ」
腕に更なる力が込められ、岩神の腕が戦車からはみ出すと、死人の一人が遠慮もなく掴んだ時点で、岩神は解放された。
「ぎいああああああああぁぁぁぁぁ!!」
戦車から引きずり下ろされた岩神の身体は海に投げ出されたように波をうった。一波毎に右足、左足、と身体の一部が力任せに引きちぎられていき、やがて死人の海に飲み込まれ、断末魔だけを残し完全に見えなくなった。