だが、一体どこで盗んだのだろうか。いや、一時期だけそのチャンスはある。
九重が地下室に閉じ込められていた期間だ。地下から解放された九重は、研究内容を全て破棄されたショックから姿を眩まし、現在のアパートに引っ越している。ならば、次は誰が盗み、誰が研究を極秘に続けたのかを田辺は思考し、やはり、一部しかないと断定する。研究者に対して権力のある機関、厚生労働省だ。田辺は、その責任者にあたる男の名前を呟いた。
「野田さん......」
この胸中に生まれた渦をなんと表現すれば良いのだろう。なに食わぬ顔で田辺と酒を呑み、なにごとも無かったように分かりやすい嘘を吐く。
以前、ある男に同じ苦しみを味あわされた唯一の友人を信じたい気持ちはあったが、その感情は呆気なく霧散した。頭の中で、グラスがぶつかる戛然の音が再び鳴る。田辺は、もはや野田を信用していない。
九重との会話から、改めて記憶を探れば、おかしな箇所はいくつかある。第一に、薬品が漏洩したという点だ。中身が洩れたことが原因なのだとしたら、動けない死者を動かす方法は一つ、結核などと同じ空気感染だ。
ならば、何故、被害が九州地方だけなのか。答えは単純、感染するのは、噛まれた場合だけという意味だ。
つまり、漏洩したのは薬品でもなんでもない、ただの液体、カモフラージュだったのではないだろうか。仮に薬品の成分を分析しようとも、研究者は劇物薬品を前提として構える。当然、運びだしや、調査を慎重に行うのだから、時間稼ぎはそこで終了だ。数時間後には、墜落により死亡した感染者が甦る。仮説の段階を出ないが、本命は、あらかじめ搭乗していた乗客の中に紛れ込んでいたのでないだろうか。
墜落原因となったミサイルすら、小さな物を大きな物で隠す派手なパフォーマンスだったように思えてくる。
だとしたら、いつ薬品を体内に入れられたのだろう。人体に薬品を打ち込むには、何が必要だ。答えはすぐに出た。注射器だろう。しかし、一斉に怪しまれずに注射を射つ機会などあるのかと、しばし逡巡する。ここからは連想ゲームだ。
注射を打つのは、病気をした時の他に何がある。輸血、献血、採血......
「......そうか、採血なら......」
田辺は、下唇を噛み、浜岡への短縮番号を押した。数秒のコール音の後に、いつもの間延びしたような返事が聞こえる。ろくな挨拶もなく、田辺はすぐさま言った。
「浜岡さん、すぐに調べてほしいことがあります」
田辺の真剣な口調に、浜岡も気を引き閉めたようだ。柔らかくも、熱を帯びた声で返す。
「なんだい?」
「墜落した飛行機の乗客の中にいた団体客を調べて下さい。それと、その団体が同じ会社に所属しているかどうか、加えて健康診断の受診先も」
「そりゃまた、どうして?」
「理由は後で説明します。それでは、お願いします」
一方的に電話を切り、項垂れたままの九重に視線を向けた。自分が必死の思いで培ってきたものが、誰かの役に立ちたくて蓄えてきたものが、自分が長年抱いてきた夢が、広い規模の大量殺人の道具に使われたのだ。落ち込みのも無理はない。田辺は、掛ける言葉が見付からなかった。