ブラック・ブレット 星の後継者(完結)   作:ファルメール

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第06話 失われた地へ

 

「はい、延珠ちゃん」

 

「あ、ありがとう……綾耶」

 

 礼拝堂の長椅子に腰掛けた延珠に、綾耶はココアを渡す。延珠が初めてこの教会を訪れた日も、ずぶ濡れになった彼女に綾耶は(少しくたびれてはいたが)乾いたタオルと、そしてココアを振る舞っている。綾耶は特に意識したつもりはなかったが、だが今回も自然とそうしていた。それは綾耶自身気付いていないが、今の延珠が初めて出会った時と重なって見えたからかも知れない。

 

 数日前、一年振りに出会った延珠は希望と自信に満ちて輝いているようだった。だが今の彼女は存在それ自体が不確かなようで、ちょっと風が吹けば倒れそうなぐらいに頼りなく見えた。

 

「で、何があったの?」

 

 延珠のすぐ隣に腰掛けた綾耶は、自分も入れていたココアをグッと飲もうとして「あちち」と顔を顰めてカップから口を離した。少し熱くし過ぎた。猫舌なのに。

 

「……で、にゃにがあったの? あちち……」

 

 にっこりと笑いつつ数秒前と同じように構えるが、舌を火傷して呂律が回っていないのでいまいち決まらない。延珠は思わず肩の力が抜けてしまって、くすりと笑った。

 

「実はな……」

 

「ふー、ふー、えっとゴメン、何だっけ?」

 

「……飲んでからで良いぞ……」

 

 湯気で眼鏡を曇らせながらココアを冷ましていた親友に延珠は呆れ顔で応じると、取り敢えず目の前の飲み物を片付ける事にした。

 

 そうして5分ほどして空になったカップを置き、綾耶は今度こそ真剣な顔で延珠に向かい合った。

 

「で、何があったの?」

 

「……良く考えたら今は、妾よりもお主の事であろう。今のお主は東京エリア中から追われる身で……」

 

「確かにそれも大切だし、僕としても信頼出来る誰かに話をしたいと思ってた所だけど……まずは延珠ちゃんからだよ」

 

 そう言ってくれる綾耶の笑顔は、やっぱり安心出来る。

 

 ここへ来て良かったと、延珠はそう思った。自分が打ち明けた事に綾耶がどんな答えを返そうと、彼女の言葉はきっと支えになる。確信出来る。

 

 だから話した。今日、学校であった事を全て。

 

 綾耶は延珠が話し終えるまで何も言わず、ただ耳を傾けていた。

 

 そして話が終わると、教会の子は「そっか……」と頷き、少しだけ黙った後、おもむろに立ち上がると近くにあった本棚へと歩いていく。

 

「えっと……あったあった」

 

 そう言って一冊の本を取り出すとふっと一息してページの上に乗っていたホコリを飛ばし、ぱたぱたと延珠の傍へと駆けてくる。

 

「綾耶……?」

 

「延珠ちゃん、一緒に童話でも読まない? 久し振りに」

 

 昔は良くこうしていた。雪の降る凍えるような夜には一つの毛布に身を寄せ合って、互いにぬくもりを分け与えながら。絵本や童話を読み聞かせる役目は日替わりだった。綾耶は自分が当番の時は、大抵延珠よりも先に寝てしまった事を覚えている。

 

「綾耶、妾は……」

 

「いいからいいから」

 

 綾耶は延珠のすぐ横に座り直すと、手にしていた本を開いた。きっとこの本は彼女のお気に入りで何度も読み返したのだろう。めくり癖が付いていて、本を開くとすぐその章に当たった。

 

「王子さまが眠りかけたので、僕は抱えて歩きだしました。まるで壊れやすい宝物を持っているようでした」

 

 朗読を始めた親友に延珠は首を傾げつつも、取り敢えずは一緒にその本を読む事にした。きっと綾耶なりに色々考えがあるのだろう。

 

「地球にこれより壊れやすい物は、無いように感じられるのでした」

 

 そこまで読むと一度言葉を切り、綾耶は延珠に目をやって「続きを」と促す。延珠は少しの間迷ったが、しかし綾耶に相談しようと決めたのは自分であったのを思い出す。

 

「そして今、こうして目の前に見えているのは人間の外側だけだ。一番大切なものは目には見えないのだ……と、思っていました……」

 

 思わず「あ……」と、洩らす。

 

「大切なものは……一番大切なものは……目には、見えない……」

 

「……昔、延珠ちゃんは言ったよね? 僕も結局は普通の人達を憎んでいるんだろうって」

 

 そう言った綾耶の瞳は、本来の色である炎の色に染まっていた。当然ながら彼女は人の中で生きる為に赤目を隠す術を習得しており、今は力を開放する必要も無いのでこれは敢えて目の色を元に戻している事になる。

 

「確かに、僕の中にも人を憎む気持ちはあったよ……半分はね」

 

「もう半分は?」

 

「気の毒に思ったよ。どうしてかは……分かるよね?」

 

 延珠は頷いた。

 

 ガストレア因子を持っているから。紅い目だから。彼等は、自分の目で見えているものしか信じられていない。

 

「うん」

 

 綾耶は柔和な笑みを浮かべ、レンズの向こう側の紅い瞳が優しい光を宿す。

 

「延珠ちゃんには居るはずだよ。延珠ちゃんの一番大切なものを、ちゃんと分かってくれてる人が」

 

「……うむ」

 

 確かに自分にはそんな人が二人居る。一人は目の前の綾耶。そしてもう一人は……考えるまでもない。

 

「だから僕よりも、その人と良く話し合ってみる事が大切だと思うよ。その人ならきっと、僕よりずっと正しく延珠ちゃんを導いてくれる……なんて、ゴメンね? 頼りにされておいてなんだけど、こんな事しか言えない上に結局はその人に丸投げみたいな感じになっちゃって……」

 

 頭を掻きながら謝る綾耶に、延珠は首を振った。

 

「いいや……そんな事はない。ここへ来て、お主と話せて良かった。妾は……蓮太郎の所に帰る。蓮太郎と、話してみるぞ」

 

「うん、それが良いね……じゃあ、次は僕からの頼み事、良いかな?」

 

「うむ」

 

 先程よりずっと力強く、延珠が頷いた。まだ完全ではないにせよ元気を取り戻した親友を見て、綾耶も「うん」と頷きを一つ。そして本題に入る。

 

「まず確認だけど……今の東京エリアで僕がどういう扱いになっているか、延珠ちゃんが知っているだけの事を教えてくれる?」

 

「妾が知っている事は多くないぞ……お主が、一歩間違えば東京エリアを破滅させる危険物を持って逃げ出したから、東京エリア中の民警に生死問わずで捕まえろと命令が出ていて、お主の首に多額の賞金が掛けられているという事ぐらいだ」

 

「成る程……」

 

 綾耶は苦笑いして眼鏡を掛け直す。通信は途絶、濡れ衣を着せられて賞金首、エリア丸ごとが敵。予想はしていたが、ここまで的中するとは。いよいよ以て状況は映画じみてきた。

 

 このまま聖居に戻って潔白を主張しても、聞き入れられず囚われの身になるか最悪殺され、黒幕の手にみすみすケースを渡してしまう。

 

 民警達に捕まっても結果は同じ。

 

 ケースを手放したとしても、東京エリアを滅ぼすかも知れない危険物を何処に流れるか誰の手に渡るかも分からないような状況に置くなど馬鹿げているし、それをやった所で自分の立場は封印指定物を持ち出した反逆者のままで変わらない。

 

 更に普通の民警よりもずっと恐ろしい影胤達までケースを狙っている。

 

「つまり……何とかして無実を証明しない限りどう足掻いても僕は殺されるか、良くて終身刑……」

 

 考えれば考えるほど今の自分は詰みまくっている。

 

 だが、まだ希望はある。細糸のように頼りなくはあるけれど、それでも可能性はゼロではない。まずは……と、綾耶が考えた時だった。

 

「心配は無用だ、綾耶!! 妾が蓮太郎と木更に事の次第を伝えて、お主が何もやっていない証拠を掴んでみせるぞ!!」

 

 どんと胸を叩いて延珠がそう言い放つ。それを見て綾耶は少し驚いたようだった。

 

「……延珠ちゃんは、僕がどうして封印指定物を持っているか聞かないの?」

 

 問いを受け、延珠は「愚問だな」と会心の笑みを見せた。

 

「お主がエリアを破滅させようなんて真似、する訳がないだろう。何かの間違いか、さもなくば誰かの陰謀だという事ぐらい妾には分かるぞ」

 

 綾耶はほんの少しだけ目を丸くして、そして「そっか、そうだね」と微笑む。

 

「じゃあ、もう一つお願いして良いかな? 蓮太郎さんか、その……木更さんだっけ? 延珠ちゃんが信頼出来る人に、伝えて欲しいんだ。政府上層部に裏切り者が居るって」

 

「裏切り者……?」

 

 信じられないという風に鸚鵡返しする延珠だが、しかしすぐに「承った」と頷いた。本当かどうかはこの際置いておくとして、少なくとも綾耶がそうした確信を持っている事は理解出来る。でなければ彼女はとうの昔に聖居に戻っているだろう。

 

 どちらにせよ事態をはっきりさせておく必要はある。裏切り者疑惑が綾耶の取り越し苦労であったのならそれで良し、万一本当であったのならそれこそ早急に対処せねば大変な事になる。それに友として、綾耶の胸のつかえを取り除いてやりたいという気持ちもある。延珠に断る理由は無かった。無かったが……聞いておかねばならない事は一つ残っている。

 

「で、綾耶……仮に木更の力で証拠を掴んで、妾と蓮太郎で黒幕を捕まえる事が出来たとして……それまでの間お主はどうするのだ?」

 

 追っ手から隠れてやりすごすか、それとも戦うか。どちらを選ぶにせよ敵は東京エリア全民警にプラスしてルインという女と影胤・小比奈ペア。いくら綾耶が強くても最後は数に押し潰されるのは目に見えている。

 

 逃げるという選択肢もあるが、それも厳しい。空を飛んで一度二度は逃げられても、逃走範囲であるこの東京エリアの面積は限られている。三度四度と続けば、潜伏先を限定されて追い詰められてしまう。

 

 ならば手は……一つしかない。

 

「延珠ちゃん、僕はモノリスの外……『未踏査領域』へ逃げるよ」

 

「なっ!?」

 

 何かの冗談かと思ったが、綾耶の表情の真剣さを見てすぐにそんな思考を掻き消した。

 

 しかし……延珠も実際に足を踏み入れた経験は無いが未踏査領域はガストレアの侵入を防ぐ結界の外側、つまりは無数のガストレアが闊歩する魔境だ。プロモーターとのペアで活動するならばいざ知らず、綾耶は一人(そもそもプロモーターの聖天子は戦闘力が皆無だし、今の綾耶は東京エリアの反逆者。同行してくれる訳がない)。危険度は極めて高い。

 

「……大丈夫、なのか?」

 

「大丈夫、とは言えないけど……でもこのままエリア内に留まっていて、もし人が大勢居る所で民警や蛭子影胤に見付かったら、何の関係も無い人を巻き添えにしてしまうよ」

 

 そこで綾耶は一度言葉を切って、「ものすごく酷い事を言うけど」と前置きして言葉を続ける。

 

「未踏査領域なら……追ってくるのは覚悟を決めた人達だけでしょ? ……勿論、だからって死んでいい訳なんて絶対にないけど」

 

 だが今はエリア存亡の危機。犠牲を払う事が避けられないのなら、せめてその犠牲が一般人でないようにする。それが今の綾耶に出来る精一杯だった。それにこれは万に一つ……いや100パーセント無いであろう可能性だが、そんな危険地帯に綾耶が潜伏したと知ったなら追撃の手が止むかも知れない。打てる手は、全て打っておく。後悔は、したくないから。

 

「……勿論、僕もろくな準備も無しに未踏査領域に長く留まる事は出来ないから……」

 

「ならば」

 

「そう、延珠ちゃん達が情報を掴んで黒幕を取り押さえるのが早いか、僕が捕まるのが早いか……スピードの戦いになるね」

 

 綾耶はそう言うと立ち上がって、椅子代わりにしていたケースを手に取った。仮にもエリア一つ滅ぼすような代物が入っているケースに尻を乗せているなど、肝が太いのかバカなのか。延珠はやれやれと肩を竦める。

 

 そうして二人は教会の外に出ると、どちらからともなく差し出した手を、しっかりと握り合った。

 

「生きて再び会おうぞ、綾耶」

 

「延珠ちゃんも、気を付けてね」

 

 友に一時の別れを告げて延珠は地を駆け、綾耶は空へと飛び去った。

 

 

 

 

 

 

 

 聖居がある第1区に隣接する区画の、オフィスビルのワンフロア。ビル1Fにある案内板によるとその階は「一色民間警備会社」が借り受けている事になっている。

 

 高い階層という事もあって見晴らしの良いそのフロアは、窓には完全防弾ガラス、壁面・天井・床には装甲板が何重にも埋め込まれていて、下手な要塞もかくやという改造が施されている。

 

 内装はと言えば窓際のだだっ広いスペースにどんと社長用の事務机が一つ、後は部屋の中程に社員用の机が一つだけ。壁には絵の一枚はおろかカレンダーすら掛けられておらずコンクリートが剥き出しになっている殺風景な部屋。

 

 東京エリアの街並みを背景に机に脚を投げ出して居眠りしているのはこの一色民間警備会社の社長にして唯一のプロモーター、IP序列第30位一色枢。名実共に東京エリアの切り札と言われる男である。社員用机には彼のイニシエーターが、「トリスタン・イズー物語」を読みながら座っている。

 

 ここが二人の、東京エリア最強ペアの城であった。

 

 と、不意に事務所の電話が鳴る。枢はぴくりと体を震わせて浅い眠りから目覚め、1コール半と言った所で、彼のイニシエーターが受話器を取った。

 

「はい……はい……ええ、分かりました。マスターには私から……ええ、はい……それでは」

 

 事務的に対応して通話を切ると、書を置いて彼女はプロモーターの傍へと立つ。

 

「マスター・ドゥベ。政府から連絡がありました。七星の遺産を持って逃亡中の将城綾耶は未踏査領域へと逃げたらしく、政府はエリア中の民警を招集しての追撃作戦を開始するとの事です。その作戦に私達も参加するようにと」

 

「ふあぁ……エックス、政府にはお前から折り返し連絡して参加すると言っておいてくれ。それと、俺のスマホ取ってくれるか?」

 

「どうぞ」

 

 エックスと呼ばれたイニシエーターは社長机の端に置かれていたスマートフォンをまだ眠そうな枢へと渡すと、自分は会社用の電話を使って政府へと依頼受諾の連絡に移る。

 

「ああ、三番目(フェクダ)? 私、一番目(ドゥベ)よ」

 

 スマートフォンで通話する枢の声は、先程までの野太い男の声から涼やかな女の声へと変わっていた。いや、変わっていたのは声だけではない。

 

 熊のような大男の顔の輪郭が歪み、着衣がさざ波を立てた肉体に巻き込まれるように再構築されていき、短く切り揃えられていた黒髪は長く伸びて色素が抜けていき、日焼けした肌が白く戻っていく。体のラインは筋肉質な鎧の如き角張ったものから丸みを帯びて流れるような女性のものへと変化する。

 

 ものの数秒程で精悍な男が座っていたそこには、純白の長髪と紅い目を持った、防衛省で民警達の前に現れたルイン・フェクダと同じ姿をした美女が取って代わっていた。着衣すら、トレンチコートから白いワンピースに変わっていた。

 

「たった今政府の方から連絡があったのだけど……将城綾耶……彼女は、未踏査領域へと逃げたそうよ。それで全民警に追撃作戦が司令されてるわ」

 

<……へえ、未踏査領域か……>

 

 電話の向こう側からは、女性と同じ声が戻ってくる。

 

<天蠍宮(スコーピオン)……八尋ちゃんを呼ぶ儀式の舞台としては、うってつけね。分かった、私達もすぐに彼女を追うわ。一番目(ドゥベ)、あなたは引き続き潜伏と情報収集よろしく>

 

「ええ……あなた達に言う事では無いとは思うけど、気を付けてね」

 

<そんな事はないわよ……ありがとう、それじゃ>

 

 通話が切れた時、社長席に座っていたのはもうルインの美貌ではなく、一色枢の雄々しい姿だった。

 

「行くぞ、エックス。準備しろ」

 

「はい、マスター・ドゥベ」

 

 

 

 

 

 

 

「そんな事はないわよ……ありがとう、それじゃ」

 

 隠れ家に戻っていたルイン・フェクダは通話を切ったスマートフォンをポケットに入れると、すぐ後ろを振り返る。そこには蛭子影胤と蛭子小比奈が、影胤は直立不動の姿勢で、小比奈は少し気だるげに立っていた。

 

「影胤、小比奈ちゃん、聞いた通りよ。私達も将城綾耶を追って、未踏査領域へ向かうわよ」

 

「承知いたしました、三の王」

 

「綾耶に会えるんだ」

 

 元134位のプロモーターとイニシエーターは、それぞれ違った歓びを滲ませた声で返事する。と、小比奈がルインの袖をくいっと引いた。

 

「ね、三番。延珠には会えるかな?」

 

「会えるかどうかは分からないけど……ドゥベの話では東京エリア中の民警が集まって作戦を展開するらしいから、少なくとも防衛省に集められていた民警は参加すると見て良いわね。可能性は高いわ」

 

「そっかぁ……綾耶……延珠」

 

 少女の口元が、三日月の形に歪んだ。

 

「会いたいな♪ 斬りたいな♪ 会いたいな♪ 斬りたいな♪」

 

「行くわよ、七星の遺産……必ず私達が取り戻すわ」

 

 両脇に影胤と小比奈を伴い、ルインは岩盤をくりぬいたようなトンネルを進んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 綾耶追撃作戦への参加依頼は、天童民間警備会社へも届いていた。1Fはゲイバーで2Fはキャバクラ、4Fは闇金という実にユニークな立地条件のこの民間警備会社の事務室では、社長席に座った木更が難しい顔でこの会社に所属する唯一のペア、蓮太郎と延珠からの報告を受けていた。

 

 ほんの一時間前の事だ。延珠がアパートへ戻ってきた時、蓮太郎は思わずその小さな体を抱き締めていた。

 

 

 

「俺が居る。確かに今は戦うしかないかも知れねぇ、何処に向かえばいいか不安に思う気持ちも分かる。でも!! お前には俺が居る!! お前を大切に想う気持ちは誰にも負けねぇっ!! 世界がお前を受け入れられるまで、俺はお前を導いていきたいと思っている!!」

 

 

 

 胸中の不安を全て打ち明けて、そうして応えてくれたパートナーの胸に抱かれながら、延珠は泣いた。

 

 自分は間違っていなかったのだ。自分の本当に大切なものを分かってくれている二人。綾耶と、蓮太郎。自分が迷った時に必ず力になってくれるのが綾耶で、何があっても自分が帰るのが蓮太郎の所なのだ。

 

 ひとしきり泣いて、その後蓮太郎がクローゼットから自分の服を全部引っ張り出してそれにくるまって寝ていたのに気付いて制裁の蹴りをお見舞いし、延珠はぱんと自分の頬を叩く。

 

 心に整理は付いた。次は、自分の番。

 

 そうして吹っ切れた延珠の口から語られた言葉がもたらす衝撃は、蓮太郎の中から彼女が帰ってきた喜びを上書きして余りあるものだった。彼はすぐに携帯電話で木更に連絡を取ると延珠を伴って会社へ行き、木更も交えてもう一度その話をさせた。

 

 政府の中に裏切り者が居る。

 

 綾耶は七星の遺産(尤も彼女はその名称を知らないが)を誰にも渡さない為に未踏査領域へと逃走。

 

 そして裏切り者が居る証拠を掴んで欲しいと、綾耶に頼まれた事。

 

「成る程……」

 

 ひとしきり聞き終えた木更は、腕組みして椅子にもたれ掛かる。

 

「信じられないのも無理はないが、だが妾には分かるのだ。綾耶はいい加減な事を言うような奴では断じてない!! 綾耶は……」

 

「違うわ、延珠ちゃん」

 

 僅かな時間の沈黙を、疑惑によるものだと判断した延珠が木更に詰め寄るが、静かにそう返された。

 

「里見君、延珠ちゃん、七星の遺産がどうやって大絶滅を引き起こすのか……分かる?」

 

 プロモーターとイニシエーターは、揃って首を振った。そんな事、知る訳が無い。木更は表情を厳しくして、続ける。

 

「七星の遺産はね、ガストレア・ステージⅤを呼び寄せる事が出来る触媒なの」

 

「蓮太郎、ステージⅤとは……?」

 

「ガストレアは単因子のステージⅠから始まって、完全体のステージⅣで成長を止める。だが、例外がある。それが10年前に世界を滅ぼした11体のガストレア、ステージⅤだ。そいつらはゾディアック(黄道十二宮)のコードネームで呼ばれている」

 

「現在までで確認されているステージⅤは11体。その内、処女宮(ヴァルゴ)は序列2位のドイツのイニシエーターが、金牛宮(タウルス)は世界最強のイニシエーターである序列1位がそれぞれ撃破、天秤宮(リブラ)は当時序列11位のイニシエーターが相打ちで倒していて、巨蟹宮(キャンサー)は欠番だから現存するゾディアックは全部で8体。七星の遺産を使えばその内の一体を召喚出来るそうよ」

 

 蓮太郎の説明を、木更が継ぐ。

 

「だけど木更さん、人為的にステージⅤを喚び出すなんて事が、可能なのか?」

 

「……少なくとも聖天子一派、と言うか……お偉いさんが隠していた情報では可能という事だったわ」

 

 思わず、蓮太郎は生唾を呑み込む。延珠の言葉に引き続き再び衝撃の事実が明かされた訳だが、しかし木更の本題はここからだった。

 

「そして数時間前、この情報がマスコミ各社にリークされかけたの」

 

「そ、それで……?」

 

「幸い、その寸前で報道管制が敷かれたから情報が漏れる事はなかったのだけど……」

 

 成る程、と蓮太郎は頷いた。延珠がもたらした綾耶からの伝言はある種の陰謀論じみていたが、そうした経緯があったのだとしたら木更がそれをすぐ信じたのも頷ける。

 

 世界を滅ぼす悪魔を召喚する触媒が、政府の管理を離れて持ち出されているという事実。そんな絶対に秘匿・報道規制されるべき情報がリークされるという事は、政府内部に混乱をもたらそうとする不穏分子が居る証拠だ。

 

 問題はその不穏分子が綾耶の言う裏切り者とイコールなのかという点だが……

 

「それをはっきりさせる為にも、私達は他の民警やあのルインという女と影胤・小比奈ペア、その他誰よりも先に、綾耶ちゃんを保護しなくてはならないわ!! 里見君、延珠ちゃん、社長として命令します!! 綾耶ちゃんとケースを他の誰からも守り、ステージⅤの召喚を止めなさい!!」

 

「必ずあいつを助けてみせます!! あなたの為にも、延珠の為にも!!」

 

「妾もだ!! 綾耶は妾を導いてくれた。今度は妾が綾耶を助ける!!」

 

 

 

 

 

 

 

 未踏査領域。かつては東京近郊で人類の生活圏だったそこも、今はジャングルもかくやという密林へと姿を変えていた。ガストレアの支配圏では動植物の分布が滅茶苦茶になるというが、ここもその例外ではないらしい。

 

 その熱帯雨林もどきの中を、ジュラルミンケースをずるずる引き摺りながら歩いていく小さな影が一つ。綾耶だ。

 

「はあ……」

 

 カロリーメイトをかじりながら、綾耶は溜息を吐く。

 

 置き手紙をして教会から持ち出した水と食糧はおよそ3日分。これは重量と荷物のかさばりによって動きを制限されない為の、ギリギリの分量だった。

 

 その3日の間で、延珠が蓮太郎・木更に自分の話を伝えて(勿論二人がその話を信じてくれるという前提だが)裏切り者を突き止めてくれるかどうかが、鍵だ。

 

 それまでは民警ペアからもルイン達からも逃げまくり、絶対に誰にもケースを渡さないようにしなければだが……

 

「問題はまだあるんだよね」

 

 それが溜息の原因だった。

 

 周囲に目を向ける。昼なお暗い森の中、木々の隙間から紅い瞳が自分を睨んでいる。ガストレアだ。ランクはステージⅠからⅣまでまちまち、方角は全方位。数は10か、20か。

 

 逃げ場は無い。戦うしかない。生きる為には。

 

「僕は殺されないよ。必ず無実を晴らして、聖天子様の所へ帰る……!!」

 

 小さな掌の中で、空気が渦を巻く。

 

 ぞるっ、と河の如く異形の者共が押し寄せ、綾耶は既に腕へと込めていた破壊の力を解き放った。

 


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