神田空太の部屋へ入って来たのは、さくら荘の担当教師である千石千尋。空太が最初に彼女の名前を聞いた時『千』という感じが名字と名前に両方入っていることから、厨二ネームを付けるならサウザントマスターかな(笑)、と考えた人物である。それと同時に某ジ○リの神様の銭湯に迷い込んだ少女と同じ名前だぁとも考えた人物でもある。
空太は入って来た千石千尋の顔に首だけ回して視線を向けた。空太の視界に入った千石千尋の顔は、客観的に見てとても酷い有様だった。化粧は濃く、それに合わせた衣装は反比例するかのように顔との相性を崩壊させ、浮かべたほくそ笑みはその異様さを加速させていた。
「千尋先生」
「何よ?」
「その化粧。夜の蝶と言うよりはアマゾンの毒蜘蛛見たいです」
「……神田には大人の色気が分からないみたいね。まぁいいわ」
千石千尋もまた、空太に高レベルの才能人という認識を持っている人間である。そしてその空太に化粧が駄目だと言われた事で少し心にショックを受けたが、なんとか大人の威厳として言い返した。
だが、空太の笑みはその心境を見透かしている様で、なんとも負けた感が否めなかった。とりあえず、千尋は後で化粧やり直そうと心に決めた。
「で、何の用ですか?」
「ああ、そうそう。神田に報告しなきゃいけない事が有ってね。はい、コレ」
「写真ですか? ……へぇ」
空太が千尋から受け取った写真に写っていたのは、なんとも透明な少女。おそらく年齢は5歳か6歳程だろう。無表情な顔立ちからは少しだけあどけなさに交じって大人っぽさがにじみ出ていた。
「この子の写真を俺に見せてどうしろと?」
「この子、私の従姉妹なんだけど……こんどからさくら荘で預かる事になったから迎えに行って欲しいの」
「ああ……なるほど」
空太はさくら荘に入るという事実と千尋の従姉妹という所から、恐らく少女も何かしらの才能を持った才能人なんだろうなと当たりを付けた。まして、この写真通りの少女が此処に来るわけでもないだろうとも思っていた。
神田空太はいろんな事を諦めてから、様々な事に目を配れるようになっていた。何か一つの事を頑張ろうとしなくなったから、四方八方に目が行く様になったのだ。
そんな空太が思ったのが、写真の古さ。見れば、所々に古い折れ目があるし、傷も多い。色もなんだか褪せているから最近取った物じゃない。最低でも5年以上は昔の物と見たのだ。
「この子、今俺と同い年くらいですね」
「……良く分かったわね。そうよ」
千尋は内緒にしていて後々空太のびっくりする表情が見たかったのか、少し不満気だがそう答えた。内心でやはり空太は凄い人物だ、という再認識をしながら。
「……分かりました。俺が迎えに行きますよ。千尋先生の従姉妹ですもんね?」
空太はそう言って、部屋を出る。だが、千尋は空太を引き止めた。
「アンタ、進路調査表まだ出してないでしょ?」
「ええ」
「あんなの適当にパイロットとでも書いときゃいいのに」
「まぁ、俺にも色々と考えがあるので」
「そう、まぁアンタの事だから別に心配はしてないけど。最悪……進学、の二文字で職員室は安心するわよ。っと、そろそろ時間だから行くわね!」
千尋の出掛け先。それは、合コン。神田空太はこの千石千尋という人物の人となりは把握しているのでもう一々指摘するのは止めている。
ただ、確信している事はあった。
「(あの人、多分行き遅れ組だろうなぁ)」
それは、千尋にとって才能人である空太に一番言葉にして欲しくない台詞であった。
◇ ◇ ◇
その後、空太は千尋から請け負った仕事をこなす為にその少女を迎えに行っていた。場所や少女の名前等を聞いていなかった為に少しだけどうしようかと思ったが、渡された写真の裏に場所と時間、少女の名前が書いてあった。
18時に駅で待ち合わせ。少女の名前は椎名ましろ。
神田空谷は、少女の名前に若干の聞き覚えが有った。それもその筈、空太がまだ才能に関して諦めていなかった時、テレビで一度だけ見た世界でも屈指の才能人。それが絵画の天才、椎名ましろ。
神田空太が中学時代に憧れ、比較し、敗北を認めて、嫉妬した人物の一人でもあった。テレビの向こう側に存在する天才にまで嫉妬するとは、今思えばなんともまぁ滑稽な話である。
「お、神田の坊主じゃねぇか! 今日はサバがいいぞ!」
空太は商店街ではかなり顔の知れた人物で、人との交流は実はかなり広い。
「あら、空太君じゃない! ね、今日は何が良い? コロッケおまけするわよ?」
魚屋のおじさんや肉屋のおばさんは、空太になにかと良くしてくれているので、空太もかなり親しくしている人物だ。
魚屋のおじさんに軽く挨拶をして、肉屋のおばさんからはコロッケを貰い、駅へと急ぐ。
辿り着いた駅前には、まだ少女は居なかった。空太はコロッケを頬張りながら、とりあえず駅前のロータリーで腰を下ろす。空を見上げながら考える事は、面白い事でも起きないかなぁという事。
神田空太は、才能云々を諦めた後に求めた物が有った。それは、軽薄な奴ほど好む様な指標。
―――人生面白ければ良いっしょ?
つまり、神田空太は才能から逃げる為の何か目的が欲しかった。そして差しあたって見つけたのが、面白い生活を送る事。神田空太は面白ければ良い、という指標の下に才能からの逃避を始めた。
だから、神田空太は才能人の溢れるさくら荘に居る事が出来るし、笑っていられるのだ。
「あれ? 空太じゃん。何、俺を待ってたのか?」
「ん? ああ、仁さんか。いいや、そうじゃないですよ」
空から声のした方へと視線を移すと其処に居たのは、さくら荘の住人。部屋番号103号室の先輩、三鷹仁であった。
「だろうな。で、なにしてんの?」
「いや、ちょっと人を待ってるんですよ」
「へぇ……あ、コロッケじゃん。俺にもくれよ、朝以来喰ってないんだ」
「良いですよ」
空太は仁へ手もとのコロッケを手渡して、少女の写真を取り出した。仁が駅から出て来たのなら、少女もそろそろ出てくるから顔を確認して探そうとしているのだ。
「空太ってすげぇよな。商店街歩くだけでコロッケとか貰っちゃうんだから。才能だよ」
「商店街に居る女の人をその気になれば全員口説いて孕ませそうな仁さんよりはマシかなと思ってます」
「いやいや、俺だってちゃんと避妊くらいするって……」
「知ってますか仁さん。避妊用具や薬って、絶対じゃないんですって。有名な所で言うコンドームですら8から9割という所で、決して100%避妊出来る訳じゃないんです。現に、アメリカでは女子高生と男子学生がコンドームを付けて性行為を行なった結果、避妊出来ずに妊娠させて、男子学生の方は遊びだった様ですが責任を取らされたそうです。」
空太の言葉に、仁は若干冷や汗を掻いた。だが、それはそれで責任を取る覚悟はしているのですぐに立ち直った。
「まぁ、才能なんてどうでもいいですが……仁さんだって美咲先輩のアニメ、好評みたいじゃないですか」
三鷹仁の才能は、脚本。空太が先程アニメーションで話をしていた上井草美咲は、知っての通りアニメーションの天才だ。そしてまた、この三鷹仁はそのアニメーションを支える脚本を作った張本人。
神田空太が脚本作りの才能に興味を示し、最終的にはいつも通り嫉妬した人物でもある。
「アレは美咲の作品だ。美咲が凄いだけさ………うん、美味いなこのコロッケ」
「そうですか。まぁ、どうでもいいですが」
空太はそう言って三鷹仁の浮かべた少しの苦笑を一切気にせずに切り捨てた。その様子に、仁はまた苦笑し、やっぱり空太には分からないかと頭の中で思った。
三鷹仁もまた、空太に類稀なる才能があると勘違いしている人物だった。
「で、空太はなにを……空太、その写真は?」
「コレですか? 千尋先生の従姉妹さんです」
「それ、いくつだ?」
「写真の通りなら5歳前後という所では?」
「分かった、空太。警察へ行こう」
「仁さん……遂に強姦に走ったんですか? 分かりました、一緒に行って骨は拾いますよ」
「違ぇよ!」
仁は少女の写真を利用して空太を警察へ連れて行き、ロリコンの罪で逮捕させよう……という感じに冗談を言ってからかうつもりだったが、空太の思いがけない反撃に返り討ちに合ってしまった。
「全く……前からだけど、空太は口が上手いな」
「仁さんの口説きテクニックには敵いませんよ」
「減らず口め」
「まぁ冗談はここまでにして……この子がさくら荘に入るらしいので、迎えに来てるんですよ」
「なるほど」
そう言うと、ロータリーの近くに黒いタクシーが停まり、中から空太の通う水明芸術大学付属高校の制服を着た少女が降りてきた。少女はツカツカと迷い無く歩き、ベンチにトスッと腰をおろした。
空太はその少女を見て、少しだけ見惚れた。少女は日に焼けた事もない様な白い肌に、さらりと流れる長い髪は傷みもない。
間違い無く、美少女と呼べる女生徒だった。
「あの子、雰囲気あるなぁ空太」
「そう、ですね」
「お? なんだ、空太的には気になるって所か? 仕方ない、俺の特技を見せてやる。彼女は身長162cm、体重42kg、上から79・55・78で間違いない。貧乳かと思うだろうが、見た目は数値より印象深い筈だ」
「いや、そんなのどうでもいです。とりあえず、あの子が多分そうなんで行ってきます」
空太は仁のふざけた雰囲気を一蹴して少女に近づいた。何処か大人びた雰囲気のある少女に話し掛けるのは少しだけ躊躇われる物があったが、仕事という事で割り切る事にした。
おそらく会話が可能な位の距離へと踏み行って、空太が口を開いた瞬間―――
「ねぇ、貴方は何色になりたい?」
少女の透明な声が響いた。空太は一瞬で動きを止められ、鼓動を高めて驚愕した。
「――俺?」
「そう」
「考えた事は無いよ」
「なら、考えて」
「……強いて言うなら、いろんな色かな」
「いろんな?」
空太は首を傾げる少女に少しだけ可愛いと思いつつ、こくりと頷いてまた言葉を紡ぐ。
「いろんな色さ。真っ赤だったり、青かったり、緑色だったり、とにかくいろんな色。一色だけじゃつまらない。俺は面白い物が好きだから」
空太の言葉は、少女の眼を少しだけ見開かせた。
「そう、面白いね」
「そいつは重畳。で、君はどんな色になりたいんだ?」
「私?」
「そう」
「私は……今は白かな」
空太は少女の言葉を名前通りだなぁと短い感想を持った。
「それは俺の中には無い色だな。面白いよ」
「そう」
空太は少女に手を伸ばして、握手の様な形を作った。少女はその行為に首を傾げているが、空太は久々にニコリと微笑みながら少女に言った。
「千石千尋の頼みで君を迎えに来たんだ。俺は神田空太、君の名前は?」
少女はその言葉に、若干納得と言った感じに答えた。
「私は……椎名ましろ」
「よろしく、椎名」
少女は空太の手を取った。少女の顔は少しだけ、口元が微笑んでいる様にも見えた。
◇ ◇ ◇
「空太って良いね、音が綺麗。私、好きよ」
椎名ましろは、神田空太に連れられてさくら荘へ向かう途中、そんな事を言い出した。空太は、今までそんな事を言われた事が無かったので、苦笑した。
「それは良かったよ。でもそれを言うならましろっていう名前も良いと思うぞ。イメージに合ってて」
「それはないわ」
「俺の感想だから気にしなくても良いよ」
「そう」
空太は、この時椎名ましろの事を思い出していた。世界的にも有名な超天才的芸術家、椎名ましろ。
空太にとっては周囲の才能人が霞んで見える位の才能人だった。でも、実物を見ると、ただの少女であり、空太にとっては結構天然の入っていると印象を受けた少女だった。
「椎名はスイコーに入るんだっけ?」
「編入」
「やっぱり美術科か?」
「うん。空太は、何処?」
「俺はそんな才能ないからな。普通科だよ」
そう言うと、椎名ましろは黙ってしまった。別に何か悪い事を言ってしまった訳じゃない。ただ単に話題が尽きただけだ。椎名ましろは空太が話し掛けない限り、まともに話題を振ってくる事は無い。
先程の様に突然空太の名前に付いて褒めて来たりするくらいなのだ。
「椎名はさ、何をしに此処へ来たんだ?」
「……漫画を書きに来たの」
「漫画?」
「そう」
空太はここで、椎名ましろという人物が何故漫画を書くのかと疑問に思ったが、別に彼女が絵を書かなくてはいけないというルールは無い。下手に突っ込んだりはしなかったのだった。
「さて」
「?」
「着いたぞ。ここがさくら荘だ」
空太は少女に振り返ってそう言った。