ブラック・ブレット 星の後継者(完結)   作:ファルメール

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第34話 人生を変えてくれた人

 

「ふんふふんふんふーんふふん、ふふふふふふん、ふふふふーふん♪」

 

 モノリス外部。未踏査領域と呼ばれ、環境の激変とガストレア戦争の敗戦より経過した10年という時の中で、建造物を呑み込むように木々が覆い茂ってジャングルの如き様相を呈するようになった土地。無数のガストレアが闊歩し、かつては人類の生活圏であったここへ立ち入る事は自殺と同義であるというのが大多数の人間が共通して持つ認識である。

 

 そんな魔境に、気安い鼻歌が響いていく。

 

 歌の主の歩みは軽く、まるで散歩かピクニックに来ているかのようだ。

 

 対照的に、彼女の背後を歩く3名は死角を無くすように背中合わせの隊形になって用心深くじりじりと進んでいる。

 

「3人とも、もっと早く進まないと日が暮れちゃうわよ?」

 

 にっかり笑いながら他の3人を振り返る橙色の髪の少女は、序列444位のイニシエーター。モデル・オルカのティコ・シンプソンだ。彼女は「光の槍」を発射するガストレア、通称「プレヤデス」討伐チームの一員として民警軍団団長の枢に選抜され、高い索敵能力からチームの先導役を任されていた。

 

 ティコの後に続く3名、部隊の指揮官役として序列300位のプロモーター・里見蓮太郎とそのイニシエーターの藍原延珠。そして緊急離脱要員として飛行能力を持つモデル・エレファントの将城綾耶。どの一人も東京エリアではトップクラスに数えられる実力者であるが、しかしこの危険地帯を移動するとあっては周囲に気を配りながらとなるので足取りは重い。

 

 尤も、これはいくらエコーロケーションが使えるとは言ってもティコの歩みがあまりに不用心過ぎるとも言える。しかしそれは決して過信や注意力の欠如という言葉で片付ける事は出来ない。事実、このガストレアの勢力圏に足を踏み入れて2時間強が経過、そろそろ日が暮れ始めて野営を行うべき時間となりつつあるが、一行は一度としてガストレアには遭遇していない。ティコは一定のペースで真っ直ぐ進むのではなく、時折進行方向を変えたり待機したりして、この未踏査領域を移動していく。ガストレアとの接触を避けたりやり過ごしたりする為だ。

 

「凄い能力だな」

 

 感心した蓮太郎が頷く。この一帯をどれだけの数のガストレアがうろついているのか、想像しただけでぞっとする。100体か200体か。こちらは少数、それらといちいち戦っていては命がいくつあっても足りはしない。多少遠回りになったり道が険しくても、無用の戦闘を避けて体力・精神力を温存できるのはありがたい。

 

 枢の人選は正しかった訳だ。

 

 一応、綾耶も有効範囲は遥かに劣るとは言え空気の揺れを感じる能力で周辺の状況を探っているが、ガストレアの接近は感じ取れない。ティコのルート選択が的確なのだろう。

 

 一方で、ティコとしては陽気に進んでいるようだが頭の中では色々と思考が回っていた。

 

『さて……どうやってマスター・フェクダや影胤達と合流しようかな?』

 

 ティコのプロモーターであるフィーア・クワトロの正体は“七星の四”ルイン・メグレズ。そして民警軍団団長である一色枢の正体は“七星の一”ルイン・ドゥベ。この二人のルインからティコに出された指示はこうだ。

 

 

 

『ティコ、既に未踏査領域ではフェクダ達がプレヤデス討伐チームとして待機している筈よ。あなたはこちら側から出すプレヤデス討伐チームを上手く誘導して、合流するように仕向けなさい』

 

 

 

 これはただ単にエコーロケーションでフェクダのチーム位置を特定し、そこへ自分達のチームを連れて行けば良いというものではない。

 

 何しろティコが討伐隊に任命されたのはその固有能力でガストレアの位置を探って接触を避けられるからなので、ただフェクダ達の所に蓮太郎達を連れて行ったのでは「どうしてこいつらの接近を察知できなかったんだ?」と疑いを持たれてしまう。そうすればそこから、枢(ルイン・ドゥベ)やフィーア(ルイン・メグレズ)がフェクダと繋がっている事がバレてしまうかも知れない。

 

 一工夫が、必要となってくる。ドゥベとメグレズからそう言われたのを思い出し、ティコは提示された幾つかのプランを脳内で吟味する。

 

『となると……これかな』

 

 オーソドックスであるが、痕跡を敢えて残しつつ移動してガストレアに自分達を見付けてもらって戦闘に入る。そのガストレアは当然殲滅する。そうして戦っている隙にフェクダ達の侵入を許してしまったというのなら、言い訳は立つ。

 

 ティコは後ろを歩く蓮太郎達には見えないよう、隠し持っていたナイフで掌を傷付けると不自然でない程度の動作で樹木や葉に触れて、そこに血を付着させていく。これはマーキングだ。道しるべとして臭いを残しておいて、ガストレアを自分達へと誘導する。同時に、エコーロケーションの応用で超音波を放つ。この音は人間の可聴域を超えているから他の者には聞こえない。しかしティコがこの力を持つ事を知っているルイン達は、専用装置によって超音波を感知・受信できる。ティコは断続的に超音波を打ってモールス信号の要領で自分達の存在と、合流予定の地点を発信していた。

 

 数秒して、自分が放った音の反響とは違う超音波が聞こえてきた。フェクダ達からの「了解」の合図だ。

 

 ほぼ同時に、エコーロケーションで接近する敵群を感知する。良いタイミングだ。心中でガッツポーズを決めるティコ。

 

「みんな、走って!! ガストレアに見付かったわ!! 私達を追ってきてる!!」

 

「な、何だと!? お、おい!!」

 

 叫んで、返事も聞かずに駆け出す。蓮太郎達は止める間も無く彼女を追って走り出していた。計画通り。先頭を走るティコは、にやっと唇を歪めた。この状況では他の3人は彼女の言葉を信じるしかないというのも、作戦が上手く運んだ一因であった。

 

 数分ほど森を駆ける一行であるが、追従するガストレアとの距離は開くどころか縮まる一方だった。

 

「拙いですね……蓮太郎さん、ここは逃げるよりも迎撃した方が良いかも。このままじゃ追い付かれます」

 

 これは綾耶の発言である。既にガストレア達は、彼女の空気レーダーの索敵範囲内にまで接近してきていた。

 

「そう……だな」

 

 蓮太郎は少しだけ迷った後、決断を下した。自分一人なら逃げの一手であったろうが、ここには強力なイニシエーターが3名居る。速攻で迎撃し、他のガストレアが戦闘の気配を察知して集まってこない内にこの場を離れるというのも間違った判断ではあるまい。

 

「よし、やるぞ!!」

 

 逃げる足を止め、振り返る4人。臨戦態勢に入った蓮太郎は義手と義足の力を開放し、イニシエーター3名は瞳を紅く燃やす。

 

「数は11……いや、12体。形状から、犬や狼みたいな四足獣のガストレアと推定されます!!」

 

「私のエコーロケーションでも同じだよ。間違いないと思うわ。大きさから、恐らくはステージⅠ!!」

 

 綾耶とティコ、二人の感知系能力による分析を受け、蓮太郎と延珠が身構える。

 

 ややあって闇の中に光点が浮かび、こちらに近付いてくる。ガストレアの紅眼だ。

 

「じゃあ、僕が先行するから援護お願い!!」

 

「分かった。だが出過ぎるなよ」

 

「気を付けるのだぞ、綾耶」

 

 蓮太郎と延珠に頷き返すと、綾耶はガストレア群へ向けて突進した。少し距離が空いて彼女の姿が木々の隙間から見えるか見えないかギリギリの所で戦闘音と、イヌ科の獣特有の悲鳴が途切れ途切れに聞こえてくる。流石にステージⅠ相手では、敵が十体以上居るとは言え遅れを取る綾耶ではない。

 

 と、二体のオオカミ型ガストレアが綾耶を抜いて蓮太郎達に向かってくる。が、無駄な事。

 

「はあっ!!」

 

 先に向かってきた一体は、飛び出した延珠が蹴りでぶっ飛ばして大樹の幹へ叩き付けた所をティコが正確な射撃で脳と心臓を射貫いて絶命させた。急造チームながら見事な連携と言える。

 

「後は、こいつだけか……」

 

 新手の出現に警戒しつつ、残った一体へとXD拳銃を照準する蓮太郎。そのオオカミ型ガストレアは、仲間があっさりと倒された事で動揺したようだった。じりじりと後に退いていく。

 

 そのまま振り返って逃走しようとするが……そこには既に他のガストレアを殲滅し終えた綾耶が戻ってきていた。退路も封鎖されている。

 

 追い詰められ、横へと離脱するモデル・ウルフ。

 

「あっ……」

 

 逃がすかとばかり、蓮太郎は銃の引き金を引き絞ろうとして……

 

 狼のガストレアは、真っ二つに体を断ち割られていた。そして両断された体をまるで両側に開く襖のように見立てて、一人の少女が姿を現す。

 

 その少女は長い黒髪をポニーテールにしていて、道場着を着ている。その佇まいから凛とした印象を受け、刀は持っていないが蓮太郎は時代劇に登場する侍を連想した。両眼は紅く、この未踏査領域に居るのだから当然と言うべきかイニシエーターだと分かる。

 

「お前は……」

 

 少女は問いには答えず、右手を振って付着していたガストレアの血を振り払う。蓮太郎はその所作を観察していたが、彼女は武器を持っている様子はない。つまりこの子は無手で、ガストレアを真っ二つに斬ってしまったという事になる。蓮太郎も武術を学ぶ身として、空手の達人が手刀で木材を断ち割るのは見た事があるが……いくら呪われた子供たちが超人的な身体能力を持つとは言え、生身の手で“叩き潰す”なら兎も角として“斬る”などそんな芸当が可能なのだろうか。しかもガストレアを相手にして。

 

 次に「コイツは何者だ? 何故こんな所に?」とも思ったが、それよりもいくらイニシエーターとは言えこんな所を一人で歩いているのは危険だという思いが先に立った。

 

「あ、あのよ……」

 

 多少の警戒心は残しつつ声を掛けようとして、

 

「おやおや、こんな所で会うとは奇遇だね、我が友よ」

 

 悪夢の如く、脳裏に焼き付いて消えない声が耳から脳へ飛び込んでくる。思わず蓮太郎は背後へ飛び退った。

 

 少女のすぐ後ろ、最初に髑髏を連想される白い仮面が闇に浮かび上がって、やがてワインレッドの燕尾服を完璧に着こなした痩身が露わになる。

 

 かつて死闘を演じた新人類創造計画の生き残り兵士、IP序列元134位のプロモーター、魔人・蛭子影胤。

 

「あはっ、延珠に綾耶も……会いたかった、会いたかったよ!! 斬り合おう!! ね、ね!!」

 

 喜悦を隠そうともせず狂笑するは、モデル・マンティスのイニシエーター、蛭子小比奈。

 

「小比奈ちゃん、少し我慢しなさい。今は、彼等と争っている場合ではないわ」

 

「うー……」

 

 諫めるこの声がほんの数秒でも遅れていたら、小比奈は抜刀済みであった二刀小太刀を振り回し、蓮太郎一行へ斬り掛かっていただろう。蟷螂因子を持った少女は制止を受けて、表情や動作から不満を隠そうともしなかったがそれでも一応は指示に従い、双刃を納めた。

 

 声の主は、この暗い闇の世界に反逆するかのような色を纏った女。きめ細かい糸のような真白い髪が月光に映えて、きらきらと光っていた。

 

「……ルイン、さん……」

 

 畏敬の念すらあるような声で、綾耶は彼女の名前を絞り出した。黒いローブを羽織り、ガスマスクを装着した3人の少女(恐らくはイニシエーター)を儀仗兵の様に従えて、ルイン・フェクダが姿を現した。

 

 

 

 

 

 

 

 如何に索敵能力を持った者が二人居るとは言え、ガストレアが跋扈する森を夜に歩き回るのは危険すぎる。日暮れまでに比較的安全と思われる場所を確保し、野営して夜明けを待つというのは当然の判断である。しかしまさか、かつて命のやり取りを演じた連中と焚き火を囲む事になるとは夢にも思わなかった。キャンプファイヤーや暖炉の炎は打ち解けた雰囲気を演出するツールとして良く使われるが、この場の焚き火は少しもその役目を果たしているとは思えなかった。少なくともそうした雰囲気は今の所は絶無であった。

 

 蓮太郎は食事の用意や周囲の見張りを綾耶とティコに任せ、自分は延珠と共に影胤達の動きを牽制する役目に回っていた。拳銃の銃口は、ぴたりとルインの胸に合っている。だが玉座に着くようにキャンプチェアに腰掛けている白い女は、少しもそれを恐れているようには見えなかった。泰然とした態度の根拠は、やはりすぐ隣に控える影胤の存在だろう。彼の斥力フィールドを以てすれば、実銃であろうと豆鉄砲と変わらない事を知っているのだ。

 

「そろそろ銃を下ろしてほしいのだけど?」

 

 ルインはそう言うが、彼女のすぐ後ろに立つローブとガスマスクの3名は、しっかりアサルトライフルを構えて蓮太郎を狙っている。

 

「断る!!」

 

 この反応も当然であった。

 

 パートナーがそう言い放つのに合わせて、延珠はさりげなく半歩だけ動いた。ルインが何かするような素振りを見せれば、すぐに飛びかかれる位置へと。兎のイニシエーターは瞬きもせずに、ルインや影胤の指の動きにまで注意を払っていた。

 

「お前等……どうしてここに居るんだ?」

 

「あなた達がプレヤデスと呼ぶ……高圧水銀を発射するガストレアを、倒しに来たのよ」

 

 誠実な回答など期待していなかった蓮太郎だったが、真偽は兎も角はっきり答えられたのは少し驚いた。

 

「……信じろってのか? お前等、自分達が何をしたのか忘れた訳じゃねぇだろ?」

 

 プレヤデスを倒すという事は、東京エリアを救う為に民警軍団に協力するという事だ。そこにどのような目論見があるかは別として、結果的にはそうなる。だがかつて「七星の遺産」を使って大絶滅を引き起こそうとした彼女が今度は東京エリアを救おうなどと、どの面下げて言うのだろうか。

 

 しかしルインはその指摘を受けても、少しも悪びれた様子も見せなかった。

 

「里見蓮太郎くん、あなたは市場を見た事がないの?」

 

「市場?」

 

 何を言っているのかと、蓮太郎は思わず鸚鵡返ししてしまう。

 

「そうよ。例えば早朝には、市場には我先にと人が集まるでしょう? それがお昼や夕方になると、人はまばらになる。でもこれは市場に欲しい物が無くなるからで、市場に対して好悪の感情がある人は居ないわ」

 

 ルインはぬけぬけと、そう言い放った。この女はつまり、かつてはそうする価値があったから東京エリアを滅ぼそうとして、今はそうする価値があるから東京エリアを守ろうとしているだけだと、そう言っているのだ。思わず蓮太郎はかあっと頭に血が上って、指が引き金を絞りそうになった。この女にとって東京エリアは、そこに生活する何十万という人間の命はその程度の価値しかないのか?

 

 いや……実際にその程度の価値しかないのだろう。かつて相対した時、ルインは言っていた。「種にとって最大の敵とは絶滅であり、今の世界では数万人も数十万人もすぐに死んでいく」と。彼女にとって重要なのはあくまで人類という総体であって、東京エリアが壊滅したとしてもそれは絶滅という「死」を回避する為に、悪性腫瘍に冒された手足を切除するような感覚でしかないのだろう。

 

「……お前は、危険だ」

 

 蓮太郎は立ち上がると、義手と義足を起動しようとする。同時に道場着姿の少女、魚沼小町が彼とルインの間に割って入って射線を塞ぎ、小比奈は嬉しそうに立ち上がると小太刀を抜刀しようと構える。ルインの後ろの黒いローブの集団にも緊張が走ってアサルトライフルを構え直した。

 

「止したまえ里見君。殺し合いは私も望む所だが、ここで戦えば我々のどちらも無事では済むまい。それでプレヤデスを倒せなくなるのが、君にとっては最悪の結果と言えるのではないかね?」

 

 少しも警戒した様子を見せない影胤の、楽しんでいるかのような言葉を受けて、蓮太郎はぎりっと歯軋りした。

 

 怪人がリラックスした様子なのは、蓮太郎が撃てないと見切っているからだ。言い様は気に入らないが、影胤の意見は全く正しい。確かにルイン達を生かしておけば明日の災いとなる事は確実である。しかし明日の災いを排除しようとして、今日死んでしまっては意味が無い。今は溺れない為に、藁だろうが芦だろうが掴まねばならない。プレヤデスの討伐こそが第一目標、それを見失ってはならない。

 

 忸怩たる思いを噛み締めながら、彼は銃を下ろした。

 

「蓮太郎……」

 

 パートナーの心境をどこまで察しているかは不明だが、延珠は座り込んだ彼の側に寄り添うと、慰めるように肩に手を置いた。

 

「ルインさん」

 

 そんな蓮太郎に代わるようにして、前に出たのは綾耶だった。

 

 少女は、どこか躊躇っているように見えた。それは当然と言える。今から自分が口にしようとしているのが、どのような意味を持つのかを理解しているからだ。

 

 やがて意を決したように、彼女はルインの前で膝を付くと頭を下げる。後ろで「お、おい綾耶」と叫んでいる声がとても遠く、蓮太郎が言っているのか延珠が言っているのかも分からなかった。

 

 この時なら、まだ後戻りも出来た。だが、綾耶は。

 

「……お願いがあります」

 

 言ってしまった。

 

 もう戻れない。宝石に付けた傷は磨けば消える。だが一度口にしてしまった言葉は、消しようがない。

 

「へえ、あなたからお願いをされるとは思わなかったわ。それで、何が望みなの?」

 

 ルインは、値踏みするような眼で綾耶を見詰める。

 

「あなた達が持つガストレアウィルス適合因子……それを……東京エリアに……いえ、一人分だけでも良いんです。どうか、僕に分けて下さい。その……代わりに、僕が出せるものなら何でも差し上げますから……」

 

 最後の方は、消え入りそうな声だった。それほどに、この言葉を口にする事は綾耶にとっても決断を要する行為だったのだろう。

 

「綾耶……お主は……」

 

 延珠が、呆然としながら呟いた。ルインに求める、一人分のガストレアウィルス適合因子。親友がそれを誰の為に使いたいのか、彼女や蓮太郎は知っている。

 

 それは、ソニアの為に。彼女の侵食率は既に45パーセントを軽く上回っているらしい。しかもこの大戦の開始早々12時間もぶっ通しで全開で力を使っている。最新の数値は聞いていないがもう、いつ形象崩壊が起こっても不思議ではない状態であろう。友を喪わない為に、それを救う手段があって手を伸ばしてしまう気持ちを、誰が責められるだろうか。たとえそれが、悪魔との契約だとしても。たとえそれが、上昇していく侵食率に怯えながら日夜戦う何百人というイニシエーターを裏切るに等しい行為だとしても。

 

 綾耶も十二分に理解している。他の全てのイニシエーターや呪われた子供たちを裏切り切り捨てて、友達たった一人を救おうとする自分がどれほど浅ましく、どれほど醜いか。それでも、縋らずにはいられなかったのだ。

 

「何を言い出すかと思えば。まさか本気で……」

 

「影胤、黙って」

 

 甘い睦言を笑うように喉を鳴らしたプロモーターを、ルインはぴしゃりと制した。そうして一呼吸して間を置くと、じっと少女を見詰める。その眼は真剣で、対等の相手に向けるものだった。今のルインは決して、相手が子供だから適当にあしらったり誤魔化したりしようとは思っていなかった。

 

「綾耶ちゃん、あなたが適合因子誰の為、何の為に使おうとしているかは聞かないわ。でも、あなたは適合因子が世の中に出る事の意味を……分かっている?」

 

「……はい。今の世界の軍事バランスどころか、人類史そのものを根底からひっくり返してしまうほどの危険性を持つものだと」

 

 菫の受け売りだが、その答えにルインは満足したらしい。「うん」と一つ頷く。

 

「あなたがその一人分の適合因子で誰かを救えたとして……今後はその子を、その子の中にある適合因子を巡って争いが生まれるでしょう。その責任が、あなたに負えるの?」

 

「それは……」

 

 綾耶は言葉に詰まる。ルインは、この態度を受けて失望したりはしなかった。むしろ「負える」などと容易く即答したりする方が事の重大さをまるで理解していない、深く受け止めていないとして彼女はそこで話を切り上げてしまったであろう。

 

 蓮太郎も延珠も、掛ける言葉を持たなかった。

 

「飢えて乾いている何百人もの人が居て、その中に一人分だけの食糧と水を与えたりしたら……それを巡って殺し合いが起きるのは当たり前でしょう? それでは……その一人を救う意味が無いとは思わない?」

 

 それは、確かにそうだ。諭すようなルインの言葉は十分に正論だ。

 

 だが、ソニアを諦める事も綾耶には出来ない。

 

 死んでしまったなら、諦める事も出来よう。亡くした者は戻らない。だがソニアは生きているのだ。友達を救う手段があるのに、諦める事など出来ない。

 

 どうするのが最善か。頭をフル回転させ、僅か数秒の間にあらゆる可能性を検証する。そして……はっと一つの道が頭に浮かんだ。

 

 自問する。そんな事が出来るのか?

 

 自問する。もし出来たのならば。

 

 結論が出る。信じよう、ルインを。彼女の中の善なるものを。それを信じられる、自分を。

 

 綾耶は、腹を括った。

 

「お願いを変えます。ルインさん……僕……いえ、東京エリアに力を貸してもらえませんか?」

 

「何と?」

 

「綾耶……本気で言ってるの?」

 

 今度は影胤のみならず小比奈ですらもが鼻で笑うような突拍子もない話である。蓮太郎と延珠は信じられないとばかり、眼を丸くしている。ルインは笑わなかった。どこまでも真剣に、綾耶をじっと見ている。

 

「ルインさん達の力は、良く知っています。ガストレアウィルス適合因子も含めて、その力を貸してもらえたのなら……きっと、想像を超えた世界が実現できると思うんです。適合因子だって、東京エリアの後ろ盾があれば大量に作れるようになります!! そうして迎える世界には、僕や聖天子様がずっと捜していたものが、きっとあると思うんです」

 

「綾耶ちゃん達の捜し物って?」

 

「希望です」

 

「希望?」

 

 鸚鵡返ししたルインの言葉に、綾耶は頷いて返す。

 

「はい。皆が力を合わせ、努力を重ねれば……この世界を覆う差別や憎悪を無くせるかも知れないという希望です。僕も、聖天子様もずっとそれを求め、捜し続けています」

 

「……私達が力を貸す事で、力を得た東京エリアが世界を支配する事になるかも知れないわよ?」

 

「僕が、そんな事にはさせません」

 

「あなた一人で何が出来ると言うの?」

 

「一人じゃありません。蓮太郎さんも延珠ちゃんも、協力してくれます。聖天子様も、目指す所は同じだと僕は確信を持っています」

 

 いつの間にか巻き込まれた二人だったが、しかし心から自分達を信頼してくれる綾耶に、応えたい気持ちはどちらも強く持っている。こうなったらどこまでも、トコトン付き合ってやるか。プロモーターとイニシエーターは顔を見合わせて苦笑し、頷き合って腕組みする。二人とも、覚悟を決める事にした。両人共に綾耶とはそうするに値するだけの時間あるいは体験を共有していた。

 

 ルインはそんな二人を一瞥して「ふむ」と頷く。

 

「……聞くけど、綾耶ちゃん。さっき里見くんが言っていたけど、私は一度は東京エリアを滅ぼそうとしたのよ? あなたは、どうしてそんな私と一緒にやれると思うの?」

 

「ルインさんが、善い人だからです」

 

「あ、綾耶!?」

 

 即答した綾耶に、蓮太郎が何を言ってるんだという顔で叫んだ。延珠も同じだ。端で聞いている小比奈やティコも、眼をぱちくりさせている。だがこれは綾耶にとって決してその場限りの出任せではなく、確固とした考えあっての言葉だった。

 

「あの時……ルインさんが言った言葉は……正しいと思います」

 

 七星の遺産を巡る戦いの最終局面で、ルインは言った。ガストレアという時間に左右されない絶対敵を設定する事で人類全体を団結させ、やがては同族同士で争うという概念を消滅させる事。その上で呪われた子どもたちの更に新しい世代が誕生する事を待ち、肉体・精神共に進化した新しい種、『星の後継者』を誕生させる事が自分達の最終目的だと。

 

「同じ事は、僕も思っていました。争いも憎しみも無く、人と人が本当の意味で分かり合える時代がいつか……いつか、きっと来るって。僕は、少しでも早くそんな世界にする為に今まで戦ってきました。そしてきっと、これからもその為に自分の力を使っていきます」

 

 そういう意味では、綾耶にルインを悪だと断じる事は出来ない。何故ならどちらも目指す所は同じで、ルインはそこへと人類が辿り着く為の近道を案内しようとしただけとも言えるからだ。あるいは彼女のやり方を採った方が、最終的に流される血は少なくて済むかも知れない。

 

 一面ではルインは確かに悪である。蓮太郎が感じた通り、彼女達は一人一人の人間に想いを馳せる事をしていないからだ。だがその一方で、全人類へと向けるルインの想いは確かに善である。人間には一人の人間に想いを馳せる事と、全ての人類に想いを馳せる事の両方が可能だ。ルインの本質は善だが、後者にその善性が偏ってしまっているだけなのだ。

 

 だから私はあなたを許す。

 

 綾耶の言わんとする事を理解して、ルインは静かに頷いた。

 

 だが、まだ問わねばならない事が残っている。

 

「綾耶ちゃん、あなたは言ったわね? 人が、いつか憎しみも争いもなく、本当に分かり合える日が来るって。あなたは本当にそう信じているの?」

 

「はい。前にも言いましたけど、人は少しずつ良い方向へと進んでいく存在だと、信じています。人間は悪い心よりも良い心の方が上回っていると、僕はそう思います」

 

「では聞くけど……人間が生まれてから今日に至るまで、悪人が居なくなった時代が無ければ争いが絶えた時代も無い。あなたはそれをどう説明するのかしら?」

 

「それは、一つの悪い心がもたらす結果が、十の良い心がもたらす結果よりも大きいだけでしょう。人は弱いから……どうしても楽な方へ……間違った方へ……悪い心が囁く方向につい流れてしまいますけど……それを良い方向に導く事が出来るのも同じように人だと、僕は信じています。沢山の人が今までずっと悪い心と戦い続けて、明日が必ず今日より良くなるように頑張ってきたから今があるんだと思います。同じように、僕達も明日を少しでも良くしようと頑張って、今日まで来ました」

 

「……そう……」

 

 ルインは、紅い瞳を細める。眩しいものを見るように。だがそれは眼には痛くない、優しい光だ。

 

 十年も生きていない綾耶は、当たり前だが何も分かってない。でも、大切な事を分かっている。

 

「信じている……か」

 

 ありふれたその言葉を今初めて聞いたように、ルインは呟いた。

 

 

 

『しんじてるよ!!』

 

 

 

 ふと、彼女の脳裏に同じ言葉が、綾耶とは違う少女の声で蘇った。

 

 それは、忘れようにも忘れられない子の声だ。

 

 

 

 

 

 

 

『せんせい、わたしたち、もうすぐびょういんのそとにでられるんだよね?』

 

『そうね、八尋(やひろ)ちゃん……この実験が終わったら……あなた達も普通の暮らしが出来るように……私が必ず取り計らうわ』

 

『やったあ!!』

 

『そしたら……八尋ちゃんは、どうしたい?』

 

『きまってるよ!! あのさんりんしゃにのって、いろんなところへいくの!!』

 

『八尋ちゃん……あの三輪車、いつもこの部屋に置いてあるわね……狭くない? 何なら私が責任を持って預かっておくけど……』

 

『ううん、あれはこのへやにおいておきたいの!! だって……せんせいがくれた、たからものだもん!!』

 

『そう……でも……八尋ちゃん、怖くはない?』

 

『ぜんぜん!! だって、せんせいのじっけんなんでしょ? これで、みんなしあわせになるんでしょ?』

 

『八尋ちゃん……』

 

『わたしだけじゃないよ。かずきも、ふたばも、くるみも、いずみも、りっかも、ななみも、くおんも、おとはも、ともえも、おりえも!! みんな、みんな、こわいなんてすこしもおもってないよ!!』

 

『あなた……』

 

『みんな、せんせいのことしんじてるもん!!』

 

 

 

 

 

 

 

 あれからもう十年にもなるが、あの子達と過ごした日々は今もはっきりと覚えている。

 

 みんなが幸せになれる筈だった。

 

 失敗など有り得なかった。科学の歴史は失敗と犠牲の歴史だ。自分達は、その歴史から脱却する最初の科学者になる筈だった。

 

 スタッフにも上の者にも、口を酸っぱくして言っていた。『迂闊な実験など断じてすべきではない』『失敗は絶対に許されない』と、自分でもくどく思えるぐらいに。

 

 だがその行き着いた先が今の世界。

 

 モノリスの中に身を寄せ合い、いずれ来るであろう破滅の日を少しでも先延ばしにしようと足掻き続けている斜陽の世界。

 

 こんな筈ではなかったのに。

 

 綾耶の語った理想。彼女の捜し物。同じものをルイン達もずっとずっと捜していた。否、今も探し続けている。

 

 この世界から、差別や憎悪を無くす為に。

 

 過去と未来、そして今。それら全てを複合させて考えるなら、自分達にとって綾耶はもう敵とは言えないかも知れない。

 

 だが……それでも。最後に一つだけ、聞いておきたい事が残っている。

 

「ねぇ、綾耶ちゃん……一つだけ、聞いてもいい?」

 

「僕に答えられる事なら、何でも」

 

 快諾を受けてルインは頷くと、一呼吸置いて話し始めた。

 

「あなたの事、調べたわ……昔、反ガストレア団体が起こしたテロに巻き込まれて、両親を亡くしたって……」

 

「!!」

 

 ぴくっと、綾耶の眉が動いた。当たり前だが、これは彼女にとってはデリケートな話題であったのだろう。この辺りの感情の機微を隠せない辺りは、年の割にしっかりしているとは言え彼女もまだ子供だと分かる。

 

「理不尽に、大切な人を奪った世界……あなたは、この世界が憎くはないの?」

 

「そんな訳ないですよ。僕は聖人じゃない。世界が憎いって気持ちも、確かに僕の中にありますよ」

 

 重い話題を扱っているのに、到底そうは思えないほど軽い口調で、綾耶は即答した。

 

 延珠は、前に語り合った時の事を思い出していた。綾耶も結局は普通の人間を憎んでいるのだろうと。綾耶は答えた。確かに半分は人を憎んでいる。だがもう半分は、気の毒に思っていると。彼等は、自分の目で見ているものしか信じられていないから。本当に大切なものは目には見えない事を、分かっていない。

 

 ならば、世界の事はどう思っているのか。ルインの問いを受けての綾耶の答えは、延珠も興味があった。

 

「大切な人を奪った世界……憎しみと悲しみばかりを与えてくる世界……残酷な夢を見せてくる世界……そんな、どうしようもない世界だけど……でも、僕は世界を憎みきる事は出来ないんです」

 

「……それは……どうして?」

 

 綾耶は僅かに言い淀んだ。少しだけ、自問自答する。

 

 自分の力を正しい事に使えと、父に教えられたから?

 

 確かにそれも一つの理由であるが、決定的ではない。

 

 どうして、自分が世界を憎みきれなかったのか……答えは、一つだ。

 

 ちらっと延珠を振り返った綾耶は、にっこりと親友へ微笑みかける。そして、ルインに向き直った。

 

「だって……この世界は、延珠ちゃんが居る世界だから!! 延珠ちゃんが居て、蓮太郎さんが居て、聖天子様が居て、ティナちゃんが居て、ソニアさんが居て……他にもみんなが居る世界だから……僕にとってみんなは世界の一部で……世界を憎む事は、友達みんなを憎む事だと思ったら……僕には、それが出来なかったんです」

 

 語り終えると、少しの間しんとこの場から音が掻き消えたようになる。

 

 思わず、戸惑ったようにきょろきょろと辺りを見渡す綾耶。

 

 静寂を破ったのは、延珠の声だった。

 

「どうだ、蓮太郎!! これが綾耶だ!! 妾の親友だぞ!!」

 

 自分の事のように、延珠はぴょんぴょんと飛び跳ねながら弾んだ声で語る。彼女はとても楽しそうで、誇らしげだった。

 

「ああ……そうだ、そうだな。俺達の友達だ」

 

 蓮太郎も同じ気持ちだった。この、誰より強くて誰より優しい子の友達になれたのは、彼にとっても誇りだった。

 

「お人好しも、ここまで突き抜ければ一つの才能だね」

 

 肩を揺らして笑いながら影胤は語る。彼はシルクハットを外していた。

 

「バカは嫌いだけど……綾耶は大バカだね」

 

 頬杖付きつつ、軽口を叩く小比奈。だが楽しげな笑みがその顔には浮かんでいる。

 

 ティコや、ルインが引き連れる黒いローブの3名は少しばかり離れた所で、事態の推移を見守っている。小町は、瞑目してそっと自分の胸に手を当てた。これは綾耶への「礼」だ。

 

 綾耶は、そっとルインへと手を差し伸べる。

 

「『我々は敵ではなく、友である。敵になってはならない。感情的なしこりはあっても、友情の絆を断ち切ってはならない』……これ、聖天子様から教えていただいた僕の大好きな言葉なんです。今の世界で起こっている色んな事を思えば……今こそ僕達が、率先してこの言葉を実践すべきだとは思いませんか? 争い、空しい戦いで多くを無駄にするんじゃなくて……力を合わせれば沢山の人が救えるって、それを……世界に示しましょうよ!!」

 

「……その言葉を言った人は、インディアンの大虐殺を指導したけどね」

 

 ルインの指摘に、綾耶は凍り付いた。

 

「え……そうなの?」

 

「そう」

 

 教え子の過ちを穏やかに指摘する教師のように、ルインが言う。彼女は「勉強不足ね」と苦笑しつつ、だがキャンプチェアから立ち上がって綾耶の傍まで歩くと、再びしゃがんで彼女と目線を合わせた。

 

「でも、あなたの言いたい事は伝わったわ」

 

 固まったままの綾耶の手を、ルイン・フェクダは両手で包み込むように、しっかりと握り返した。

 

 これは、つまり……!!

 

 綾耶はぱあっと輝くような貌になり、蓮太郎と延珠は「まさか」とでも言いたげに顔を見合わせる。影胤と小比奈は、静かに続くルインの言葉を待っているようだった。

 

「他の仲間は……私が説得するわ。私達はこの戦いが終わった後、東京エリアへの協力を約束する。綾耶ちゃん……あなたを、あなたの語る調和の夢を……私は信じるわ」

 

「僕の夢を……」

 

「私がそれを信じられるぐらいに、あなたが全力を尽くしてきたのが……今も力の限りを尽くしているのが、分かるからね」

 

 今まで見た事がないぐらいに優しく、ルインは綾耶へと微笑んだ。

 

「ありがとう……綾耶ちゃん。礼を言わせてもらうわ。十年前に変わってしまった私の人生を……もう一度変えてくれたあなたに」

 


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