「はあっ……はあっ……」
「ほらほら、逃げろ逃げろ。お前等はこれぐらいしか生きてる意味が無いんだから、精々俺達を楽しませろよ」
東京エリア外周区の廃墟に銃声の乾いた音と少女の悲鳴とが、断続的に響き渡る。
悲鳴を上げている少女はその紅い目から呪われた子供たちであると分かる。一方で銃声を発しているのは付かず離れずの距離を保ちながら少女を追い掛けている二人の男が持つ拳銃だった。二人はそれぞれ城ヶ崎大胡と芦名辰巳といって、どちらも聖室護衛隊の一員だった。
呪われた子供たちで射的をする。これは彼等にとっては、とびきりのストレス解消法だった。
人間狩り。それは銃を持った者であれば誰しも一度は思い浮かべる誘惑であろう。だが犯罪者にはなりたくないし、と言って戦場に出て自分が撃たれるリスクを冒すのもイヤだ。呪われた子供たちの存在は、あつらえたようにそれら全ての条件をクリアしていた。税金を払っていなければ戸籍も持っていないので殺しても罪にならないし、潜在的には強い力を持っているのかも知れないが、それを振るう事が出来るのはイニシエーターになれるほんの一握り。後は所詮はガキでしかなく、銃口を向ければすぐに怯え上がって抵抗を止める。
彼等には罪悪感など無かった。人間が持っている倫理観というものは意外に強い。だから軍隊では今までの自分・既存の価値観を一度徹底的に壊し、上官の命令には絶対服従、敵と認めた者には反射的に引き金を引けるように訓練していく。大抵の人間は自分のやっているのが悪い事だと自覚していると、最後の一線を踏み越える事は中々出来ないからだ。だが、彼等は違う。寧ろちょっとしたボランティアをしているような感覚ですらあった。東京エリアのゴミどもを片付けてエリアの清掃・美化に貢献しているのだと。その過程で少しばかり楽しませてもらうのは、当然の余録であるという理屈だ。
普段は護衛隊の隊長である保脇卓人三尉もこの射的に参加するのだが、彼は今日は所用があって来られなかった。
いつもは適当な呪われた子供たちを捕まえると逃げられないようワイヤーで縛り付けて交互に撃っていくのだが、今回は少しばかり趣向を変えてみる事にしていた。動かない的を撃つのには些か飽きが来ていた所だったので、逃げ回る獲物をどちらが早く仕留めるかを競う方式だ。
「ははっ、そらそら。止まったら当たっちまうぞ」
これは良い訓練になる。辰巳は、戻ったら保脇にもこの新しい楽しみを教えてやろうと思っていた。聖天子様をお守りする護衛官たる者、腕が鈍らないように常に射撃の訓練は積んでおかなければならない。その際、的は動かなかったり規則正しい動きしかしない標的ではなく、逃げ回る獲物の方が適している。これは趣味と実益を兼ねた、素晴らしいゲームだ。
辰巳も大胡も、胸がすっとしていくようだった。最近は、あのいけすかない将城綾耶のお陰でストレスが溜まりっぱなしだった。赤目が、ガストレア予備軍の化け物が、どうやって取り入ったのかは知らないが聖天子様に気に入られて聖室護衛隊特別隊員、つまりは俺達と同格だと? 冗談も休み休み言えというものだ。挙げ句の果てにはエリアを救った英雄にまで祭り上げられやがって。赤目は外周区でゴミを喰って、ビクビクと生きているのが分相応というものなのに。
鬱憤は、晴らさなくてはならない。
パン!!
「あぐっ!!」
右ふくらはぎを撃たれて、少女が転倒する。辰巳と大胡はこれまでは怯え逃げ惑う様を見て楽しむ為に敢えて外して足下の地面を撃っていたのだが、たまには当ててやらなくては面白味がない。弾が当たって悲鳴を上げる呪われた子供たちは押すと音が鳴るぬいぐるみのようで、実際に彼等にとっては出来の良い玩具程度の認識しかなかった。
少女は絶望しきった表情で目を飛び出しそうなほどに見開いて二人を見た後、這いずって少しでも遠くへ逃げようとする。たった今彼女の足を穿ったのはバラニウム弾ではないが、いくら傷が治っても痛みは感じるし血も流れる。一部のイニシエーターならば痛覚と意識を切り離して体を動かす術も習得しているが、普通の子供より少しばかり運動神経が良く怪我が治りやすいだけのこの少女にそんなものは望むべくもない。
「う、うう……」
逃げなきゃ。死にたくない。遠くへ、少しでも遠くへ。
頭の片隅でもう逃げられない、死ぬ、遠くへなど行けないと理解していながらも、少女は逃げる事を止めなかった。
その時だった。不意に目の前に、綺麗な靴を履いた足が見えた。
「……?」
恐る恐る視線を上げると、そこに立っていたのは女の子だった。10歳ぐらいの、お嬢様風ドレスを着た蒼い髪をポニーテールに束ねた少女。ルイン・フェクダにソニアと呼ばれたイニシエーターだ。
無論、人間狩りの標的とされたこの少女には初対面の相手だが……少なくとも自分を追いかけ回している二人よりかはずっと信じられる相手に思えた。
だから、口にした。
「おねがい、たすけて」
「うん、分かった。助けるわ」
一刹那の思考も介さず、脊髄反射的な速さでソニアが答えた。前に出て少女を自分の後ろに隠すと、近付いてくる二人の男に向き合う。
「何だ、お前は……」
訝しむように辰巳が言う。着ている服は清潔だし外周区の住人とも思えないが……そんな風に考えていると、蒼い髪の少女の両眼が紅くなった。呪われた子供たち。そうと分かれば遠慮する事はない。獲物が一匹から二匹になっただけだ。彼は醜悪な笑みを浮かべる。
「ちょうどいい、お前も俺達の遊びに付き合え。30分、死なずにいられたら逃がしてやるよ」
「イヤだといった場合は?」
全くの自然体でそう語るソニアに、辰巳は違和感を覚えた。例えるなら演劇で、相方の役者が全く違う台本の台詞を喋っているようなちぐはぐさだ。
「……そりゃ、この場で撃つだけだ」
銃口を向ける。だがそこまでされてもソニアは全くの自然体で、眉一つ動かさないし汗も掻かない。大胡と顔を見合わせる。違和感は、少しの不安へと形を変え始めていた。
「じゃあ、私も言うわ。このまま何もせずに帰るなら、私はあなた達に何もしない。でも、帰らないなら……それはあなた達にとってはとても悲しい選択だと言えるわね」
哀れむように言われて、聖室護衛官の二人は揃って頭に血を上らせた。こんな態度は許せない。エリアのゴミが、自分達に怯えないどころか命乞いもせず、あまつさえ対等以上の口を利くなんて。もうこれはゲームではない。楽しみなどは度外視して、身の程というものを思い知らせてやる必要がある。
二つの銃口がソニアの膝と胸にそれぞれ照準を合わせて……
「あ……逃げ……!!」
撃たれる!! 少女は叫ぼうとして……
ソニアは軽くウインクする。
すると辰巳と大胡の手に握られた拳銃がいきなり目には見えない力で引っ張られて、二人の手から離れた。
奪われた拳銃は宙に浮いたままくるりと反転すると、その銃口が二人の額に照準して空中で止まった。
「なっ……!?」
そんなバカな。辰巳も大胡も絶句する。呪われた子供たちが保菌するガストレアウィルスの恩恵によって超人的な身体能力を発揮するのは二人とも知っている。だが今、自分達の目の前で起こっているのは一体何なのか。まるで念動力のように触れもせず自分達の手から銃を奪い取り、更にはその銃を空中で動かして操るなど。超能力を使う呪われた子供たちなんて、聞いた事もない。
「そんなバカな。って顔してるわね?」
にこりともせず、ソニアは言った。
「この力はそこまで不思議なものでも特別なものでもないわよ。モデル・ラビットのイニシエーターが脚力に秀でるように、モデル・スパイダーのイニシエーターが糸を使うように。イニシエーターが持つ固有能力に過ぎないわ。私はモデル・エレクトリックイール、デンキウナギの因子を持つ呪われた子供たち(イニシエーター)」
何かをつまむようにしたソニアの親指と人差し指の間に、スタンガンのような火花が散ってバチッという音が鳴った。
「そして……ただ発電を行うだけじゃなくて電磁石のように磁場を作り出し、金属を自由にコントロールする事が出来るのよ」
たった今、二人の手から銃を奪ったのはその力だ。
こいつは、ヤバイ。聖室護衛隊の二人は同時に同じ結論に達して、一目散に背中を見せて逃げ出した。
今日はハンティングに来た筈だったが、追い立てる筈の獲物から逃げ出すのが屈辱だという思考はもう彼等の中から消滅していた。今日は鹿狩りの筈だったのだ。熊とやり合う事などは予定に入っていない。
50メートルほど先に、乗ってきた車が見えた。
辰巳の顔に引き攣った笑みが浮かぶ。
兎に角、この場は逃げるのだ。その後で呪われた子供たちに殺され掛けたという事実を聖居に戻って伝えて、赤目のガキどもが如何に危険な存在であるかを世間に知らしめ、駆除してやる。ついでにあの将城綾耶も追い出してやる。
ソニアは走って二人を追い掛ける事はしなかった。代わりに、万歳するように手を上げる。するとその動きに連動するようにして車が空中に持ち上がった。車は50メートルの高さに達するまで空を飛んで、その後で重力に従い自由落下。屋根から地面に落ちて、ペシャンコになった。
「なっ……そんな……」
「あ……あ……」
逃げる為の足が無くなった。絶望的な事態に二人は顔を凍り付かせて、そして恐る恐る振り返る。振り返ったそこには、絶望そのものが立っていた。ソニアが一歩、また一歩と近付いて来ている。両肩の高さに浮遊した拳銃二丁を引き連れて。
5メートルの距離にまで近付くと、ソニアは歩みを止めた。彼女の下僕と化した拳銃は磁力の見えない手によってスライドが動き、発射態勢が整う。
「よ、よせ!! 止めろ!! 撃つな、撃たないでくれ!!」
大胡が口から泡を飛ばしながら命乞いをするが、
「そう言う呪われた子供たちに、あなた達は何て答えるの? 今まで、一度でも命乞いする呪われた子供たちを助けてあげた事があるの?」
氷よりも冷たい返答が返ってきた。
「畜生、くらえっ!!」
辰巳が喚きながら、懐に隠していたナイフを突き出す。そのブラッククロームの刃は、バラニウム製だ。しかしソニアの体を真っ直ぐ一突きにする筈のナイフは彼の手に握られたままUターンするような軌道を描いて、辰巳は自分で自分の腕を突き刺す形になってしまった。
「きゃああああああああっ!!」
ソプラノ歌手のような高い声が廃墟に木霊する。ソニアは呆れた顔になった。
「……だから、言ったでしょ? 金属を自由にコントロール出来るって。バラニウムだって例外じゃないわ」
「く、来るな!! 来るなぁ!! だ、誰か……誰か助け……!!」
「誰も来ないわよ。大体、他の人に見られたくないから、誰も来ないような場所をあなた達は選んだんじゃないの?」
冷ややかにそう言うと、ソニアは拳銃を掴んでいる磁力へと指令を出した。彼女の見えない手である磁場は全く完全にその指示通りに動き、引き金を引いて、この一角に二発の銃声が響いた。
10メートルほど離れた所で見ていた少女が、思わず体を竦ませる。
「あ……あ……あ……」
辰巳は、焦点の定まらない目で口をぱくぱくさせている。大胡は、白目を剥いて意識を失ってしまっていた。口からは石鹸でも食べたように泡を噴いている。
発射された二発の弾丸はどちらも二人の男の額に触れる0.5センチメートル手前で、回転しながら空中に静止していた。ソニアが磁力で止めたのだ。
「気の小さい人達ね」
自分達は散々やってきたくせに、立場が逆になった途端にこれとは。はぁ、と溜息を一つ。目線を下げると、二人ともズボンの前と後ろを汚していた。
興味を失ったソニアは手を一振りする。すると彼女の思念と繋がっていた磁力エネルギーは消滅して、銃も弾丸も地面に落ちた。
そうして助けた少女の元へと歩み寄ろうとして……ソニアは一度振り返ると再びマグネティックパワーを使って、拳銃二丁をバラバラに解体した。二人の男は殆ど廃人状態。まず大丈夫だろうが、油断した所を後ろから撃たれてはたまらない。
今度こそ全ての危険が排除された事を確かめると、うずくまったままの少女の傍でしゃがみ込む。
「大丈夫?」
「う、うん……あ、ありがと……」
見れば傷は治りかけているが、弾が貫通せずに体内に残ってしまっている。ソニアはそっと傷口へと手をかざした。
「少しだけ、我慢してね」
そう言って一瞬だけソニアの瞳が紅くなる。
「あっ……!!」
短く、少女が悲鳴を上げる。ソニアの手には血が付いた弾丸が置かれていた。磁力で引っ張って傷口から摘出したのだ。ソニアは弾丸を捨ててしまうと、少女に肩を貸して立ち上がらせてやる。
「あなた、名前は?」
「……沙希(さき)……」
「沙希ちゃんね。私はソニア。ところで……突然だけど沙希ちゃん、あなた高い所は平気?」
「え?」
「だから、高い所よ。高所恐怖症じゃない?」
「う、うん……それは大丈夫だけど……」
何故彼女はこんな事を聞くのだ?
……という、沙希の疑問はすぐに解消される。
「それは良かった」
頷いたソニアの瞳に再び炎が灯って、そして彼女の足が重力の軛から解き放たれて空中に浮き上がり始めた。当然、肩を貸されている沙希も一緒に宙に浮く。
「え!? え!? 何!? 浮いてる!?」
「落ち着いて。これも私の力よ。電気を使って、イオノクラフトの原理で飛んでるの」
そう言っている間にも少しずつソニアは高度を上げていき、ものの十秒でビルの屋上を見下ろせるぐらいの高さに到達した。
「あは……ははっ」
沙希は最初は驚いていたが、しかしこうして空を飛んでいるのが夢でも幻覚でもなくそして危険も無いという事が分かると次第次第に落ち着きを取り戻し、次にはこの状況を楽しもうという気持ちになってきた。ヘリも飛行機も使わずに空を飛ぶなんて、普通の人間では一生どころか何回生きても出来ない人が殆どだろう。自分は今、物凄く貴重な体験をしているのだ。
流れていく眼下の景色を眺めながら、沙希が尋ねる。
「何処へ行くの?」
ソニアが答える。
「安全な所へ」
東京エリア第39区。綾耶の実家でもある教会では今日も第39区第三小学校の授業が行われていた。
「……それで、気圧が下がると雨が降り出す訳ね。それで雷が生まれるのは水滴と氷の結晶がぶつかり合って、正と負の電荷を持った粒子が発生する為で……」
礼拝堂を教室代わりに使い、祭壇の前で教鞭を取るのは琉生であった。子供たちは興味津々、目を輝かせて授業に聞き入っている。転校してきたばかりの3名、特に延珠はこの授業内容に驚いていた。前に通っていた勾田小学校での授業と比べても少しも見劣りしない。蓮太郎は非正規の学校では授業のレベルが低い事を気にしていたようだが、どうやら杞憂であったようだ。
綾耶も、今は聖天子の身の回りが落ち着いているので復学している。松崎老人は最後尾の席でそんな子供たちを授業参観に来た祖父のようにニコニコ笑いながら見守っていた。
「そして、地上では空気の流れが活発になって……ん」
琉生は何かに気付いたように時計を見ると、マーカーを置いた。パンと手を叩く。
「みんな、実は今日は転校生が来ることになっているの」
「え? ホントですか?」
「わぁ、また友達が増えるんですか?」
「どんな子なんですか?」
「とても気だてが良くて、友達思いの良い子よ。きっとすぐに仲良くなれるわ」
子供たちの質問攻めに琉生はくすっと笑いながら答えると、礼拝堂を横切って出入り口へと向かっていく。
「そろそろ着く予定の時間よ。みんなでお迎えしましょう」
「「「はーい!!」」」
起立した子供たちを引き連れた琉生が扉を開いたそこには、外周区らしく廃墟が見えるだけで人影はなかった。まだ来ていないのだろうか? そう思って周囲を見渡していると、ぽつんと地面に影が落ちている事に気付いた。
影が出来るという事は……
誰からともなくその結論に達して顔を上げると……思いも寄らぬものが目に入った。
二人の少女、ソニアと沙希が空からふわふわと下りてきていたのだ。
「わあぁ……」
ざわざわと、子供たちが声を上げる。
「べ……琉生……さん、お久し振り」
着陸してすぐに沙希をすぐ横に立たせると、ソニアが頭を下げる。沙希の足の怪我は、ここへ来るまでにもうすっかり治っていた。
「元気そうね、ソニア……その子は……?」
「私の友達よ。彼女も一緒にこの学校に迎えて欲しいのだけど……良いかな?」
「勿論!!」
沙希に助けを求められた時のソニアにも負けないぐらいの早さで、琉生は即答する。これは彼女にとっても予想外の事だったが、ここは呪われた子供たちの為の学校だ。受け入れない理由など無い。事後承諾になってしまったが松崎に視線を送ると、彼も柔和な笑みを浮かべて頷きを返した。
「……ちょっと、意外ね」
「何が? ソニア」
「第一印象って大事だからね。驚かせようと思って空飛んできたのに、みんなあまり驚いてないみたいで……」
琉生は「ああ成る程」と頷きながら苦笑する。
「空を飛べるのはあなただけじゃないって事よ」
「ね」と、綾耶へと視線を送る。この学校の子供たちは全員が綾耶の妹分で、時折彼女と一緒に空を飛んでいる。空中散歩は子供たちに大人気で、予約は二週間先まで一杯だ。そういう事情があるから、空を飛べるソニアにもさほど驚かなかったのだ。
「初めまして、将城綾耶です。よろしく……」
琉生を通して視線が合った事もあって、綾耶が前に進み出ると手を差し出す。
「ソニア・ライアン、10歳よ。好きなものは静かな所で、嫌いなのは都会とかの電波が沢山飛んでる所ね。琉生……先生とは昔、外周区で怪我している所を助けてもらって、それからの知り合いなの。今回、紹介を受けてここでお世話になる事になったわ。どうか、よろしく」
その手を握り返すソニア。と、ぴくりと綾耶が体を震わせた。ソニアは、困ったように笑って頭を下げる。
「ごめんなさいね。私、静電気とか溜まりやすい体質で……今度、防止グッズとか買おうかしら」
「ううん、気にしないで。僕も……」
ほんの少しの間、綾耶が眼を赤くする。すると握手している二人の掌がぴったりとくっついてしまった。
「あら?」
「この通り、掌が何かとくっつきやすい体質だからね」
からからと笑いながら冗談めかして言う綾耶を見てソニアは少しだけ目を丸くすると、微笑を見せた。これは綾耶なりの気遣いだ。変わった体質なのはソニアだけではないという事だ。少しだけ腕に力を入れると、くっついた手はすぐに離れた。元々そこまで強い接着力ではなかったのだ。ちなみにこれは真空接着という現象で、綾耶はソニアとの手と手の間に存在する空気を吸い取って真空に近い状態を作り出し、掌同士を吸着させたのだ。
「妾は藍原延珠だ。分からない事があったら何でも妾に聞くがよい!!」
「千寿夏世です。私も転校してきたばかりで分からない事ばかりですが……仲良く一緒にやっていきましょう」
「マリアです。友達が増えて私も嬉しいです。仲良くして下さい」
順番に握手を交わし、自己紹介していく子供たち。その中の一人に当たった所で、僅かに間が生じる。モデル・ウルヴァリンの30位イニシエーターの所で。
「……エックス」
「あぁ、エックスちゃんは少し恥ずかしがり屋なの。人と話すのもあまり慣れてなくてね。悪い子じゃないから、そこは分かってあげてね」
もっともらしい事を言う琉生だが、エックスが他の子供たちと反応が違った理由は別にある。何を隠そう、この二人は顔見知りなのだ。エックスのプロモーターである一色枢は一番目の”ルイン”であるルイン・ドゥベ。ソニアが今回東京エリアにやって来たのは三番目であるルイン・フェクダの依頼によるもの。そこまで親しい間柄でもないが、ルイン達を介して二人には接点があるのだ。ソニアがこの第39区第三小学校にやって来たのも偶然ではなく、琉生こと七番目のルイン・ベネトナーシュが教師を務めているからだった。この東京エリアでの拠点として、彼女はここを選んだのだ。
上手く取りなしてもらった事もあって、エックスと握手するソニア。そうして自己紹介は続いていく。
「ササナだよ。趣味は、絵を描く事!! ソニアちゃんの趣味は何?」
握手しながら質問されたソニアは「ふむ」と顎に手をやると、ぽんと手を叩く。
「そうね……答える前に聞きたいんだけど、この中で自分のモデルを知っている人は居る?」
そう聞かれて、子供たちの多くは「もでる?」と首を傾げるだけだ。無理もない。自分が保菌するガストレアウィルスのモデルを知る機会など、イニシエーターとならない限りはまず無い。例外としては身を守ろうとして力を使って、偶然によって知るぐらいか。幸いにしてそういう経験をした子供は、この中には居なかった。
よって自分のモデルを知っているのは、
「妾のモデルはラビット、兎だぞ」
「私はモデル・ドルフィン。イルカの因子を持っています」
「僕はモデル・エレファント。象だね」
「…………クズリ」
延珠、夏世、綾耶、エックスの4名のみであった。
「うん……じゃあ、延珠ちゃん。お近づきの印に、私からプレゼントを贈らせてもらうわ」
そう言うとソニアはドレスの袖口から、一本の針金を取り出した。タネも仕掛けもない事をアピールするマジシャンのように両手で持ったそれを全員に見えるように高く掲げると、信じられないほど滑らかに両手を動かし、針金に形を与えていく。ほんの一分も経たない内に一次元、只の線でしかなかった針金は編み上げられて三次元の立体へと変化して、大きな耳と丸い尻尾を持った小動物、兎を模した細工になった。
「おおっ!!」
「凄い!!」
「かわいー!!」
一斉に、歓声が上がる。それを受けつつ、ソニアは「はい」と手を差し出して針金の兎を延珠に渡した。
「あ、ありがとうなのだ。大切にさせてもらうぞ。帰ったら蓮太郎にも見せるのだ」
「ソニアちゃん!! 私にも作って!! 鳥さんが良い!!」
「私はワンちゃん!!」
「猫さん作れる?」
「カンガルーは?」
どっと子供たちに押し寄せられて、ソニアはもみくちゃにされてしまう。
「ま、待って!! 順番に一人ずつ!! 大丈夫よ、針金は沢山あるから!! ちゃんと人数分出来るわ。押さないで!!」
何とか子供たちを落ち着かせると、針金細工の製作へと取り掛かっていくソニア。そんな微笑ましい光景を列から離れて見ていた綾耶は、隣に立っていた夏世のセーターの袖をくいっと引いた。
「? 綾耶さん、どうしました?」
「ね、夏世ちゃん……気のせいかな……何か僕の目には……あの針金がひとりでに動いて兎の形になったように見えたんだけど……」
眼をぱちくりさせながら眼鏡を掛け直しつつ、綾耶が言う。そう言われた夏世は首を傾げると、今度は針金のペンギンを作っているソニアの手元へ目を凝らす。
「んんっ……?」
だが距離がある事と、少しも止まらず動くソニアの手が絶妙に死角を作り出して、はっきりとは分からない。
「……残念ですが、分かりません。気のせいでは?」
「いや、妾の目にも何か……微妙に針金の動きがおかしかったように思えたぞ?」
逆隣に立っていた延珠も、訝しむような表情を見せている。
「エックスさんは?」
「…………」
30位のイニシエーターは何も言わず、首を横に振って答えた。
「……気のせいだったのかな?」
「……そうかも知れぬな」
鏡合わせのように腕組みして、首を捻る綾耶と延珠。あまりにも早くソニアの手が動くので、針金自体が動いているように錯覚しただけかも……それに、仮に見間違いでなかったとしても害がある訳ではないし、まぁいいかという結論に落ち着いた。
「…………」
エックスはそんな綾耶と延珠を横目で見ながら、無表情の内側では感心という感情を抱いていた。
針金が動いているように見えたのは、二人の見間違いではない。あの針金細工は、ソニアにとっては只の趣味ではなくトレーニングを兼ねているのだ。エックスも昔、コアラを作ってもらった事があった。しかも捕まっている木付きで。
手を複雑に動かしつつ、その手に引っ掛かったり絡まったりしないように磁力で針金を操作しながら動物の形に編み上げていく。ソニアは何でもないようにやっているが、その実相当の集中力を必要とする職人芸だった。手の動きはフェイク、歌唱に於ける口パクに過ぎず、実際には磁力で動く針金が動物の形へと変化しているのだ。
細工を作っていると見えるように手を動かしながら体内で発電し、作り出した磁力を針金が掌に乗るサイズの動物を形作るよう精密オペレートするソニアも凄いが、それが半信半疑のレベルとは言え見えていた綾耶と延珠も中々のものだとエックスは評価する。
自分のようにソニアがデンキウナギのイニシエーターで、電気から作った磁力で金属を操れるという予備知識が無い限りは、針金がひとりでに動くなど想像の枠外の出来事。しかもソニアはデタラメではなく、本当に針金を編んでいるとカムフラージュするように手を動かしているのだ。目が良いだけでは分からない。ほんの僅かな違和感を察知できる注意力に長けているのだ。特に綾耶は聖室護衛隊の特別隊員として聖天子のボディガードも仕事の一つらしいが、彼女には向いているなとエックスは思った。
夏世は、元序列千番台のイニシエーターとは言え彼女のポジションは後衛。前衛で、ガストレアとの戦いで鍛えられた綾耶や延珠の目でも捉えきれなかったものが見えなくとも仕方はあるまい。
そんな思考に浸っていたエックスを、電子音が現実に引き戻した。スマートフォンが鳴らす着信音だ。子供たちや琉生、松崎の視線が一斉に綾耶へと集まる。
「綾耶、あなたも仕事だから急な呼び出しは仕方がないけど、せめてマナーモードにはしておきなさい」
「すいません、琉生先生」
頭を下げつつ、少し離れた所で電話に出る綾耶。掛けてきたのは彼女のプロモーターだ。
「はい、聖天子様。御用でしょうか」
<授業中にすいませんね、綾耶。あなたに、お使いを頼みたいのです>
「お使い……ですか?」
<ええ、天童民間警備会社まで>
話を聞かれないよう子供たちの輪から距離を置いていた綾耶は、針金細工を作りながら向けられているソニアの視線に気付かなかった。