ブラック・ブレット 星の後継者(完結)   作:ファルメール

33 / 42
第30話 最後の日

 

 ふわりと、聖居に小さな人影が舞い降りる。

 

 空からの来訪者は、将城綾耶だ。スマートフォンの時計を見ると、6時。何とか時間通りに着けた。彼女はフリーパスで聖居内部を進むと、程なくして目的地である厨房へと辿り着く。

 

「ああ、綾耶ちゃんか」

 

「料理長さん、いつも通りちょっと厨房を使わせて下さいね」

 

 ぺこりと頭を下げ、慣れた様子でエプロンを着けると髪を纏め、台に乗ってティーセットを取り出して紅茶を煎れる。これはもう、すっかり慣れて体に染み付いた日々の習慣だ。明日には二千のガストレアとの戦いが始まるという日であっても、変えられない。

 

「……ところで、余計な事かも知れませんが……料理長さんはご家族の元に帰られないんですか?」

 

 避難用の大深度地下シェルターへの収容率は東京エリア全住民のおよそ30パーセント。つまり単純計算で10人中7人はシェルターに入れないという計算になる。当然、その者達は自衛隊及び民警軍団が作戦に失敗してガストレア軍団のエリア内部への侵入を許した場合、大絶滅によってほぼ確実に死亡する。そうした事情から多くの職場では、必要最低限の人員以外は勤務から外れている。

 

 この厨房も、いつもより人が少ないように見えた。

 

「まぁ、明日になったら死んでるかも知れないんだ。家族や恋人と一緒に過ごして、思い残す事の無いようにしたいって気持ちは……責められないだろう」

 

「料理長さんは……確か、娘さんが居たとお聞きしてますが……」

 

 綾耶がおずおず尋ねるが、料理長はにやっと笑って返した。

 

「俺は料理長。お前等イニシエーターの職場が戦場であるように、この厨房が俺の職場だからな。自分の仕事を、全うするだけさ」

 

 そう言って、調味料の臭いが染み付いた手がぬっと伸びて、綾耶の頭をわしゃわしゃと撫でた。

 

「それに、必要無いだろ? 民警やお前等が、俺達やこのエリアを守ってくれるんだから」

 

 「違うか?」と問われた綾耶はくすぐったそうに体を揺すった。

 

「……いいえ。違いません。僕は必ず、聖天子様も皆さんも守ります」

 

 この言葉は、無根拠の無責任な発言ではない。

 

 これは宣誓であり、宣言だった。絶対に、成し遂げると。

 

 綾耶は幼いが、そうした考えの出来る子であった。それを、料理長も知っている。

 

「生きて帰ってこいよ。フルコースを食べ放題で振る舞ってやるからな」

 

 そんな暖かな声を背中に受け、綾耶はにっこり笑って返すと聖天子の執務室へと移動する。ノックをするといつも通り「どうぞ」と返ってきたが、ドア越しであってもその声に疲労が滲んでいるのが、少女にはハッキリと分かった。無理もない。彼女の主はここ数日間はマスコミへの対応や諸外国との交渉など激務続きで謀殺され、まともな睡眠はおろか、食事すら満足に摂っていないのだから。

 

 だからほんの十分でも、心安らかに過ごしてほしい。これは綾耶の偽らざる本心だった。

 

「聖天子様、お茶が入りました」

 

「ええ……ありがとうございます、綾耶……」

 

 面と向かって、綾耶はぎょっとした。

 

 一瞬、部屋を間違えたかとさえ思った。主の顔は毎日見ているのに、今日は見違えるぐらいに顔色が悪く、髪には艶が無く、目の下には隈がくっきり浮かんでいた。近付くと強めの香水の匂いが鼻を付く。満足に入浴する時間すら無いのだろう。

 

「綾耶……明日はいよいよ決戦の日。今日ぐらいは……自由に過ごして良いのですよ? 私の事は、気にせずに……」

 

「いえ……聖天子様のお側に仕え、お守りする事。これがボ……私の、仕事ですから」

 

 一人称の切り替えが上手く行かない九歳児を見て、若き国家元首は疲れた顔でそれでも優しく笑いかける。

 

「余りかしこまらなくて良いのですよ? ここには私達二人しか居ませんし……」

 

「お気持ちは嬉しく思いますが、公私の区別は疎かにしてはいけないと思いますので……」

 

 やんわりと断りを煎れてくる自分のイニシエーターに、聖天子は「真面目なのですね」と微笑と共に嘆息して、そして綾耶の煎れた紅茶を口に運ぶ。

 

 綾耶は何も言わずに直立不動の姿勢で聖天子のすぐ傍に控えていて、やがてカップが空になったのを見計らうと、少しだけ躊躇った後に口を開いた。

 

「あの、聖天子様……少しお休みになられた方が……お体を壊します。一時間でも30分でも……」

 

「そうも行きません。ほんの僅かの努力が、未来を大きく変えるのです……私は戦う事は出来ませんが……この東京エリアの統治者として、出来る限りの事はしたいのです」

 

 聖天子はそう返して、手元の書類へと視線を動かすが……ちらりと、傍らの少女が自分を見詰める視線に気付いて、困ったように笑った。

 

「では……一時間だけ、仮眠を取る事にします」

 

「ありがとうございます、聖天子様!! では、私は一時間後に起こしに……」

 

 嬉しそうにそう言って退室しようとする綾耶だったが、服の裾をきゅっと摘まれて立ち止まった。

 

「聖天子様?」

 

「一緒に居てもらえませんか? あなたが傍で守ってくれていると思うと、私はとても安心出来ます」

 

 同室で眠りの番を任されるなど、首席補佐官である天童菊之丞ですら許されていない。主からこれほどまでの信頼を得ていると思うと、従者冥利に尽きるものがあって綾耶は胸が熱くなるのを感じた。

 

 ベッドで横になった聖天子は、白磁のように美しくたおやかな手をそっと綾耶へと伸ばす。

 

「綾耶、私が眠るまでで良いですから……手を握って、離さないでいてくれますか?」

 

「はい……」

 

 卵を掴む時のように、綾耶は注意深く左手の掌を主の掌に重ねて支えて、その上から包み込むように右手を乗せる。

 

 聖天子は安心したように笑うと、疲れのせいもあったのだろう、すぐに眠りに落ちて規則正しい寝息を立て始めた。

 

「どうか……今この時だけは、全てを忘れて……お休み下さい」

 

 綾耶は囁くようにそう言って、後は主の眠りを妨げぬよう、下手に身動きして物音を立てたりしないように注意しつつ一時間を過ごした。たった一時間はこんなに長く感じたのは、産まれて9年生きてきて、初めてかも知れなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 東京エリア市街中心部。いつもは時間・曜日を問わず絶える事の無い人並みでごった返している通りも、明日にはモノリスが倒壊しようという瀬戸際にあっては、流石に閑散としたものだ。

 

 そんな通りをぶらりと歩くのは、タンクトップにカーゴパンツというラフな格好をした短髪の少女。序列30位。東京エリア最強のイニシエーターであるモデル・ウルヴァリンのエックスだ。彼女も今日はオフ。決戦を明日に控え、十分に英気を養うべく町へ繰り出したのだが……案の定と言うべきか、飲食店も商店も、殆どの店はシャッターが降りていた。

 

 当てが外れた形になったが、しかし彼女の目当ては別にあった。

 

 きょろきょろと辺りを見渡して、探していた姿を見付ける。

 

 汚れの目立つケープを羽織った少女だ。足下には托鉢用の椀が置いてあって、物乞いであると分かる。顔の造作は整っているが服と同じで肌にも汚れが目立ち、両眼は包帯で痛々しく塞がっている。今の時代、何処のエリアでも見られる姿だ。

 

「……こんにちは」

 

「あ……エックスさん……」

 

 この少女はいつもこの通りで歌っていて、そしてエックスは彼女の歌が好きだった。これまでもよく、歌を聞きにこの通りへ足を運んでいた。

 

 カーゴパンツのポケットから取り出したガマ口を開けると、そのまま逆さに振るエックス。じゃらじゃらと、椀の中で小銭が跳ねてぶつかり合った音が響いた。物乞い少女が、驚いた顔になって次には喜びが取って代わる。

 

「こんなに……? いつも、ありがとうございます」

 

「歌って」

 

 ぶっきらぼうにそう言って、歩道にどっかりと腰を下ろしてあぐらを掻くエックス。本来ならばマナー違反と咎められるべき行為だが、ゴーストタウン一歩手前という様相のこの日だけは、彼女を注意する者も迷惑を被る者も居ない。

 

 物乞い少女はすうっと息を吸い込み、そしてたった一人の観客の為に、歌う。

 

 誰も居ない町に、荘厳で透明なソプラノの歌声が響き、広がって、溶けていく。

 

 エックスは瞑目して、その歌を味わっていた。耳で聞くのではなく、全身全てを使って、感じ取って味わう。それが彼女流の、音楽の楽しみ方だった。

 

 やがて曲が終わって、エックスは眼を開くと立ち上がって、手を叩く。歌い終えた少女は歌手がそうするように、ぺこりと頭を下げた。

 

「……戦いが終わったら、迎えに行くから。妹と一緒に、私達の所に来て」

 

 唐突に、エックスは言った。物乞い少女は分かり易く驚いた顔になって、そして申し訳なさそうな顔になった。

 

「でも……私は眼がこんなですから……連れて行ってもらってもお役には……」

 

「……私達、呪われた子供たちは、みんな姉妹同然。だから、助け合う」

 

 エックスは無表情のままで、まるで確定事項を淡々と報告しているかのようだ。事実、彼女の中では既に二つの確信があった。

 

 一つは、この少女と彼女の妹を自分達の仲間として迎える事。

 

 もう一つは。

 

 ぐっと、両手で握り拳を作る。

 

 シャキーン!!

 

 指の付け根から三対六本の超バラニウムの鉤爪が、エックスの皮膚を破って飛び出した。

 

「あなた達には、未来をあげる」

 

 もう一つは、明日が、未来が、少女達とこの東京エリアに訪れる事だ。

 

 

 

 

 

 

 

 外周区にほど近いアパートの一室。さほど広くもない部屋の中程に置かれた机の上には、分解された銃の部品が並んでいる。

 

 ティナとソニアは向かい合いつつ、お互いに一言も発さずに銃器のメンテナンスを行っていた。

 

 かちゃかちゃと部品が触れた時に鳴る金属音と、メンテナンススプレーのシューッという噴出音以外は、咳一つとして聞こえない。

 

 ティナは全ての部品が完璧に手入れ出来た事を確認すると、スマートフォンのストップウオッチ機能をオンにして目を瞑って愛銃を組み立てていく。彼女の手は少しも躊躇いや戸惑いの動きを見せずに、さながら熟達した職人が手がけた時計の針のように滑らかに動いてほんの十数秒で愛銃を元通りの形に組み立て直してしまった。無論、部品が余っているなどというマヌケなオチもない。

 

 ストップウオッチを止めて表示された時間を見て、ティナはうんと頷く。ほぼ自己ベストと同タイム。腕はナマっていないようだ。これなら、明日の戦いでも十分に戦える。

 

 ふと視線を上げると、ソニアも部品清掃を終えて銃を組み上げる所だった。ただし彼女はティナと違って、手を使わない。ほんの数秒間、瞳を赤熱化させて能力を発動。

 

 デンキウナギの因子による発電能力によって磁力を創り出し、その磁力を銃の部品に作用させて動かし、空中で銃器を組み上げていく。

 

 魔術のようなその技を見るティナの表情は、複雑だ。

 

 ソニアの能力はあくまでも発電。磁力による金属操作はそれを応用しての副次的な能力だ。当然、磁力のオペレートは電気を操るよりも遥かに難しいものがあるだろう。例えるなら、本来ならば徒手で行うべき作業を、わざわざマジックハンドを使って行っているようなものだ。

 

 にも関わらず空中で組み上がっていく部品は、バネやネジの一つ一つまでもがそれぞれ個別の意思を持っているかのように独立してしかも無駄なく動く。

 

 これほどの力と技術を身に付ける為に、ソニアはどれほどの苦難を超えて、どれほどの痛みに耐えて、どれほどの物を捨ててきたのだろう。

 

 それを思うと、ティナは胸が痛んだ。

 

 まだ十にもならない少女が何を想い、何の為にそこまで出来たのだろう。答えは、決まっている。

 

『……全て、私の為に……』

 

 昔、ソニアが旅行用のトランク一杯の札束を持ってきた事があった。あれは彼女が正式にイニシエーターになるので、もう一緒には居られないと告げる前の日だった。

 

『このお金を使って、平和に生きなさい。こんなゴミ溜めや下水の中じゃなくて、日の当たる世界で……もう、これからは……誰からも奪わずに、誰も傷付けずに……』

 

 血の繋がらない姉のその切なる願いを、ティナは裏切ってしまった。もう一度ソニアに会えると、エイン・ランドの甘言に乗せられて。

 

 機械化兵士の手術は只でさえ成功率が低く、しかも呪われた子供たちを対象に行う場合は再生能力を無効化する為にバラニウム製メスを使って体を切開するので、確率は更に落ち込む。あの日にソニアが持ってきたお金は、まさしく彼女が命を懸けて手に入れたものだった。

 

 エインの眼に叶うべく克己と修錬を経て、死線を越え続けて己の力を高め続けて。そうして最強のイニシエーターとなって、そこから更に機械化兵士としての施術を受けて。自分が同じ真似をしたら……生存率は恐らく1パーセントを割るであろうとティナは分析する。

 

 血の繋がらない姉は、そうまでして自分を光ある世界へと押し上げようとしてくれていた。そこまで、自分を想ってくれていた。

 

 なのに自分は、自ら日の当たる場所を捨てて闇の世界へ踏み込んで。この手を血で穢して。

 

 その行き着いた先が……あの日に告げられた、ソニアの絶望的な侵食率。もう……自分が義姉と過ごせる時間は一年も残っていない。

 

 そんな僅かな時間さえ、ソニアが力を使う度に目減りしていく。特に民警軍団がガストレア軍団と戦闘になった際、軍団長である一色枢が立案したプランAは、ソニアがアルデバランに向けて真っ直ぐ特攻、高位序列ペアが彼女を護衛しつつアルデバランを倒すまでの時を稼ぐというものだ。

 

 ゾディアックすら墜としたソニアの実力と相手がいくら強くても所詮はステージⅣである事を考えれば、成功率は低く見積もっても八割にはなるだろうが……しかし作戦の性質上、どうしてもソニアへの負担は大きくなる。つまり……彼女の限りある時間がまた喪われてしまう。

 

 希望があるとすれば……

 

「ねぇ、お姉さん……」

 

「ん?」

 

「自衛隊は……勝てると思いますか?」

 

 今回の戦いでは、自衛隊は前衛に配置される。民警軍団はその後詰めだ。つまり、ガストレア軍団と真っ先に戦うのは自衛隊となる。

 

 だから、自衛隊がガストレア軍団を殲滅する事が出来れば民警軍団が戦う必要も無い。

 

 そしてそれも決して低い確率ではないと、ティナは見ている。既に自衛隊に於いて対ガストレア戦のノウハウは確立されているし、第二次関東会戦では快勝した実績がある。

 

 是非そうなって、民警軍団にお鉢が回ってこなければ良いのにと思うのはティナの本心だった。

 

『そうすれば、お姉さんが戦う必要も無いのに……』

 

「……」

 

 ソニアは無言のまま、ああそうかという顔になって立ち上がると、ぽんと義妹の頭に手を乗せてやった。ティナが、上目遣いに視線を向けてくる。

 

「私の事は、良いのよ。ティナ」

 

「お姉さん……」

 

「あなたと出会ってからの一日一日は……毎日が贈り物のようで……私はもう、一生分幸せになったわ」

 

「でも、私は……」

 

 ソニアは指をティナの唇に当てて、続く言葉を封じた。

 

「前にも言ったけど……あなたが元気で生きてくれている事が、今も昔も私にとって一番の幸せなの……でも、あなたをイニシエーターにしてしまったのは……私が、間違っていたのかも知れないわね……私はあなたに真っ当に生きて欲しくて、イニシエーターになって機械化兵士の手術を受けて、大金を手にしたけど……その代わりに、あなたを一人にしてしまった。本当にあなたが大切なら……どんなに生活が苦しくても、あなたと一緒に居るべきだったのかも……ごめんね、ティナ」

 

「そんな事ないです、お姉さん!!」

 

 ティナはいつの間にか両目に滲んでいた涙を拭って、そしてソニアの手を取る。

 

 お姉さんは、ソニアは。絶対に間違ってなどいない。仮に世界中の人が間違っていると断じたとしても、自分は。そこまで大切に想われている自分だけはこの姉を肯定する。せねばならない。

 

「お姉さん……戦いが終わったら、一緒に天誅ガールズを見ましょう!! 映画に行って、オシャレなカフェでパフェを食べましょう!! 同人誌の即売会にも行きましょう!! 服も沢山買って、オシャレして……私、新作のピザを作りますから二人で……いえ、蓮太郎さんや延珠さんに綾耶さんも呼んで……一緒に、食べましょう。他にも……色んな所へ行きましょう!! 一杯、二人でお話しましょう。今まで、出来なかった分まで……二人一緒に……」

 

 言いながら、ティナの頬には再び涙が伝っていた。ソニアはふっと微笑んで、指で涙を拭いてやった。

 

「そう、ね……」

 

 言いつつも、ソニアはその願いが叶わない事を分かっていた。

 

 自分とティナが共に居られる時間は、もう長くない。

 

 だからこそ、この僅かな時間を大切に過ごそうというのは同感だ。どのみち、自分は後二回しか戦えない。だから、ソニアはガストレア軍団を殲滅した後は侵食率の上昇を理由にイニシエーターを引退するつもりでいたのだが……

 

 どうやら、それも難しいような気がする。

 

 窓を開ける。日本という国特有の、湿度の高い熱気がエアコンの効いた部屋の空気と混ざり合い、掻き乱していく。

 

「……お姉さん?」

 

「妙な風ね……I have a bad feeling about this(嫌な予感がするわ)……」

 

 

 

 

 

 

 

「「「あなたのハートに、天誅天誅♪!!」」」

 

「はい、撮りますね」

 

 天誅ガールズのコスプレをした少女達がビシッとポーズを決めて、夏世が手にしたデジカメのスイッチを押す。

 

 東京エリア第39区の将城教会。呪われた子供たちの為の学校として使われているこの建物の礼拝堂では、延珠が持ち込んだ天誅ガールズ変身セットで仮装した少女達による撮影会が行われていた。

 

 蓮太郎はやや離れた位置で壁にもたれ掛かりつつ、きゃっきゃっと騒ぐ少女達を眺めている。

 

 今朝方、延珠が帰ってきて教会が襲われたと聞いた時には肝を冷やしたが、しかし居合わせた綾耶やエックス達の力もあって一人の死者も出さずに退けられたと聞いて、一安心と胸を撫で下ろした。今日は寝起きから忙しい。

 

 ふと、手にしていた原稿用紙に視線を落とす。

 

 昨日の授業で子供たちに書かせた作文でテーマは「将来の夢」だ。

 

 アイドル、女優、パティシエ、看護師、お嫁さん。

 

 この願いの中の、どれだけが叶うのだろうと蓮太郎は黙考する。

 

 呪われた子供たちの未来は、多くの場合幸多いとは言えない。過酷な生活環境やウィルスの侵食によって短命な者が多く、そこから抜け出す為にイニシエーターとなってもガストレアとの命懸けの戦いが続く。

 

『それでも……』

 

 それでも、と。蓮太郎は思う。

 

 希望を抱かせる事は時に残酷であると、人は言う。それは、確かにそうかも知れない。何かを夢見て、それが叶わないと知った時の悲しみは最初からそんな望みなどは無いと諦めていた時のそれよりもより深いものだろう。それでも。

 

『ああ……それでも、だよな』

 

 七星の遺産の争奪合戦時に、蓮太郎は影胤に言い放った。「こいつらは人間だ!! ただの十やそこらのガキなんだ!! こいつらの未来は、明るくなきゃ駄目なんだよ!!」と。

 

 勢いで出た言葉ではあったが……だが、あの時の気持ちに嘘は無い。

 

 いや……そうじゃない。

 

 ぐっと、右手を握る。

 

『先生……そんな未来を創る為に、俺は、この力を使うよ』

 

 あの日、菫から貰った力。蓮太郎はずっとこの力が嫌いだった。より正確には、この力を持った自分自身が。

 

 両親も死んで、自分も人間ではなくなった。世界は機械化兵士の存在を許してくれない。だから、他人も自分も騙してきた。この世から消えたいと思った事もある。こんな醜い世界なんて、無くなってしまえばいいとも思った。

 

 だけど、そんなのは些末事。取るに足りない。なんてことない。

 

「何をしている蓮太郎!! こっちへ来て、一緒に写真撮るのだ!!」

 

 天誅レッドのコスプレをした延珠に手を振って返すと、蓮太郎は気怠そうに少女達の輪の中に進んでいく。

 

 そう、なんてことないのだ。

 

 木更さんが居る。先生が居る。延珠が居る。

 

 それに比べたら、なんてことはない。

 

 一度は絶望した事もある世界だけど。捨てたモンじゃない。あの日、綾耶が教えてくれた。

 

 

 

『毎日生まれてくる呪われた子供たちも含む一人でも多くの人が幸せになって、そして僕も幸せになる為に。その為に僕は、僕の力を使うんだ!!』

 

 

 

 この力は何かを殺す為のものではなく、全てを護る為のもの。

 

 明日をきっと、今日より良い日とする為に。

 

 今一度、決意を固め直してそうして延珠達の中に混ざろうとした、その時だった。

 

 懐の、携帯電話が鳴った。

 

「ああ、木更さん。俺と延珠は今学校に……」

 

<それどころじゃないわ、里見君!!>

 

 電話の向こうの木更は息せき切っていて、只事ではないと蓮太郎はすぐに理解した。

 

 

 

 この時、東京エリアの各所で同じやり取りがあった。

 

「はい、マスター・ドゥベ。どうかしましたか」

 

<エックスか>

 

 

 

「兄貴!! 大変だ!!」

 

<どうした、弓月?>

 

 

 

「翠、聞こえているか?」

 

<はい。彰麿さん>

 

 

 

「朝霞。状況は分かっているな?」

 

<は、長正様>

 

 

 

 民警達の間で。自衛隊の通信網で。

 

 政治家の執務室の直通電話に。シェルターに入れなかった民間人の携帯電話に。

 

 話す内容はまちまちであったが、それを聞いた後の行動は全員が一致していた。

 

 モノリスを見る。

 

 そして、全員が驚愕に顔を引き攣らせた。

 

 32号モノリスが、崩れていく。

 

 白化した足下の部分から全体にヒビが入って、巨体が地面に沈み込むようにして崩壊していく。

 

 

 

 

 

 

 

「そんな……どうして……!!」

 

 聖居、聖天子の私室のバルコニーから、綾耶は崩れ落ちていくモノリスを睨んでいた。

 

 そんなバカな。崩壊まではあと一日あった筈だ。これは聖居の優秀なスタッフが精密かつ繰り返し計算した結果であった。無論、机上の計算と現実とである程度の誤差は当然あるだろうが、それにしても早すぎる。

 

「……風の、影響ですね」

 

 スマートフォンから報告を受けていた聖天子は通話を切ると、部屋の中から綾耶が立つバルコニーへと進み出てきた。

 

 2031年現在、未だ気象の正確な予測は難しく、特に気流の複雑且つ混沌とした流れを完璧に予測する事は不可能に近い。ましてやモノリス倒壊予測時間の計算が行われたのは六日前。間が空くほどに、精度は低くなる。

 

 始まる。始まってしまう。『第三次関東会戦』が。

 

「……聖天子様、ご命令を」

 

 頭を切り換えると騎士の如く主の前に膝を折り、忠節を示す綾耶。

 

「綾耶、この東京エリアを……エリアに住む人達を、守って下さい。ガストレアの唯一体も、最終防衛ラインを越えさせてはなりません。そして……絶対に生きて、私の元に帰りなさい」

 

 年若き国家元首は、最も信頼する自分の従者へ命令を下す。イニシエーターは頷くと、頭を上げた。

 

「承りました。必ずや全ての命令を完遂し、吉報を持ち帰る事をお約束いたします。では、暫しの別れを」

 

 立ち上がった綾耶は両眼を紅く染め、バルコニーの柵に足を掛けて跳躍。そのまま持ち前の飛翔能力で以て空の彼方へ消えていく。聖天子はみるみる小さくなっていく自分のイニシエーターの姿を、見えなくなるまで見送っていた。

 

 

 

 

 

 

 

「……?」

 

 空を飛び、真っ直ぐモノリスへ向かっている綾耶は違和感を感じていた。

 

 恐らくこれは、今現在モノリスを見ている自衛隊や民警の全てが感じている事だろう。

 

 モノリスが、倒れない。

 

 確かに足下の部分が崩れてバランスを維持する事など遠目から見ても絶対に不可能な状態である筈なのに。先程まではほんの数分でテレビで見た発破解体のように地に沈んで底無し沼に呑み込まれるようにして崩落するはずだったのに。

 

 突然、崩壊が止まった。モノリスは細部こそ崩れているが、未だその巨体を保っている。

 

 よくよく目を凝らしてみると、バラバラになった細かい破片の一つ一つが重力に従って下に落ちずに、空中に浮遊して留まっていた。

 

「これは……一体?」

 

 何が起こっている?

 

 考えて、はっと気付いた。

 

 一人だけ、居た。

 

 このエリアにはたった一人だけ居る。24時間進んでしまった時計の針を、戻せる者が。

 

 思い至った、その時だった。

 

<聞こえるかしら?>

 

 聞き覚えのある声が、頭に響く。

 

 だがこれは、耳を通じて声が鼓膜を震わせて、そうして脳にその刺激が届いて“聞こえた”と認識するのとは全く違う感覚だった。

 

 まるで頭の中に、直接声が送り込まれてきたかのような。漫画やアニメで良く見るテレパシー能力者の精神感応とは、こんな感じなのだろうか。

 

<東京エリアの民警及び自衛隊の全ての人達に告げるわ。私はIP序列元11位のイニシエーター、ソニア・ライアン。今、微弱電流であなた達の頭脳に直接声を送っているわ。ああ、この声に返事をしても、私は答えられないから、そのつもりでお願いね>

 

 人間の感じているあらゆる感覚は、情動と同じで究極的には単なる脳内での電気信号だ。

 

 例えば眼がリンゴを見ると、リンゴを見たという情報が電気信号に変換され、脳へと伝わってここで初めて“リンゴが見えている”と認識する。ならばオープンチャンネルのラジオのように、リンゴなど何処にも無いのに“リンゴがある”という電気信号が直接脳内に送り込まれたのなら、実際に目の前にリンゴがあるように見える筈である。

 

 ソニアのこの通信も、原理は同じだった。発電能力で作った微弱電流をラジオの基地局のように発信して、自分の声をエリア全体へと届けているのだ。元々彼女は、綾耶にそうしたように対象の脳に働きかけて古い記憶を蘇らせる事すら可能とする。この程度は、出来ても不思議ではない。

 

<みんな分かっていると思うけど、たった今モノリスが倒れつつあるわ。けど、私が磁力で倒壊を防いでいるの>

 

 やはりと、綾耶は頷いた。

 

 SR議定書なる物が作られて国際的にその扱いを定められるほどソニアが恐れられたのは、その強さもあるが何より今の世界では、彼女が操る磁力は各エリアのモノリスを解体して容易に大絶滅を引き起こす事が可能な、戦略兵器級の能力を持つ事に起因している。

 

 モノリスを崩す事が出来るのならば、崩れかけたモノリスを支える事とて出来るのが道理であった。

 

<ただし、私がモノリスを支えられるのは精々12時間が限度。その間に、戦闘態勢を整えて!!>

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。