感染   作:saijya

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第5話

 訥々と、違う、そうじゃない、あたしじゃない、と繰り返す。田辺が向けた憐憫の眼差しに晒され、九重は、ギョロリとした面を上げ、おもむろに立ち上がる。嫌な予感がした。その瞳に映ることにすら嫌悪を抱く。

 

「お前らのせいだ......あたしから、研究を奪ったお前らのせいだ!あたしじゃない!あたしのせいじゃない!」

 

 逃れる場所を失った精神が崩れようとしていた。ここにいたら、自分の身に危険が迫るかもしれない。

 田辺は、九重から目を離さずに、後ろ手にドアノブを確認した。

 

「違います、九重さんのせいではありません!これは、九重さんの志を奪った人間が起こした悲劇です!どうか、気を保って下さい!」

 

「黙れ!アンタらは世間知らずだ!世の中から疎まれる恐ろしさを知らないだろう!居場所を奪われる恐怖を知らないだろう!あたしの研究が元で、こんな事件が起きたと知ったらどうなる!世間はこう言うだろうさ!あいつがあんな研究をしなければって!」

 

「そんなことは僕らがさせません!」

 

「遅いんだよ!もう、何もかもが!」

 

 九重は、踵を返して部屋の奥に消えた。乾いた風に吹かれたように胸がざわつく。田辺は、土足のまま部屋に入り、両手で握り締めた包丁の刃先を向ける九重を見付けた。玄関までは、僅か数歩の距離だが、九重のギラついた双眸に見据えられ、両足が竦んでしまう。

 

「こ......九重さん、落ち着いて......落ち着いて僕の話を聞いて下さい」

 

 田辺は、これほど心の底から落ち着けという言葉を使ったことはなかった。緊迫した状況は、人間から言葉と動き、思考を奪う。

 宥めるように突き出した田辺の両手を目掛けて、横凪ぎに包丁を振るった九重は、狂乱した声で叫んだ。

 

「あたしは、もう終わりだ!これから先、生きていく希望すらない!」

 

「そんなことはありません!まずは、僕の話を聞いて......」

 

「この世界で一番恐ろしいのは人間だ!もう、あたしは誰も信じられない!」

 

 九重は、包丁を頭上へと持ち上げる。その矛先が降ろされる箇所は、間違いなく一ヶ所だけだろう。田辺は渾身の力で叫喚する。

 

「やめろおおおおおおおおおおお!」

 

 田辺は、生涯、この光景と、ピンと張った布を貫くような音を忘れることはないだろう。

 九重は、自らの腹部に包丁の刃先を沈めた。吐血の量は、臓器の損傷を田辺に告げた。両足が弛緩し、田辺はその場にへたりこみ、九重の恨めしそうな両目と目線が重なる。尻餅をついたまま後ずさり、壁に背中がぶつかった。

 近隣の住民が連絡したのか、騒ぎを聞き付けた警察が到着するまでの十分間、田辺は、瞼を落とすことなく見開かれた九重の眼球に見据えられ続けた。まるで、光が注がれない深い穴に放り込まれたような気分だった。

 九州地方だけに限られた問題ではない。九重は、世間を恐れ、世間に殺された。

 死とは、一体、誰のものなのだろうか。




後味悪いだろうな、田辺w

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