五話目
なでしこ「ここからはずっと私のターン!」
死神「ばんなそかなっ!」
処刑用BGM「The Battle Is To The Strong」
「<破壊の槌よ。全てを滅ぼす万物の力よ。私は再びたった一つのことを望みます>」
右手を天に翳したなでしこが禁断の言霊を口にした瞬間、現実世界で不可解な現象が発生した。
空から一筋の青白い光が地上に向けて降ってきたのだ。
地球の外から雲を蹴散らし、まるでレーザービームのように一直線に、日本の関東のとある地方へ降りた。
半壊した邸宅に降り下りた青白い光の筋は、屋上の一角の空間へと吸い込まれるように消えていく。
空から光の柱が降ってきている様子は離れた場所にいる新堂ケイたちも確認できた。
「川平くん……」
渡された護符をきゅっと握り締めたケイが祈るような気持ちで光の柱を見つめる。
そんなお嬢様の様子にセバスチャンは掛けるべき言葉を見つけられないでいたが、その場に居合わせたもう一人の男性は軽い調子でのほほんと言った。
「大丈夫ですよ啓太さんなら」
はっとした顔で振り向くケイ。そこには柔和な表情を浮かべている川平薫が立っていた。
確信に満ちた声でそう言う薫は見るものを安心させるような顔で微笑んだ。
「彼は、やる時はやる男ですから」
薫がどや顔で決め台詞を口にした頃。
光の筋は空間を越えて、啓太たちのいる裏世界にやってきた。
天から降る光の奔流が手を翳しているなでしこの下へ降り下りてきて、彼女の体を優しく包み込む。
大地が揺れ、天が鳴動する。まるで天変地異のような現象。
『ゴゴゴゴゴ……』と重い音を伴いながら、なでしこの髪が、服が揺れ動く。
閉じていた目を開け、その奥の翡翠色の瞳を露にすると、青白い光の照射が止む。
辺りが、不気味なくらいの静けさに包まれた。
己の力に絶対の自信があるあの絶望の君が、無意識のうちに唾を飲み込む。
「貴様は、一体……」
絶望の君にとって、なでしこは取るに足らないただの犬の妖だったはず。自身の体に傷を負わせることが出来るくらいの牙は隠し持っていると分かっていたが、戦意の欠片も持ち合わせていないヘタレの犬だと。
それが、どうだ。体に傷を負わせることが出来るくらいの牙? いいや、違う! これはそんなちゃちなものじゃない!
これは、この身に感じる圧倒的な存在感は、まさしく神殺しにたり得る牙!
なでしこから感じられる力の気配に戦慄する死神。しかし、そんな彼の様子など無視して、なでしこは静かな口調で言った。
「我が身に宿るは破滅の力。一切の容赦なく、あなたを深遠と絶望の彼方へ導きましょう」
――そして、私はこの後、死にましょう。もう生きている意味がないのだから。
啓太様のいない世界なら、死んだほうがマシ。
――だけど、あなたも殺しましょう。生かす価値がないのだから。
啓太様に仇なす者を、私は許さない。
普段のなでしこからは考えられない、能面のように冷たい表情と乾いた声。
死神は己を奮い立たせるかのように声を荒げた。
「殺す? 導く? ケモノの分際で誰にものを言っている小娘!」
空からなでしこを見下ろしながら大きく両手を開くと、再びダークブルーの球体が現れた。
数メートルはある巨大な球体を空間に固定する。
「我は絶望の君! 絶望と恐怖を司る至高の一柱なり! ケモノ風情が調子に乗るなぁ!
巨大な球体から射出されるのは極大の光線。
啓太たちの身を二度遅い、自然を破壊するほどの威力を持つ必殺の光だ。
しかし、それをなでしこは手の甲で、蚊を払うような軽い動作で捻じ曲げた。
軽く街の一区画を消し飛ばす威力を秘めた光線が、そんな何気ない動きの一つで払い除けられたのだ。
理解し難い現象に絶望の君はうろたえた。
「馬鹿な……っ! 万物を滅する破壊の光だぞ! それを、こんな――」
言葉を続けることが出来なかった。
いつの間にか眼前に立っていたなでしこが、強く拳を握り締めて振りかぶっていたのだから。
手のひらが真っ白になるほど強く握り締めた拳を、無慈悲に振り下ろす。
ぼっと大気に穴が開き、強烈な
「ぶはっ!!」
首から上が吹き飛んでしまうくらいのとてつもない威力。空気の壁を打ち破ることで円状の衝撃波が発生した。
宙に浮かんでいた死神は流星のように地上へ落下。
そして、落下速度よりも速く回り込んだなでしこは再度拳を引いて待ち構えていた。
再びの右ストレート。今度はわき腹に命中。
ゴキゴキッ、と嫌な音を立てて体はくの字に折れ曲がり、地面と水平に吹き飛んだ。
また、進行方向に回り込むなでしこ。
「がはっ、ま、待て、げふっ、ふごっ!」
「ほらほら、どうしました? この程度凌げなくて何が死神ですか?」
決して地面に落とすことなく殴り飛ばし、蹴り飛ばして、絶望の君を暴力の嵐から逃さない。
殴られ蹴られるたびに、死神の体に青い痣ができ、顔が腫れ、骨が砕け、手足が明後日の方向へ捻じ曲がる。
まるでピンボールのように空間の中を跳ね返りながら見る間にボロボロになっていった。
止めの回し蹴りで大地に叩き付けられた絶望の君はよろよろと立ち上がった。
不思議なことに、いくら時間が経っても体の傷は一向に癒されない。
「まさか、奴の攻撃が私の修復力を上回っているとでも言うのか……?」
そんな考えが浮かぶがすぐに首を振って否定した。
そんなことあるはずがない。相手はたかがケモノ一匹だ。いくら強くてもこの私が負けるはずがない。
「そう、だな。どこか調子が悪いのかもしれん」
なでしこが直ぐそばに降り立つ。その冷たい目で見つめられると、不思議と体が硬直してしまった。
目が泳ぐ。冷や汗が止まらない。
なんだ、この感情は……。なんなんだ、この焦燥感は……!?
わからない。知らない。こんな感情、私の知識に存在しないぞ!
「驚いた。お前でも一丁前に恐怖を覚えるのね」
「恐怖……?」
この震えがそうなのか?
絶望と恐怖を司る存在でありながら、今まで一度たりとも恐怖を覚えたことがない絶望の君。そのため絶望や恐怖が実際にどのような感情なのか、理解していなかった。
それを、与えられる側の存在から教えられる。なんとも皮肉な話だった。
「私が恐怖するだと? この絶望の君が? ありえん。ありえんありえんありえんありえん……っ!」
そんなことなど、あるはずがない。自分は絶対的強者である神の種族。下等な生物に後れを取り、あまつさえ恐怖心を抱くなど、あってはならないのだ!
絶望の君はあるはずのない恐怖心を振り払うように大術を繰り出すことに決めた。
死神として誇りを持つ本来の彼なら、劣っている種族である犬神や人間ごときに見せていいほど安い術ではない。そんなことさえ判らなくなってしまうほど追い詰められていることに、本人は気がついていないのだった。
宙高く浮かび上がった絶望の君は上半身を覆っている黒の包帯を無造作に掴み、破いた。
包帯の裏側には曼陀羅のような記号がびっしりと書かれている。包帯をすべて破いた途端に、絶望の君の体から途方もない霊力が沸き起こった。
「この包帯は私の潜在神力を封じ込めるための、いわば枷だ。これを外すことで、私は今まで以上の力を発揮することが出来る!」
なでしこと同じく自身の霊力――神界用語では神力を封じていた絶望の君。封印を解いた今、その体に宿る霊力はなでしこと同等の気配を感じさせた。
なでしこの霊力と絶望の君の霊力。強大な二つの力が干渉し合い、空間が軋みを上げる。
最初に動いたのは絶望の君だった。
「貴様にはこいつで死を賜ってやる! 絶望に打ちひしがれて死ねぃッ!」
自身の頭上に魔方陣が浮かび上がる。キロ単位の巨大な魔方陣はダークブルー色に発光しながらゆっくり回転をし始めた。
「
魔方陣の中央に描かれた八芒星から巨大な球体が姿を現す。
いままでの球体はコバルトブルーに輝くだけの光の球だったが、これはそれまでのと違い球体の表面に幾何学模様が描かれていた。
回転しながらゆっくり降りてくるのは、さながら世界の終焉を告げる爆弾。
自身の術の中で最上位に位置する、文字通りの取っておきのカードだ。
絶望の君に勝利を確信した笑みが広がる。
「こんなもの……!」
なでしこは空高く飛び上がると、自分から落下する球体へ近づいていった。
霊力を込めた拳を握り締め、一直線に打ち出す。
球体をバスケットボールに見立てるとなでしこはゴマ粒ほどの大きさだ。誰が見ても覆せない明らかな差がある。
しかし、その常識や固定観念を打ち砕くかのように、なでしこの拳は球体を迎え撃った。
そして。
天地を轟かせるような爆音を響かせて、なでしこの小さな拳が球体を吹き飛ばしたのだった。
ゴマ粒がバスケットボールに打ち勝ち、さらには世界にも影響を与える。
それまでの攻防や絶大な霊力の衝突などで、この裏世界も悲鳴を上げていた。その中で、今回のだめ出しの一撃である。
世界にひびが入り、乾いた音を立てて崩壊するのは当然の帰結といえよう。
裏世界が崩壊したことにより、強制的に現実世界に戻されたなでしこたち。
切り札の一枚を力ずくで捻じ伏せられた絶望の君は、すでに理解の範疇を超えていた。
「ば、馬鹿な……そんな、あ、ありえない。こんな、こんなこと……っ!」
「ここは、帰ってきたのね。……あら、もう終わり? じゃあ今度は、こちらの番ね」
モノクロからカラーの世界に帰ってきたなでしこは辺りを見回して、状況を把握する。
そして、再び冷笑を浮かべて死の宣告に等しい言葉を口にした。
「お前は、簡単には殺さない。苦しみ抜いて絶望に抱かれて死になさい」
絶望の君が宙に舞った。拳による力任せの一撃。しかし、その威力は高速で激突したトラックにも勝る。
なでしこと同じように封印を解除したはずなのに、彼女の速度と威力の前に絶望の君は反応すらできない。
唯一判るのは、ただ自分が殴られたという事実だけ。それを躱すことも、反撃することも許さず、なでしこは絶対的な力を見せつける。
「がっ!?」
死神の腹部に華奢な拳が突き刺さる。それは先ほど、死神本人が啓太に向けた一撃と同じボディブローだった。
しかし、威力はなでしこの方が圧倒的に上。死神のボディブローをトラックに例えるなら、なでしこのそれはロケット。
拳に伝わる感触から絶望の君の内部を完全に破壊したことを悟る。間違えるはずがない、忘れるはずがない。これは相手を、獲物を破壊した時の感触だ。
圧倒的な膂力を前に死神の体が上空へ向かって勢いよく吹き飛んでいった。もはや絶望の君に意識はなかった。先の一撃で完全に意識を断たれたのだ。
しかし――。
「お前には楽を与えない」
なでしこが遥か上空に先回りした。雲を突き抜けて弾丸のごとく飛来する死神を迎え撃つために。
エプロンドレスのスカートがめくれるのも構わず、なでしこはその細い脚を天へ振り上げた。ぴんと伸ばされた足の向きを死神に向ける。
そして、振り下ろされた脚はどんぴしゃのタイミングで飛来してきた絶望の君の顔面を捉えた。美しい顔に踵がめり込み、いま来たばかりの道を強制的に帰される。
絶望の君はピンボールのように吹き飛ばされ、再び地面へと。
轟音を響かせて地面に激突する死神。辺りを粉塵が覆い隠した。
なでしこが地面に降り立つ頃には粉塵は消え、そこには無残にも体をボロボロにした一柱の神が倒れていた。
衝撃で意識を取り戻したのか、半目を開いて信じられない表情を浮かべている。
体の所々が捻れ、折れ曲がり、打撲による痣で体中が内出血していた。臨界値を超えてしまったのだろう、自慢の修復能力はまったく役に立たない。
なでしこを見るその目には、隠しきれない恐怖の色が見られた。もはや神としての威厳は微塵も感じられない。
これがなでしこの力。『最強の犬神』と歌われた少女の実力。かつて大妖をあと一歩まで追い詰めた存在。その力の前には死神ですら全くの無力だった。
そしてここに勝敗は決した。誰の目にもそれは明らかだった。
だが――。
「ぶべっ!」
静かに歩み寄ったなでしこは、すでに戦意が消失している絶望の君をまたぐと、再び拳を作り、振り下ろした。
何度も何度も、返り血で手が真っ赤になっても、エプロンが血に染まっても、なでしこは止める気配を見せない。
「や、止め、もう止め……ぶっ!」
まるで獲物を嬲って遊ぶケモノのように、なでしこは拳を振り下ろし続けた。三百年ぶりの全力によって体が軋みを上げるのにも構わず。
「は」
なでしこの口に笑みが広がる。それは愉悦からか、ケモノとしての本性に戻った喜びからか。
「あは、あははは」
拳を振り下ろし続けながら、なでしこは感じていた。自分が喜んでいるのを。暴力を振るう行為に快感を覚えているのを。満たされていくのを。
なんの惜しげもなく力を振るえる。戦える。どうしようもないケモノとしての本能。隠すことが出来ない、消すことが出来ないケモノの性。今まで抑えてきたそれが喜んでいる。
「あははははは、はははははははははははは!」
なでしこは笑い続ける。その衝動に、自らが行っている、晒しているその姿を自嘲するように。
――そう、これが私の本当の姿。今はもう数少ない犬神しか知らない、私の本性。
戦いになると周りが見えなくなる。ただ戦いにのみに没頭し、相手を倒し、嬲ることしかできない穢れた私。
そのせいでわたしは犯した。ケモノの本性に囚われて、周りの被害を鑑みずに好き勝手に暴れて、危うく人間の村を破壊するところだった。
もう二度と同じ過ちを繰り返さないため、自分自身への戒めのために頑張ってきた。
それなのに――。
「ああ……」
なのに自分はまた同じことをしようとしている。それをやめるために三百年間、戒めを守ってきたのに。なのに自分はあの時から何も変わっていない。
「あ、ああ………」
タノシイ、その感情を抑えることができない。それはケモノの私。切り離すことができない、消し去ることができないもの。
カナシイ、その感情を抑えることができない。それはヒトの私。これまで守ってきた、大切なものがなくなっていくことに耐えられない。
「あ、ああ、あああ………」
二人の私がせめぎ合う。もう顔は涙でぐちゃぐちゃだった。泣いているのか、笑っているのか、もう自分でも分からない。ただ分かることは、これが私なのだということ。
初めて啓太と出会ったあの頃を思い出す。小さな少年は過去の過ちに苦しみ悩む私にこう言ってくれた。
『人は変わる生き物、変われる生き物。変わろうとする意志があるなら、大丈夫』
そう言ってくれた。けれども。
どんなに取り繕っても、誤魔化しても、私は決して変わることが出来なかった。
けれど、そんな私でも、こんな中でも消えないたった一つの想いがある。
こんな私を犬神にしてくれた、信じてくれた、最初で最後の主。
愛する男性を守りたい。
「ああああああああああああああああああ――――――!!」
――それだけは、絶対に、守って見せる……!
なでしこは最後の拳を放つため、思いっきり振り上げた。たった一つ、本性に――本能に飲み込まれながらも、たった一つの願いを胸に抱きながら。
それがこの永きに渡る戦い。なでしこの贖罪、三百年の末に得た、答えだから。
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大切な人の泣き声を聴いた気がした。
闇に埋もれていた俺の意識が浮上する。この泣き声を止ませないといけない。そんな使命感にも似た考えのもと、俺の意識が覚醒する。
夜の帳が下りた満天の星空が視界に飛び込んできた。見れば、いつの間にか元の世界に戻ってきてしまっているらしい。あの結界は術者じゃないと解くことは出来ないんだけど、どうやって戻ってきたんだろうか?
そこでようやく、俺はいままでの出来事を思い出した。
そうか、タイムリミットがきて、そのまま気絶しちゃってたのか……。
大木に背を預けた状態だった俺は隣にようこがいることに気がついた。死んだように眠っているその姿に慌てて脈を取り、命があることにホッと息をつく。
そういえば、アイツはどうしたんだ!?
飛び起きようとするが体がまったく言うことをきかない。
それもそのはずだ。切り札の一つである身体操法『極限体』を活用したことで、全身の筋肉の活動量が低下してしまい、しばらくは動けないのだ。さらに脳内リミッターを二番まで開放した影響もあって、先ほどから脳は熱いし、頭はガンガン痛む。
けれど、死神を放っておくわけにはいかない。なでしこの身も心配だ。
幸い痛覚は遮断しているから、筋肉痛や肉体負荷による痛みに苦しまないで済む。
なんとか身体操法で神経と筋肉を繋ぎ、比較的損傷の少ない筋肉を動かそうとしたところで――。
ようやく、その影に気がついた。
影は二つあった。至近距離で密着しているから一つにも見える。
寝そべった人影と、その人に跨っている人影。跨っている方はしきりに何かをしていた。
しかし、人影は霞んで見えて、音もよく聞き取れない。
――駄目だ、五感も酷使したからよく見えん。
とりあえず応急処置として視力を一時的に戻し、呼吸法で雑音を払って耳をクリアにする。
そして、改めて人影を見て――愕然とした。
寝そべっているのは絶望の君で、跨ってるのはなでしこだったんだ!
しかもなでしこさん、拳に返り血べったりついてらっしゃいますし、白いエプロンも赤にカラーチェンジしちゃってますよ!?
軽くホラーじゃんか! 何があった一体!?
あまりの光景に一瞬パニックになりかけた俺であったが、すぐになでしこの様子がおかしいことに気がついた。
戦いを嫌うなでしこが暴力を振るっている現状にも違和感を覚えるけれど、それよりもっと根本的な部分。
上手く口に出来ないけれど、なでしこの様子がおかしいのは間違いない。大切な犬神の変化に気がつかないわけがないのだから。
「……なで、しこ?」
啓太の小さな呟きにピクンっ、と反応したなでしこはゆっくり振り返った。
何かを恐れているような、そんな怯えの表情。
なんでそんな顔をするんだ?
「……っ! 啓太、さま……私……」
親とはぐれた子供のような不安気な表情。
今すぐ駆けつけたいけど、上手く体が動かせない。
なでしこが何かを言おうと口を開いた、その時だった――。
「まだ、だ。まだ私は終わっては、いない……!」
なでしこに馬乗りにされていた絶望の君が闇に包まれたかと思うと、いつの間にか俺の隣に移動していた!
上半身裸のその体はボロ雑巾のようにひどくボロボロで、今にも倒れそうなくらい満身創痍だった。
これを、あのなでしこがやったのか。まさかこれほどだとは……。
ていうか、俺やばくね!? 体動かないし! 動け俺の体ぁぁぁ!
「我が矜持に反するためこのようなことはしたくなかったが、ここで終焉を迎えるよりは……っ!」
「なに、を……」
死神の輪郭がブレて黒いもやのような形状に変化すると俺の体を包んだ。
それと同時に、何か嫌な感覚が、まるで無理やり体のなかを弄くり回されているかのような、そんな気持ち悪さを感じた。
「啓太様から離れなさい!」
俺でも視認出来ない速度でやって来たなでしこが手を翳すと、黒いもやが剥がれる。
それは俺たちから数メートル離れたところで絶望の君の姿に戻った。
奴はくひひ、と不気味な笑い声を出している。
「啓太様に何をしたんですか!」
あなたも何をしてたんですか!? エプロンドレスめっちゃ真っ赤ですけど!
厳しい表情で問いかけるなでしこに、絶望の君は愉快とでもいうように口の端を吊り上げた。
「くははは……契約を交わしたのだよ。我ら死神だけが執行できる権利、一方契約を。これを使えば、他の契約は結べない上に、上層部の精査を受けることになるが、致し方ない……」
「……けい、やく?」
えっ、うそ? 一方的に契約結ばれたのか!? なにそれズルイ!
理不尽な契約とかだったらどうすればいいんだよ。神々の世界に弁護士とかいないの!?
「契約その一『私を殺せる存在は川平啓太のみである』契約その二『川平啓太が死なない限り、私は外部エネルギーの補給ができない』
契約解消のためには契約者が直接相手を殺さないと解除できないのが、一方契約だ。この契約に従い、私を殺せる者は因果律によって川平啓太のみとなったのだよ……!」
そのかわり、代償として川平啓太を殺さない限り、新たに契約を結ぶことができなくなったがね。外部からエネルギーを補給できないというのは、キミたちで言うところの食事が出来ないのと同じことなのだから。
一方的にそう説明した死神は満身創痍でありながら愉快そうに顔を歪めた。
「くっくっく、私に止めを刺せなくて残念だったな、ケモノの女よ。この屈辱、私は決して忘れはせんぞ……」
そして、木にもたれ掛かっている俺に視線を向けてくる。
「人間……川平啓太。契約に従い、私は全力で貴様の命を刈りにいく。絶対にだ……! ゆめゆめ、忘れるな。キミたちは常に、私に狙われているという、ことを……っ」
それだけ言い残し、死神はすうっと虚空に溶けるように姿を消した。不吉な言葉だけを残して。
後に残ったのは、厳しい表情で死神が居た場所を見つめるなでしこと、木々にもたれる俺と、すやすや眠るようこの三人のみ。
はけは、どうしたかな……。まあアイツのことだから大丈夫だと思うけれど。
突如、なでしこの体から膨大な霊力が沸き起こり、それが一筋の柱となって天へ昇っていった。なでしこの圧倒的な力の源はあの霊力によるものか……。
青白い光がレーザービームのように空へ昇っていく。そんな幻想的な光景に見蕩れていると、やがて光が止んでいった。
それと同時になでしこの体がふらつき、地面へ倒れていく!
「くぉぉぉお……っ!」
身体操法で無理やり筋肉を動かし、なけなしの霊力を使って肉体を強化!
なんとか間一髪のところで体を滑り込ませることに成功した。
「ぁ……啓太、さま」
血の気が引いて青白く変化してしまっているなでしこの顔。意識が朦朧としているのか、目が半開きになっていた。
ガンガン痛む頭痛を無視して、なでしこを抱き起こす。
パッと見た感じ返り血がすごいけれど、見える範囲で裂傷はないようだった。
真っ白いエプロンドレスは返り血で真っ赤に染まり、白魚のような綺麗な手にも血がべっとり付着している。
――こんなになるまで、頑張ってくれたのか……。
「……啓太、さま。私……」
「いい。話しは後で聞くから。今はゆっくり休む」
「……で、も……」
なにがそんなに不安なのだろうか。
不安げな表情を隠そうとせずどこか、縋るように一心に俺を見ている。
なるべく気持ちが楽になるように願いながら、なでしこの柔らかい桃色の髪を優しく撫でた。
「大丈夫。ずっとそばにいるから。何も心配しなくていい」
「……ほん、とう?」
「ん。約束」
そう言うとようやく安心したのか、いつもの柔らかい微笑を見せてくれた。
「やくそく……です、よ……」
囁くような声で呟き目を閉じると、すぐに可愛らしい寝息を立てた。
お疲れ様、ゆっくり休んでくれ。
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