ブラック・ブレット 星の後継者(完結)   作:ファルメール

26 / 42
第23話 祝福された子供

 

 夢を見た。

 

 綾耶にとっては、いつも見る夢。

 

 一人の女の子が、膝を抱えて泣いている。今よりも幾分幼い、まだ眼鏡を掛けていなかった5歳ぐらいの自分だ。5歳の綾耶が居るのは、将城教会の礼拝堂だった。反ガストレア団体の過激派が起こしたテロによって一度破壊される前の。

 

『みんなと、遊ばないのかい?』

 

 柔和な笑みを浮かべた、白髪交じりの髪をした長身の神父がしゃがんで視線を合わせると、綾耶に尋ねる。小さい綾耶は首を横に振った。

 

『僕は、危ないから』

 

 そう言って、軽く手を振る。それだけで頑丈な長椅子の背もたれが粉々に吹っ飛んでしまった。

 

『僕がみんなと一緒に遊んでたら、この力がみんなを怪我させちゃうから。僕は、人間じゃないから』

 

 幼い綾耶は顔を膝に埋める。そんな少女の頭を、神父はそっと撫でた。

 

『それは違う、綾耶。お前は……』

 

 ここまでの会話の流れを、綾耶は知っていた。

 

 そして、この先にどうなるかも。

 

 この夢の、その先は無い。いつも、ここで終わるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

「ん……」

 

 布団の中でもぞもぞと体を動かした綾耶は、手を伸ばしてベッドサイドに置いてあった眼鏡を掛ける。そうして視界がクリアになると、部屋に備え付けの冷蔵庫からマックスコーヒーを一缶取り出してものの数秒で空にした。

 

 気付けを済ませて意識を完全に覚醒させると、彼女は身支度を調える。普段は聖居のほど近くに用意された宿舎で一人暮らしをしているが、現在は非常時である事もあって聖居の一室で寝起きしていた。聖室護衛隊の外套を羽織って部屋を出ると厨房に入る。十数分ほどして出てきた彼女は、ティーセットを手にしていた。

 

 これは毎日の日課だ。早起きして、聖天子にお茶を入れる事。イニシエーターになってから今日に至るまで、ルイン・フェクダのテロ事件で逃亡していた時を除けば欠かさず続けている習慣だった。最初はお茶の出来も酷いもので聖天子も一口含んで顔が引き攣っていたものだったが、最近では「あなたのお茶を飲まないと一日が始まりません」とまで言ってくれている。キッチンスタッフも最初は呪われた子供たちが入ってくる事に眉をひそめたものだったが、今では数は少なくまた影ながらではあるが彼女を可愛がる者も現れ始めていた。

 

 さて、聖天子の部屋へと行く途中で、ソニアとティナに出会った。

 

「ああ、おはよう綾耶」

 

「ふぁ……おはようございます、綾耶さん。ふわぁ……」

 

 ソニアと手を繋いでいるティナは目が半開きで、いかにも眠そうだ。無理もない。彼女のモデルはフクロウ、夜行性の動物だ。その因子を色濃く受け継ぐティナはとんでもない夜型人間で、昼は大量のカフェイン錠剤を服用していないと起きていられない程である。夜行性動物がモデルという点ではソニアも同じだが、彼女は生活習慣を昼型に矯正している。ティナはソニアの侵食率を知らされた途端、夜は睡眠薬を使用して昼型への体質改善を急ピッチにて行う事を決意していた。

 

 ソニアの侵食率は46.8%。予測生存可能日数はおよそ260日。だがそれは安静にしていればの話である。東京エリアを大絶滅から救う為には、最強のイニシエーターである彼女の力は必要不可欠。否が応でも、戦わねばならないだろう。戦闘によって能力を行使すれば、負傷して傷を再生すれば、ガストレアウィルスの侵食は加速度的に進む。仮にアルデバラン率いるガストレア群との戦いに勝利したとしても、その後彼女は一月生きられるか、二月永らえるか。

 

 だからティナは義姉と、少しでも長く同じ時間を過ごす為に昼型になる事を決めたのだ。

 

「綾耶、これから聖天子様の所へ?」

 

「うん、今は大変な時だけど……でもだからこそ、ちょっとでもリラックスしてもらおうと思って……」

 

 そうして三人は聖天子の部屋に入る。若き国家元首は難しい顔で、机を埋め尽くす書類と向き合っていた。

 

「おはようございます聖天子様、お茶が入りました」

 

「おはようございます、綾耶。ソニアさんに、ティナさんも」

 

 入出してきた子供たちの姿を認めると、聖天子は顔を上げて微笑みを向ける。だが、その笑みに僅かながら翳りがある事を綾耶は見逃さなかった。主は、相当疲れている。肉体的にも、精神的にも。

 

「聖天子様……もしかして、寝てないんですか?」

 

 お茶をティーカップに注ぎながら綾耶が気遣わしげに尋ねる。聖天子の笑顔が、少し困った風に変わった。

 

「ええ……今は、眠っている時間すら惜しいぐらいですから」

 

 不眠不休で働いているのは聖天子だけではない。現在聖居職員の殆どが、非常事態の発生を受けて36時間のシフト制で動いていた。

 

 綾耶は、さっきまで惰眠を貪っていた自分が急に申し訳なくなって、目を伏せる。そんな自分のイニシエーターの頭を聖天子は撫でてやった。ほっそりとした指がきめ細やかな髪に入り込んで、さらりと流れていく。

 

「良いのですよ。あなたにはあなたの戦場があるのですから……」

 

 綾耶の入れたお茶を一口飲んで、聖天子は続ける。

 

「私はガストレアと戦う事は出来ません。それはあなたの仕事です。同じように綾耶、あなたには政治の事は分からないでしょう。それは私の仕事です。皆が、自分が出来る事を精一杯やっている。それで良いのですよ。逆にあなたが私に合わせて無理をして、それでガストレアとの戦いで本調子が出せなかったら、そちらの方が大問題です」

 

 事務的な言葉だったが、口調からは思いやりが感じられる。綾耶は薄く笑って、一礼して下がる。とそこで、代わりにソニアが進み出た。

 

「では聖天子様……せめてこれぐらいはさせてください」

 

 そっと聖天子の後ろに回って、肩に手を近付ける。何をするつもりなのだろうかと、綾耶とティナが顔を見合わせた。すると、ソニアの瞳が紅くなった。能力を使う徴候だ。だが赤色変化はほんの数秒間だけで、すぐに元の青色へと戻った。何があったのか分からない二人のイニシエーターは狐につままれたような表情である。

 

 聖天子は、変化に気付いていた。

 

「これは……肩が軽くなりましたね」

 

「お姉さん、これは……」

 

「私の磁力で血行を促進させて、肩コリをほぐしたのよ。そういう医療器具がずっと昔から薬局やコンビニで売られているでしょ?」

 

「はぁ……」

 

「便利な人ですね」

 

 脱帽、とばかりに綾耶が肩を竦める。この前は電磁波を使って冷めてしまったコーヒーを電子レンジのように温めた事もあった。強力なイニシエーターは訓練次第でこんな芸当も可能になるとは……まさに一家に一台ならぬ一家に一人である。

 

 綾耶は暫く考えて、そうして意を決して切り出した。

 

「……ねぇ、ソニアさん。後で少し、お時間を頂けますか?」

 

 

 

 

 

 

 

「……で、何かと思ったら、トレーニングに付き合えって事なのね」

 

 別にあんなに改まって言う事なかったのにと、聖居の中庭でジャージに着替えたソニアはからからと笑う。同じように、ティナと綾耶もジャージに着替えていた。

 

「僕はソニアさんのように、日常生活で力を使って聖天子様をお助けする事は出来ませんから……だから5日後の戦いで少しでも犠牲を減らせるように、ちょっぴりでも強くなっておきたいんです」

 

「……その気持ちは立派だけど綾耶、あなたは既にイニシエーターの成長限界点に達しているわ。ゾーンに到達しない限り、これ以上の成長は無理よ」

 

 まだ訓練を始めてもいないと言うのにいきなりこれ以上強くなれないと突き付けられて、綾耶の表情が曇った。

 

「空気カッターやバリアは成長限界を補う為の工夫でしょうけど、それにも限界があるわ。経験を積むにしても、この短期間じゃ無理。やはり最後は地力を高めなくては……」

 

「じゃあ、ゾーンになる方法を……」

 

「それが分かってたら、今頃そのマニュアルが各民警に出回ってるわよ。勿論、私も知らない」

 

 あっさりと、ソニアは否定した。

 

 以前に菫から聞いた話によると、ゾーンとは鉄棒の逆上がりや自転車に似ているらしい。それまでは何度やっても逆上がりが出来なかったのに、ある時突然出来るようになる。自転車に乗れなかったのに、コツを掴んだ途端思いのまま乗り回せるようになる。その感覚を説明しろと言われても、難しいものがある。仮に言語化・体系化できたとしてもそれは所詮は畳水練、実際の役には立たないだろう。結局の所は、当人が克己と修錬を経てその境地に達するしかないのだ。

 

「まぁ、ゾーンになる方法を教えるのは無理だけど、強くなる手助けは出来るわ」

 

 ソニアは瞳を紅くすると、手を上げる。

 

 すると周囲の地面から、黒い靄が立ち上った。

 

「「!?」」

 

 綾耶とティナは何事かと身構える。良く見てみると黒い靄は、微細な粉末だった。

 

「これは……」

 

 綾耶は手を伸ばすと、黒い粉に触れてみる。ざらっとした感覚が掌に走った。

 

「これは、砂鉄……」

 

 ソニアは中庭の土中に含まれる砂鉄に磁力を作用させて操っているのだ。砂鉄の粒子は彼女の掌へと棒状に集まっていく。ソニアは完全に集結した砂鉄に圧力を掛けて長さ30センチメートルほどの鉄棒へと形を成させた。

 

「では、綾耶。あなたの空気のカッターでこのスティックを切ってみて」

 

「……分かりました」

 

 自分が作り出す圧縮空気の刃は鋼鉄をも容易に切断する。今更あんな棒ぐらいで訓練になるのだろうかと綾耶は最初は訝しむような顔を見せたが、だがソニアにも何か考えがあるのだろうとすぐ思い直した。そうして瞳を赤熱させると、腕に集めた空気に最大の圧を掛ける。

 

「シュッ!!」

 

 軽く吸った息を吐き出すと同時に、手刀を振る。繰り出された不可視の刃は鉄棒を真っ二つに切断……しなかった。どころか、僅かな傷さえも付けられてはいなかった。

 

「なっ……!!」

 

「これは……」

 

 綾耶とティナが、揃って驚愕を見せる。ただの鉄の棒に、空気のカッターが通用しないとは。

 

「綾耶、これ持ってみて」

 

 ソニアが、木の棒のように持ったスティックを渡してくる。何となく意図を察した綾耶は、紅い目のままで油断無く両手で鉄棒を受け取った。すると、

 

「うおっ!?」

 

 思わず、頓狂な声を上げてしまう。水平の高さに上げていた手が、いきなり膝の位置にまで下がった。モデル・エレファント、象の因子を持ったパワー特化型の綾耶ですら持ち上げるのに手こずるこの重さ。タクトほどの長さしかないのに、一体この棒の重量は何キロあると言うのだろうか。

 

「……持ってみる?」

 

「い、いえ。遠慮しておきます」

 

 ティナが、両手をぱたぱたと振って拒否する。綾耶ほどの力が無い彼女では持った途端に重さを支え切れずに、最悪地面と棒に挟まれて指が引き千切れてしまうかも知れない。

 

「そう簡単には切れないわよ。この鉄の棒には私が磁力で圧力を掛けて、同じ体積の劣化ウランをも遥かに凌ぐ質量を持たせてある。当然、そこまでの超密度なら硬さもそれ相応にパワーアップ。鋼鉄がバターに思えるほど固い、夢のような超金属よ」

 

「お姉さん、そんな事も出来たんですか……」

 

 呆れたように、ティナが言う。ソニアの能力である電磁力の応用性の広さは知っていたつもりだったが、まだまだ認識が甘かった。それこそ何でも出来ると思って良いぐらいに、彼女は自分の力を研究し、訓練し、研ぎ澄まし、極めている。超重量の鉄棒を軽々持っているのもイニシエーターの身体能力だけではなく、磁力を併用して持ち上げているのだろう。

 

「で、綾耶。今のあなたじゃ、いくらやってもこの棒は切れないわ」

 

「……でしょうね」

 

「勿論、あなたがゾーンに至ればそれこそこの棒だってバターみたいに切れると思うわ。綾耶、今まで見ていた感想だけど、あなたの才能は素晴らしい。ゾーンに到達した時、あなたは無敵になる。私でも勝てない」

 

「そう、なんですか?」

 

「私は嘘は言わないわよ」

 

 ソニアほど強大なイニシエーターから最大級の評価を受けた綾耶であったが、しかし表情は複雑である。いくら才能があっても、実力に結び付かなければ意味が無い。ゾーンに至れば問題無いとは言うが、残り一週間足らずの間で開眼出来るとは思えない。

 

「勿論、こんな短期間でいきなりゾーンになるのは無理だろうから……」

 

 ソニアも、同じ事を考えていた。

 

「さっきも言ったけど、あなたは延珠ちゃんと同じで成長限界点に達している。つまり肉体的(フィジカル)な面では既に極まっているという事ね。……と、なれば後は、精神面(メンタル)を鍛えるしか無いでしょう」

 

「成る程……」

 

 確かにそれは道理だと、綾耶も頷く。しかし精神などそれこそ一朝一夕で鍛えられるものでもないだろう。課題が明確になったのは良かったが、そしたらまたしても新しい問題が浮上した形になってしまった。

 

「精神修行……では今から、お寺にでも行くんですか?」

 

 ティナが言う。そんな義妹にソニアは苦笑いを見せた。

 

「……まぁ、時間があればそれでも良いのだけど。決戦は5日後だからね……今回は、手っ取り早い方法を取るわ」

 

 ソニアは綾耶に近付くと、すっと手を上げる。象のイニシエーターは思わず後退るが「大丈夫よ、危険は無いわ」と、電気鰻のイニシエーターが優しく声を掛ける。

 

「日本で言う禅ってヤツは私も少し勉強したけど、正直良く分からなかったのよね。だから……私流で行くわ。綾耶、あなたの中で燃える消せない炎……心からの怒り、あるいは心からの愛……それを私が、引き出す」

 

 指先が、綾耶の額に触れた。

 

「ソニアさん、これは……」

 

「……記憶や思考といった脳内での活動も、究極的には単なる電気信号。今からあなたの頭脳に微弱電流を送って、古い記憶を蘇らせる」

 

「ちょ、それは……!!」

 

「じゃあ、行くわよ」

 

 抗議の声を上げかけた綾耶の意識は瞬間、洪水のように襲ってきた光に呑まれた。

 

 

 

 

 

 

 

『僕がみんなと一緒に遊んでたら、この力がみんなを怪我させちゃうから。僕は、人間じゃないから』

 

『それは違う、綾耶。お前は……』

 

 綾耶の前に広がったのは、いつも見る夢の景色だった。普段は、ここで夢が終わるのだが……今回は、違っていた。

 

『お前は人間だよ、綾耶。お前こそが人間なんだ』

 

 5歳の綾耶の頭を撫でる神父は、優しくそう言う。

 

『そんな……だって、僕は……』

 

 友達と握手をすれば、その手を握り潰してしまうような力。子犬を撫でれば、首をへし折ってしまうような力。そんな力を持った自分が、化け物でなくて何なのか。幼い綾耶は抗議の声を上げかけるが、神父はそれを遮って続ける。

 

『お前はそんな風に自分の力を恐れ、誰かを傷付けまいとする優しさを持っている。そんな風に人を気遣えるお前は、まぎれもなく人間だよ。疑いなくね』

 

『それでも……僕は、危ないよ。僕が誰かと関わったら、僕はその人を傷付けてしまうから』

 

 幼い綾耶が顔を上げる。その双眸からボロボロと涙が零れて、床に落ちた。神父はしゃがみ込んで涙を拭ってやると、穏やかな笑みと共に綾耶の頬を撫でてやった。

 

『危ないのは私達だって同じだ。人間は誰だって、同じ危険を持っている』

 

 神父は、綾耶が5歳ぐらいの子供だからといって決して適当な言葉で誤魔化したり、下に見たりはしていなかった。目線を合わせ、噛み含めるような口調で、ゆっくりと説明していく。

 

『例えば……そう、車だな。ハンドルを握る者によっては、車だって立派な凶器になる。それどころかペンの一本もあれば、目の前の相手を刺し殺す事だって出来るだろう?』

 

 それは5歳児にも分かるような、子供の屁理屈のような論理の飛躍だった。

 

『でも、車を運転するには免許が必要でしょ?』

 

 小さな綾耶も、半ば呆れたように指摘する。神父は『確かに』と頷いた。

 

『だが、生きる事に免許は必要無い』

 

 綾耶は、ぐっと押し黙った。

 

『お前は生まれてきてくれて、そしてこうして生きている。それは神様が生きていて良いと、許してくれたからだよ。少なくとも私やお母さんは、お前が居なくなったら悲しい。きっと、泣いてしまうよ?』

 

『でも、僕は……僕の力は……!!』

 

『まぁ、私の話を最後まで聞きなさい』

 

 神父はそう言って、もう一度綾耶の頭を優しく撫でた。

 

『綾耶、物には何だって正しい使い道があるのだよ。バットで人を殴るのが正しい使い方かな? 違うだろう? バットはボールを打つもの。車は人や物を運ぶ為のものだし、ペンは文字を書く為のものだ。同じようにお前の力にだって、正しい使い道がきっとある』

 

 その言葉を受けて小さな綾耶は、ごしごしと服の袖で涙を拭った。泣き腫らした目には、先程までは無かった光が宿っていた。

 

『ホントに……? ホントに、そう思うの?』

 

『勿論だとも』

 

 神父は、即答した。

 

『世間ではお前のような者を「呪われた子供たち」と呼ぶが……私はそうは思わない。お前の力は呪いではなく、祝福なのだ。私も協力する。勿論、お母さんもね。その力の正しい使い方を、一緒に考えようじゃないか。大丈夫だ、綾耶……お前は一人じゃない』

 

 神父は綾耶の肩に手を回してぐっと自分の方に引き寄せ、抱き締める。綾耶は抵抗の素振りも見せずに、されるがままにしていた。

 

『綾耶、ここは君の家で……私達は家族なのだから』

 

 幼い綾耶は、それまではぶらんと垂れ下がってしまっていた腕を動かして、神父を抱き返した。

 

『うん……ありがとう……お父さん』

 

 

 

 

 

 

 

 再び視界が光に包まれて、それが治まった後で綾耶の眼前に広がっている景色は、見慣れた聖居の中庭だった。

 

「綾耶さん、大丈夫ですか?」

 

 上目遣いで、心配した様子のティナが自分を覗き込んでいる。視線を上げると、空の景色は殆ど変わっていなかった。それなりに長い間夢の中に居たような気がしていたが、実際には極々短い時間、長くても数分程度の出来事だったらしい。

 

 頬に違和感を覚えて手を当てる。そこには、滂沱として涙が伝っていた。気付かない内に、泣いていた。

 

 眼鏡を外して、涙を拭う。記憶の中で幼い自分がそうしていたように。

 

「……どう? 何か収穫はあった?」

 

 眼鏡を掛け直したタイミングを見計らって、ソニアが声を掛けてくる。

 

「……うん、思い出せたよ」

 

 そう、思い出せた。

 

 昔からずっと思っていた。困っている人を見たら助けよう。人から感謝されるような事にこの力を使おう。

 

 そう思い続けて、その道を貫いて、今まで生きてきた。

 

 けど、どうしてそんな風に思うようになったのか。その切っ掛けは何だったのか。その始まりの日を、綾耶は忘れてしまっていた。

 

『ああ……そうか……』

 

 それを、思い出せた。

 

 自分の始まりはあの日の教会。

 

 幼き日の彼女は、ずっと怯えていた。自分の力が誰かを傷付けてしまう事を。同時に、運命を呪ってもいた。どうして自分には、こんな力があるのだろうと。こんな不条理、こんな理不尽。どうして自分が、自分だけが。どうして自分は人間ではない、化け物なのだろうと。何で自分をこんな風に産んだんだと、母を憎んだ事さえあった。

 

 でも、違っていた。

 

 父が、教えてくれた。

 

 自分は、祝福されて生まれてきたのだと。呪わしい、悪魔の力と思ってきたこの力は、天恵なのだと。

 

 今まで忘れてしまっていたのは、きっとテロによって両親を失ったショックに起因するものだろう。人間の脳はあまりにも受け入れがたい現実に直面した時、無意識に記憶を都合良く書き換えて自我の崩壊を防ごうとする事があると、何かの本で読んだ事があった。

 

 同時に、綾耶はある事に納得が行っていた。

 

 何故に自分は両親を失ってひとりぼっちになった後、他の呪われた子供たちのように暴力で日々の糧を得る事を良しとしなかったのか。どうして延珠がそれをしようとする度に、止めに入ったのか。

 

 父の教えは、両親からの愛は、記憶からは消えてしまっていても魂が覚えていた。

 

 自分の、自分達の力は誰かを傷付ける為のものでは断じてないと。それは正しい使い方では絶対にないと。だから綾耶は決して誰かを傷付けたり壊したりする事をしなかったし、友達がそれをしようとするのを見ていられなかったのだ。

 

 胸に、手を当てる。

 

 両親は、もう居ない。でも、ずっと一緒に居てくれていた。

 

「そして……これからも……生きていく。ずっと、ずっと一緒に」

 

 今から教会へ行って子供たちに、この話をしよう。綾耶は、そう思った。勿論松崎さんや、琉生先生にも。蓮太郎さんにも、木更さんにも、延珠ちゃんにも、夏世ちゃんにも、エックスさんにも。室戸先生にも、聖天子様にも。

 

 彼女達の中の一人でもこの話を聞いて、持てる力を正しく使う事を考えてくれたのなら、きっと自分はとても嬉しいだろうと、綾耶は思った。そして彼女達がもう少し大きくなったら、また自分達よりも少し小さな子供たちへと、同じ話を伝えていってほしい。

 

 命は一人に一つ、喪ってしまったらそれっきり。でも命が消えてしまった後も、残せるものはある。自分の中に、今も父と母が生き続けているように。

 

 命の中に在った想いを受け継いで、それをまた誰かに伝えて。そうして受け継がれていく限り、人は死なない。その想いが沢山の人に伝わっていく事こそが本当の命なのだと、綾耶は思う。

 

「ソニアさん……」

 

「うん?」

 

「ありがとう。忘れ物を、見付けてくれて」

 

「……うん。どういたしまして」

 

 綾耶の顔を正面から見返して、ソニアは柔らかな微笑を返した。ほんの数分前とは、目が違う。良い目になった。何かを決意して、何かを乗り越えた目。

 

 確信する。

 

 もう、大丈夫だ。

 

 ぽいと、鉄棒を放る。数百キロもある鉄棒がくるくる周りながら綾耶へと飛んでいって……

 

「でえいっ!!」

 

 見えない斬撃は、超密度の金属棒を真っ二つに断ち割った。しかも先程斬れなかった時はソニアが手に持っていて固定していたのに、今は空中を舞っていた状態だった。硬さは同じでも、切断の難度はずっと上だった。

 

「お見事」

 

「凄いです、綾耶さん」

 

 ソニアとティナはそれぞれ感嘆の声を上げる。

 

 二つになった鉄棒はくるくると宙を舞って……その一つが、綾耶の爪先に落ちた。

 

「「「…………」」」

 

 刹那の静寂。そして、

 

「うぎゃああああああああああっ~~~っ!!!!」

 

 綾耶の悲鳴が、聖居を揺るがした。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。