ブラック・ブレット 星の後継者(完結)   作:ファルメール

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第05話 延珠の故郷

 

 防衛省での一件の後、蓮太郎は一旦会社へ戻る木更を見送った後、その足で延珠が通う勾田小学校へと自転車を走らせていた。ちょうど下校時間だった事もあり、下校ルートで延珠と落ち合う形になった。そのまま近くの公園に寄ると延珠にはジュースを、自分は微糖のコーヒーを買ってベンチに並んで座る。

 

 最初、延珠は少しだけ困惑していた様子であったが、やがて「はっ」とする。これは、ひょっとしてデートってやつじゃ……!!

 

「れ、蓮太郎も遂に妾の気持ちに気付いて……!!」

 

 ここまで来るのに苦節一年。一年も掛かったが、遂にこの日が……!!

 

 ……などという延珠の思考など知らない蓮太郎は、深刻な顔でパートナーをじっと見詰める。

 

「延珠」

 

「ひゃ、ひゃいっ!!」

 

 ずっと望んでいた筈なのに、いざ本番となると緊張するものだ。声が上擦っているのを延珠は自覚する。

 

「いいか、落ち着いて聞けよ」

 

「う、うむ……!!」

 

 こ、これは……!! 思っていたよりもずっと段階をすっ飛ばす事になるやも……!! 蓮太郎め、ヘタレだと思っていたが思いの外積極的だったのだな……!!

 

 だが続いてプロモーターの口から出た言葉は覚悟していたものとは別の、しかもそれよりずっと強い衝撃を延珠に与えた。

 

「綾耶が……逃亡犯に……!?」

 

「そうだ、しかも東京エリアの全民警に生死問わずで捕まえろと指令が出ている」

 

 延珠が受けるショックも考慮して暫くは伏せておこうかとも考えたが、結局蓮太郎は隠さず打ち明ける事にした。延珠は綾耶と親友同士だし、ならば知っておくべきだと思ったのだ。

 

「そ、それで妾は一体どう動けば良いのだ?」

 

「……まぁ、当面は今まで通り待機だ」

 

 この東京エリアは狭いようで広い。人員や資金力も豊富な大手民警ならば人海戦術で以てローラー作戦を展開して探し出す事も出来るだろうが、天童民間警備会社は社長とイニシエーター・プロモーターペアの3名が全社員という零細企業。ましてターゲットの綾耶は空を飛べるのだ。闇雲に探しても見付かる訳がない。

 

「今、木更さんが各方面に掛け合って情報を集めてくれてる。情報が入ったらそこから迅速に動いて、他のどの民警より早く俺達が綾耶を保護する。それしかあいつを助ける道は無い」

 

「うむ……!!」

 

 延珠は厳しい顔で頷くと、蓮太郎の隣に並んで家路に就く。商店街の近くを通ると、街頭テレビの大画面に聖天子の姿が映っていた。内容は今まで何度かテレビニュースでも報道されていた「ガストレア新法」についてだ。

 

 呪われた子供たちの基本的人権を尊重しようというこの法案が通れば、多くの呪われた子供たちが今のように下水道に住んだり飢えに苦しむ事もなくなり、延珠とて学校に通う為に正体を隠す必要もなくなる。通れば良いのに、と思うその心は蓮太郎の本心だった。

 

『いや……俺だけじゃないな』

 

 この法案が通る事を誰よりも願っていたのは、他でもない綾耶ではあるまいか。人間である聖天子と、呪われた子供たちである綾耶。二人が共に在る事こそこの法案の縮図だ。今は色々と難しい時期だが、だからこそ綾耶はこの東京エリア全ての呪われた子供たちを代表する立場としてガストレアと戦っていたのではないかと、蓮太郎はそう思う。自分が誰かの為に働く事で、自分達が共存し得る存在である事を世間に示そうとして。

 

 そんな綾耶が、いよいよ法案が通ろうかというこの時期に封印指定物入りのケースを持って逃亡するなど、今まで何ヶ月も掛けて積み上げてきた努力全てを一瞬にしてドブに捨てる愚挙だ。蓮太郎には到底信じられない。

 

『だからこそ俺達がアイツと接触して、話を聞かねぇと……』

 

「そいつを捕まえろおっ!!」

 

 突然の蛮声に、蓮太郎は思考の海から現実へと引き戻された。声のした方に彼と延珠が振り返ると、ちょうど人垣を割って少女が飛び出してくる所だった。汚れや破れの目立つ服を着ていて、同じように肌や顔も汚れている。目を引くのは、彼女の紅い目。蓮太郎も延珠もすぐに理解した。この子は外周区の孤児である呪われた子供たちだと。

 

 その女の子は二人の前まで来ると驚いたように足を止める。この反応に蓮太郎は少し戸惑った。ふと見れば、少女が食料品を一杯にした明らかに買い物カゴを手にしているのに気付く。そしてこの慌て振り。この子が万引きをしでかしたのだと彼はすぐに悟った。少し視線を上げてみると、数人の大人達が追ってくるのが見える。

 

「あ、あの……!!」

 

 女の子が何か言い掛けたのと、同じタイミングだった。延珠の瞳が、炎の色を宿す。

 

「ば……やめ……!!」

 

 こんな所で力を使ったが最後、今まで隠していた延珠の正体を衆目に晒す事になってしまう。そしたら……!! 脳裏に浮かんだ忌まわしい未来を現実にさせまいと蓮太郎が動くが、間に合わなかった。力を開放した延珠が、

 

「ぎっ!!」

 

 女の子を抱えてこの場を離脱しようとして、しかしそれよりも一瞬早く。風のように現れた一人の少女が女の子を組み伏せていた。彼女もまた、女の子と同じように紅い目をしていて呪われた子供たちだと分かる。しかも、イニシエーターだ。この少女の顔に、蓮太郎と延珠はどちらも見覚えがあった。

 

「っ!? お主は……!!」

 

「は、放せぇ!! いだあっ」

 

 万引き犯の女の子が逃れようと体をばたつかせるが、イニシエーターは関節を極めて動きを封じる手に少しの力を加える事で応じた。走った激痛に、女の子は悲鳴と共に涙を浮かべる。

 

「お主、その手を……!!」

 

「止めろ延珠!!」

 

 イニシエーターを女の子から引き剥がそうと延珠が前に出るが、蓮太郎に制された。今はさっきよりも人目が集まってしまっている。こんな所で延珠の紅い目を見られたら絶対に誤魔化せないし、それに記憶が確かならこのイニシエーターの少女は……

 

「おい、そいつを引き渡せ!!」

 

「東京エリアのゴミめ!!」

 

「警察を呼べ!!」

 

「待てよ、そいつはいつ化け物に早変わりするかも知れねぇガストレア予備軍だ。素人さんが手出しするんじゃねぇ」

 

 蓮太郎の考えを裏付けたのは場に響いた野太い声と、人混みの中でもすぐに見付けられるであろう存在感を放つ偉丈夫の姿であった。防衛省で見た伊熊将監が小さく見えるような2メートル超の恵体は余す所無く鎧のような筋肉で固められており、トレンチコートをマントのように羽織っている。

 

 あまり他の民警に詳しくない蓮太郎・延珠共にすぐに分かった。この男の顔は、テレビで何度も見ている。

 

「IP序列30位……!! 一色枢(いっしきかなめ)……!!」

 

 畏敬の念が籠もっているような声で、蓮太郎は呟いた。目の前の男は現在、このエリアに於ける唯一の序列百番以内にして最高位序列保持者。名実共に東京エリアの切り札とも呼ばれる存在であった。

 

「『鉤爪(クロウ)』……」

 

 女の子を未だ組み伏せたままのイニシエーターに視線を移すと、彼女は無感情のままで蓮太郎を一瞥しただけだったが……蓮太郎の方は思わず数歩間合いを離した。序列百番以内のペアにはその力への尊敬と畏怖から二つ名が与えられる。『鉤爪』とは、この二人の称号であった。

 

「さ、あんた等はもう帰りな。こいつの事は俺達が処理しておくからよ」

 

「……あんた……!!」

 

 枢の言い様に義憤を覚えた蓮太郎が詰め寄ろうとするが、「あ?」と睨まれて思わず後退った。相手は全世界に20万以上も存在する民警ペアの中でもトップ中のトップ。序列12万位台の自分が勝てる道理は無い。

 

「おら、散った散った」

 

「だ、だが……」

 

 未だ組み敷かれたままの女の子を追ってきた大人達はいきなり出て来たこの男が場を仕切り始めた所に難色を見せるが、そこで壮漢は溜息を一つ。

 

「俺達が信用出来ねぇってぇなら仕方無ぇ。じゃあ、こいつを自由にしよう。だが、いきなりガストレア化してお前さん方を襲い始めても、俺は責任持てないぜ?」

 

 顎をしゃくって合図すると、イニシエーターが頷いて女の子の関節を極めている力を少し緩める。それを見た大人達は「や、止めろ」「分かった、あんたに任せる」と慌てて二人を制止した後、明らかに渋々といった様子ながら引き上げていった。それを確かめた枢が手を振って合図すると、イニシエーターは女の子の手首を捻り上げて無理矢理立たせる。女の子は「あぐっ」と悲鳴を上げた。

 

「お主……っ!!」

 

「止せ!! 延珠」

 

 今にも二人へと飛び掛かりそうな延珠だったが、蓮太郎が羽交い締めにして止めた。一瞬、二人と枢の目線が合ったが互いに何も言わないまま物別れになり、女の子はそのまま連行されていった。集まり掛けていた野次馬達も三々五々に散っていき、後に残されたのは蓮太郎と延珠の二人。延珠の瞳は既に黒く戻っていた。

 

「何故、妾を止めた、蓮太郎!!」

 

 服を掴んで噛み付くような勢いで迫ってくる相棒を取り敢えずビルの隙間へと引っ張り込むと、ひとまず落ち着かせようとする。

 

「仕方無いだろう延珠、あの状況で正体がバレたらお前まで殴られるどころじゃ済まなかったぞ」

 

 実際、紙一重のタイミングだった。あそこで枢のペアたるイニシエーターが現れなかったら、延珠の正体は間違いなくこの場の全員が知る所となっていた。そうなればもう、学校に通う事も……!!

 

「妾なら助けられた!! 妾でダメでも、蓮太郎なら……!!」

 

「無理を言うな、延珠……!! どうにも出来ない事だってあるんだ」

 

 蓮太郎の声から感じる響きは、諦めと苛立ちが半々という所だった。諦めについては自分の無力感を原因として。苛立ちの原因は半分はその無力感と、もう半分は自分でも恩着せがましい事は百も承知だが、延珠に対してのものだった。俺はお前の為にやったのにどうして分かってくれないのかと。八つ当たりに近い感情だと自覚しているだけに、自己嫌悪してはまた苛立つという悪循環だ。

 

「蓮太郎は正義の味方だ!! 蓮太郎に出来ない事なんて無い!!」

 

「子供の幻想を俺に……」

 

 押し付けるなと言い掛けて、相棒の両目に溜まっている涙に気付いた。

 

「なぁ、延珠……もしかして、知り合いだったのか……?」

 

「昔、妾が外周区に居た頃、何度か見かけた事がある……一度も言葉を交わした事は無かったが、向こうも妾を覚えていた……」

 

「……延珠、先に帰ってろ」

 

 蓮太郎は、もう理屈を先に立てて考える事を止めた。自分の中の良心に身を任せる事にしたのだ。

 

 目に付いた男からかなり強引に原付を借り受けて、枢達が消えていった方向へとひた走る。

 

 外周区にまで行くと、目当ての物はすぐに見付かった。廃墟一歩手前もしくは明確に廃墟な街並みには似つかわしくない高級車が一台、ぽつんと停まっている。

 

「……はい、マスター・ベネトナーシュ…………新しい子を…………下水道ですね……」

 

 不意に聞こえてきた声に、蓮太郎は思わず物陰に身を隠した。声色から枢のイニシエーターのものだと分かる。内容は聞き取れなかったが……ちらりと瓦礫から顔を出すと、緊張した様子で立ち尽くす女の子のすぐ前に枢とイニシエーターが立っていて、イニシエーターはスマートフォン片手に何やら話し込んでいる。

 

 最悪、女の子が生きたまま射的の的にされたり強姦されるような未来さえ思い描いていただけに、少なくとも枢達が暴力を振るう気配が無い事に、少しだけ胸を撫で下ろした。

 

「マスター・ドゥベ…………マスター・ベネトナーシュに…………任せろと……」

 

 イニシエーターはスマートフォンの通話を切ると枢へと何か報告している。距離もあって会話の内容をイマイチ把握出来ない蓮太郎は、ここで出て行くのは何か後ろめたいような気がして、だが枢達の意図を把握したいという感情も手伝い、気配を殺しつつ忍び足で近付いていく。ちょうど会話が聞き取れる距離にまで近付いた所で、枢の声が聞こえてきた。

 

「第39区の下水道にいる琉生(るい)って女を訪ねな。でなきゃ松崎って爺さんでも良いが……そこへ行きゃ、面倒を見てくれるだろうさ」

 

「あ、あの……」

 

 女の子はまだ何か言おうとしていたが、枢は「ほれ、さっさと行きな。出来るだけ人目を避けてな」と、シッシッと手を振って追い払ってしまった。女の子は何度かこの民警ペアを振り返っていたが、やがて諦めたのかぱたぱたと立ち去っていった。

 

「そんで? 兄ちゃんはいつまで俺達を覗いてるつもりだ?」

 

 心臓が高鳴るのを自覚する。しかし考えてみれば相手は序列30位。追跡が見破られていたのも当然と言えば当然か。観念した蓮太郎は瓦礫の影から出る。敵意が無い事を示す為に、両手は見える位置に出していた。

 

「ああ、兄ちゃんは商店街に居た……いや、防衛省でも仮面男と何か話してたプロモーターだな」

 

 合点が行ったという表情になった枢は、記憶の糸を手繰るように擦っていた親指と中指をパチンと鳴らした。

 

「って事は……俺達があの子に何かすると思って付けてきたって所か?」

 

「あ、ああ……だが、俺の気の回しすぎだったらしいな……あんた等が良い奴で良かったよ」

 

 気さくな口調で話し掛けられて、蓮太郎は肩に入っていた力を少し抜いた。良く考えれば、商店街ではああでもしなければ女の子を助ける事は出来なかっただろう。言葉遣いは兎も角、枢の取った行動は一つの最適解と言える。。

 

「あ……さっきはその……悪かったな……あんた達に汚れ役をやらせちまって……」

 

 ばつが悪そうに、蓮太郎は頭を下げた。しかし枢は陽気に笑って応じる。

 

「気にする事ぁ無ぇよ。お前さん、イニシエーターを連れてたな。俺のコイツと違って、お前さんの相方は呪われた子供たちって事を隠してンだろ? プロモーターには時々そういう奴が居るからな……見りゃあ分かるよ」

 

「あ、あぁ……そうだよ。何て言うか……俺はあいつ……延珠の方がさっきのあの子よりも大切で……それで……あんた達が居てくれなかったら……あの子は」

 

 胸中の罪悪感から蓮太郎の言葉は要領を得ないものになっていくが……そんな彼の肩を枢がぽんと叩いた。

 

「良いんだよ。人間誰でも自分に近しい奴が大事……当たり前の事だ。他人の為に命や立場を張れるのは素晴らしい事だとは思うが、だからって自分の大切な奴をないがしろにしてまで……ってぇのは何か違くね?」

 

 商店街での行動を肯定されて、蓮太郎は少しだけ胸のつかえが取れた気がした。

 

「あぁ、ありがとう……じゃあ、俺はこれで……連れを待たせてるんでな……」

 

 ペコリと頭を下げると蓮太郎も去っていき、廃墟には枢と彼のイニシエーターだけが残される。枢は周りに人目がない事を確かめてスマートフォンを取り出すと、登録してある番号をコールする。相手はほぼ1コールの内に通話に出た。

 

<お呼びですか? 我が一の王よ>

 

「あぁ、影胤……あなたが言っていた民警と話したわ」

 

 枢の声は、一変していた。先程、蓮太郎と話していた時には地の底から響いてくるような低い声であったのが、今は高くて良く通る女の声。裏声などでは断じてない、自然な発声だった。すぐ傍で控えるイニシエーターはプロモーターの突然の声変わりにも驚いた様子を見せない。もしここに蓮太郎が居れば気付いただろう。今の枢の声は数時間前に防衛省で遭遇した、影胤・小比奈ペアを連れた女、”ルイン”と同じものだと。

 

 電話の向こう側の相手は嬉しそうに「おお」と声を上げる。

 

<それで、いかがでしたか? 三の王は彼の事がお気に召したようなのですが>

 

「……防衛省で見た時の印象もそうだけど、フェクダやあなたが気に入る程、あまり強そうにも思えないけど……使えるの? まぁ私達は来る者は拒まない主義だけどね」

 

<もし拒みましたら、その時は私が始末しますよ。彼の事は私にお任せ下さい>

 

「……遊ぶのも良いけど、本来の目的を忘れないようにね。私からはそれだけ」

 

 そう言って通話を切ると傍らのイニシエーターを振り返る。その時、枢の肌にさざ波が立って彼の瞳が紅く光り、しかしそれもすぐに消えた。

 

「じゃあ、俺達も行くか」

 

「はい、マスター・ドゥベ」

 

 イニシエーターが頷く。枢の声は既に男のそれに戻っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 だが蓮太郎が他の誰かを犠牲にしてまで護ろうとしたものはその次の日に、あまりにも簡単に奪われて、あまりにもあっさりと崩れ去ってしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 第39区の廃墟を、延珠は歩いていた。

 

 一昨日も昨日も続いていて、今日も同じように繰り返して、明日も明後日も続くと思っていた日常は何の前触れも無く終わりを告げた。

 

 最初に違和感を覚えたのは、その日教室に入ってすぐだった。いつもなら皆の笑い声で満ちている筈の教室では、今日はクラスメイトが数人ぐらいずつ集まって何かひそひそと話している。このクラスがこんな雰囲気に包まれているのは、延珠にとっては初めての経験だった。

 

「皆、おはようなのだ!!」

 

 いつもならこう言うと口々に「おはよう!!」「よう、藍原」「延珠ちゃん、昨日の天誅ガールズ見た?」「藍原、昨日の宿題見せてくれよ」と、口々に声が返ってくる筈なのだが、今日は違っていた。クラスメイト全員が一斉に、一瞬だけ彼女を見て、そしてまたそれぞれ固まっていたグループごとに何か話始めるのだ。

 

 言い様の無い居心地の悪さを覚えた延珠はランドセルを机に放り出すと、一番仲が良いクラスメイトである舞のいるグループへと駆け寄った。

 

「皆どうしたのだ? 今日は何かおかしいぞ? まさか抜き打ちでテストでもやる事が決まったのか?」

 

 これは内心、そうであってくれと願っての問いであった。延珠自身、分かっていた。今、教室に充満している空気はそんなのとは明らかに異質なものであると。言葉には出来ずとも直感的に理解していた。

 

 案の定、友達は皆どこかよそよそしい視線を向けるだけだ。

 

 いよいよ不安が大きくなって延珠は思わず叫びそうになったが、その時だった。

 

「な、なぁ藍原……」

 

 躊躇いがちに、友達の男の子が尋ねてくる。その声を聞いて、延珠の中の不安な気持ちは八割方取り除かれた。後は彼が何を聞いてくるにせよ、その問いに真摯に答えるだけだ。それで、皆が何を誤解しているのか知らないが全て解決する。

 

 だが、その次に出た言葉は。

 

「お前が……呪われた子供たちだって……まさか、違うよな?」

 

 ……それからの事は良く覚えていない。

 

 気が付いたら逃げるように学校を飛び出して、アパートに戻って、その後は……

 

 そう、時計だ。時計を見た事を覚えている。後数時間で蓮太郎が帰宅してくる。いつもならばその時間が待ち遠しく、またそれまでの時間を過ごす事それ自体も楽しくて心が弾むのに、今日は何故だかたまらなく怖かった。一体どんな顔をして会えば良いのだろう? それ以前に、彼の顔をまっすぐ見る事が今の延珠には出来そうになかった。

 

 服を着替えると、滅茶苦茶に走っていた。走って、走って、走って……見覚えのある場所を歩いていた。

 

「結局……妾が行き着く先はここか……」

 

 自嘲気味に、嗤う。

 

 最初にここへ来た時も、逃げ出した末だった。

 

 給付金目当てに自分を引き取り、その後は虐待に等しい扱いを強いていた養父母を殴り倒し、何もかも放り出して捨て鉢になって、闇雲に走った先がここだった。

 

 空を見上げる。もしかしたらこの曇り空から、綾耶が下りてくるのではないかと期待してしまう自分が居る。

 

「バカな」

 

 そんな事ある筈が無いのに、と首を振る。今の綾耶はこの東京エリア全てから追われる身。都合良く自分を助けに現れてくれる事など有り得ない。

 

 この第39区での生活は、延珠にとっては恥ずべき過去だ。自分の日々の糧を得る為に、誰かの何かを奪う毎日。金、食糧、医薬品。身包みを剥ぐ事さえ珍しくなかった。そして当然、本来ならば支払うべき金銭や労働の代わりに暴力を払った代価として戻ってくるのは、報復の銃弾だった。

 

 だがその度に、綾耶はフィクションの中にしか居ないヒーローのように文字通り飛んで来て、延珠を守ってくれた。何度も、一緒に空を飛んで逃げた。延珠が受ける筈だった傷を代わりに負ってくれた事もあった。

 

 綾耶は自分がやっているドブ掃除や荷物運びの仕事を、延珠にも紹介してきた。そうして過酷な作業と引き替えに安い給金を受け取る(報酬が金ですらなく、期限切れのコンビニ弁当やおにぎりの現物支給である事も珍しくなかった)綾耶を、延珠は「バカな奴だ」と蔑んでいた。奪い取ってしまえば、10分の1にも満たない時間で10倍する物が手に入るのに。こいつは折角の「力」を、何故あんな風に使って腐らせるのだろう?

 

 一度、聞いてみた事がある。綾耶はこう言った。

 

 

 

『何でって……だって、誰かを傷付けて何かを手に入れるより、誰かの役に立って何かを手に入れた方がずっと気持ち良くない? 延珠ちゃんは、違うの?』

 

 

 

 延珠は、その答えを聞いてやっぱり綾耶はバカだと思った。

 

 

 

『お主のような奴こそ偽善者と言うのだ!! お主だって本音では、人間を憎んでいるくせに!!』

 

 

 

 そう言われて、綾耶は困ったように笑った。

 

 

 

『まぁ……そりゃね。延珠ちゃんの言う通りだと思うよ。僕も結局、自分の事しか考えてないんだろーね。誰かを憎んで誰かを傷付ける自分より、誰かを大切に思って誰かの為になれる自分でいたいって思ってるだけだよ』

 

 

 

 言い争い(大抵の場合は延珠が苛立ちをぶちまけて、綾耶が何か一言返して終わりにしてしまう)は毎日のように起こったが、延珠は綾耶の教会を離れようとはしなかった。顔を合わせれば綺麗事ばかり言ってきて、頼んでもないのに自分を助けに現れる、そんな鬱陶しい奴が住んでいる場所なのに。妾はあいつの事なんて、大嫌いな筈なのに。

 

 

 

『妾がどこで野垂れ死のうが妾の勝手であろう!! お主は何故、そこまで妾に構う!? まさか、友達だからなどと言わぬであろうな!?』

 

『友達だからだよ、延珠ちゃんが』

 

 

 

 少しも躊躇わずに、綾耶は答えた。何故そんな分かり切った問いを尋ねるのかとでも言いたげに、首を傾げて。

 

 

 

『もし延珠ちゃんが死……何かあったら、僕、泣くよ? きっと……ううん、絶対』

 

 

 

 綾耶は教えてくれた。人を信じ、大切に想うという事。今の自分がある半分は、間違いなく彼女のお陰だ。

 

 イニシエーターに志願したのは三食と寝床、それに浸食抑制剤が支給される事や実の両親が分かるかも知れないという希望もあったからこそだが、他にもう一つ誰にも、綾耶にも話していない理由がある。

 

『妾は……お主のようになりたかったのだ……自分の力を誰かの為に使って、皆に必要とされたかった』

 

 今の自分は、蓮太郎のイニシエーターである事を誇りに思っている。学校の誰にも知られてはいけないが、自分と蓮太郎でこのエリアを、皆を守っている。それは間違いなく、誇りであった筈なのに。

 

 分からない、分からない、分からない。いくら考えても。

 

 戦って、守って、戦って、守って、得られるのは憎しみと恐れだけなのか?

 

 戦って、守って、戦って、戦って、友達も作らずに、一人で居るしかないのか?

 

 戦って、戦って、戦って、戦って、行き着く先はガストレアなのか?

 

 もう一度、空を見上げる。

 

『綾耶……もう一度だけで良い……お主の声が聞きたい……!! 何か……何でも良い、信じられるものが欲しい……!!』

 

 頬が濡れる。雨が降ってきたのかと思ったが、違っていた。

 

 滲む視界を拭うと、見慣れた扉があった。自然と足が向いたのかも知れない。延珠は、昔綾耶と一緒に過ごした教会の前に立っていた。

 

 あの日、この第39区に流れ着いたその日に降り出した雨から逃れようとした時と同じように、延珠はその扉を開けた。

 

「どうして……ここに? ……延珠ちゃん……」

 

 そこにはあの日と同じように、最高の友が居た。

 


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