「道(そこ)を……退(ど)け!! ……とは、言わないわ。造作も無く……殺して通るから」
雷を纏い、風のように現れたソニア・ライアン。ガストレアの大群を前に僅かな怯えすら見せないその背中を見て、翠はこれ以上ないほどの頼もしさと安心感を覚えた。まるでパートナーである薙沢彰麿と共に在る時のような。彼女自身はソニアが戦っている所など見た事は無く、伝説のイニシエーターとしての勇名を耳にした事があるだけだ。
だが、こうして眼前に立っていると理屈ではない所で解る。
万に一つも、この人が負けるなど有り得ないと。しかし唯一つ、懸念すべき事があるとすれば……
「あ、あのソニアさん……!!」
「ん?」
「お体は……もう、良いのですか?」
ソニアはこの戦いの序盤で、持ち前のマグネティックパワーで倒壊するモノリスを半日に渡って支え続け、力を使い果たして後方で療養中との事であった。今現在、彼女はどれほど回復できているのか……もしかしたら、無理をして出て来たのではないか? それが不安材料だ。
優しい猫のイニシエーターへ、デンキウナギのイニシエーターは苦笑を返した。
「まぁ……まだ完全ではないわね」
力の入り具合を確かめるように、ソニアはぐっぱぐっぱと拳を握っては開いてを繰り返す。
「全開時の七割……って所かしら」
ばちばちっ!!
スタンガンのように、指と指の間に火花が散る。
「でもまぁ……この程度のザコ相手ならこれで十分よ」
そう、ソニアが言った瞬間に侮辱の言葉を受けて怒った訳でもあるまいが、数体のガストレアが飛び掛かってくる。
だがソニアは少しも慌てず、翠の腕に抱かれたイニシエーターへとさっと手をかざす。すると、少女の懐に仕舞われていた拳銃が空中を滑って彼女の手に納まった。当然ながらこの拳銃は金属製。ソニアが磁力で引き寄せたのだ。
そのまま、ソニアは片手で向かってくるガストレアへ拳銃を照準する。だが、それを見ていた翠は「いけない……!!」と、思わず声を上げた。ステージⅠであろうとガストレアに対して、たった一挺の拳銃だけではバラニウム弾を使っていようと明らかに火力不足。精々、一体を足止めするのが関の山だろう。その間に残りの数体がソニアに襲い掛かる。元々、イニシエーターとてメイン武装は今は喪失してしまったがアサルトライフルであり、拳銃はあくまでサブウェポンとして携帯していたに過ぎない。
本来のソニアであれば、拳銃に頼る必要など無いだろう。やはり、彼女はまだ完調ではないのだ。援護すべく駆け寄ろうとする翠。だが次の瞬間、
ぎぃぃぃん!!
火薬の破裂音とはまるで違う、擦過音にも似た異様な銃声と共に銃口から走った一条の光が、ガストレアに着弾。たった一発の弾丸を受けただけで、巨体が水平に50メートルも飛んで木々を薙ぎ倒しながらやっと止まった。突然の甲高い音を受けて思わず猫耳を押さえていた翠は、ぱちくりと目を丸くする。
とても、拳銃の弾丸では有り得ないエネルギー。その恐るべき威力に、翠もイニシエーターの少女も、ガストレアですらもが驚愕して数秒ばかり動きを止めてしまった。
「超電磁砲(レールガン)……天の梯子のミニチュア版と言えばいいかしら? 私の電磁誘導(ローレンツ力)で弾丸を超加速して発射する……その威力はご覧の通り……」
続け様にソニアは正確な狙いで引き金を引き、その都度にガストレアの巨体が数十メートルもぶっ飛ばされる。弾数さえ十分ならこれだけでも敵群を殲滅することが可能であろう恐るべき破壊力。ソニアの圧倒的な攻勢は、しかし長くは続かなかった。
4発目を撃った所で、拳銃がバラバラに分解してしまったのである。これは当然と言えば当然の結果だった。音速の何十倍もの速度で放たれる弾丸の威力に耐えられる強度など完全に設計の想定外。只のハンドガンがそんなに頑丈な訳がないのだ。
「ふん」
と言っても、これもソニアにとっては予測できた結果であったのだろう。大して落胆した様子も無く、彼女はグリップだけになってしまったピストルをぽいと捨ててしまう。
そして今度は、ガストレア達に掌を向けて「待て」と制止するようなポーズを取る。無論、そんな事でガストレアが止まる訳もない。武器を失ったソニアを今度こそ倒すべく突進してくる。
かざしたソニアの掌中に、テニスボールくらいの光球が現れる。
瞬間、その光球を起点として真っ直ぐ光線が走ってガストレアの巨体を、焼け火箸を当てられたティッシュペーパーのように貫いてしまう。
二発、三発。
次々発射される光線はその度にガストレアを撃ち抜いて、大きさによってはそのまま跡形も無く蒸発させてしまう。
「い……今のは……」
「粒機波形高速砲(メルトダウナー)……電子を粒子と波形のどちらでもない曖昧な状態で…………あー……要するにビームね。メガ粒子砲よ」
途中から説明するのも面倒になったようで、ソニアは投げやりな口調になった。そのままガストレア達を見渡せば、レールガンとビームの合わせ技を受けて流石に警戒心を強くしたらしい。先程までの一気呵成の突撃攻勢から一転、ソニア達から一定の距離を保ちつつじりじり包囲するように動きが変わった。恐らくは援軍の到着を待っているのだろう。
数が増えた所で負ける気は無いが……
「面倒ね」
ソニアはそう一言呟き、どんと大地を踏み締める。
すると、いきなり局地地震が起きた。
翠は、反射的に姿勢を低くするとイニシエーターを庇うように覆い被さる。ソニアはイオノクラフトの原理で空中に浮いているので、揺れの影響を受けていない。
そしてソニアの立っていた所を中心として蜘蛛の巣のように大地が引き裂かれ、ガストレアの群れが割れ目に呑み込まれる。翠とイニシエーターの二人は、無事だった。幸運にも地割れは彼女達を避けるように走っていたからだ。
いや……それは本当に偶然だったのだろうか。翠は、そんな風に思ってしまう。そして、その考えを裏付ける出来事が起きた。
ぱちん。
ソニアが指を一つ鳴らす。すると開いていた地割れが不自然なほどの早さで閉じる。同時に、揺れも治まった。ほんの数秒前まで3人を包囲していたガストレア達の姿は、もう何処にも無かった。全て地割れに落ちたのだ。割れ目があった箇所は、今は線状に少しだけ土が盛り上がっている。あまりに勢い良く地面が閉じた為だ。それは、明らかにさっきまでガストレア達が立っていた箇所に合わせて走っていた。
最早疑う余地は無い。今の地震も地割れも、それらが急激に閉じた事も全てソニアによって引き起こされたものだ。
「……どうやって?」
「これが……私の二つ名である『星を統べる雷帝』の由来。私達が住んでいるこの地球は、それ自体が一個の巨大な磁石だから……磁界を操る私は自分の磁力を地磁気とシンクロさせて、地球のどこにでも地殻変動を起こす事が出来るの」
つまりソニアはこの一帯恐らくは数十メートル範囲のピンポイントで地震を引き起こすよう、地球を操った。地球にガストレアを攻撃させたのだ。
理論上、イニシエーターの能力に限界は無いとされている。だが、翠にとってそれは力やスピードが際限無く強く速くなるというイメージしかなかった。スピード特化型イニシエーターである彼女だが、上には上が居るという事は知っている。身近な所では、延珠が自分を上回るスピードを持っている。恐らく序列50位以上ともなれば、視界の全てが間合いと言っても過言ではない瞬間移動と錯覚するような超速を持った者が居るのだろう。
だがソニアは根本的にスケールが違う。たった一人の人間が自然現象を操るなど……この目で見るまでは想像する事すら出来なかった。
数十体のガストレアを掃討するのに、要した時間は一分に満たない。これが元序列11位の実力かと翠は驚愕を通り越して最早笑うしかないという様子だったが……その時、ぴくっと猫耳が動く。猫の五感の中で、最も鋭いのが聴覚である。当然、その因子を持つ彼女も音には敏感だった。
「ソニアさん、まだ終わってません」
「……そうね」
驚いた様子も無く、ソニアは振り返る。すると地面が爆ぜて、一匹のガストレアが姿を現した。大きい、恐らくはステージⅣ。10本もある手足の中で、一番前の二本一対が異様に肥大化している。昆虫を思わせる外見から想像して恐らくはオケラの因子でも入っているのだろう。それで地中を掘り進み、地表へと脱出してきたのだ。
ソニアはさっと手をかざすとビームを乱射する。熱線はガストレアの体躯に、コンパスで描いたような綺麗な風穴をいくつも空けて貫通していく。しかも最初の二発は的確に頭脳と心臓を貫いていて、確実に致命傷だ。
しかし、そのガストレアは倒れなかった。バラニウムの攻撃でなかったとは言え、損傷箇所はすぐに肉が盛り上がって塞いでしまった。
「む」
少しだけ瞠目し、驚きを見せるソニア。肉体を再生しながらガストレアが豪腕を振るってくるが、空中を滑るように移動して後退、それをかわす。
「再生能力が自慢か……では、これはどう?」
ソニアは戦法を変えた。ポケットから、3つのバラニウム球を取り出す。一つ一つはビー玉ぐらいの大きさで、完璧な球形を成している。
黒球はソニアの手からふわりと浮き上がって、それらは一つ一つが個別の意思を持つかのように複雑な軌道を描いて、ガストレアに向かっていく。これも当然、ソニアが磁力によって精密オペレートを行っている為だ。
バラニウム球は銃弾より速く動いてガストレアに着弾、しかも当たった後も運動エネルギーを失わず、貫通した後は空中で反転して再び着弾。これが何度も繰り返され、それなりの強度を持つであろう外殻をズタズタに裂いて、手足を簡単に吹き飛ばしてしまう。
しかし、これほどのダメージをしかもバラニウムによって受けてもこのガストレアは怯まなかった。傷は早送り映像のようにすぐ治癒し、失った手足も多少形が歪ではあるが新しい物が切断面から生えてきて補い、勢いを失わずに向かってくる。
「ソニアさん……こいつは……」
警戒心を強くした翠の言葉に、頷いて返すソニア。どうやら一匹だけ、別格が混ざっていたようだ。
「再生レベルはⅢ以上……恐らくⅣはあると見て良いわね」
ガストレアや呪われた子供たちが持つ再生能力はその強さによってⅠからⅤまでの位階に分類される。
まず、バラニウムの武器であれば殺傷可能なのがレベルⅠ、殆どのガストレアやイニシエーターがここに属する。次にバラニウムの再生阻害を押し返すものの、首を切ったり全身を焼却するなどすれば殺害可能なレベルⅡ、その上のレベルⅢともなるとトカゲの尻尾のように千切れた手足がくっついたり生えてきたりして、更に上級のレベルⅣは細胞の欠片一つ残さず破壊せねば完全には殺せない。最上級のレベルⅤは分子レベルで再生し、現代科学では完全殺害は不可能とされている。
このガストレアは、バラニウムを用いた攻撃で欠損した手足が再生している事から間違いなくレベルⅢはある。再生速度もかなり早いので、レベルⅣはあると見積もっておくべきだろう。
「これはどうかしら?」
今度はソニアの指先から電火が走り、瞬く間に巨大な光の柱となってガストレアの全身を包み込む。
電撃はほんの一瞬だったが、しかし一瞬で十分だった。ガストレアの全身は黒コゲに炭化している。
「やったか!! ……って、ダメよね」
と、ソニア。予想通り、炭化していた体表面はカサブタの如く剥がれ落ちて、内側から脱皮したてのように瑞々しい肉体が現れた。確定。やはり、こいつはレベルⅣクラスの再生能力を持っている。
「ソニアさん、ここは一旦退いて他の人達と合流しましょう」
すぐに走り出せるようイニシエーターを背中に担いで、翠が言った。これは正論である。倒しきる手段が無い以上、戦い続けるのは徒に消耗するだけの愚策。戦力を整えて、閉じ込めるなり動きを止めるなり、作戦を切り替えるべきだ。
「必要無いわ」
が、ソニアはその意見を一蹴してしまうと、黒い金属球を手元へ呼び戻した。彼女の掌の上で、固い筈の金属球がゴムや粘土のようにぐにゃりと形を変えて、3つの球は1つに結合する。合体したバラニウム球は、ソニアとガストレアのほぼ中間の位置、高さ数メートルほどの空間に静止する。
「……?」
何をするつもりなのか、狙いが読めずに翠の動きが止まる。そこに、ソニアから声が掛かった。
「翠ちゃん、急いで何かに掴まって体を固定しなさい」
「え?」
指示の意図する所を掴みかねて、首を傾げる翠。この反応の遅さに、ソニアは苛立った様だった。
「早く!! 樹の幹でも何でも良いから、なるべく頑丈そうなどっしりした物を掴んで!!」
「は、はい!!」
強い語気で指示されて、翠は慌てて手近な中で一番太い樹の幹を掴み、伸ばした爪を食い込ませてしっかりと体を固定する。彼女に背負われたイニシエーターも、肩を掴む手に力を入れた。
そうして二人がひとまず指示を守った事を確認するとソニアは「うん」と頷き、そして彼女の全身がより強い稲光に包まれる。これまで以上の電力を体内で創り出しているのだ。
同時に、滞空するバラニウム球が猛烈な速度でスピンを始めた。磁力によって操られる金属球はまるで天体のような自転運動を行い、やがてぽつんとした小さな、黒い光とでも形容すべき点に変わる。
「これは……」
翠は、空気の流れが変わった事を知覚する。視線を落としてみると、砂や小石が舞い上がっている。風に舞う木の葉も、明らかに自然ではない動きを見せている。
周囲一帯の全ての物が、ある一点へと集まっている。ソニアが生み出した黒い点へと吸い寄せられているのだ。それに触れた物はそのままひしゃげるように形を変えて、中へと消えていく。
見れば、黒い玉は徐々に大きくなり始めている。まるで吸い込んだ物をそのまま自らの養分として取り込んでいるかのように。
「? 辺りが暗く……?」
最初は気のせいかと思ったが、しかし猫因子がもたらす特性から自分の瞳孔が僅かな光を取り込むべく拡大しているのを自覚して、翠は思い直す。錯覚などではない。実際に、周囲が暗くなってきている。信じられない事だが、光すらもがソニアが創り出した漆黒の球体へと呑み込まれているのだ。
ソニアが操るバラニウム球は彼女が磁力を用いて超圧力を掛ける事によって精製されており、質量は一立方ナノメートルでおよそ200キログラムという自然界では絶対に有り得ない超密度を持つ。この球体にスピンを掛けると、自転する星がそうであるようにその中心へ向かって強力な引力が発生する。そしてそれはソニアが操る電磁気の引力とも合わさって、光をも捕らえて逃がさない重力の塊と化す。
黒点が発する引力はどんどん強くなり、細い木々などは根こそぎ引き抜かれて呑み込まれ、消えていく。空気すらもがどんどん引き込まれて、まるで風呂の栓を抜いた時の水の流れのように、一点へ向かって強大な気流が発生する。黒点はみるみる肥大化し、やがて巨大で空虚な穴へと姿を変える。
天文学用語では、この黒い穴をこう呼ぶ。
「暗黒星(ブラックホール)!!!!」
「きゃああっ!!」
思わず、翠は悲鳴を上げた。彼女の背中に掴まっているイニシエーターも同じだった。翠が掴まっている大木はしっかりと地面に根を張っているので、何とか吸い寄せられずには済んでいた。
この術を発動させているソニアは、術者である故か巨大な引力に晒されながらも凪の中に立つように平然としている。
ガストレアは、何とか地面に爪を立てて吸い込まれまいと踏ん張っていたが、地面そのものが崩れ、黒い星へ呑まれる。支えを失って風船のように空中に舞い上がったステージⅣの巨体は、あっけないほど簡単に無へと繋がる孔へと吸い込まれて、そこには何も無くなった。
敵は排除した。ソニアはそれを確認すると、電磁力を緩める。まず彼女が纏う電光が弱くなり、そしてブラックホールは徐々に小さくなっていき、異常な吸引現象が止まる。やがて闇の星は、一個のバラニウム球へと戻った。それらは再び3つに分裂すると、惑星のようにソニアの周囲を周回し始める。周囲の光量も元に戻った。風は止み、辛うじて呑み込まれずに済んでいた石や砂は、地球の重力に従って地に落ちた。
「ブラックホールに落ちて消滅してしまえば、再生も何もないでしょ。本来はいずれ戦うであろうステージⅤ・ゾディアックの中でも、レベルⅤの再生能力を持った奴を倒す為に開発した技だけど……良い予行演習になったわ」
「ふうっ」と息を整えて少しだけ額に滲んでいた汗を拭いながら言うソニアを見て、翠は戦慄した。これほどの、全ての常識を超越した大技を繰り出しておきながら、ソニアの消耗は精々が朝の軽いジョギングを済ませた程度でしかない。しかも彼女の自己申告を信じるなら、これで本来の七割程度の力しか出せていないという。
理屈も常識も、否、全てを超越している。
これが、元11位。伝説のイニシエーターの最強の力。
これが、ソニア・ライアン。
恐れも憧憬も敬意すら通り越して、感動すら覚えるほどの強さ。
ソニアの圧倒的実力を目の当たりにして、翠は僅かな時間だけ状況を忘れていたが、すぐにはっと我に返る。
「ソニアさん、新手のガストレアが来ない内に、彰麿さん達と合流しましょう!!」
「……その必要は無いみたいよ?」
「え?」
「翠、無事か!!」
くいっとソニアが顎をしゃくった方向を見ると、木々を掻き分けるようにして彰麿がやって来ていた。すぐ後ろには玉樹や木更の姿も見える。
「彰麿さん!! すいません……勝手に動いてしまって……」
翠は最初は弾んだ声を上げたが、すぐに申し訳なさそうなトーンになってしまう。だが、彰麿は彼女を責めたりはしなかった。
「いや、無事ならいい」
翠に背負われたイニシエーターは、今は緊張の糸が切れたのか意識を失ってしまっていた。そんな少女を見て彰麿は全て悟っていたのだ。
そして、木々が薙ぎ倒されたり中程からへし折られたり、あるいは根こそぎ引っこ抜かれたりしていてまるで竜巻でも起きたのかと錯覚するようなこの区画を見渡して、もう一つの事を理解する。これほど広範囲且つ大規模な破壊は、到底翠一人で出来る物ではない。出来る者が居るとすれば、一人。その一人の元へと歩み寄ると、彰麿はばっと頭を下げた。
「翠を助けてくれた事……感謝の言葉もない……!!」
「礼には及ばないわ。仲間を助けるのは、当たり前でしょう?」
笑って返すソニア。そこに、
「ソニアちゃん!? あなた……!!」
木更が駆け寄ってきた。彼女の声には、どこか咎めるような響きがある。
「戦ったのね……最後の力で」
「ええ……」
ソニアの侵食率が限界近い事について、木更は綾耶から聞いていた。
開戦前に診断を行った菫の見立てでは、ソニアが戦えるのは3回が限度との事だった。
3回。
一度は、教会が襲われた時に。二度目は、崩壊するモノリスを支える時。そして最後の一度は、この時に。
これで、アルデバランと戦う時に彼女の力を当てにする事は出来なくなった。切り札を一枚失ってしまった訳だ。
だが……もし、ソニアが駆け付けてくれなかったら翠やもう一人のイニシエーターは助からなかったかも知れないのだ。それを思うと、彼女を責める言葉を木更は持たなかった。
そもそも、侵食率が45パーセントをオーバーしているイニシエーターを戦線に駆り出す方が間違っているのだ。
「ありがとう……後は、私達に任せて。私達が、あなたの分も戦うから」
木更はそう言って、ソニアの頭をそっと撫でた。
「よく……頑張ったわね」
「ええ……ところで木更さん、一つ聞いていい?」
「? 何かしら?」
「ここへ来たのは、あなた達だけ?」
ソニアは顔を動かして、集まった面々を見やる。木更、夏世、玉樹、弓月、彰麿、翠、それに翠の背中に背負われたイニシエーターが一人。全部で7名。
「え、ええ……ここは私達の受け持ち区画だから。私達だけよ」
「辺りには誰も居ないわね?」
「……居ない……筈だけど?」
重ねて尋ねるソニアに、木更はどことなく違和感を感じ始めた。何故そのような事を、わざわざ確認する必要があるのだ?
そう、思った瞬間。
ぬっとソニアの手が伸びて、木更の頭を鷲掴みにしていた。予想もしなかった事態に木更は硬直し、他の面々も「え?」「お、おい何を?」と、戸惑いがちで反応が鈍い。
「そう、それは良かった」
ばちっ!!
電気が走る。
木更は最後に、犬歯を見せて唇を三日月型に歪めて笑うソニアを見た気がした。
「走れ!! 走れ!! 何も考えずに走れ!!」
未踏査領域を、プレヤデス討伐チームは全力疾走していた。蓮太郎は走りながら、あらん限りの声を張り上げる。
「うおっ!?」
ぬかるみに足を取られて転倒しそうになるが、首根っこを引っ掴まれて浮遊感が襲う。
「え、延珠!?」
「蓮太郎、しっかり妾に掴まっているのだ!!」
パートナーが、抱えて走ってくれていた。
既にアルデバランの命令によってガストレア達は東京エリアへ向けて動いているが、それでもここは2000体以上の敵の坩堝のど真ん中。前後左右上下、どこからどんなガストレアが飛び出してくるか皆目予想が付かない。逃げながらでも、一瞬たりとて油断は許されない。
「はあっ!!」
延珠は横合いから飛び出てきたガストレアの頭をサッカーボールのように蹴飛ばした。そのすぐ後ろから、二体のガストレアが出現。
「斬っ!!」
「しゅっ!!」
二つの大きな影は、四つに増えた。小比奈と小町、二人の斬撃が見事に正中から巨体を断ち割っていた。
「お前等……!!」
だが、安心している暇などない。今度は後方から、十数体のオオカミのガストレアが追い縋ってくる。
しかし、後顧の憂いは無い。
「マキシマム・ペイン!!」
「でえいっ!!」
影胤の展開した斥力フィールドと、綾耶が壁状に発生させた空気圧が押し出されて、追っ手をまとめて吹き飛ばす。
世界を滅ぼす者と世界を衛る者の共闘。七星の遺産争奪戦の際には想像も付かなかった光景が、今ここにあった。蓮太郎は、すぐ隣を悠然と歩いているルインを見てふと思う。こんなガストレアが蠢く地獄の中に居ると言うのに、不思議な頼もしさを感じているのは自分だけなのだろうかと。
綾耶は言っていた。ルイン達がその力を貸してくれたのなら、きっと想像を超えた世界が実現できると。
蓮太郎も、どこかそんな気がしてきた。まだ完全に信用した訳ではないが……それでも、彼女に希望を持っても良いかも知れないと、心のどこかで思ってもいた。
その為にも、何としてもこの戦いを生き延びねばだが……
「……埒が明かないわね。このままでは四方八方から狙い撃ちにされて、安全圏に離脱する前に力尽きるわよ」
ガスマスクを装着した3人のイニシエーターを供回りのように引き連れて、優雅さすら感じさせる動きで歩みつつルインが言った。彼女はきょろきょろと辺りを見渡して「ああ」と声を上げる。
「おあつらえ向きのがあったわよ」
指差す先には、ボロボロになったジープがあった。恐らくは大戦時に逃げる為に使われて、故障かガス欠かでここに遺棄された物だろうが……
「……動くとでも思ってんのか?」
ルインの正気を疑うような表情と声で、蓮太郎が尋ねる。10年前に乗り捨てられて一度も動いていない車なのだ。ガソリンが残っているかすら疑わしいし、残っていたとしてエンジンが正常に作動するとはとても思えない。だが、ルイン・フェクダはその程度の質問は想定内だった。
「エンジンは外付けのを使うわ。メダカハネカクシ方式で行きましょう」
そう言ってロックされたドアを紙で出来ているかのようにもいでしまうと、後部座席に乗り込んだ。
「メダカハネカクシ……って」
ファーブル昆虫記が好きだった蓮太郎は、動植物全般に詳しい。たった今ルインが挙げたその生物に関しても、通り一遍の知識は持っている。
ハネカクシ科に属するその昆虫は尾端から界面活性剤を分泌し、体の前後の表面張力差を利用して滑るように水面を移動する。そして危険が迫った際にはガスを勢い良く発射してジェット噴射の要領で水面を滑走して逃げる。この時、メダカハネカクシは僅か1秒で自長の150倍もの距離を移動すると言われ、そのスピードは人間サイズに直せば実に時速945kmに相当する。
「ガスを発射して……成る程!!」
ぱちんと、指を鳴らす。ルインが言わんとする事が、蓮太郎にも伝わった。
「おいみんな!! このジープで脱出するぞ!! 急いで乗り込め!!」
「れ、蓮太郎……!!」
延珠は、パートナーが至った結論にはまだ辿り着けていないようだ。蓮太郎を信じてはいるが、半信半疑という様子である。
「大丈夫だ、延珠。全員乗れ!!」
「ふむ……では、私が運転手を務めようか」
言いながら影胤が運転席に乗り込むとハンドルを掴む。差しっぱなしのキーを回してみたが、やはりエンジンが掛かる気配は無い。
そうこうしている間にも小比奈、小町、ティコが車内へ飛び込み、3人の群星は屋根に乗った。最後に綾耶だが……彼女こそが、ルインの言う“外付けのエンジン”だ。
「綾耶、お前はコンテナに入ってくれ。お前のジェット噴射でこの車を動かして、一気にここを突破するんだ!!」
「!! 分かりました!!」
綾耶はバックドアを開けてコンテナに座り込むと、後方に向けて空気を充填した両腕をかざす。
「全員、ショックに備えろ!! 物凄いGが掛かるぞ!!」
蓮太郎が叫んで、影胤はぐっとハンドルを掴み、延珠・ティコ・小比奈・小町の4人はしっかり手足を踏ん張って体を固定する。屋根に掴まっている群星3人は、せめてもと手に力を入れる。ルインは、いつも通り泰然とした様子だ。
「綾耶ちゃん、カウントダウンを始めるわよ。10……9……」
だが、そうしている間に進行方向にガストレアが集まり始めた。このままでは進路を塞がれてしまう。
「ああ面倒ね、0よ!!」
「了解!!」
「「「えっ!?」」」
いきなりカウントダウンが終了し、乗客達が一斉に戸惑いの声を上げ……
そして綾耶が、両腕のジェットを噴かす。
次の瞬間、重いジープが弾丸のように飛び出した。
「う、お、お!!」
予想通り凄まじいGが掛かり、シートに体が押し付けられる。延珠・小比奈・ティコ・小町はもみくちゃになって、蓮太郎は彼女達に押し潰されそうになった。屋根の上の群星達は、振り落とされないようにするのがやっとだった。
そんな状態で不整地を走るので、ジープ内の揺れは凄まじい。影胤は必死でハンドルを左右に動かし、辛うじて車体をコントロールしていた。
ルインは、落ち着いたものだ。彼女の進化能力はこの状況にも既に肉体を適応させているのだ。
ジープは未踏査領域を、何度も飛び跳ねながら進んでいく。このスピードならば民警達の防衛ラインへ到達するまで5分とは掛からない。だが、そう容易くは辿り着けそうもなかった。前方に、多数のガストレアを確認。このままではモロに突っ込んでしまう。
「小町、小比奈ちゃん!!」
「延珠ちゃん、お願い!!」
「分かったよ、三番!!」「了解しました、マスター・フェクダ」
「任せよ、綾耶!!」
ルインと綾耶の指示とほぼ同時に、3人のイニシエーターは器用に窓から体を出して車体を伝うようにして移動すると、ボンネットの上に立つ。そしてそこから、
「ハアアアアアッ!!」
「斬っ!!」
「しゅっ!!」
延珠の蹴りが、小比奈の双刃が、小町の手刀が。当たるを幸いの勢いで、群がるガストレアを蹴飛ばし、両断し、薙ぎ払い、進路をこじ開けていく。視界の全てを埋め尽くすような敵の海原を、オンボロジープは無人の野を行くが如くに疾走していく。屋根の上の群星と、箱乗り状態のティコも手持ちのライフルで援護射撃を行っていく。
後少し、後少しで民警軍団の陣地へ滑り込める。
だが民警軍団の陣地に近いという事はガストレア達にとっての前線であるという事。そして今は交戦中。つまり両軍の主力がぶつかり合っているここは、最も多くのガストレアが集まっているポイントである。
両サイドから、更に多数のガストレアが接近。流石にこの数は延珠達でも捌き切れない。このままでは、逃げ切る前にすり潰されてしまう。
その時、綾耶が一本の小瓶を放り投げた。
ガラス製の瓶は地面にぶつかると当然割れて、中に入っていた液体がびちゃっと情けない音を立てて飛び散る。
すると、ガストレア達の動きに変化があった。それまではこのジープへと群がるように集まってきていたのが、今は瓶が割れた場所へと脇目も振らずに向かっている。
「綾耶、あれは……」
「集合フェロモンね」
ルインの言葉に、頷く綾耶。
「この任務に就く前に、菫先生が持たせてくれたんです。もしガストレアに囲まれたら、これを使えって。これを割れば、ガストレアは一時的にそこへと集まっていく筈だから、その隙に逃げろって」
そう言えばと、蓮太郎ははっとする。菫がこの任務の前のブリーフィングでフェロモンの説明の為に、あの小瓶を使っていたのを彼は思い出した。
「でかした綾耶!! お手柄だな」
実際、このタイミングで使ったのは見事の一言である。あるいはここへ来るまで切り札を温存していた事こそ賞賛に値するのだろうか。いずれにせよ、これでガストレアの追跡は完全に振り切れた。ジープは勢いそのまま民警軍団の陣地へと飛び込んで……そして目の前にあった岩がジャンプ台のようになって空中に飛び出した。
「うおおっ!?」
口を開けると舌を噛みかねないと分かっていても、蓮太郎は悲鳴を上げずにはいられなかった。車外に居た群星3人と、小比奈と小町は素早く跳躍して離脱する。延珠は小柄な体を活かして車内に戻ると、パートナーの体を掴んだ。
そしてジャンプの頂点に達し、後は落ちるだけとなる。フロントガラスから見える景色が、地面で一杯になる。襲って来るであろうショックを覚悟して、蓮太郎は歯を食い縛った。数秒後、覚悟していた以上の衝撃がやって来て彼は天井に頭をぶつけた。車はそのまま縦回転しながら3回跳ねて、4回目の接地でタイヤから落ちて、やっと止まった。完全に静止した所で車体がガクンと、力尽きたように傾いた。
「……到着だよ。忘れ物の無いようにね、里見くん」
仮面の運転手が、いつも通りどこか芝居の台詞を思わせるような口調で言った。
「ああ……その忘れ物が命じゃなくて、助かったぜ」
不幸面をげっそりとやつれさせて、蓮太郎は這い出すようにジープから出た。本当に、一歩間違えなくても命を失う所だった。寧ろ、今こうして生きているのが不思議でならないぐらいだ。ぶつけた頭を押さえながら、ここは民警軍団の陣地の中でどの辺りかと周囲を見渡して……
「里見くん?」「里見さん?」「ボーイ?」「里見蓮太郎?」「里見?」「蓮太郎さん?」
木更、夏世、玉樹、弓月、彰麿、翠。
アジュバントの面々がぽかんとした顔で、彼を見詰めていた。