ブラック・ブレット 星の後継者(完結)   作:ファルメール

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第21話 終わりの始まり

 

 蒸し暑い夜だった。気温も湿度も高くて、どんな事が起こっても不思議ではないような、そんな夜。

 

 東京エリア外周第40区、第32号モノリス付近に設営された自衛隊駐屯地に、銃声が鳴り響いていた。

 

「う、おぉぉああああっ!!」

 

 駐屯部隊所属の佐藤良房三曹は涙目になりながら訓練で叩き込まれた動作で銃を構え、眼前の怪物達に乱射していた。人の胸ほどもある巨大な昆虫。ステージⅠ、モデル・アント、蟻のガストレアである。ウィルスによる異常進化によって自然界では有り得ない巨体を獲得したその虫は、良房の同僚や先輩を貪っていた。

 

 雨霰の如く撃ち込まれる弾丸には、全てバラニウムの黒い弾頭が使われている。この金属が持つ再生阻害の効果は確かにガストレアに作用していた。ガストレアウィルスによって強化された昆虫特有の甲殻をしかし突き破って、有効打を与えていく。前にいた数体は、既に倒れて動かなくなった。

 

 弾が切れたが、頭が動揺して混乱していても何度も反復したその時間と訓練は良房を裏切らず、流れるような動作でマガジンを交換する。

 

 勝てる。

 

 そう思って視野が広がって、はっと気付いた。

 

 左も右も、振り向けば後ろまで、どこから現れたのか蟻のガストレアがひしめいていた。

 

 ガストレア化しても、集団で行動する蟻の性質は残っているらしい。最後の獲物のぐるりを囲んだ怪物蟻は、最後の獲物を仕留めるべく徐々に包囲の輪を狭めてくる。

 

 仲間の姿を求めて視線を動かす良房だったが、もうこの区画に人間は彼一人のようだった。人影は勿論、悲鳴も銃声も聞こえない。

 

 死ぬ。終わる。ありとあらゆる絶望的な単語が、良房の脳内を流れていく。

 

 こうなった時のシミュレーションは、何度も繰り返してきた。彼の妻子は、ガストレアに襲われてガストレアになった。同じ末路を辿るのは国防を担う身としてそれだけは出来ないし、してはいけない選択だった。

 

 手榴弾のピンを抜く。良房は最後に妻子の顔を思い浮かべて……

 

 そして彼の手に握られていた手榴弾が見えない手に持ち上げられていきなり空中に浮き上がって、遥か上空でパンと乾いた音を立てた。

 

「……な?」

 

 有り得ない事象に良房が呆けた声を上げて、ほぼ同時に真正面の彼に最も近いガストレアが飛び掛かってくる。

 

 万事休す。良房は目を固く瞑って、全身の筋肉を緊張させた。だが、いつになっても覚悟していた痛みは襲ってこない。

 

「……?」

 

 恐る恐る目を開くと、モデル・アントのガストレアは頭から尻尾まで巨大な刃物を叩き付けられたかのように真っ二つになって、地面に転がっていた。

 

 何が起きた?

 

 その答えは、すぐに分かった。

 

「良かった。生きててくれて」

 

 小さな、鈴のような声が聞こえてくる。反射的に良房が声のした方向、頭上へと視線を向けると。

 

 月を背に、小さな影が舞い降りてきていた。

 

 一枚の羽のように地面に降り立ち、良房を守るようにガストレア群に立ちはだかるのは、修道服の上から聖室護衛隊の外套を羽織った眼鏡の少女。彼女は、ちらりと自衛官を振り返った。ガストレアと同じ紅い光を宿した瞳が、良房に向けられる。

 

「遅れてしまったけど……あなただけでも助けられて、本当に良かったです」

 

「『翼のない天使(リップタイド)』……!!」

 

 畏敬の念が籠もっているような声で、良房は思わず呟いた。『翼のない天使』とはルイン・フェクダによるテロ事件から東京エリアを守り、先だっては暗殺者から聖天子を守り抜いた功績から与えられた二つ名だ。聖室護衛隊特別隊員・聖天子直轄のイニシエーター、将城綾耶。

 

 そんな綾耶の登場も、ガストレア共にとってはエサが一匹から二匹に増えただけの変化しかないようだった。ぞるっと、群れが一個の生物のように殺到する。

 

「あ、危な……っ!!」

 

 綾耶が妻子を殺したガストレアと同じ因子を持つ存在である事も忘れて、反射的に良房は叫んだ。

 

「大丈夫」

 

 綾耶はにっこりと笑って、そして振り向きざま横薙ぎに手を振る。その動作だけで彼女が振った腕の軌跡に存在していた数体の巨大蟻が切り裂かれて、残骸が地面に落ちた。

 

 空気の刃。モデル・エレファント、象の因子を持つ呪われた子供たちである綾耶の、象の鼻のように流体を吸い込む力を持った両腕へと大気を吸引し、超高圧を掛けて噴射する事によって生じる見えない刃物。昆虫型ガストレアの堅牢な外骨格をも紙切れのように裂いてしまう。

 

 五体、十体、十五体。

 

 まるで一時間構成の時代劇番組の45分ぐらいから始まる殺陣のシーンのように、当たるを幸いガストレアを屠り去っていく綾耶の動きは、さながら舞。美しささえ感じられる、流麗なる闘技。

 

 あっという間に百体は居たモデル・アントは、半分ほどにまで数を減らしていた。

 

 これほどまでの圧倒的戦力差を見せ付けられても、ガストレアは撤退の気配を見せなかった。しかしひとまずは良房を狙う事を諦めたようで、残り50体全てが綾耶一人に全方位から襲い掛かる。

 

「まずいーーっ!!」

 

 良房が叫ぶ。綾耶は確かに恐るべき攻撃力を持つが、しかしいくら彼女が操る見えない刃の威力を持ってしても、それはたった二本の線の攻撃。四方から面で襲い掛かるガストレア達には対処出来ない。

 

 と、思われたが。

 

「大丈夫ですよ」

 

 不安など欠片ほどにも感じさせない安心しきった声で、綾耶が答える。

 

 瞬間、襲ってくる轟音と衝撃。雷が落ちた。

 

 電光に打たれたモデル・アント共は、その殆どが一瞬で黒コゲになって動きを止めていた。当然、即死である。

 

「な、何が……!!」

 

 有り得ない。雨の日なら奇跡的に雷が落ちる事もあるだろうが、今日の天気は雨どころか雲一つ無い晴れ。空には月が美しく輝いていると言うのに。

 

「余計な事をしたかしら?」

 

 再び、頭上から声が聞こえる。そこには一人の少女が座るような姿勢で地上から5メートルほどの空中に静止していた。蒼い髪をボリュームのあるポニーテールに纏めていて、紅い目からイニシエーターであると分かる、彼女もまた綾耶と同じで聖室護衛隊の外套を纏っていた。元序列11位『星を統べる雷帝(マスターオブライトニング)』ソニア・ライアン。一属一種の電撃生物・デンキウナギの因子を持つ呪われた子供たちであり、その気になれば地球すらも意のままに操る最強のイニシエーター。

 

「いや、助かりました。ありがとう」

 

「ん」

 

 笑って返す綾耶に、ソニアもくすりと微笑して応じる。

 

「さて、自衛官さん。ここは危険です。ひとまず僕達と一緒に……」

 

 綾耶はそう言いながら、尻餅付いた良房に近付く。しかしこの時、良房はちょうど綾耶の背後で折り重なったガストレアの死体の山が動くのを見ていた。もぞっと、仲間の死体を押し退けるようにして一体のモデル・アントが姿を現す。たまたま仲間の死体が盾になって、ソニアが発生させた雷の直撃を免れていたのだろう。

 

 良房に近付く綾耶の歩き方は全くの無防備で、空中に座っているソニアもまだ気付いていないようだ。生き残ったモデル・アントは無傷ではないようだが、しかしそれでも尚、殺戮の本能のまま綾耶へと襲い掛かる。

 

「後ろだ!! 逃げ……」

 

「大丈夫ですって」

 

 少し呆れたように苦笑して、綾耶はこれで3回目になるその台詞を繰り返した。

 

 そしてモデル・アントの最後の生き残りは、頭をザクロのように爆ぜさせた。胴体が頼りなく動いて、数秒後に崩れ落ちた。

 

「ご苦労様、ティナ」

 

<……はい。綾耶さんやお姉さんなら何の危険も無かったと思いますが、一応>

 

 最後のガストレアを仕留めたのは、元序列98位『黒い風(サイレントキラー)』ティナ・スプラウトによる超遠距離射撃。梟の因子を持つ呪われた子供たちであり、今は綾耶やソニアと同じく聖室護衛隊特別隊員の一人。夜間の狙撃こそ彼女の独壇場。この程度の芸当は造作もない。

 

 これで、今度こそこの第40区駐屯地に攻め込んできたガストレアの殲滅は完了した。周囲の空気の流れを知覚する綾耶の両腕も、微弱電流によるソニアのレーダーも、ティナのシェンフィールドも、周囲に敵影を捉えてはいない。綾耶はふうと大きく息を吐いた。

 

「……それにしても、急にこんな数のガストレアが侵入してくるなんて……」

 

 百を数えるガストレアの死体を見渡しながら、信じられないという表情で眼鏡を掛け直す。ここがモノリスとモノリスの隙間ならばまだ話も分かるが、実際にはここはモノリスの直近地帯。体内にガストレアウィルスを保菌しているだけの綾耶ですら、微妙な頭痛や吐き気を感じる。ましてや通常のガストレアならば侵入出来ても数時間で衰弱死する筈なのに。

 

「ソニアさんが気付かなかったら、危なかったかもですね」

 

「私も最初は信じられなかったけどね。モノリスの近くにガストレアの生体磁場が100も出現したんだから」

 

 ガストレアも含め、あらゆる生物は生きている限り体のどこかの筋肉を動かしており、そこには微弱な電流が発生して周囲には磁場が生まれる。自らも電気を操るソニアは磁気にも敏感であり、センサーのようにこれを捉える事が出来るのだ。更に彼女は訓練により、生体磁場の微妙な違いから個体の識別までも可能とする境地にまで達している。

 

 ほんの一時間前、この力で異常を察知したソニアはすぐさまそれを綾耶に伝え、その情報はそのまま聖天子にも伝わった。東京エリア国家元首は万一の事態に備えて自衛隊の応援部隊に出撃命令を出すと同時に、綾耶、ソニア、ティナの3名を先行させたのだ。綾耶はすぐさま二人を自分の体に掴まらせて、エリアの空を駆けた。結果から言えば聖天子のこの判断に意味は、あった。

 

「き、君達……」

 

 何とか立ち上がった良房へと、綾耶と地上に降り立ったソニア、それに追い付いてきたティナの視線が集まる。

 

「……ありがとう。来てくれて」

 

 礼の言葉を受け、3名のイニシエーターはそれぞれ頷いたり微笑んだりして返した。

 

 聖天子の判断に意味はあった。一人、助けられた。

 

「でも……本当にこのガストレア達はどうしてここに入ってきたんでしょう?」

 

 綾耶と同じ疑問は、ティナも抱いていた。仮に綾耶達が来なくて駐屯部隊を全滅させられたとしても、その後どうするつもりだったのだろう。これほどモノリスに接近していては、安全圏に逃げるよりも磁場の影響で死ぬ方がずっと早いだろうに。

 

「……その答えが、分かるかも知れないわよ」

 

 ソニアはそっと手を上げると磁力を使って、死んだ自衛隊員の手に握られていたデジタルカメラを引き寄せた。画面に付着した血を袖で拭うと、電源スイッチを入れる。綾耶とティナは肩越しにカメラを覗き込む形になった。そこには……!!

 

 

 

 

 

 

 

「では、侵入してきたガストレアは全滅させたのですね?」

 

<はい、全てステージⅠのモデル・アントでした>

 

 聖居地下シェルター内の司令室では閣僚と天童菊之丞、そして聖天子が勢揃いしていた。正面の大型モニターには、綾耶の顔が大映しになっている。これは40区の駐屯地に残されていた機材を使っての映像通信だ。あの後綾耶は、すぐさま事態の報告を行っていた。

 

 自衛隊を出動させる手間が省けた事と、たとえ呪われた子供たちの手によるものであろうとガストレア群を掃討して感染爆発(パンデミック)を回避できた事には、司令室に集まった全員が安堵の顔を見せる。

 

<ですがボク、あ、いや私達が倒したステージⅠの他に、大型のガストレアが来ていたみたいです。私達が来た時には既に立ち去っていたみたいですが……>

 

 ざわっと閣僚達にどよめきが走って、聖天子がそれを制した。

 

「綾耶、どのようなガストレアかは分かりますか?」

 

<殺された自衛官の人がカメラで撮影していた画像があります。それをこれから送信します>

 

 そう言って綾耶の姿がモニターの枠外へと移動する。

 

<……えっと、これどうするんだっけ?>

 

<ああ、違うわよ。この画像を選んで……ああもう、ティナ頼むわ>

 

<分かりました、これはこうして……>

 

 まるでホームビデオの撮影でもしているかのようなやり取りが画面外から聞こえてきて、しばらくすると画像が切り替わって不鮮明でフラッシュも焚かれていないが、しかしそれでも一目見てステージⅣクラスであると分かる巨大なガストレアが、モノリスに取り付いている画像が表示された。

 

 すぐに菊之丞の指示を受けた分析班によって画像の鮮明化が進められ、巨大ガストレアの全体像がはっきり分かるようになる。

 

 先程のざわめきの比ではない動揺した声が上がって、聖天子の瞳も大きく見開かれる。

 

「バラニウム侵食能力を持つガストレア……ステージⅣ・アルデバラン……!!」

 

 

 

 

 

 

 

 一夜明け、第39区の将城教会。呪われた子供たちの為の学校として使用されているこの建物の礼拝堂では、蓮太郎と木更が緊張した面持ちでホワイトボードの前に立っていた。

 

「ほら、里見先生頑張って」

 

 茶化すようにくすくす笑うのは松崎老人と共に子供たちを教えている女性教師・琉生だ。彼女と松崎の頼みで、蓮太郎と木更は土日だけ子供たちの教師役を引き受ける事になったのだ。

 

「えー、今日からお前達の先生をやる事になった里見蓮太郎だ。趣味は昆虫観察、植物採取、微生物とかも好きだ。……一応、格闘技とかも出来る。何か、質問あるか?」

 

「「「はいはいはーい!!」」」

 

 途端にクラス全員が挙手して、蓮太郎は質問攻めに遭う。

 

「先生は延珠ちゃんと結婚を前提に同棲しているって本当ですか?」

 

「本当だぞ♪」

 

「延珠、話がややこしくなるから黙ってろ!! そんな訳ねぇだろ、こいつは只の居候だよ!!」

 

 続いて木更が自己紹介から質問タイムへと移行するが、全く同じ流れになった。

 

「木更先生は、おっぱいでかすぎて足下見えないって本当ですか?」

 

「え、ええっ!?」

 

「木更先生は里見先生と付き合ってるんですか? 結婚するんですか?」

 

 この質問を受けた木更の顔がかあっと赤くなって、思わず教壇をばんと叩きつつ、

 

「付き合ってません!! 結婚もしません!!」

 

 この宣言を受けて、言質を取った延珠は「っし!!」とガッツポーズ。隣に座る夏世は「私にもワンチャンスが……」などと呟いている。

 

「木更先生、先生が着ている制服って美和女学院のものですか?」

 

「ええそうよ。良く知ってるわね」

 

「じゃあ、聖天子様って知ってますか?」

 

「そうね。聖天子様もミワ女に在籍なさっているわ。と言っても、政務が忙しくてまだ一度も登校された事が無いのよ」

 

 子供たちから感嘆の声が上がる。

 

「あややお姉ちゃんは聖天子様のイニシエーターなんですよね!!」

 

「延珠ちゃんは、聖天子様って知ってる?」

 

「聖天子様とは、あんな奴だぞ」

 

 延珠が立ち上がって指差す先へと、「何をバカな」という顔の蓮太郎が視線を動かす。

 

 開け放たれた礼拝堂の入り口からウェディングドレスのような白い礼装に身を包んだ絶世の美女が、花嫁のように入ってきていた。新郎の姿は無いが、その傍らには小柄な体格に合うように改造が施された聖室護衛隊の外套を羽織った3人の少女、綾耶・ソニア・ティナを連れている。彼女達の姿を認めて、少女達はわっという歓声と共に一斉に立ち上がった。

 

「「「あややお姉ちゃん!! お帰りなさい!!」」」

 

「みんなも元気そうで何よりだよ。でも、残念だけど今日はゆっくりとはしてられないんだ」

 

 子供たちの相手をしながら、綾耶は主を見る。

 

「ごきげんよう、皆さん。勉強は楽しいですか?」

 

 聖天子は優しい笑みと共に、子供たちへと手を振って応じた。

 

 国家元首のすぐ後ろに控えていたソニアは、気付かれないように礼拝堂の中の二人へと視線を動かす。

 

 一人は琉生こと、“七星の七”ルイン・ベネトナーシュ。もう一人は“七星の一”ルイン・ドゥベのイニシエーター、モデル・ウルヴァリンのエックス。“ルイン”の関係者であるこの二人ならば、色々と知っているだろうと見ての事だった。それを肯定するように、琉生は不自然でない程度に頷いてみせる。

 

 そんなやり取りが交わされている事には、流石にこの場の誰も気付かなかった。そうして聖天子が、蓮太郎と木更に向き直る。

 

「里見さん、天童社長。国家の存亡に関わる緊急事態です。あなた達にお願いがあります」

 

 

 

 

 

 

 

「くそっ!!」

 

 リムジンのふかふかの座席に身を沈める天童和光は、苛立ちと共にスコッチをぐいっと煽った。彼はこうして過ごすのが好きだった。彼に言わせればこれは国土交通省副大臣という責任ある仕事に伴う当然の余録の一つだった。そして彼は彼の基準で必要と思う分だけ(実際には相当な頻度で)この余録を享受していた。

 

 32号モノリスにバラニウム侵食能力を持つアルデバランが取り付いたという情報は、モノリス工事の発注を行った一派の長である彼にも独自のルートで届けられていた。

 

 きりきりと、胃が痛む。彼自身ですら忘れていた古傷が痛み出した。

 

 アルデバランは32号モノリスに取り付き、バラニウム侵食液を注入しているとの事だったが、何故に32号モノリスが狙われたのか? 単純に何十分の一かの確率による偶然なのか? アルデバランは何か、他のステージⅣには無い特殊な能力を備えているのか? 何らかの地理的な条件によるものなのか?

 

 答えは否。その理由を、和光は知っていた。それは、四十にもならぬ若さで国交省の副大臣にまで上り詰めた彼の政治家生命を一瞬でぶっ飛ばす爆弾だった。当然、彼はその危険性を十分に知っていたから、あらゆる証拠は闇に葬った筈だった。

 

 だから、仮に何かがあっても真実が露見する事は無い。

 

 和光は自分が悪人であると自覚していたし、政治家である以上「悪」は切り離せないものだとある意味開き直っている。それでも、大絶滅が起こってこのエリアの何百万という住民が死ぬかガストレア化するという事実を突き付けられては、そしてその原因を作ったのが自分である事を自覚していては平常心ではいられない。人間は他人が相手ならばいくらでも騙せるし、真実を隠す事も出来る。だが、どんなに優れた謀略家も策士も、自分だけは騙せないし隠し事も出来ないのだ。

 

 グラスにスコッチのおかわりを注ぐと和光はそれを半分ほど煽って、そして頭脳を回転させる。

 

『落ち着け、証拠は全て消した。確かに32号モノリス工事を発注したのは私達の一派だが、辿り着く者が居たとしてもそこまでだ。そうだ、それにガストレアが進化して、バラニウム磁場を無力化するような能力を獲得した可能性だってあるじゃないか。寧ろその可能性を先に考える人間が殆どの筈だ。それに私ほどの立場の人間を、確かな証拠も無しに逮捕する事など出来る訳がない。大丈夫、大丈夫だ』

 

 心中で自分に言い聞かせて、精神の平衡を取り戻そうとする。

 

 実際、彼の思考は的を射ている。

 

 立場や権力を持たない一般人であれば、別件逮捕や適当な罪状で引っ張る事も出来るだろうが、彼は国土交通省の副大臣で天童の一族。軽々に逮捕してそれが誤認であったのなら、それこそ大問題となる。そうしたリスクを考慮すれば、警察であろうと証拠を掴まなければ動けない。

 

 それは、確かにそうなのだが……しかし和光は、一つの事を失念していた。

 

 確実な証拠を掴まねばならない、つまり手段を選ぶ必要があるのは、警察のような公的機関の者に限った話なのだ。

 

 和光はちらっと外を見る。

 

 流れていく景色は見覚えのないものだった。確か今日はこれから、第1区の料亭で上役との会食に出席する予定なのに。

 

「おい、どこを走っているんだ?」

 

 和光は対面の席に座っている秘書の椎名かずみを見て、そして表情を凍り付かせた。

 

 かずみが、変わっていく。

 

 顔の、いや全身の骨格が歪んで変形し、髪は伸びて色素が抜け、着衣すらも皺一つ無いスーツからゆったりとした白い衣へと変化する。

 

 数秒して、それまでかずみが座っていたそこに白い女が現れた。

 

 白い女は、妖艶な笑みを見せる。

 

 和光はここで漸く、事態を認識した。彼は当然、この女の顔を知っている。

 

 ルイン・フェクダ。蛭子影胤・小比奈ペアを従えて『七星の遺産』を強奪し、東京エリアに大絶滅を引き起こそうとした第一級指名手配のテロリスト。

 

 反射的にドアへと手を伸ばしてリムジンから脱出しようとする和光だったが、フェクダの方が早かった。鳩尾に前蹴りを入れられて、和光は一瞬呼吸が止まる。

 

「運転手、助けてくれ!! 車を止めろ!!」

 

 車内の限られた空間の中で和光は必死にフェクダから距離を取りつつ、前座席へと体を乗り出した。

 

「あまり揺らさないでいただきたいですな。右ハンドルの車を動かすのは久し振りなので、まだ感覚が掴めていないのですよ」

 

 運転席に座っていたのはワインレッドの燕尾服を着た、仮面の男だった。IP序列元134位、新人類創造計画の生き残りである機械化兵士・蛭子影胤。

 

 さあっと、和光は自分の体から血の気が引いていくのが分かった。

 

 次の瞬間、スーツの襟首をぐいっと引かれて、和光は反対側のシートへと叩き付けられた。同時に、フェクダの蹴りが顔面を襲った。二度、三度、そして五度目の蹴りが喉に入った所で、和光は意識を手放した。これは彼にとっては幸運であった。

 

 だがこの数時間後、彼は意識を取り戻したのを悔やむ事になる。

 


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