東京スカイツリーを正面から仰ぎながら、路地を曲がり、更に奥へ入り込んだ場所、昔ながらの雰囲気を残した一角、昭和の香りを色濃く受け継いだような場所にあるアパートを田辺は訪れていた。
表通りから、車二台分が通れる程の舗装された細い脇道を進んで着いた先では、東京という華やかな都会とは、一線を画した地域が集落のように広がっており、田辺は幼少の頃に思いを馳せられるこの光景を気に入っていた。木造アパートの一階、十の扉が横並びで一列ある中、田辺は 105号室のベルを鳴らす。一度目は無反応、二度目で扉の奥で人の気配を感じ、三度目の正直とばかりに、部屋の中からノブが回される。
開いたドアの隙間から、田辺を窺うように顔を出したのは、頭髪に白が目立つ初老の女性だった。
「こんにちは、九重先生」
そう声を掛けた途端、九重と呼ばれた女性は、目の色を変えて扉を引き、田辺は、それに合わせて靴先を滑り込ませた。鈍い音と痛み、そして、盛大な舌打ちが田辺を招きたくはない、と如実に語りかけてきているようで、思わず苦笑する。女性は、獣のような鋭い目付きのまま唸るように言った。
「なんの用だい?ここには、アンタらみたいな記者が喜びそうなもんはなにもないよ」
「まあ、そう言わずに......酒や食べ物もお持ち致しました。少し話しだけでもしませんか?」
「話だって?よく言うよ。アンタら記者があたしにした事を覚えてないのかい?それに先生なんて呼ぶんじゃない。アンタが呼んだら、本当にヘドが出そうだ」
田辺は、やっぱり敵意を剥き出しにされたか、と微妙な笑みで誤魔化した。
そもそも、この九重という女性は、ただの科学者だったが、発表した万能に活躍する細胞を開発したことで一躍時の人となった。目が見えない人間の網膜を細胞から作り出したり、無くなった手足を一から作り上げる事も出来る、まるで夢のような細胞だった。そんなものを記者が放っておく訳はない。
嘘ではないのか、という連日の詰問に精神が磨耗し、九重はつい、「それらしきもの」が出来た、と漏らしてしまう。そこから先は、九重にとって地獄のような毎日となる。地下室に閉じ込められ、ストレスから集中でかなず、作業に取りかかるも結果は実らなかった。世間からは研究費欲しさに嘘を吐いたのだと指さされ、業界からは干された。
東京の一等地から追い出され、行き着いた先は、外観からしても古ぼけた安いアパートだ。白髪も当初より遥かに増えている。
その一因を作ったのは、田辺の上司である浜岡だった。スクープだと言って、とことんまで九重を追い込んだ。その矢面に立たされたのは、田辺だ。
互いに顔馴染みだが、良い印象は持たれていないと覚悟はしていた。だが、こうも毛嫌いされていると話を聞くのも大変そうだと、田辺は内心、辟易した。当たり障りのない会話から入っても、恐らくは塩を撒かれる可能性がある。田辺は、素直に切り出した。
「今回の九州地方感染事件について、少し質問があるだけです。あなた程の方が、この事件にどのような関心を抱いているのか、興味があります」
「関心なんてある訳がないだろう!さっさと帰りな!」
「待ってください!僕は、貴方ほど科学者の中で真剣に命に向き合っている方を知りません!どうか、少しだけでも!」
我ながら都合の良い釈明だと思ったが、これは田辺の本心だった。九重は、誰かの役に立つ為に仕事をする女性だった。それは、インタビューで、はっきりと感じたことだ。
会社や上司の指示がなければ、田辺だって九重への強引な取材は避けたかった。今も、浜岡の後押しがなければ融通が効く立場でもない。
「そのあたしにアンタらは何をした!もう、あたしの事は放っといて......」
「本当に関心がないんですか!」
さきほどまでとは違う、剣呑さすら携えたような田辺の怒声に、九重の動きが止まった。
第11部始まるよ!