困っている人を見たら助けよう。人から感謝されるような事にこの力を使おう。
そう、最初に思ったのはいつだったろうか。綾耶はその始まりの日を、もう覚えてはいない。だが、呪われた子供たちである彼女を受け入れてくれる場所は少なく、力を役立てようという想いがあってもそれを発揮する場に恵まれないジレンマは、今よりずっと小さな頃から彼女を悩ませていた。
自分の足場を固める為に、綾耶はまず紅い目を隠して人に紛れる事を覚えた。ところが問題が一つ。普通の子供として振る舞う事と、力を使う事は相反する要素である。幼いながらに悩んだ。只の人間として生きるか、呪われた子供として生きるか。
結局、彼女は後者を選んだ。力を持つ事、ガストレアウィルスを体内に持つ事、呪われた子供である事を肯定する道を。彼女は子供ながらに自分達を恐れる人々を啓蒙しようとした。同じ世界に共に生きる事が出来る存在だと示そうとしたのだ。
だが奪われた世代の憎しみはあまりにも根強く、深く。普通にやっていたのでは道は開かれない事も、既にこの頃の綾耶は悟っていた。だから彼女は、請われれば何でもやった。
最初は外周区から始めた。喧嘩の仲裁、荷物運び、病人の世話、ドブ掃除……呪われた子供である彼女への差別意識から理不尽に過酷な作業を課される事も多くあったが、しかしそうしている間に少しずつ彼女の名前や顔は、人々の知る所となっていく。
最初の転機となったのは、外周区に近い小さなレストランでゴミ掃除のアルバイトをしていた時の事だ。その店を行きつけとしていた清掃会社の社長から声を掛けられて、既に彼が綾耶の働きぶりを耳にしていた事も手伝い、簡単な面接の後その会社の清掃員として就職する事となった。
幸運は幾つかあった。その社長が呪われた子供たちの境遇に理解のある人物であった事。この東京エリア自体が呪われた子供たちを養女に迎えて真っ当に育てるのなら養育給付金が優遇される制度を取っているなど(あくまでも比較的であるが)差別意識の低いエリアであった事。彼女が配属された現場の他の清掃員は60歳ぐらいの高齢の男女が多く、彼等は奪われた世代としてガストレア因子を持つ呪われた子供たちへの憎しみは当然持っていたが、働き者の綾耶を見ている間にそうした感情は(少なくとも綾耶個人に対しては)いつしか薄れ、彼女を孫のように思うようになっていった事。
ある時、契約期間の満了と同時に契約更新が行われ、それに伴い綾耶は現場を配置換えされる。新しい職場はこのエリアの中心……第1区「聖居」であった。
そこで、彼女にもう一つの……そして、最大の転機が訪れた。
「少し……お話ししませんか? 小さな清掃員さん」
働き始めて一月ばかり過ぎたある日に、純白を纏ったこのエリアの統治者より声を掛けられたその時に。
「ん……」
目覚まし時計など無くても規則正しい生活を旨とする綾耶の体内時計は分単位で正確であり、枕が変わってもいつも通りの時間に目を覚ます。だが、寝ぼけ眼に映るのがいつも自分が寝起きしている宿舎の景色とは違うのに気付いて「あれ?」と一言。そうして枕元に置いてあった眼鏡を掛けると、漸く昨夜の記憶がはっきりしてきた。
すぐ脇に敷かれた布団には蓮太郎が延珠に抱き付かれて眠っていた。蓮太郎が真ん中で延珠が左、綾耶が右で三人川の字になって寝ている形だ。
昨夜はすき焼きの中身を蓮太郎の頭にぶち撒けてしまって大騒ぎとなり、結局モヤシのフルコースをご馳走になった。その後でもう夜も遅いからと延珠から泊まっていくよう誘われて、快諾したのであった。
日が変わるぐらいの時間まで延珠とは天誅ガールズについて熱く語り合い、蓮太郎とは自分が知らない延珠の話を、色々と聞かせてもらった。同じように蓮太郎には、彼の知らない延珠の話を。最初は間の悪さと誤解から大変な無礼を働いてしまったが……でも、来て良かった。それは、偽らざる綾耶の本音だった。
延珠が自分以外の相手にあんなに笑う所が見れた。……ちょっと、妬けるが。
話していく中で、蓮太郎はやっぱり信頼に足る人物だと良く分かった。……若干、ロリコンっぽいけど。
「幸せそうだね、二人とも……」
いつもの修道服に着替えて聖室護衛隊の外套を羽織ると、綾耶は眼を細める。
「……どうか、この幸せがずっと続きますように」
そう、祈りを捧げて。
二人を起こさないように極力音を殺しつつ、布団を畳んでその上に延珠から借りたパジャマをこちらも丁寧に畳んで重ねる。そうして勝手ながら冷蔵庫を開けてあり合わせながら二人分の朝食を作り、礼の言葉を記した手紙を置くと玄関に向かい、愛用のブーツを履いて、
「行くのか? 綾耶」
背後から掛けられた声に、ぴくりと体を震わせる。振り返ったそこには起き抜けで髪を寝癖だらけにした蓮太郎と、まだ半覚醒で目が開き切っていない延珠とが立っていた。「起こさないようにと思っていたんですが」と呟きつつ、綾耶は二人に笑いかける。
「昨日は楽しかったですよ。こんなに楽しい時間は、久し振りでした。ありがとう、延珠ちゃん、蓮太郎さん」
「ああ、俺もだ。勿論延珠もな……ほら」
ぽいと蓮太郎が投げた物を、綾耶は両手で掬うようにしてキャッチする。渡されたのは少々時代遅れ気味にも思える形状の鍵だった。
「これは……」
「ウチの合い鍵だ。俺も延珠も、いつでも待ってるからよ」
「その通りだぞ、綾耶。今度は天誅ガールズの変身グッズを用意しておくから、二人で写真を撮るのだ!!」
「……うん、ありがとう。次は、二人が僕の家に来て」
ばいばいと手を振って一時の別れを告げると、綾耶はふわりと浮き上がって朝の空へと消えていった。蓮太郎と延珠は彼女の姿が見えなくなるまで手を振っていたが、ややあって登校時間が迫っている事に気付いて、慌てて朝食の席に着いた。
東京エリア上空を飛び回ってガストレアを捜索する綾耶であったが、昨日は一日中探しても見付からなかったのだ。同じ事を繰り返しても同じ結果に終わるだけの可能性が高い。彼女はその愚を犯すつもりはなかった。
人混みも交通渋滞も無い空が好きな綾耶だが、一つだけままならぬ事がある。風だ。空を飛べる彼女はどんな場所にもほぼ時間通りに到着する事が出来るが、飛べるようになったばかりの頃はたまに予定の時間よりも遅れてしまう事があった。それは決まって予期せぬ気流に見舞われた時だった。
だから綾耶は経験から大気の流れを学び、今では直感的に最適なコースを選んで縫うように飛べる境地にまで達している。
ターゲットである感染源ガストレアがどのような手段で空を飛んでいるかは計り知れないが、自分と同じで風の影響は必ず受ける筈。そうした考えから昨晩、延珠が買ったという最新型のノートパソコンを使わせてもらって、今日の風向きについて調べていた。得られた情報から捜索すべき範囲を絞っていたのだが、この発想が間違っていなかった事は捜索開始から一時間強ほどの時が過ぎた所で証明された。
外周区上空。眼下には白いハングライダーに見える物体が飛んでいる。目を凝らすと、うっすらとその向こう側にはクモのシルエットが浮かんで見えた。大きさから言ってもあれが目的のガストレアである事はまず間違いない。
綾耶は知らなかったが、クモの中には巣をパラシュート状に編んでタンポポの綿毛のように風に乗る種が存在する。だが世界中探したってハングライダーを編んで移動するクモなど存在する訳がない。これこそが”進化の跳躍”。形象崩壊の際に発現した特殊能力なのだろう。今まで監視網に掛からなかったのも納得……だが。
「そんなの使ってるって事は、自由に飛べませんと宣伝してるようなものだよ!!」
綾耶は風に乗るしかないガストレアとは対照的に空中を自在に動き回って真上の死角へと移動すると一瞬の浮遊状態の後、足場となり得る物など何も無い空間からいきなりの急降下。重力による加速など遥かに超えたスピードで体重と同じ重さの弾丸と化した彼女の体は狙い過たずガストレアの胴体へと直撃。
その一撃で、勝負は付いた。
感染者ガストレアをバラニウム武器も使わない素手の一撃で粉砕してしまった事から分かる通り綾耶はパワー特化型のイニシエーターである。しかも手の三倍の威力がある足による乾坤一擲。モデル・スパイダーの細い体躯はほんの一瞬も抵抗する事は叶わず、触れただけで木っ端微塵に砕けた。
それでも綾耶の勢いは止まらず、流星の如く地上へ落ちていく。そのまま爆発したような音と共に土煙を上げ、クレーターを作りつつ着地。ビシッ、とポーズを決める。
『決まった……!! 太陽がいやに眩しいな……!!』
ここにカメラマンが居ないのが残念だと、そんな事を思いながら束の間だけ陶酔感に浸る綾耶(ちなみに今日の天気は曇り)。しかし、大抵の場合こういう時にはオチが付くもので……
ガツン!!
「うぎゃあっ!!」
鈍い音と共に頭に衝撃が襲ってきて、綾耶の視界に火花が散った。目に映る景色がグラグラに揺れる。
涙目で視線を動かすと、10メートルばかり離れた所にジュラルミンケースが転がったのが見えた。このケースこそ聖天子より回収を命ぜられた物であった。感染源ガストレアが呑み込んだか、形象崩壊の際に体内に巻き込まれたのだろうと綾耶のプロモーターは推測していたが、取っ手に付けられている手錠からして恐らくは後者だろう。
映画に出てくる運び屋よろしく、これを持っていた者は手錠でケースと自分とを繋ぎ何があっても離すまいとしていたのだろう。だが不幸にしてガストレアに襲われて体液を注入され、後はお決まりのパターンで被害者から加害者へと変貌し、皮肉な事にケースはやたらな事では奪う事の出来ない場所、即ち”体内”へと取り込まれたのだ。それが綾耶の一撃で全身粉々にされた事で取り出された。
で、取り出されたケースが綾耶の頭に……落ちてきたのがオチだったという訳だ。
「あいたたた……」
ぶつかった箇所をさすりつつ、ケースへ近付いていく綾耶。呪われた子供たちの頑丈な肉体が無ければ頭蓋が粉々になっていた所だった。持ち前の再生力を以てしても、まだジンジンと痛む。
「とほほ……」
……まぁ、最後にケチは付いたがガストレアは問題無く討伐完了。後はこのケースを聖居へと届けるだけだ。
やれやれと息を吐きつつケースを回収しようと手を伸ばして、
「!?」
いきなり、気温が20℃も下がった。そんな錯覚を感じて、全身が鳥肌状態になった。
死ぬ。殺される。
最大ボリュームで頭に響いた警告音に従い、咄嗟に飛び退く。その判断は正解だった。20分の1秒前まで綾耶の首があった空間を、黒い刃が薙いでいたのだ。
「な、な? な!?」
動揺して上擦った声を出しつつも、見事な宙返りを打って着地する綾耶。そうしていくらかの距離を置いた事で、襲撃者の全貌が見えるようになる。
「へえ、今のを避けるんだ」
感心した声を上げたのはウェーブの掛かったショートヘアをした、黒いドレスの少女だ。両手に二本の小太刀を握っていて、今し方綾耶の首に胴体と永遠の別れを告げさせかけたのはこの凶刃二刀流だった。その紅い双眸は彼女が綾耶と同等の存在、ガストレアウィルスを体内に保菌する呪われた子供たちである事を示している。
「素晴らしい。素晴らしい反射能力だね。完全に不意を衝いたタイミング、しかも眼前の敵を倒して気の緩んだ所を狙った小比奈の攻撃をかわすとは」
外周区の廃墟に拍手の音が鳴り、賞賛の声が響く。瓦礫の影から現れたのは、一言で形容するならば”怪人”であった。
異様なまでに細い体躯をワインレッドの燕尾服に包んでシルクハットを被り、顔には三日月型の笑みを浮かべた仮面(マスケラ)を付けた異装の……恐らくは、男。
しかしそんな巫山戯た出で立ちながら、この仮面男の存在は綾耶の体にマキシマムの警戒を示させている。体格・性別からイニシエーターでは有り得ないにも関わらず、だ。何かの間違いかとも思うが、すぐにそんな思考を改める。この第六感が彼女を裏切った事は今まで一度も無い。逆に言うならその内なる声を信じてきたからこそ、綾耶は今まで生き残れてこれたのだ。
確信する。この二人はたった今倒したガストレアなどは比較にもならぬ恐るべき敵であると。
「……誰です? あなた達は? 民警ですか? もしそうなら、これは僕が聖天子様のイニシエーター……将城綾耶だと知った上での行いですか?」
これは威嚇や牽制よりは確認の意味が強かった。この二人が全身に漲らせる殺気の強さたるや、手柄を横取りしようという良くある柄の悪い民警ペア如きが放てるものではない。何より、行き届いているであろう体の手入れや身を包む清潔な服など何の関係も無く漂ってくる血の匂い。どれほどの人間やガストレアを殺せばここまで匂いが染み付くのか……綾耶は思わず唾を呑んだ。
「勿論だとも、私達は全て承知の上で今の攻撃を仕掛けさせてもらったのだよ」
「……何者です?」
「ふむ、名乗りは君の方から上げた訳だし、私達だけ黙っているのは無礼に当たるだろうね。いいだろう、名乗らせてもらおう」
男はシルクハットを取ると芝居が掛かった動作で優雅に一礼する。
「私は元陸上自衛隊東部方面隊第787機械化特殊部隊『新人類創造計画』IP序列元134位。蛭子影胤だ」
「モデル・マンティス、蛭子小比奈、10歳」
「私のイニシエーターにして、娘だ」
「!! ひゃ、134位……!!」
綾耶も非公式ながらイニシエーターとして数多くの民警ペアを見てきたが、眼前の二人は今まで出会ったどんなペアよりも序列が上だ。それも、ブッちぎりで。後ろに跳ぶと、二人を同時に視界に収められる位置へと移動する。この動きを見て影胤は「ほう」と感心した声を出した。戦い慣れている。
「パパ、こいつ強いよ。斬っていい?」
「まぁ、少し待ちたまえ」
落ち着き無く体を動かして今にも飛び掛かりそうな小比奈を制すると、影胤は視線を綾耶へと移す。聖天子のイニシエーターは思わず一歩間合いを開けた。
「さて、言わずとも分かるとは思うが、私達の目的はそのケースだ。大人しく渡してくれるのなら、君に危害は加えないと約束しよう」
「どうするね?」と、尋ねてくるがその答えこそ「言わずとも分かっている」というものだった。ぐっ、と腰溜めに構えた綾耶は両手を翼のように広げる。これは一戦交えてでも渡さないという覚悟の表明だ。それを見た小比奈が唇の端をきゅっと上げて「パパ」と弾んだ声を上げる。そんな娘に、怪人は頷いてみせる。
「ああ、斬って良いよ」
許可が下りると同時に小比奈が突進する、よりも早く綾耶の方が動いていた。蹴った地面が爆ぜる程の勢いで一直線に、双剣を構えたカマキリのイニシエーターへ肉迫する。そこから繰り出す攻撃は、横薙ぎの手刀。だが間合いが遠すぎる。綾耶の指先から小比奈の体まで軽く40センチはある。猫のように爪が伸びてくるにしてもまだ遠過ぎる。掠りもしない。その、筈なのだが。
「っ!!」
奇しくも綾耶と同じく、背筋を駆け抜けた全く無根拠の直感に従って小比奈は二本の小太刀で防御態勢を取る。そしてその判断は、正解だった。刀を握る両手に、痺れが走る。
綾耶の攻撃は決して間合いを見誤ってなどいなかったのだ。しかも驚くべき事に、その攻撃が“見えない”。
確かに何かの力が刀身に掛かっているのは間違いないのだが、それが何なのかが分からない。綾耶が手刀で伸ばした指先から恐らくは数十センチ程の距離にまで不可視の力場が発生していて、それがぶつかってきている……と、いうのが最も的確な表現に思えた。その見えない武器と小比奈の刃が、噛み合っている。
「……妙な技を使うね」
「まだまだ、ここからだよ!!」
鍔迫り合いの形となれば、力の強い方が有利。そしてそれこそはパワー特化型イニシエーターである綾耶の独壇場であった。腕に力を込めて振り抜き、小比奈を吹っ飛ばしてしまう。常人であれば飛ばされた先のコンクリート壁に叩き付けられる所であるが、そこは流石に元134位。空中で何回転かして壁に“着地”する。しかしそこに、再び綾耶が迫ってきていた。手刀を繰り出してくる。
綾耶のチョップはやはり本来の間合いから40センチ程遠いが、ここが射程範囲だと既に知っている小比奈は今度は防御ではなく、身をかわす。するとさっきまで小比奈が立っていたコンクリート壁の、振られた綾耶の指先、その延長線上にある部分が音も無く断ち斬られていた。
「見えない刃物……!!」
小比奈の表情が険しくなる。二本の小太刀という得物から想像出来るように彼女が得意とするのは接近戦。だからこそこの能力がどれほど恐ろしいものか分かる。攻撃が手刀の延長線上に発生する事から太刀筋を読み取る事自体は難しくないが、刃先が見えないのではどこまでが殺傷圏内でどこからが安全圏なのかが分からず、間合いの図りようがない。故に、迂闊に踏み込めない。
こんな怪能力を使う相手は人間・イニシエーター・ガストレア問わず小比奈は戦った事がなかった。
「凄い……!!」
だからこそ、楽しい。血が、滾る。血が、燃える。こんなのは久し振り、いや初めてかも知れない。
「凄い、凄い!! 綾耶、強い!! もっと斬り合おう、ね!?」
笑う小比奈へ更に攻め立てようとする綾耶であったが、不意に耳に入るのはガチリと撃鉄を起こす音。体に染み付いた動作で、滅茶苦茶に跳躍して回避行動を取る。銃声。一秒前まで綾耶が立っていたそこを、無数の銃弾が穿った。見れば、影胤が両手に持った二丁拳銃をこちらに向けていた。
二つの銃口はその先に綾耶の体が繋がっているかのように動き、第二射が繰り出される。たった今回避行動中の綾耶には、避ける術は無い。
「ならば!!」
パントマイムのように両手をかざす。すると壁があるかのような動きを描いたそこに、本当に見えない壁が生じて全ての弾丸を止めていた。モデル・スパイダーのガストレアが吐き出す粘液から延珠を守ったものと同じ、不可視のバリアだ。
「そんな事も出来るのか」
「ほう」と頷く影胤に、まずはこちらをとターゲットを変更した綾耶が跳び蹴りを繰り出す。しかし彼女の攻撃もまた、影胤の周囲に発生した蒼白い光の障壁によって止められてしまった。
「そっちもか!!」
「斥力フィールドだ。私はイマジナリー・ギミックと呼んでいるがね」
攻撃が失敗に終わった綾耶は一旦距離を取ると、再び二人を同時に視野に収められる位置を確保する。
『拙いな……』
内心冷や汗を掻くが、気取られないよう肉体をコントロールする。今の所は五分近い攻防を演じてはいるが、この戦いは自分の方が不利だ。
一対二という数的不利、小比奈の戦闘に対するカンの冴え、影胤の得体の知れないバリア。これまでは見えない刃やシールドといった意表を衝く能力によって優位に立ち回れていたが、逆に言うなら意表を衝いても尚決めきれないという事でもある。このまま続けていれば二人を倒すよりも、能力を把握されてジリ貧になった自分がやられる公算の方が強い。
ならば、逃げるのが賢明な選択と言えるだろうが……ネックとなるのがケースだ。影胤・小比奈ペアの狙いもあのケースである以上、渡してしまったら自分の負けだ。そして二人もそれを分かっている。今の三者の立ち位置はちょうど二等辺三角形の形となっていて、影胤と小比奈を結ぶ辺の中点にケースがある。取って逃げようと走り出したらそれこそ思う壺。無防備なそこに挟撃を受けて、やられてしまう。
だが綾耶には、まだ二人には見せていない能力があった。
さっと手をかざす。その動きに戸惑い半分、次は何が飛び出すのかという警戒がもう半分というぐらいに身構えるイニシエーターとプロモーター。しかし綾耶の次の手は、攻撃ではなかった。
地面に転がっていたケースがひとりでに浮き上がって、綾耶の手に納まったのだ。まるで念動力(テレキネシス)でも使ったかのように。
「なっ!?」
「しまった!!」
ここで、小比奈と影胤は共に初めて明確な動揺を見せた。
ケースさえ手にしてしまえば、こんな恐ろしい使い手二人といつまでも戦う理由など綾耶には無い。彼女の意図を悟った影胤と小比奈がそうはさせじと走り出すが、綾耶の方が早かった。跳躍し、そのままどこへも着地せずに空の彼方へ飛んでいく。影胤が愛用のカスタムベレッタ“スパンキング・ソドミー”と“サイケデリック・ゴスペル”を向けるが、既に射程外だった。
「パパ、綾耶逃げた!! 斬りたい!! 追いたい!!」
「無駄だ、愚かな娘よ。走って逃げたのなら兎も角、相手は空を飛べるのだ。逃走ルートを絞れない、残念だが捕まえるのは無理だろう」
やれやれと首を振って、銃を下ろす仮面の魔人。
「だがまぁ、全くの無駄骨だったという訳でもない。国家元首の懐刀たる直属のイニシエーター……そのモデルが分かっただけでも、良しとしようか」
「パパ、あいつの力の正体、分かったの?」
綾耶の消えていった空を睨みながら、不機嫌そうに腰に差した鞘へ二本の小太刀を納刀しつつ小比奈が尋ねる。そんな娘の頭に手を置く影胤。
飛行能力、見えない刃とシールド、ケースを手も触れずに動かした力、そして彼女自身のパワー。これらの要素から導かれる結論は。
「ああ、将城綾耶……彼女は恐らくモデル・エレファント。象の因子を持つ呪われた子供たち(イニシエーター)だ」
「……象? 象が空を飛ぶの?」
頭に思い描いた象という動物のイメージからおよそかけ離れた綾耶の姿を思い出して、小比奈は首を傾げる。
「無論、象の因子それ自体に空を飛んだりする力は無いだろう。象の因子がもたらすのは強力なパワー。空を飛べるのはまた別の要因だ」
「それって?」
「彼女は体のどこか……恐らくは両腕に、象の鼻のように流体を吸い上げる器官が存在するのだろう」
呪われた子供たちの中にはベースとなった動物因子が強く発現して、骨格自体が作り替えられる者が少ないながら存在する。影胤も見た事はないが、モデルが鳥のガストレアならば翼が生えたイニシエーターも居るらしい。綾耶も同じケースだと推測出来る。
水浴びをする時、象は鼻を使って水を吸い上げ、その後で噴出して体全体に掛ける。綾耶の能力の秘密は間違いなくそれだ。
空気を両腕に吸い込んでおいて、高圧力を掛けて噴出。それを推進力として空を飛び、カマイタチのような真空の刃を作り出し、壁状に展開してバリアと為す。そして掃除機の要領で空気を吸い込み、ケースを手元に引き寄せた。
「モデル・トードの舌、モデル・ヴァイパーの毒、モデル・バットのソナー……固有能力を備えたイニシエーターは多いが、一能力をあそこまで多岐に応用出来る領域にまで極めた者はそうはお目にかかれない……ヒヒッ、国家元首のイニシエーターは伊達ではない、という事だね。我が王が気に入られるのも、分かる気がするよ」
「パパ、良いの? 逃がしたままで?」
鞘に仕舞った刀を微妙に出し入れし、ガチンガチンと鯉口から音を立てつつ尋ねてくる娘に、影胤は頷いてみせる。
「ああ、構わないさ。彼女と戦う機会なら、いずれまた必ず巡ってくる。それに……」
「それに?」
「既に手は打たれているからね。ヒヒッ」
「あー、死ぬかと思った……!!」
追撃を警戒して高々度を維持しつつ、あの二人がそれでも追い掛けてくるのではないかという不安から何度も後方を振り返って、追っ手も攻撃も無い事を完全に確認すると、綾耶はぶはあっと肺に溜まっていた二酸化炭素を吐き出した。
元序列134位の民警ペア。あんなのと戦ったのは初めてだ。
戦いの最中は過剰に分泌されたアドレナリンの作用で感じなかったが、神経伝達物質が薄れた事で全身にヒリヒリと痛みが走り始める。
見れば服はあちこちが破れて、体には赤い線が刻まれていた。弾丸が掠めたり、小太刀の切っ先が走った跡だ。どの傷も治りが遅い。やはりと言うべきか、あの二人の持ち武器はバラニウム製だったのだ。逃げたのは正解だった。戦いがもう少し長引いていたら銃撃をモロに受けて体に穴を開けられていたか、黒い刃にぶった斬られていたかのどちらかだったろう。正直、彼等とは二度と会いたくない。
ちらりと、左手に持ったケースを見る。
「あんな連中まで、これを狙ってるなんて……!!」
聖天子様からはこれを回収してくるよう言われただけで、中身は教えてもらえなかったが……余程、国家の機密に関わる物でも入っているのだろうか? だから、他のエリアの諜報機関とかさもなくばマフィアとかが動いて、影胤達を雇って……?
そんな想像が頭に浮かんだが、しかしそれももう関係無い。
後はこのまま聖居へ戻って、このケースを渡すだけ。それで自分の仕事は成功し、同時に奴等の仕事は失敗に終わる。
このスピードで飛べば後ほんの10分程で到着するが、念の為に先に報告をと思って綾耶は愛用のスマートフォンを取り出すと、登録している番号から聖天子へと電話を掛ける。
だが呼び出し音は鳴らず、代わりにツー、ツーという音が聞こえるだけだ。
「お電話中かな?」
まぁ、忙しい御方だしと自分を納得させると、今度は延珠の番号をコールする。この時間なら学校も終わっている筈だし、次に遊ぶ約束でもしようと思っての事だったのだが……
ツー、ツーと再び繋がらない時の音が聞こえてくる。
「……?」
何か、微妙な不安が暗雲となって胸中に立ち込めてくるのを感じて、綾耶は登録してある限りの番号へと片っ端から掛けてみる。だがどの番号も結果は同じ、無機質な電子音が返ってくるだけだ。最後の頼みの救急車や警察はおろか、時報の番号でさえ同じ結果だった。
不安が、確信に変わる。
「これって……!!」