全部で4話の予定ですので、気軽にお楽しみください。
日本には書道という伝統文化がある。
遥か古に大陸より伝わり、数千年の時を経て独自の発展を遂げた歴史ある造形芸術だ。
意思を伝えるために生み出された文字を更に洗練し、独自の表現法で形にする事で、心の内に湧き上がる感情のすべてを紙という限られた空間に開放し、書き記す。
そうして形となった言葉には力を持った言霊が宿り、見る者たちに大いなる感動を与える。
その瞬間、ただの紙だったものに神が降臨するのだ。
書道家とは、内なる神を解き放って現実世界に顕現させる、可能性を具現化する者たちなのである。
そして、この物語の主人公、保坂(23歳・男性・独身)もまた、そんな浮世離れした書道家の1人であった。
有名な書道家の後継ぎとして生まれた彼は、ご他聞に漏れず父親と同じ道を進む決意をした。
高校まではバレー部で青春を謳歌していたのだが、卒業をきっかけに両親と話し合った結果、大学に通いながらプロの書道家を目指すことにしたのである。
「見ていてくれ南ハルカ。俺は、君と築いたかけがえのない思い出を胸に、新たな世界で頂点を極めてみせよう!」
実際は、南 春香(みなみはるか)という名の下級生とは話したことすらなかったのに、勝手に美化して前向きな原動力にしてしまう。
そのように前向きかつ独創的すぎる性格がこの男の良い所であり、【きもちわるい】ところでもあった。
しかし、憎たらしいほどに器用な保坂は、本格的に書道を始めて1年も経たずに頭角を現し、初めて出展した有名な書道展で見事に1位を取ってしまう。
「ありがとう南ハルカ。君のおかげで、俺は最高のスタートを切ることができた。これぞまさに、愛のなせる奇跡と呼べるだろう!!」
ものすごく勝手な妄想で盛り上がっている点はいただけないが、素晴らしい結果を出せたことは間違いない。
とにもかくにも華麗なデビューを果たした彼は、その後も類稀な才能を遺憾なく発揮し、5年経った現在では書道界で知らぬ者がいないほどの若き新鋭として名を馳せていた。
☆★☆★☆★☆
初夏を迎えたある日、大きな書道展でまたしても1位を取った保坂は、受賞パーティーに出席するために会場へと向かっていた。
「書道を始めて日の浅い俺が、5年でここまで認められるようになるとはな……改めて振り返ってみると、我ながら上手くやってこれたものだ。これもバレー部で培った器用さのおかげだな」
「いや、バレー部あんま関係なくね?」
保坂の隣を歩いているメガネをかけた金髪男がツッコミを入れる。
中学時代からの友人にして良き理解者である川藤 鷹生(かわふじ たかお)は、学生の頃とまったく変わらない奇妙な友人に微妙な笑みを向けた。
画商を営む彼は保坂の実力を買っており、彼の人気が順調に上がっていることを公私共に喜んでいるのだが、この独特な性格はどうにかならないものかと思うときが多々ある。
「(容姿も良いし、性格も悪くはないんだがなぁ……)」
あまりに独特すぎるきもちわるい雰囲気がすべてを台無しにしてしまっている。
今も歩道を歩きながらYシャツの胸元をやたらとはだけて、すれ違う女性たちをドン引きさせている真っ最中だ。
汗ばむほどに気温が上がっているとはいえ、正装した姿で乳首が見えるほど肌を出してるヤツはどう見てもおかしいだろう。
「ふぅ、それにしても今日は暑いな……」
「確かに暑いが、街中で上半身を出すな! これから受賞パーティーだってのに、俺に恥をかかせんなよ?」
「当然だ。この俺が親友であるお前にそんな思いをさせるだろうか。いや、させるわけがない!」
「反語で反論する前にYシャツのボタンをとめやがれ!」
いつもの調子でおバカな会話を進める2人。
しかし、この後予期せぬ大事件が起こることになろうとは思いもしていなかった。
その出来事は、展示館の館長と保坂が会話し始めたことで起こった。
書道界の重鎮でもあるその老人は、1位を取った保坂の作品を、事もあろうに本人の前で酷評したのである。
「まだ若いのに、型にはまった字を書くね」
「お褒めに預かり光栄の至りです」
「……えっ!? いや、あの、今のは褒め言葉じゃないし、私の話にはまだ続きがあるのだが……」
「なるほど、どうやら早とちりをしてしまったようですね。とんだご無礼をいたしました」
「あ、ああ……そこまでかしこまらんでもいいよ、うん……」
あまりに前向きすぎる保坂に流石の館長も調子を狂わされた。
しかし、心を鬼にしてでも、この礼儀正しき(?)若者に伝えなければならない言葉がある。
才能ある彼の将来を、より実りのあるものにして欲しいと願う者として……。
「君の字は確かに上手い。だが、手本のような字と言うべきか、賞のために書いた字と言うべきか。君自身の個性が感じられない」
「俺自身の個性……?」
「そうだ。君は、平凡と言う壁を乗り越えようとしたか?」
年老いてなおを書道家として前に進み続けている館長は、鋭い眼差しで保坂を見据えた。
彼の目から見た保坂の字は他人の猿真似にすぎず、それは事実であった。
この字は、尊敬すべき父親の技術を忠実に踏襲して書いたものだからだ。
書道家として経験の短い保坂は、地盤を固めるためにあえて人気の取れる書き方をしているのだが、若者の可能性を期待している館長としては、もっと個性を感じさせる作品を求めていた。
つまり、保坂と館長の考え方は、根本的な部分で食い違っているというわけだ。
「「……」」
その瞬間、2人の間に緊張が走る。
どちらの意見も正しさと間違いを含んでおり、期せずして対立することになってしまった彼らの関係にも暗雲が立ち込めるかと思われた。
しかし、やたらと打たれ強い保坂は、公衆の面前で批判されたにもかかわらず、ごく普通に意見を返した。
「館長の含蓄あるお言葉、痛み入ります。しかし、そのありがたいお言葉を返すようで恐縮ですが、私も自分なりのスタイルを確立するための努力を試みております」
「ほぅ、はっきり否定されているのに、反論できる何かがこの字にあるというのかね?」
「はい。まずは論より証拠、実際に確かめてみてください」
「……確かめる?」
館長は疑問符を浮かべた。
確かめるも何も既に鑑賞したからこその批評なのに、この若者は何を言い出すのか。
しかし、彼の努力は館長の想像の斜め上を行っていた。
「一体何を確かめろというのかね?」
「それは、私の作品の【匂い】です」
「に、匂い!?」
「はい。とりあえず、近くに寄って嗅いでみてください」
よく分からないが、言われるままに鼻を寄せて匂いを嗅いでみる。
すると、嗅ぎ慣れた墨汁の匂いの中になぜかスパイシーな香りが混ざっている。
「これは……」
「どうですか? 墨汁の中にカレーのスパイスを混ぜることで、視覚だけでなく嗅覚でも書を楽しむことができるように試みたのです! これぞ私の新境地! 名付けて、【華麗なる時代の幕開け】!!」
「…………へっ!?」
この若者は一体何を言っているのだろうか?
訳が分からず一瞬呆然としてしまったが、徐々に理解しだすと館長は怒りを感じた。
彼は書道を冒涜しようとしているのかと。
「保坂君、君は書道を何だと思っているのかね?」
「はい。私の思う書道とは、目に見える文字を用いて姿無き己の心を自由自在に表現する、人智と神秘を融合させた素晴らしき造形芸術です」
「ふむ……ということは、これが君の心という事かね?」
「その通りです」
内心で憤っていた館長は、堂々と自分の考えを答える保坂の目を見て本気だと理解した。
もちろん保坂はまったくふざけてなどおらず、真剣に考えた末にこの作品を作った。
その理由は以下の通りだ。
「一般社会における書道のイメージは、お世辞にも開けているとは言えません。伝統や格式を重んじるあまり必要以上に敷居が高くなり、残念ながら親しみにくい特殊な芸術となってしまっているのが実情です。だからこそ私は、書道をもっと自由に楽しめるものとして変革させたいと考えたのです!」
「……それがこの匂いかね?」
「ええそうです。カレーとは、日本における代表的な家庭料理であり、子供たちの大好きな食べ物でもあります。そのように慣れ親しんだ匂いが堅苦しい書道作品から香ってくれば、子供たちも親しみを持ってくれるのではないか。そうして興味を持った書道に新たな風を呼び込んでくれるのではないだろうか。そんな願いを込めてこのアイデアを実行しました。書道とは、もっと身近にあるべきものなのだと理解してもらうために!」
「むぅ…………(まさか、そこまで考えての行動だったとは……。この若者、私が思っている以上に大物なのかもしれん)」
真相を聞いた館長は思わず唸ってしまった。
確かに一理ある意見であり、アイデアも面白い。
新しい形の芸術としては試してみる価値があるだろう。
しかし――それはもう、書道ではない別物だ。
当然ながら館長の求めている新境地ともまったく関係ないので、その点では評価に値しない。
ただし、凡庸な愚か者ではないことも分かった。
「(思っていた通り、この青年の将来には大いに期待が持てる。だが、今はまだ目指すべき道筋が見えていないようだ。というか、努力の方向性を完全に間違えている! 墨汁にカレーのスパイスを入れてみようだなんて考えるものかね普通!?)」
常識人の館長は保坂の奇行に若干途惑ったものの、流石は年の功ですぐに落ち着きを取り戻し、いつもの冷静沈着な思考に戻る。
そして、次のように結論を出した。
若き書道家が行き先を見失っているのであれば、その道の先駆者として正しく導いてやらねばなるまいと。
こんなとんちんかんな男でも、書道家としての才能は確かなのだ。
後は、彼自身の道を見つけられれば――偉大な父親をも超える大物になれるだろう。
「(心熱き青年よ。願わくば、この老いぼれに新たなる可能性を見せて欲しい)」
未来を見つめて邁進している彼の話を聞いた館長はそのように期待した。
このおかしな若者にはそれができるような気がしたのである。
だからこそ、再び心を鬼にしてお叱りタイムを始めた。
「……君の考えは分かった。確かに、君が真摯に努力していたことは認めよう。だが、それを書道として評価することはできない。そもそも、目の前にある壁を乗り越えようともせぬ者がその先を求めるなど、まったくもって論外だ」
館長は、図星を突くことで保坂の成長を促そうとする。
前にも述べたが、保坂の書く字は父親の模倣だ。
書道家として大成している父親の字は、既にお手本と言えるほどまでに完成されている。
ゆえに、それを模しているだけでは先に進めないのだと館長は言いたいのである。
「(君が更に躍進するためには、父親という大きな壁を乗り越えようとしなければならんのだ)」
書道界の重鎮である自分からここまで言われれば、当然我が身を省みようとするだろう。
館長はそう思い、あえて人目のある受賞パーティーで罵って見せた。
しかし、それでも保坂は引き下がらなかった。
高校時代に【カレーの妖精】とまで呼ばれていた彼のカレーに対する愛情は、異常なまでに過剰で純情な感情となっているからだ。
書道とはまったく関係ない所で熱くなった保坂は、アホな事を言いながら館長に詰め寄った。
「待ってください館長! このスパイスは、私が何年も研究を重ねて完成させた極上のブレンドで、味の方も絶品なのです! 確かめてもらえば、すぐにでもご理解していただけるでしょう!」
「えっ!? いや、私はそのスパイス自体を否定しているわけではなくてだねー!?」
もう何が何やら無茶苦茶になってきた。
しかも保坂は、その極上スパイスとやらをなぜかタッパに入れて持ってきており、館長に味見してもらおうとフタを開けた。
その時、予期せぬアクシデントが起こってしまった。
慌てた保坂が足をもつれさせて、館長に向けて倒れこんでしまったのである。
そして、手に持っていた極上スパイスを館長の頭から全身にぶちまけた。
「「あっ!」」
華やかなパーティー会場に場違いなカレー臭が広がる。
更に運の悪いことに、ズッコケた保坂の右ストレートパンチが館長の左頬にクリーンヒットしてしまった。
「ぐはぁーっ!!?」
結構勢いがついていたので、杖を使っている館長では耐えられるわけもなく、思いっきりふっとばされてしまった。
「きゃ――!?」
「館長がカレー粉まみれにされた上に殴られた――!?」
「って、おい、保坂!? お前一体何やってんだ!?」
「あっはっは……よもや、カレーに対する愛情が俺の運命を変えてしまうとはな……。これが、若さゆえの過ちというものか」
「なぜこの場所でそうなる!?」
まるで状況が分からない川藤のツッコミももっともだが、保坂の言っていることも真実だからややこしい。
何にしても、色々な不幸が重なった結果、父親から反省と成長を求められることになった保坂は、とある場所へ送られることとなった。
こうして、この物語のお膳立ては整ったのだった。
☆★☆★☆★☆
数日後、父親から紹介された場所へと旅立った保坂は、長崎県に属する【五島】に到着した。
五島は九州の最西端にあり、大小あわせて140あまりの島々が連なる列島である。
都会から離れているため風光明媚な所なのだが、その代わりに人口も少なく、保坂が住んでいた東京とは比べるべくも無かった。
「人が見あたらないな……」
小さな空港から出て来た保坂は、辺りを見回しながらつぶやいた。
視界に見える範囲には1人もいない。
もちろんタクシーなどは1台も止まっておらず、1日1回しかこないバスも既に運行していないので、父親から教えられた場所に向かう手段が自分の足しかなかった。
目的地の七ツ岳郷はここからかなり離れており、歩いていけば半日以上はかかるため、普通の人なら途方にくれる所だ。
しかし、この男は違った。
「なるほど、これが俺に課せられた第一の試練というわけか。新たな門出の始まりとしては丁度良い。素晴らしい大自然を堪能しながら一汗かかせてもらうとしよう!」
恐ろしいまでにポジティブな彼は、まったく動じていなかった。
そうして勢いよく走り出すこと1時間後、保坂はようやく第一村人と出会った。
荷台の付いた耕運機に乗った爺さんが脇道からやって来て、見慣れない彼に話しかけてきてくれたのである。
その際に事情を話した結果、途中まで乗せてもらえることとなり、保坂は今、荷台に座りながら爺さんと会話していた。
五島弁という方言で喋っているため意味が分からない部分も多かったが、変な所で勘の良い保坂は普通に会話を成立させる。
そのように第一村人と親睦を暖めているうちに、海が見える場所までやって来た。
「ほら、兄ちゃん! うんぞ、うん!」
「うん?……海のことか」
「どげんか? おっが孫はうんば好じょってなぁ、キャーキャー叫んで喜ぶとよ!」
どうやら、彼のお孫さんはとても元気な子で海が大好きらしい。
そしてそれは保坂も同じだ。
海は良い……あらゆる生物がそこから生まれ、いずれは還っていく命のゆりかご。
「そう、海は母性の象徴であり、俺にとっては南ハルカを身近に感じさせてくれるかけがえのない場所なのだ……」
そう言って目を瞑った保坂は、幸せそうに浜辺で戯れる家族の幻影を見た。
父親の彼と母親の春香が、元気にお弁当を食べている2人の娘たちを優しげな眼差しで見つめる光景を――
『ハンバーグ、並びに唐揚げ、卵焼き、タコさんウィンナーは私のものだ。このバカ野郎』
『おいおい、このカナ様がレタスとブロッコリーだけ食ってろってかー!?』
『いや、お前などバランだけで十分だ』
『食いモンですらねーじゃねーか!!』
『あっははははは! 仲良くケンカをする前にいただきますが先だろう、娘たちよ!』
箸を武器にしてケンカしだした娘たちを嗜める。
すると、となりにいる春香が、おかずを取り分けたお皿をそっと差し出してきた。
ベージュ色のロングヘアがよく似合う美少女は、安心感を与えてくれる優しい声で保坂に語りかける。
『はい、こちらがあなたの分ですよ』
『ああ、ありがとう、ハルカ』
保坂は、愛しい妻からお皿を受け取ろうとする。
しかし、その行動は果たされなかった。
突然衝撃が走り、胸に感じる痛みと共に美しくもはかない幻想(妄想)から現実に引き戻されてしまったからだ。
「ハルカ!? そして娘たち!?」
「なんば言っちょっとか兄ちゃん。熱ばあっとか?」
急ブレーキをかけたらしい爺さんが変な目で保坂を見る。
彼が妄想に浸っていて様子がおかしかったからという理由もあるが、元々ここが終点らしい。
「おっが乗せゆっとはここまでたい。畑に行かばじゃそい」
なるほど、彼の畑がこの近くにあるのか。
ならば、ここからは再び徒歩だ。
しかし、その前に聞いておかなければならないことがある。
父親が用意してくれた借家では自炊が必要なので、先に食材を買っていこうと考えたのだ。
「ここまで送っていただき、どうもありがとうございました。ところで、ここから一番近いスーパーや商店街などを教えていただきたいのですが」
「ああよかよ。じゃっけん、そん前に服ば着んと若か女子に嫌われっとぞ?」
保坂は、妄想に耽っているうちに上着を脱いで上半身が丸裸になっていた。
いかに田舎とはいえ、この姿のまま歩き回れば速攻で不審者と認定されてしまうかもしれない。
流石に引越し早々から問題を起こしてしまうわけにはいかないので、すばやくシャツを着ると世話になった爺さんにお別れを言う。
「では、失礼いたします」
「ああ、気ぃつけちなぁ~」
爺さんは、おかしな青年を見送りながら、これから楽しいことが始まりそうだと感じてニヤリと笑った。
いきなり外で半裸になる男ですらすんなりと受け入れられる、実に大らかな爺さんであった。
☆★☆★☆★☆
親切な第一村人から教えてもらった商店街で食材などを買った保坂は、これからしばらくの間住むことになる借家に着いた。
平屋の一戸建てでだいぶ古臭い家だが、住めば都となるだろうと満足げにうなずく。
「とはいえ、だいぶかかったな」
あの爺さんのおかげで時間は短縮できたが、寄り道した商店街が予想以上に遠かったせいで既にお昼を過ぎている。
そのため、引越し屋に頼んで送っていた荷物の方が先に届いていた。
当然ながら鍵が閉まっているので、すべての荷物が玄関先に置きっぱなしだ。
この時保坂は悪いことをしてしまったと思ったが、その気遣いはある意味無用だった。
彼が来るのを待っていた従業員は必要な確認を済ませると、荷物を家の中に運ぶことなくさっさと帰ってしまったのである。
競争の無い地方のサービスは都会より行き届いていないらしい。
「まぁ、いいさ。このくらい元バレー部の俺にはどうということはない。いや、鈍った筋肉を鍛えなおすにはもってこいだ! 最近は書道に集中しすぎて運動不足だったからな、むしろ都合が良いとさえ言えるだろう!」
ここでもやはり前向きな発言をする。
炎天下の中をほぼ走り回ってきたのに、都会人とは思えないタフネスさである。
このように島に来て早々に馴染みまくっている彼だが、果たしてこの小さな冒険で父親の目論見通り人として成長することができるのだろうか?
早くも根本的なところで疑問が生じ始めているが、何にしても買って来た食材を冷やさなければならないので、とりあえず管理人に会いにいくことにする。
すると、元気過ぎる保坂に対してツッコミを入れるように、後方から見知らぬ男性の声が聞こえてきた。
「いやぁ、この炎天下の中を徒歩で商店街まで行って来るなんて、とんでもなく元気な人ですなぁ、田舎モンでも敵いませんよ」
「ん?」
声に反応して振り返ると、そこにはメガネをかけた壮年の男性が立っていた。
この借家の管理人で、集落の代表を務める木戸 裕次郎(きど ゆうじろう)だ。
「待ってましたよ」
郷長は、保坂が持っている買い物袋に気づいて軽く驚きつつも、親しげな様子で挨拶してきた。
しかし、ここで疑問に思うことがある。
鍵を持っているはずの彼は、引越し屋を放っておいて何をやっていたのだろうか。
ぶっちゃけると、先に鍵を開けても荷物を運んでくれるサービスはないので、2人はじっと保坂の到着を待つしかなく、ヒマを持て余した郷長は、どうせならと荷物の影に隠れて彼を脅かしてやろうと待ち構えていたのである。
普通の人なら中年オヤジのお茶目な行動に対して、『今までわざわざ隠れてたのかよ』とつっこんでやる所だが……
「ああ、郷長さんでしたか。初めまして、保坂です。気軽に保坂と呼んでください」
「……東京からご苦労でしたね」
保坂の場合、自分の方がビックリ人間なため、そんな当たり前なリアクションをするわけもなく話を進めていく。
「それでは郷長、鍵を渡してもらえますか?」
「え、ええ……(なんだろうこの人、かなり変わった感じがするぞ?)」
どこまでもマイペースな保坂は、目論見が外れて少し寂しそうな郷長から家の鍵をもらい、このあたりの土地事情などを聞きながら玄関の扉を開けようとする。
その時、なぜか保坂の動きが止まった。
「どうしました、保坂さん?」
「……いや、何やら家の中から複数の人間がいるような気配がしたのですが、恐らくは気のせいでしょう」
「はぁ……そうですか?」
郷長は、意味不明なことを言い出した保坂にドキリとしたが、とりあえず当たり障りの無い返事をして誤魔化した。
実を言うと、彼の発言に心当たりがあったからだ。
確かに、この家は人の気配を感じてもおかしくない状態にある。
しかし、家の中を見る前に気づくとは、この男の無駄に鋭い勘には驚かされる。
「(彼に中を見せて大丈夫かな?)」
恐らくは生活観が漂っているであろう家の中を想像して不安になる。
先にネタばらしをすると、この家は長い間借り手がいなかったため、近所の子供たちに秘密基地として活用されていたのである。
もちろん管理者側にも利点があって、家の痛みを抑えられる効果を狙って許していたのだが、そんな事情などまるで知らされていない彼が中の状態を見てどう思うか、そこが問題だ。
そんな郷長の心配を他所に、変なクセのある鍵をあっさりと開けた保坂は、昔ながらの引き戸を開いて玄関と一体化した居間の中を見た。
するとそこには、つい先ほどまで誰かがいたような痕跡が残っていた。
「これは……」
「(やっぱり……)」
見ると、四畳半の畳部屋にポテチやジュース、トランプや座布団が散らばっており、奥には電源の入ったラジカセと数枚のCD、壁にはポスターが貼ってあった。
明らかに新しい入居者を迎える状態ではなく、その光景を見た保坂は肩を震わせている。
もしかしなくても怒っているのだろうか?
「あ、あの~」
「郷長!」
「は、はひっ!?」
「お気遣いいただいてありがとうございます」
「……へっ?」
怒っているのかと思ったらなにやら感激している様子だ。
独特な感性を持つ彼は、この光景を常人とは別の視点で見たらしい。
「日常的な風景を用意することで、見知らぬ土地に単身引っ越してきた俺を安心させようとしてくださったのですね! 実に優しさのこもったおもてなしに、この保坂、心から感服しました!」
「えっ!? う、う~ん、喜んでもらえたのならなによりだよ……?」
「いやぁ、さきほど出会ったお爺さんといい、この島の方々は親切な人たちばかりだ! やはり、人間は素晴らしい!」
「(なんというか、すごく変わった人だなぁ……でも、まぁいっか)」
嘘をついたことは少し申し訳なく思うが、結果オーライなのでこのままやり過ごすことにする。
保坂に劣らずアバウトな性格の郷長は、上手くまとまりそうだと密かに胸をなでおろすのだった。
しかし、玄関前にとどまっている間に新たな問題が発生した。
この現場を作り出した張本人――制服を着た中学2年の少女2人が、右側の裏手から脱出して来たのだ。
「誰かが引っ越しち来るっちゅうこつば聞いちょったけど……」
「まさかここに来るなんてね……」
仲が良い2人の少女は、そっと歩きながら小さい声で話し合う。
先に喋った方言を使っている子は、山村 美和(やまむら みわ)という名のボーイッシュで勝気な少女だ。
酒屋を経営している豪快な父親の影響をもろに受けているようで、所属しているソフトボール部以外の運動部でも活躍するような行動派だ。
そして、標準語で話している子は、新井 珠子(あらい たまこ)という名の三つ編みで眼鏡をかけている大人しそうな少女だ。
彼女は自称文学少女で漫画家を目指しているのだが、ある時偶然見てしまったBL本のせいで腐女子属性に半覚醒してしまったという悲しい過去を持つ。
そんな2人が、家の角からそっと顔をのぞかせて保坂たちの様子を伺っている。
「若くてカッコイイ青年の引越しイベントか……漫画でよく見る第1話的な展開だわ」
「タマ、そんセリフは言うたらあかん。現実ば見うしなっち中二病ばなんぞ?」
メガネを光らせながらメタ発言をするタマに、美和のツッコミが入る。
それに今は無事に脱出するほうが先だ。
忍び足で歩き始めた2人は、引越し荷物の山で身を隠しながら2人の後ろを通り抜ける。
部屋の観察に集中している保坂と違って、彼より外が見えていた郷長はすぐに少女たちの姿に気づいたが、「しー!」とジェスチャーされたため見なかったことにした。
その瞬間、後ろ向きに立っている保坂が、意味ありげな言葉を言い放った。
「それにしても、実に趣のある佇まいだ……もしかするとこの家は、可愛い妖精たちの遊び場なのかもしれんな」
「「「(ぜ、全部バレちょるぅ―――!!?)」」」
保坂の言葉が聞こえた郷長と少女たちは戦慄した。
実際は、時間の経過を感じさせる古き良き佇まいに感動しての発言だったのだが、非常に紛らわしい言い方だった。
そんなわけで、一応保坂は美和たちに気づいていない……と思われる。
いずれにしても姿を見られてはいないので、無事(?)に脱出できたと言ってもいいだろう。
木で作られた塀の外に逃げ込んだ少女たちは、胸を押さえながらふぅっと一息つく。
「はぁ~、ばり焦ったぁ~……絶対うちらに気づいちょっとぞ、あれ!」
「でも、怒ってなかったみたいだし、けっこう良い人なのかも……」
「そげんかなー? っち、部屋に置いちきた私物ばどがんすっと!?」
「あ……」
そう言えばその通りだ。
貴重なお小遣いで買ったCDやラジカセ、それにお気に入りのポスターなどが置きっぱなしにしてあることに気づいた2人は途方に暮れる。
「こんままじゃ、全部捨てられっかもしれんぞ!?」
「うう、せっかく集めた私のCDが……」
2人の女子中学生は、悲惨な未来を想像して焦り出した。
あれは彼女たちにとって大事なお宝なのだ、処分されてしまう前に取り戻さなければならない。
いや、それ以前にあの基地自体を奪われるわけにはいかない。
そもそも、いきなりやって来た向こうの方が悪いのだから、勝手に追い出されてたまるものか。
とても逞しい精神を持っている彼女たちは、都会から来た青年に対してもまったく物怖じする気配は無かった。
「こげんなったら、基地ごと取戻しちゃるけん!」
「そうだね、あそこが奪われちゃうとかなり痛いし」
「あ~、今のセリフば、ちょこっとエロかね?」
「……」
「ごめん。ばり謝るけん、反応ばしてよ!」
タマに目をそらされた美和は、自分から話を振ったクセに恥ずかしくなって泣きついた。
実に中学生らしい甘酸っぱい(?)やり取りである。
「と、とにかく、今日のところは見逃しちゃるけん、次に会った時ば覚悟しときよ!」
「典型的な悪役のセリフだね……」
何はともあれ、脱出に成功した少女たちは、逆襲を誓いながらその場を後にしていった。
そんな怖いもの知らずな2人が保坂の恐ろしさ(?)を思い知るのは、これより数日後の事となる。
残念ながら、1話目にはヒロイン(?)のなるは出ません。
彼女の登場は次回からとなります。
まぁ、あの子をヒロインと呼んでいいのか迷うところですけどね。