ブラック・ブレット 星の後継者(完結)   作:ファルメール

11 / 42
第11話 未来の創り手

 

 ルイン、及び蛭子影胤ペアの撃破を確認してJNSC会議室が沸き立ったのは、ほんの一瞬の出来事だった。

 

 これには作為は存在せず全くの偶然であろうが、その報とほぼ同時に、東京湾に規格外のガストレア出現の連絡が入った。その異形、その巨体、誤認する事など有り得ない。完全体たるステージⅣを超越した究極体。ステージⅤ・ゾディアックガストレアの一角たる天蠍宮(スコーピオン)。十年前、世界を滅ぼした十一の悪魔の一柱。

 

 ガストレアを退けるモノリスの磁場すらものともしない超越した存在。滅びの具現。

 

 すぐさま空海の動ける部隊に緊急出動(スクランブル)が掛かり、ありったけの火器や化学兵器で以て必死の防戦が展開されるが、巨大ガストレアは人類の叡智の粋を集めたあらゆる兵器の威力を受けても虫に刺された程度の痛痒しか感じていないようだった。

 

「死にたくない……私は死にたくない、死にたくないんだぁっ!!」

 

 “死”が一歩、また一歩と近付いてくる絶望的な中継を見せ付けられて、恐怖が臨界点に達した一人の大臣が会議室から飛び出すと、後はもうイモヅル式だった。

 

「私もイヤだ!!」

 

「わ、私も……!!」

 

「私もだっ!!」

 

「待て、貴様らっ!! ……連れ戻してきます!!」

 

 皆が我先にと逃げ出し、その次には追うと見せ掛けて自らも逃げる者が出た。

 

 彼等を冷ややかな横目で見送りながら、菊之丞は静かに聖天子へと歩み寄った。

 

「聖天子様、移動の準備を……」

 

 ここでの移動とはシェルターへの避難を意味しない。もっと長距離へのものだ。ステージⅤ召喚という最悪の事態が成ってしまった場合の備えとして用意されていた最後の手段、政府高官を大阪エリアへと移送する為の、護衛の戦闘機を付けた特別便。国家元首の専用飛行機への搭乗を促すものだった。

 

 だが、聖天子はゆっくりと頭を振る。

 

「その必要はありません」

 

「聖天子様!!」

 

 菊之丞の語気が強くなった。統治するエリアを見捨て、守るべき民をも見捨て、自分だけ助かる事など出来ないと言うのだろうか。その気持ちは高潔であり、美しいものだと思う。だが、時として一人の命は百の臣よりも、万の民よりも重い事とてある。たとえ自分もこの東京エリアの民も皆死んでも、聖天子だけは生き延びねばならないのだ。それが、統治者としての義務でもある。

 

 だが、聖天子が腰を浮かさないのはそうした使命感からだけではなかった。

 

「まだ、希望はあります」

 

「天の梯子は……」

 

 ガストレア大戦末期に開発され、ステージⅤ撃滅を目的として作られた超電磁砲。一度の試運転もされていないので実際の威力については計り知れないが、カタログスペックについては菊之丞も承知している。確かにあれが想定されている通りの威力を発揮出来れば、ゾディアックと言えど撃破できる可能性はある。実際に今、その可能性に懸けて木更をなし崩し的に作戦責任者として、彼女の指示を受けた蓮太郎・延珠ペアが現地へと向かっている。

 

『だが……間に合うまい』

 

 彼等が天の梯子へ辿り着き、そしてレールガンの発射準備が整うまでに、スコーピオンは東京エリアに到達してしまい、大絶滅は起きる。

 

 加えて、ガストレアは音にとても敏感だ。下手なビルより巨大なモジュールが稼働する際の轟音たるやどれほどのものか。それはまるで暗闇の中のライト、絶好の標的だ。誘蛾灯のように、ガストレアを呼び寄せてしまう。そうなれば蓮太郎も延珠も殺されて、天の梯子も破壊されて全てが終わる。

 

 事態は既に詰んでいる。

 

「もう……このエリアを守れる者は、居りませぬ」

 

「いいえ」

 

 きっぱりと、聖天子は言い放った。同時に、机に置かれていた彼女のスマートフォンが着信音を鳴らす。画面に表示されたのは知らない番号だったが……だが、誰からの電話か、彼女には分かっていた。このタイミングで掛けてくる者など、一人しか居ない。

 

 このエリアを守れる者の一人。残された希望の欠片の一つ。

 

「綾耶ですね」

 

<はい、聖天子様。やっと連絡が取れました>

 

 

 

 

 

 

 

<綾耶ですね>

 

「はい、聖天子様。やっと連絡が取れました」

 

 綾耶が手にしているのはルインから奪い取ったスマートフォンだ。彼女自身の物は未だ通信妨害が掛けられていて使用不能なので、使わせてもらう事にした。

 

<今、どこに居ますか?>

 

「東京湾です。目の前に、スコーピオンが見えてます」

 

 仕留めた海棲ガストレアの死体を足場にしながら、綾耶は海上の山とも形容すべき巨体を見上げる。

 

 四百メートル近い全体には様々な種の特徴がそこかしこに現れていて混沌としている。それはまるで悪性の腫瘍か疱瘡にかかったように凸凹で、一目見ただけで生理的嫌悪をもよおす。その中で一際目立つのは全身を突き破って伸びている8本の逆棘の生えた異形の物体だ。天蠍宮(スコーピオン)のコードネームは、これに由来するものだった。

 

 最早地上のどんな生物にも共通点を見出す事が出来ない。ガストレアという種の頂点の一つ、人類に滅亡をもたらす悪夢。悪魔、怪物、魔物。こうしたワードがこれほどぴったり当て嵌まる存在など他にはあるまい。

 

「……!」

 

 綾耶は微妙な違和感に気付いて、左手を見た。彼女のその手は、震えていた。これは生物としての根源的な恐怖だ。およそあらゆる生き物は死を恐れ、死から遠ざかろうとするよう、生まれながら創られている。怖い。素直にそう思う。

 

 だがそれでも、ここで背を見せて逃げる訳には行かない。そうするぐらいなら、そもそもここへ来はしなかった。為すべき事を為しに来たのだ。イニシエーターとして、戦う為に。

 

「聖天子様、ご命令を」

 

 電話の向こうにいる自分の主が僅かに息を呑んだ気配がした。

 

<……綾耶、詳細は省きますが現在スコーピオンを倒す為の兵器が発射態勢を整えつつあります。あなたは準備が整うまで、スコーピオンの足止めをお願いします>

 

 一拍だけ置いて、凛とした声が返ってくる。

 

「了解しました」

 

<それと、もう一つ>

 

「はい」

 

<……あなたのロザリオは、ちゃんと預かっています>

 

「……はい!!」

 

 その言葉の意味する所を悟って、綾耶は会心の笑みを見せて通話を切った。預かっているという言葉。つまり、取りに戻ってこいという事だ。必ず、生き延びて。

 

 命に替えてこのエリアを守れと、そう言われると思っていたが……それより何より、ずっとずっと励みになる言葉だった。

 

 至難ではあるが……だが今まで、綾耶は一度たりとて聖天子に背いた事はない。それが彼女の誇りだ。だから、今回も背かない。死ぬ訳には行かない。

 

 それに生き残る目は、僅かながらある。

 

 相手は世界を滅ぼしたガストレア。純粋な戦力では綾耶とは天地の隔たりがある。五分の条件で戦ったのでは、彼女には万に一つの勝ち目どころか生き残る可能性すら絶無であろう。だが、地の利は綾耶にあった。森林地帯で夏世と共にガストレア群と戦った際、最終的には血の濁流でステージⅣ数体を纏めて葬り去った時のように、周囲に大量の液体があれば、彼女は本来の実力を大きく上回る戦闘力を発揮出来る。そしてここは海、周囲には武器となる水が無尽蔵に存在する。絶望には、まだ早い。

 

 ただそれでも、このガストレアを倒す事は絶対に不可能だろう。時間稼ぎもどれほど出来るか。

 

 それまでに、聖天子様が言っていた兵器の準備が整ってスコーピオンが倒せるかどうか。それが、勝負の鍵だった。

 

「頼むよ、延珠ちゃん、蓮太郎さん……僕を無駄死にさせないでね」

 

 

 

 

 

 

 

 蓮太郎、延珠、綾耶と影胤、小比奈、ルインの2組6人が激戦を繰り広げた海岸も、今は十分前の喧噪から打って変わって静かなものだった。

 

「パパァ……パパァ……」

 

 がっくりと膝を落としてぶつぶつ呟いている小比奈と、胸にバラニウム刀の切っ先を突き立てられてうずくまったまま、血溜まりの中でぴくりとも動かないルインの二人が居るだけだ。

 

「随分、手酷くやられたものね。あなた達程の者が」

 

 不意に、そこに声が掛かる。小比奈は「ふぇ?」と声のした方に顔を向けて、ルインは血塗れになった顔をゆっくりと上げる。

 

 立っていたのは、くたびれたスーツを着込んだ中年女性。外周区の教会で松崎老人と共に呪われた子供たちの為の学校を開いている琉生(るい)という女だった。

 

「七番……」

 

 小比奈がそう呟いた時、琉生の体に異変があった。着衣も含む彼女の全身がまるで石を投げ入れられた湖面のように波打って、形を変えていく。肩ぐらいだった白髪交じりの髪は雪のように真っ白く、腰にまで伸びて、肌からは年相応のシミやシワが消えてハリのある瑞々しいものへと時を遡ったように変化する。着衣すら、シワが寄ってくたびれたスーツから白い衣へと変わった。

 

 数秒して変化が終わった時、立っていたのは琉生ではなく、ルインと瓜二つの美女だった。着衣に付いた血の汚れや落とされた右腕を除けばそこに姿見が置いてあるかと錯覚するだろう。一卵性の双子であってもこれほど似ているかどうか。

 

 これは“ルイン”達が持つ力の一つだった。ガストレアウィルスは感染者の体内浸食率が50パーセントを超えると形象崩壊というプロセスを経て、人の姿を保てなくなり感染源と同じモデルのガストレア化する。だがウィルスへの適合因子を持つ“ルイン”達はこの形象崩壊をコントロールする事が出来た。そして彼女達の中にあるウィルスは感染源を持たないモデル・ブランク。通常、形象崩壊は感染源と同一のモデルにしか変化出来ないが、“ルイン”達の中にあるガストレアウィルスは動物因子という方向性を持たないが故に、何にでも変われる。彼女達は姿形は勿論の事、身長・体重はおろか声や指紋、目の虹彩に至るまで自在に変身する事が可能だった。

 

「動かないでね」

 

 もう一人のルインは傷付いた方のルインへと近付くと、突き刺さっていた小太刀の先端を引き抜く。

 

「ごほっ……」

 

 ルイン・フェクダは再び盛大に吐血したが、しかし同時にガストレアウィルスの再生能力を阻害するバラニウムが体から取り去られた事で胸の傷も穏やかなスピードながら治癒を始める。

 

「来てくれたのね、助かったわ」

 

「はい、これ」

 

 無傷の方のルインは落ちていた右腕を拾うと、傷付いている方のルインへと渡す。片腕のルインが腕と胴体の傷口の断面をくっつけて十秒ばかりが経過すると、切断された傷はビデオの逆再生のようにじわじわと接合した。右手の指を一本一本動かしてみる。感覚通りに動くのを確かめると、ルイン・フェクダは「うん」と頷く。

 

「七番(ベネトナーシュ)……あなたの教え子と話をして、戦ったわ」

 

「綾耶と?」

 

 もう一人のルイン、ルイン・ベネトナーシュは予想半分意外半分という顔を見せた。

 

「あなたに、色々と教えられたと言っていたわ。良い先生が出来てるみたいね?」

 

 ルイン・フェクダはそう言いながら変身能力を発動させ、戦う前の汚れのない衣装を纏った姿へと移行する。彼女はそうする間にもぐっぱぐっぱと拳の開閉を繰り返して、くっついた右腕の感覚を確かめていた。

 

「私の教えなどちょっぴりだけよ。強さも優しさも、綾耶は出会った時から持っていたわ」

 

「ふぅん……?」

 

「で、どうするの? これから……」

 

「スコーピオンが来た時点で、私達の計画は完了……当初の予定通り、後はこのエリアの人達に任せるわ」

 

 と、三番(フェクダ)。七番(ベネトナーシュ)も頷く。

 

 ルイン達の目的はエリアの征服でもなければ住民の虐殺でもない。彼女達の目的は人類の進化を促す事。その為にガストレアという”脅威”を存在させ続けようとしている。

 

 フェクダの言葉通り今回の作戦はスコーピオンの召喚が成った時点で、その後の結果がどうあれ成功している。

 

 もし東京エリアが滅ぶのならば、ステージⅤの脅威を再び世に知らしめて、十年前の大戦の恐怖を世界中に思い出させる事が出来る。

 

 もし大絶滅を免れようとするのなら、人間だとか呪われた子供たちだとか、そうした垣根を超えて皆が一丸となって戦わねば不可能だろう。それはこのエリアの人がより良い存在になったという証明だ。

 

 どちらに転んでもルイン達にとっては目論見通りだった。

 

「じゃあ、私は影胤を回収してくるわ。海に落ちたのよね? フェクダ、あなたは……」

 

「私は一番(ドゥベ)に連絡を取るわ。それでどう動くかは、あいつ次第だけど……」

 

 フェクダは右腕を使う事を避け、慣れない左手で懐をまさぐってスマートフォンが無い事に気付いた。綾耶に奪われたのだ。

 

「ごめんベネトナーシュ、スマホ貸してくれる?」

 

 

 

 

 

 

 

「くっ、弾切れ……!!」

 

 毒突きながら、千寿夏世は撃ち尽くしたフルオートショットガンを棍棒のように使って、飛び掛かってきたガストレアを吹っ飛ばした。

 

 市街地でルイン一味と民警達との戦いが始まって、加勢に駆け付けた蓮太郎と延珠を見送り、自身は押し寄せるガストレア群の足止めに残った彼女だったが限界は近い。トラップとして使える地雷や手榴弾はとうの昔に底を尽き、残った武器は拳銃とサバイバルナイフ一本。

 

 襲ってきたガストレア達も大分数を減らしてはいるが、夏世のモデルはドルフィン。知能指数と記憶力に長けている事が長所であり本来戦闘には向いておらず、呪われた子供たちに共通する再生力も平均値と比較して高いとは言えない。彼女の服はあちこちがガストレアの爪や牙で引き裂かれていて、露わになった肌に刻まれた傷はまだ治りきっていないものが多い。

 

 ガストレアは未だ十体以上も残っている。バラニウム製の武器を持っているとは言え、拳銃やナイフでは心許ないと言わざるを得ない。

 

 蓮太郎には別れ際、劣勢になったら逃げると言った。その通りにしたいのは山々だが……

 

「……」

 

 彼方を見やる。軋むような金属音と共に、天の梯子が動き出している。あれが使われるような事態という事は……恐らくステージⅤが現れたのだ。ここで自分が逃げたらガストレア達は音に群がってあのレールガンにまで到達し、破壊してしまうだろう。そうなったら何もかもが終わる。蓮太郎も延珠も、東京エリアも。

 

「……っ!!」

 

 一瞬、薪を囲んで語り合った民警の少年の顔が浮かんで、夏世の中から逃げるという選択肢が消失する。

 

 自分のプロモーターがこれを見たらどう思うだろう。他人の為に命を張るなど愚かだと笑うだろうか。それすらせずにただ失望を露わにするだろうか。確かに、合理的な思考だとは夏世も思わない。だがそれでも。それでも、彼女をここに踏み留まらせるものがあった。

 

 今度は蓮太郎達と会う前に森の中で出会った綾耶の顔が浮かんだ。

 

『すいませんね、綾耶さん……あなたに助けてもらった命ですけど……ここで捨てる事になるかも知れません』

 

 考えつつも、訓練によって体に染み付けた動作で一番近いガストレアの頭部へ拳銃の照準を合わせて、引き金を引く。一発、二発、三発目の銃声が鳴り響く筈だったその時、

 

 がちん。

 

 乾いた金属音。撃った後の薬莢が排莢口とスライドに挟まれて詰まってしまっていた。

 

『ジャムった……!? こんな時に……!!』

 

 整備はきちんとしていたのに、よりにもよって今。運にも見放されたか。

 

 二発の銃弾を浴びたガストレアは、痛みの報いを夏世に受けさせるべく彼女など容易く一呑みに出来るだろう大口を開き、飛び掛かってくる。ナイフへの持ち替えは間に合わない。スライド操作をして薬莢を排出している時間も無い。

 

「くぅっ……!!」

 

 襲ってくる痛みを覚悟して、体を硬直させる。だが訓練によって目を閉じる事はしなかった。

 

 そして襲ってきたガストレアの体に十字の傷が走って、四つに斬れた。夏世は数時間前にも、同じ経験をしていた。

 

「綾耶さん……?」

 

「違う、間違えないで」

 

 四分の一になったガストレアの体が地面に落ちて、その向こう側にいた者の姿がはっきり分かるようになる。そこに居たのは二人。一人は夏世のプロモーターである伊熊将監をスケールアップしたような筋骨隆々の男、序列30位のプロモーター・一色枢。もう一人は彼のイニシエーター・エックスだった。

 

「よう、まだ生きてるな」

 

 戦いの只中だと言うのに、気さくな様子で枢が声を掛ける。

 

「鉤爪(クロウ)……」

 

 呆然と、夏世はこのペアに与えられた異名を呟いた。

 

「オウよ。俺達も随分と遠い所に下ろされたモンで、連絡を受けて急いできた訳だが……どーにも、面倒臭ぇ事になってるみたいだな?」

 

 枢が、未だ響き続けている轟音の発生源へと目をやる。天の梯子は、発射可能な状態になるまでには今しばらくの時間が必要に思えた。

 

「良くは分かんねぇが……兎に角あのレールガンが発射されるまで時間を稼げば良いんだな? ンで、その為にはこのガストレア共を全滅させねばならない……って事で良いか?」

 

 確認してくる枢に、夏世は頷く。

 

「OKだ、エックス……やれ」

 

「了解、マスター」

 

 エックスはプロモーターの指示に頷いて返すと、イヤホンを耳に付けてスマートフォンの音楽再生機能をオンにする。そこから流れる曲は「AMBIENCE」というバンドの「RISING」だ。彼女はこの曲が一番のお気に入りだった。

 

 ぐっ、と両手で握り拳を作る。

 

 すると彼女の指の付け根の関節部分から皮膚を突き破って、黒い金属製の鉤爪が伸びてきた。数は左右共に各3本、長さは20センチ強。その漆黒の輝きは、紛れもなくバラニウムのそれだった。

 

「バラニウムの、爪……」

 

 夏世はすぐに理解した。あの爪こそが「鉤爪(クロウ)」の異名の由来。

 

 エックスは一瞬だけまるでカエルのように思い切り地面に伏せると、押さえ付けられていたバネが跳ね上がるような勢いで跳躍して、ガストレアに襲い掛かった。勢いのまま、両手の爪を振るう。ガストレアの中には甲虫や亀のような装甲を持った個体もいたが、彼女の爪はプリンを掬うスプーンのように一切の抵抗無くその体を切り裂いてしまう。

 

 あっという間に、周囲にはバラバラになったガストレアの肉片が撒き散らされ、樹木の葉が噴き出す血で真っ赤に染まる。

 

「えっと、一色枢さん……エックスさんは、一体……」

 

 どうやっているのかは分からないが、エックスの体の中にはバラニウムの爪が埋め込まれている。だが有り得ない事だ。イニシエーターが如何に高い再生力を持つとは言え、それはあくまで体内のガストレアウィルスがもたらすもの。故にガストレアの再生を阻害するバラニウムの前には、普通の子供と同じ脆弱さを晒す。あんなものを体の中に埋め込んでいるなんて、ナイフを呑み込んでいるようなものだ。

 

 どうやって?

 

「エックスは、ある研究所で育った実験体でな。モデルはウルヴァリン、クズリの因子を持つ呪われた子供たちだ」

 

「クズリ……」

 

 小型ながら凶暴な肉食獣。成る程、そんな非常に戦闘向きの動物因子を持つのなら、たった今ガストレア相手に見せている八面六臂の戦い振りも頷ける。だが体内にバラニウムを埋め込んでいて平気なのはどういう訳か?

 

「その研究所ではバラニウムに耐性を持ったガストレアの研究をしていてな。その成果をフィードバックしたイニシエーターが、エックスだって訳」

 

「バラニウムに耐性を持ったガストレアとイニシエーター……」

 

 信じられないと、夏世が呟く。そしてこんな事をべらべら喋って良いのかと今更ながらに思うが、すぐに悟った。序列30位の枢・エックスのペアは千番台の自分を比して遥か雲上人。話しても誰も信じないだろうし、よしんば信じたとしても彼等は東京エリア最高の序列保持者でありエリア防衛の要。機嫌を損ねて他エリアに移られたりしたら東京エリアにとって大きな損失である。迂闊な真似は出来ないと踏んでいるのだ。

 

「ンで、俺の仲間からのタレコミでその研究所のデータを知って、実験をブッ潰して助けたのがエックスって訳」

 

 エックスという名前は本名ではない。多く居た実験体達の中で、生きていたのは彼女一人。彼女はちょうど十番目の被験体だった。十番目、№Ⅹ。故に、エックス。彼女は獲得したバラニウムへの耐性を証明する為に、全身の骨格に超バラニウムが接合されていた。両手の爪も、本来はウィルスによる突然変異で骨の爪が生えてくるだけだったのが、超バラニウムによってコーティングされ、現在の鉤爪へと形を変えられていた。

 

『まぁ、そのたった一人の生き残りも、もう少し私達の襲撃が遅かったら薬漬けと条件付けで、抗バラニウムガストレア同様、五翔会による世界支配の尖兵にされてた所だった訳だけど……五枚羽根として潜入している二番(メラク)の情報様々ね……』

 

 一色枢ことルイン・ドゥベが心中で呟く。その後、ルイン達はエックスを保護下に置くつもりであったが当人の希望もあって彼女に訓練を施し、プロモーターとして表の顔を持つドゥベのイニシエーターとして働いてもらっているという訳だ。

 

 と、スマートフォンが鳴った。

 

「もしもし? 七番(ベネトナーシュ)? あぁ、お前か? 三番(フェクダ)?」

 

 近くには夏世が居る事もあって、枢は最後だけは小声で話した。

 

<一番(ドゥベ)、状況は把握してる? スコーピオンの召喚は成功したわ>

 

「あぁ、そうか。じゃあ……」

 

<ええ、作戦は成功よ……私はちょっと負傷してしまったから七番(ベネトナーシュ)と一緒に、影胤と小比奈ちゃんを拾って離脱するつもりだけど……あなたはどうする?>

 

「俺は……」

 

 目だけを動かして、すぐ傍らの夏世を見る枢。

 

「俺は、イニシエーターを一人保護したからよ。ここら一帯のガストレアを排除して帰るよ」

 

 電話の向こう側にいるルイン・フェクダが少しの間だけ沈黙する。人間達にあまり力を貸すのは自分達の目的に反するが……だが、彼女達にとって呪われた子供たちは未来そのもの。敵とならない限りはその保護もまた重要な役目と言える。だからベネトナーシュは教師をしている訳だし。しばらくして「分かったわ」の一言があって、通話が切れた。

 

 一色枢に扮するルイン・ドゥベはエックスが斬り残し、自分に向かってきたガストレアの頭を掴むと、そのまま力任せに引き千切って捨ててしまった。その超人的な所行に、夏世はあんぐりと口を空ける。一方の手でガストレアの胴体を固定していたのならば兎も角、頭だけ掴んで引き千切るなど、どれほどの筋力と瞬発力があればこんな真似が出来るのか。イニシエーターであろうと同じ真似が出来る者がどれほど居るか。

 

「あー、お前さん、千寿夏世……だったっけ?」

 

「あ……はい」

 

「折角ここまで頑張ったんだ。どうせなら、最後まで生き残ろうや」

 

 言いつつ、枢は今度はガストレアの頭を握力で握り潰す。夏世はその言葉を受けて強く頷くと、排莢した拳銃を構え直した。

 

「枢さん、エックスさん、援護します!!」

 

 

 

 

 

 

 

 東京湾では、スコーピオンの進行速度に変化があった。

 

 綾耶は最初から、スコーピオンを倒そうとは考えていなかった。如何に水場の地の利があろうと、元々の戦力が違いすぎるのだ。残念ながら自分がこのステージⅤをやっつける事は絶対に不可能。逆に倒そうと欲を出せば墓穴を掘る結果になるだろう。故に時間を稼ぐ、これ一つに専心していた。

 

「うっ……ぐっ……」

 

 綾耶が呻く。

 

 彼女は両腕に海水を吸い上げて圧力を掛けて放出、暴徒鎮圧の際に用いられる放水砲のようにして撃ち出し、スコーピオンへとぶつけていた。並みのステージⅣであれば粉々にしてしまう程の水圧が掛けられたまさに鉄砲水と言える攻撃だが、それを以てしてもミサイルですら僅かなダメージにしかならないスコーピオンの強靱な外殻には傷一つ付けられない。

 

 だが、ダメージにはならなくとも水流がぶつかってきたエネルギーは確実にガストレアの巨体に作用していた。少しだけ、異形の巨人の歩みが遅くなる。

 

 単身で、ステージⅤガストレアを足止めする。いくら自分の能力が最大に発揮出来る環境に在るとは言え、それが出来る時点で綾耶が極めて強力なイニシエーターである事を疑う余地はない。

 

 しかし、それでも進行速度を遅らせる事が精一杯。スコーピオンは依然として真っ直ぐに、東京エリアへと動いている。しかも、このステージⅤは未だ綾耶の事を気にも留めていないようだった。ただちょっと、向かい風が吹いている程度の認識しかない。

 

 ぎりっ、と、噛み締めた歯が軋る。

 

「聖天子様のイニシエーターを……嘗めるなぁぁぁぁっ!!!!」

 

 咆哮。綾耶の両腕から放出される水圧が更に強力となり、小規模な濁流の激突は遂に、一歩だけだがスコーピオンを後ずらせる事に成功した。

 

 この様子を見ていたJNSC会議室や、スコーピオン周囲に展開していた護衛艦隊の艦橋で「おおっ」と声が上がった。

 

 確かにこれは一つの成果ではあったが……しかし、逆に良くなかった。たった一歩分ながら目的地から遠ざけられたスコーピオンはこの時初めて、眼前の小さな少女を“敵”とは認めぬまでも“障害”としては認識したらしい。全身から生えている触手が、一斉に綾耶へと向かってくる。

 

「くっ!!」

 

 跳躍して逃れる綾耶。彼女が足場としていた水棲ガストレアの死体は、一瞬でズタズタに引き裂かれた。しかしスコーピオンの攻撃はそれで終わりではなく、触手は獲物を絡め取る網のように退路を塞ぐ軌道で伸びてきた。しかしスコーピオンにとっても、綾耶が自在に空中を飛び回る能力を持っている事は予想外であったらしい。着地点を捕らえようと蠢いていた触手は、空中移動によって回避された。

 

 だが、奇策が通用するのは一度。

 

 今度は空を飛んでも逃げられないよう、あらゆる角度を封鎖する形で網どころか壁と錯覚する程の質量が綾耶に迫る。

 

「まずっ……!!」

 

 空中では水を武器として使えないし、空圧カッター程度の威力ではスコーピオンには通用しない。逃げ場も、かわす隙間も無い。

 

 一瞬、脳裏をよぎる「死」の一文字。

 

 しかし次の瞬間、スコーピオンの頭部付近で爆発が起こり、触手の動きが少しの間だけ止まる。綾耶はこの隙を逃さず、一時安全圏へと離脱した。

 

「一体……」

 

 何が起こったのかはすぐに分かった。

 

 展開していた護衛艦隊が、ありったけの火力をスコーピオンに叩き込んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 東京湾に展開している第二護衛艦隊の司令である白根一佐は、呪われた子供たちの差別主義者として有名だった。

 

 それも当然だ。彼は奪われた世代であり、十年前のガストレア大戦では妻子を失っている。国土を蹂躙し、家族を殺したガストレアを、その因子を持った呪われた子供たちを憎む事は人間としてとても自然な感情だと言える。

 

 民警システムについては、ガストレアとガストレア予備軍を潰し合わせる体の良いゴミ処理システムだと考えていた。ガストレアも呪われた子供たちも、最後にはどちらも消えて無くなれば良いと、心からそう思っていた。

 

 だが、だとするのならば今、自分の中に生まれているこの感情は何なのか。

 

 彼は当惑していた。

 

 たった一人で、自分の何十倍も何百倍も巨大な怪物へと立ち向かう綾耶の姿を見て、自分は何を想っているのか。

 

『この俺が、感動しているだと? あの赤目のガキに?』

 

 違うと、叫びたかった。そんな事は有り得ないと。

 

 彼はある一つの命令を下したくなった。だが、一度思い留まる。何故自分がそんな事を命令せねばならぬのかと。

 

 自問して、そして唐突に理解した。

 

 仇である以前に、あの将城綾耶は、聖天子様のイニシエーターは、今まさに東京エリアに生きる全ての者の命を守る為に戦っている。

 

 自分の中にある感動は、人間とか呪われた子供たちとか、そんなちっぽけな線引きを遥か越えた所にあるもの。同じ戦場に立って、命を預け合う者同士が抱く親近感や連帯感に近いもの。何かを守る為に命を懸けているその姿への、人間の原始的な感動であると分かった。

 

 そこまで理解して、

 

「バカが」

 

 そう、自嘲するように呟いた。

 

 彼は、今の今まで大切な事を忘れていた。

 

 自分は自衛官だ。その役目が何なのか。それはこの国と、国民を守る為ではなかったのか。たとえ呪われた子供たちであろうと、たった9歳の将城綾耶が同じ想いで、同じ目的の為にその命を賭している。その姿が、憎しみに曇っていた目を開かせてくれた。

 

「ありがとうな」

 

 ひとりごちる。聖天子様が呪われた子供たちを飼うと言い出した時には、年若い国家元首の酔狂だと鼻で笑ったものだが……それはきっと正しい判断だったのだと、今はそう思った。

 

「護衛艦隊全艦に通達!!」

 

 白根一佐が、命令を下す。

 

「火力をスコーピオンの頭部に集中し、将城綾耶を援護せよ!!」

 

 

 

 

 

 

 

「……これは……」

 

 天の梯子の内部、レールガンモジュールのコントロールルームの中で、延珠ははっと振り返った。

 

 聞こえる。

 

 何十万もの人々の鼓動。未来を創る為に、命を懸けているその血の迸る音が。

 

 生きようと、そう願う声が。

 

 東京エリア全体が叫んでいるようだ。

 

「蓮太郎!!」

 

 興奮気味に、発射の為のスティックを握るパートナーを振り返る。先程までは磁場の影響で遠隔操作を受け付けず、手動で狙いを付けて発射せねばならないそのプレッシャーに、蓮太郎は見ていて哀れになるほどに追い詰められていた。

 

 元々このレールガンには発射する“弾”が装填されておらず、蓮太郎の義手を即席の弾丸としてやっと一発が撃てるようになっただけだった。外したら、終わり。

 

 生き残ったスコーピオンはモノリスを破壊して、東京エリアに大絶滅を引き起こす。それ以前に弾丸が東京エリアに逸れでもすれば亜光速にまで加速された弾体だ。都市部にどれほどの被害が出るか。付け加えていくらターゲットが巨体とは言え、50キロメートルも離れている上に、使うの一度の試射もされずに十年もメンテナンス一つされず放置されていたオンボロの兵器。

 

 狙って当てろという方が無茶な注文だ。彼の動揺を、怯えを、誰が責められようか。

 

 だけど、今は落ち着いていた。自分でも不思議なほどに。

 

 延珠と同じものを、今の蓮太郎は感じていた。

 

 今、未踏査領域で戦っているイニシエーターやプロモーターを、スコーピオンを足止めしている綾耶や自衛官達を、東京エリアを、距離も五感も超えて感じている。

 

 ぐっ、とトリガーを握る手に力が入った。延珠の小さな手が、そこに重ねられる。

 

「延珠」

 

「蓮太郎」

 

 プロモーターとイニシエーターは頷き合って、そしてトリガーを引いた。必ず当たる。自信を超えた確信が二人の中には在った。

 

 瞬間、極彩色の光を帯びて超バラニウムの弾丸が飛び……ほぼ同時に夜が明けて、陽の光がエリアを包み込んだ。

 

 掴み取った未来を、祝福するかのように。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。