動けるようになった空太は、一旦シャワーを浴びて乾いた服に着替えた。そして自分の部屋に戻る途中、青山七海と千石千尋が言い争っている玄関に鉢合わせした。
見た限り、外に出ようとしている青山を千尋が止めようとしている、という構図だが、その理由はなんとなくわかる。青山の容体はまだ回復していないのだろう。後ろから見てもまだ少しふらふらしているし、顔も若干紅潮している。絶不調であることは明らかだ。
「あ、神田……アンタも止めてやって、青山体調悪いのに発表会行こうとしてんのよ」
「ああ……確か青山今日でしたね……」
「神田君……止めないで、私……行くから」
空太が背後にいることを千尋の言葉で気付いたという風な青山。聞いた感じ、声はいつも通り。鼻づまりや喉が腫れるといった症状はないようだ、おそらく今青山を苦しめているのは熱によって重だるい身体や寒気といったものだろう。比較的、症状は軽いようだ。
空太はもしもこれだけマネジメントして、それでも青山が体調を崩した場合のことを考えて、喉や鼻詰まりは最低限避けようと特に手を尽くしていた。自分の部屋の奥深くに仕舞われていた空気洗浄機を引っ張り出したり、内緒で青山の部屋を徹底的に掃除し、換気することで埃や空気の汚れを取り除いたり、毎晩作ったハーブティーに大根おろしやはちみつを少量加えてみたりもしていた。また、食事当番を此処最近ずっと引き受けて青山の食事にも栄養バランスを考えていたりもした。
これはその成果だろう。現に青山は体調こそ悪いが、喉や鼻は万全だ。
「……何時からだっけ? 発表会」
「……9時30分から」
「……どれくらいで終わる?」
「2時間位……」
空太は溜め息をついた。ただでさえ何もしたくない気分なのに、自分の心は青山を応援したいと言っていた。何故なら、青山も頑張っていたから、特筆して才能があるわけでもないのに、それでも頑張っていたから、空太はその背中を押してやりたかった。
なにより、空太は期待していたのかもしれない。青山七海に、『凡人でも成功出来る』と証明して欲しかったのかもしれない。そう考えると、今の青山は止めるべきでも止めたくなかった。
「先生……」
「何? 神田……っ!?」
「どいてください」
「神田……アンタ、その顔……!?」
空太は千尋の身体を押しのけて、青山をおぶった。そしてそのまま玄関を飛び出した。
背後から千尋の止める声が聞こえた、だが空太はそれを無視した。もうどうでもいい、今はなんでもいいから、凡人の頑張りを止めないで欲しい。この背中の少女は、この日の為に自分の時間をギリギリまで削って来たのだから。
「青山……今から俺が発表会の会場まで運ぶ、金が無いからタクシーとかは使えないが……必ず送り届ける」
「神田君………ありがと……」
空太は走る。会場までの道は知っている。何度か見に来た事があるのだ、空太は一応どこでやるのかを知っておいた方がいいだろうと思い、事前に視察に来ていたのだ。故に、ある程度近道も知っている。
路地を走り、建物の裏や時には中を経由して、走る。その速度は並の陸上選手よりも速かった。
◇ ◇ ◇
「ありがと……神田君。行ってくるね」
「ああ、取り敢えずこれ飲んでけ」
しばらく走って、会場に辿り着いた。青山は空太の背中から下りて、会場の入り口を見た。そんな青山に空太はポケットから何かを取り出した。
青山の為に常備していたのど飴と体調を崩した時用の解熱剤。空太は改めて、過去の自分の用意周到さに感謝した。本当に予知能力持ってるんじゃないかと思う程の抜かりなさ、自分で自分を賞賛したくなるほどだ。
青山はそれを受け取り、その場で解熱剤を飲んだ。青山の発表順次第だが、後の方であれば薬の効果も多少青山の力になる筈だ。
「行って来い」
「……うん」
青山が入り口の中へ消えていく。
立ちつくす空太。その背後に勢いよく一台の車が止まった。ドアが大きな音を立てて開き、そこから現れたのは美咲や仁、そして暗い顔のましろだった。彼女達は空太の姿を見つけて駆け寄って来る。
「こーはいくん! ななみんは!?」
「空太! 千尋ちゃんが空太が病気の青山さんを連れて行ったって……大丈夫なのか?」
「………」
空太の近くに来ると、ましろ以外が詰め寄って来る。
だが、空太は無感情な瞳のまま仁達に振りかえる。
「!」
「こー、はいくん……?」
「……空太?」
空太の顔は、ぼろぼろだった。濁った様な瞳、疲労が溜まって死にそうな顔色、見れば一目で分かる、今にも死にそうな顔だった。比喩では無く、本当に。
だが、そんな状態でも空太は『普段通り』口を開いた。
「ああ、仁さんに美咲先輩……それに、ましろも……大丈夫ですよ、今青山入ってったんで」
その様子が、とても不気味だった。今にも死にそうな顔なのに、声音はいつも通り、顔と声が全く合わない空太が、痛々しい。
実際、空太は限界だった。普段は顔に出さなかったが、青山の体調管理の為に様々な手を尽くし、夜はゲーム作りで時間を削り寝るのは夜遅く、日課も休まないため朝は早く、学校があれば授業や教員からの頼みで働き、帰ってくればまた青山の為に食事や掃除をする。誰にも悟らせず、空太は青山よりも自分の体力と時間を削っていた。
そこに、ましろへ届いた手紙と『好きな人』宣告を受け、意気消沈していた所に今朝のことが加わったのだ。肉体的にも精神的にも、空太はもう限界を超えていた。
「とりあえず、終わるまで待ってることにします」
「空太……」
なのに、空太はまだそうやって倒れずにいた。本当なら倒れてもおかしくないことぐらい、ましろにだって分かるくらいなのに、倒れない。なぜそこまでするのか、なぜそんなに頑張るのか、それは考えればすぐに分かる。
―――周囲が期待するからだ
空太には凄い才能がある。自分なんかよりもずっと凄い奴。そんな事を本当は空太よりもずっと才能のある奴から日常的に言われ続ければ、そうあろうとするだろう。誤魔化して誤魔化して誤魔化して、自分すらも騙してそうあろうとするだろう。
空太はもう、自分自身が頑張っていることにすら気が付いていなかったのだ。そこに、椎名ましろが言ってしまった。
『夢があるなら、頑張れ』
前を向かせた。全力なんて面倒と思っていた空太の意識を、全力を出す方向へと強制的に変更した。その結果がこれだ。元々、無意識に騙し騙し頑張っていた空太が、更に頑張ろうとした。自分の力量以上のことをしようとした。当然、空太は今まで頑張っていたのだからそれ以上のことは出来ない。既に限界まで振りしぼっていた身体は限界を超え、今の空太になった。
「空太……もういい、休んでくれ……!」
「こーはいくん……ごめん、ごめんね……!」
仁達は、やっとそれに気がついた。空太には万能の人なんかじゃない、才能溢れる奴なんかじゃない、空太はただ、必死でそうあろうとしていた、ただの凡人だったのだと。
だから悔いた。自分達の期待が、何気ない言葉が、空太という平凡な少年を痛めつけていたことを。
「何言ってんですか……仁さん、美咲先輩……?」
「空太……」
「ま、しろ……あ、あはは……さっきは悪かった……本当は、ましろに会いたくないなんて……嘘だから……だから……」
「空太……!」
空太はまただ、と思った。ましろが、また泣きそうな顔をしている。どうしてそんな顔をするのか、今度は分からない。
困惑する空太を、ましろは抱きしめた。その小さな身体は、少しだけ震えていた。
「ど、どうしたんだよ……ましろ」
「分からない……でも、こうした方が良いと思った」
「な、なんだよ……それ……」
空太は更に困惑する。予知能力とまで賞賛していた思考が、全然働かない。この状況が分からない。
「空太……お前はもう十分頑張ったよ……悪かった、気付いてやれなくて……」
「仁さん……」
「こーはいくん……ごめん、本当にごめんね……! こーはいくんの気持ちの知らないで……あたし……!」
仁が歪んだ表情で空太に謝り、美咲はそう言って泣きながらましろと一緒に空太を抱きしめた。
空太は、何が何だか分からなかったが……こうしていると凄く楽になった気分だった。心の何処かで、三人の言葉が深く染み入った。
そして次の瞬間、
空太は足から力が抜け、真っ白になっていく意識の中、意識を失った。
朝と同じようだったが、
―――今度はなんだか、凄く安らかな気分だった。
空太君……凄く頑張ってました。