感染   作:saijya

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第2話

 斎藤は、何も返事はせずに首を横に振り、浜岡が楽しそうに続けた。

 

「松尾芭蕉の有名な句、古池や蛙飛び込む水の音、この頭をとって「ふかみ」となりますね。ある日、この句は、松尾芭蕉が俳句の深みを現した一句であると高々に宣言された時がありました。もちろん、そんな珍説は馬鹿げていると多くの芭蕉研究家から一蹴されましたが、実に日本人特有の深読みを現した出来事だと思いませんか?」

 

「......それが、このマンションに辿り着いたことと、どう繋がる?」

 

 浜岡は、顔をあげると、ニンマリと意地の悪い幼稚な笑みを浮かべた。ポケットから取り出したのは、田辺から預かった用紙だ。

 

「簡単に説明しますね。50音順で考えてみると、この住所の数字は、それぞれで、平仮名の並びになります。1ー1なら「あ」2ー1なら「か」、5ー5ならば、5行目の5番目の文字です。更に言えば、その一文字は、必ず名前に入っている。最初の礒部彩弥乃なら5ー5、つまり「の」となり、それをこちらにあてはめると、ある人物の名前が見えてきます。他の文字は全てカモフラージュですよ」

 

 浜岡は、斎藤との間を詰めて用紙を手渡した。

 視線を下げる途中で、浜岡が田辺に言った、こういうのは50音で並べてくれ、という言葉を思い出す。文面にだけしか目が向いていなかったことに、なんて分かりやすいヒントを逃していたのだろうか、と斎藤は歯噛みした。

 いや、どうでも良い場所に意識を向けすぎていただけだ。所持品チェックや、田辺の癖が浜岡と同じことなんか、さほど気に止めるべき箇所でもない。決して真実には結び付かないものだけを晒す。それは有名な三億円事件を模倣したかのような手口だった。

 本当に大切なことは、外側ではなく内側にあるのだ。

 

「更に言えば、その上にある文も怪しい。取材対象者「リスト」ではなく、取材対象者と限定されています。重要な人は一人だと示唆される文面だと思いませんかね?」

 

「......もういい、理解したよ。つまり、俺はお前達に一杯食わされたという訳だ」

 

 浜岡がした謝罪の一礼すら、ひどく芝居かかった動作のように映る。知らず知らずの内に、声に熱が入った。

 友人にこんな仕打ちを受けることになるとはな。しかし、斎藤も浜岡を極秘に追っていた負い目から強くは出れなかった。

 

「こんなことをして申し訳ないとは思ってます。しかし、斎藤さんの協力が必要だったんですよ」

 

「......なにをさせるつもりだ?」

 

「簡単なことです。少しこちらに来て頂いてもらっても?」

 

 斎藤は、嘆息をついて散歩にでも誘うような軽さで手招きをする友人を見た。思い返してみれば、この男は昔からそうだった。挙動や視線、言葉を巧みに使い、気付かない内に相手を掌で転がしている。物事を起こす時の距離感の掴み方や焦点の合わせ方が抜群に上手い。

 田辺が、あのメッセージを瞬時に考え付いた理由は、浜岡の仕込みがあったからだろうか。

 斎藤は、胸に広がる諦念を感じながら近づいていく。そして、浜岡は警察手帳をインターホンのモニターに見せる様に促す。しばらく間を置いて、オートロックが解錠された。

 

「さ、それでは行きましょうか」

 

「待て浜岡......この先にいるのは一体誰だ?」

 

 浜岡は、くるり、と首だけで振り向く。

 

「おや?言ってませんでしたか?まあ、会うのは、こちらも初めてなんですがねぇ......」

 

 やや言いにくそうな口振りだ。後半は、殆ど呟きに近かった。そして、浜岡は続けて言った。

 

「田辺君のメッセージを解読すれば、のたたかこひきつれ、となります。電話で確認をした所、彼女は野田貴子という名前とのことでして」




ああ……食いすぎた……

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