長いので上下に分けます。これで約九千か……。
本当は一万まで行きたかったですが、キリがよかったので一旦ここで区切ります。
以下を修正します。
・大柄な男の服装を変更。
新作諸説を執筆する予定なので、匿名を解除しました。
よろしければ活動報告をご覧ください。
「ワホ、ワホホホホホホホホッ!」
「こちょこちょー」
赤い褌だけを身に着けた大柄な男の人が奇妙な笑い声を上げながら床の上を転がっていく。
大男といっても差し支えのない風貌。厳めしいとも思える外見と裏腹に屈託のない笑顔で転げ回っています。
そんな見た目と現実の落差に戸惑う私を他所に、あの人は容赦なく手を動かしていく。
「……むっ、こことみた」
「――! ワホホホホホホホホーン!」
男の人の胸にまるで蝉のよう張り付き、執拗に脇を擽る。
その度に、男の人は声を大にして笑いこけます。
「……」
そんな光景に私――なでしこはどのような顔をすればいいのか分からず、引き攣った笑みでそっと事態を見守っていました。
私のご主人様である啓太様の顔はいつもの無表情でありながら、どことなく楽しげな雰囲気を醸し出しています。案外、あれでご本人は楽しんでいるのかもしれません。
(ようこさんもいれば、一緒になって遊ぶのでしょうね)
俗世に疎く、ある事情により他の犬神たち交流がない彼女はいわば純粋な子供がそのまま大人になったようなもの。
自分の好奇心が向かうところ、興味があるものには目がないようこさんにとって、啓太様という存在はこの世の何よりも輝いて見えるでしょう。
そんな彼女がこのような場面を目の前にして、大人しくしていられるとは到底思えない。
じゃれ合う二人を傍らで見守りながら、数年前にようこさんが言っていた言葉を思い出した。
「おむすびの人、か……」
1
私が啓太様という方を知ったのは今から八年前のこと。彼が五歳のときでした。
人里に下りていた犬神がご主人様と一緒に帰郷してきた時、偶然啓太様の名前が上がったのです。
人形、と。当時の川平の縁者は啓太様のことをそう呼び、陰口を叩いていたらしいです。
無口で無表情。何を考えているのかさっぱり分からず、とても五歳児とは思えない。
人形のような生気の無い少年。故に、人形。
それを聞いたときに感じた啓太様に対する印象は、変な子供がいるというものでした。
私もそこそこの年数を生きる女。多くの人間をこの目で見てきました。
その中には、啓太様のような生気の無いまさに『人形』のような表情をした子供も目にしたことがあります。
なのでそれを聞いて、気持ち悪いとは思いませんでした。ただ、今時珍しくはありましたから、変な子と思ったのです。
(まあ、私には関係の無い話ですが……)
川平家と盟友となり数百年。ただの一度も主を迎えたことの無い私にとって、それは取るに足らない情報でした。
私は犬神たちの中でも特殊な立ち位置にいます。
それは、私が過去一度も主を迎えたことが無い『いかずのなでしこ』であり。
自ら戦うことが出来ない牙を抜かれた獣である『やらずのなでしこ』だから。
これらの二つ名を持つ私は犬神という輪の中では浮いた存在でした。
犬の化身である私たち犬神は主を迎えることに喜びを感じます。
主と一緒に生活し、一緒に遊び、一緒に生きる。主と一緒に何かをするということにどうしようもない喜びを覚えるのです。
そんな犬神である私が主を迎えていない。そして、主を守る立場の私が戦えない。故に、私は周囲の犬神たちの輪に入れないでいました。
そして、私自身もそれを理解しているからこそ、積極的に輪に入ろうとしなかった。
犬神として主に仕えることは誰もが感じる共通の喜び。それを得られ感じられる皆が羨ましい。
しかし、私は戦えない。戦えない自分をわざわざ犬神にしてくれる主がいるはずもない。
決して犯してはいけない過ちを犯してしまった私。そんな自分に対する戒めとしての誓いが今の私を形作っている。
遠い昔に誓った記憶が、私の身体を縛っているかのようなそんな錯覚を覚えたこともありました。
そして、後の私が出会いの日と名づけた日。
ついに出会ったのです。私の生涯のご主人様となるあの方と。
その日、私の気分は非常によくないものでした。
久しく見なかったあの夢。私が犯した過ちの光景。
目覚めてから気分が優れなかった私は山頂へ向かいました。
山の上から街並みを見下ろし、誓いを今一度思い出します。
誓いを立ててから数百年。今でもあの頃と思いは変わりません。しかし、ふとした時に思うのです。
(私は、ちゃんと変われたの……?)
それを確かめる術はない。故に、変われたのか、そうでないのかが自分でも分からない。
変えることが出来たのならそれでいい。しかし、もし――。
もし、変えることができなかったとしたら……。
「……どうしたの?」
「えっ?」
思考の渦に呑まれていた意識を引き戻したのは子供の声でした。
振り返ると一体いつからいたのか、人間の子供が至近距離から私を見上げていました。
「えっと、あなたは……?」
「?」
見慣れない顔だが、恐らく川平の者。
薄茶色の髪に幼き頃の宗家とよく似た顔立ち。
無表情で首を傾げるその姿に一人、心当たりがありました。
(この子が、川平啓太様……)
なるほど、こうして見ると確かに生気をあまり感じさせない。
が、しかし――。
(この子の霊力、なんて優しい色なのだろう……)
内に秘めた霊力の力強さと、優しく包み込む柔らかさ。
今までに感じたことのない類いの霊力の波動を感じました。
「ええっと、川平の方ですよね?」
念のため尋ねるとしっかりと頷き返してきました。
私も目線を合わせます。
「こんなところでどうしました?」
なるべく優しく怖がらせないように話しかけると、子供は「散歩」と一言返しました。
「散歩って……ここまで?」
確かにこの山は小さいけれど、子供が山頂のここまで登るのには相当苦労するはず。
なのに、この子は大したことではないとでも言うように軽く頷きました。
(散歩でここまで来るなんて、一体どんな体力をしているの……?)
「どうしたの?」
小さく首を傾げる子供。先ほどと同じ台詞。
私は立ち上がり、再び街並みを見下ろしました。
「……私は昔、罪を犯してしまいました」
(……こんなこと、言ってもいいのでしょうか)
相手は子供。こんなこと言われてもなんのことだか判らないでしょう。
しかし、今は誰かに聞いて欲しかった。
「それはとてもいけないこと。もう二度と同じ過ちを繰り返さないようにと心に誓いました。でも、時々思うのです。私はちゃんと変われたのかな、て……」
塊根の念が過ぎるが、ジッと私を見上げる子供の視線に気付き、取り繕うように笑いかけました。
「ふふ、ちょっと難しかったですね――え?」
「……」
子供は何を思ったのか、私の手を取り歩き出しました。
子供に手を引かれまま大樹の根元まで向かうと、今度は座り込み自分の隣をぱんぱんと叩きます。
「座る」
「えっ?」
「座る」
「えっと……」
突然の要求に唖然としていると、子供は袖を引っ張り隣に座らせました。
「あの――」
「お姉さんの過去は知らない」
ピシャッと第一声でそう言い切られ、思わず顔を俯けそうになりました。
抑揚の無い声が、まるでお前のことなんて知ったことかと言ってるようにも聞こえ。
少々、胸が痛みます。
「……」
「でもお姉さんは反省してる。なら大丈夫」
「え?」
落としていた視線を上げると自分の顔を一心に見つめる子供と目が合いました。
どこにでもある焦げ茶色の瞳。しかし、なにかその瞳の中にキラキラと光るものがあるような、一瞬そんな錯覚を覚えました。
「人は変わる生き物。変われる生き物。……変わろうとする意志があるなら、大丈夫」
そう言って子供は小さく微笑みました。
微笑むといっても口の端を少し吊り上げるだけの微々たる笑み。
しかし、初めて目にするこの子の笑顔に、小さく心を揺さぶられました。
子供の言葉がすぅっと心に染み渡るかのように入り込んできます。
まるで重い鉛が退かされたような、雁字搦めに巻かれていた鎖が緩んだ、そんな気分でした。
(変わろうとする意志があるなら大丈夫……)
不思議なものです。
その言葉には子供の言うこと、と一笑に付すことが出来ない不思議な力が宿っていました。
「そう、ですよね。大丈夫ですよね……?」
この子が言うことなら大丈夫。そんな気さえ覚えます。
時間にしてたったの一時間にも満たない邂逅。
それなのにいつの間にか、啓太様に対して今までに感じたこの無い気持ちを抱くようになりました。
この人のことをもっと知りたい。そんなどうしようもない欲求が胸の内に巣くったのです。
2
それからというもの。毎日とまではいきませんが、たまに啓太様と出会った山の頂まで足を運びました。
また会いたい。そんな欲求に従っての行動です。
しかし残念ながら、啓太様の姿をお目にすることはありませんでした。
実際に啓太様の姿を見ることが出来たのはあれから七年後のことでした。
その前に一つ、重大なお話をしなければなりませんね。
ある晴れの日のこと。今日も今日とて犬神たちの輪に入ることなく、独りでお花のお世話をしていたときでした。
私の数少ない友達である彼女がやってきたのです。
「なでしこっ! 聞いて聞いて! わたしね、おむすびの人と会ったんだ!」
緑色の髪を揺らしながら私の元に走りよってきたのはようこさん。
ある理由で犬神たちから蔑まれている
私ははしゃぐようこさんに驚きました。
彼女がここまで喜びを表に出したところを見たことが無かったからです。いえ、冷笑以外の喜びに満ちた笑顔という表情を見たのも初めてす。
驚き固まっている私を余所に、ようこさんは独りでに喋り出しました。
聞けば、人間に捕まって売られそうになったところを助けてくれた人がいたとの話です。しかも、相手は子供であり威嚇する自分に臆することなく傷の手当てをしてくれたとか。
その時におむすびをくれて一緒に食べたとのことらしい。だから、おむすびの人なのね。
名前を知ることができなかったと悔しそうに地団駄を踏むようこさんの姿に、やはり驚きを隠せません。
今まで表情らしい表情を浮かべず、他者と積極的に関わってこなかったようこさんがこうも感情を露にしている。
前から交流があり、親しい私ですらこうなのです。彼女を知る者なら誰しも目を疑うことでしょう。それほどまでの変化なのです。
しかも驚くのはこれだけではありません。
なんと、ようこさんの話を聞いていくうちに、彼女を助けてくれた子供がどうやら啓太様らしいということが判明しました。
無表情で淡々と話すというのなら恐らく啓太様で間違いないでしょう。
嬉しそうに、楽しそうに啓太様を話すようこさんを見ているうちに、段々と自分の中で感じたことのない気持ちが湧き上がってくるのが分かりました。
(こうまでようこさんを変えるなんて……)
あのようこさんをこうまで変えた啓太様に対する驚愕、尊敬。そして、嬉しそうに私に報告するようこさんに対する、言いようのない気持ち。
ようこさんが羨ましいと、思いました。私はあれから一度もお会いすることがないのに、あの方と触れ合い、声を掛けられ、食べ物まで恵んで貰えただなんて。
「わたしね決めた! おむすびの人のいぬかみになる!」
「啓太様の、犬神に……?」
「おむすびの人ってケイタって言うの? そっかぁ、ケイタって言うんだ~」
幸せそうに手を組んで思いを馳せるその姿にまた、心がざわめきました。
そして一瞬、こんなことを思いました。
(私もあの方の……啓太様の犬神になれれば)
しかし、私は『いかずのなでしこ』。今まで主を迎えてこなかった理由としては戦えないというのもありますが、この人ではないと直感的に感じたのが大きいです。
本当はそんな直感に従い続けるのは間違っているのかもしれません。だけど、初めてなんです。
初めて、自分からこの人の犬神になりたいと思ったのは。
いえ、厳密に言えば初めてではないですね。この気持ちはあの人、慧海様以来――。
「ねえなでしこ。わたし、ケイタのいぬかみになれるかな?」
嬉しそうに、楽しそうにそう聞いてくるようこさん。
私は胸の内に感じるものに蓋をしながら頷きました。
この時、ちゃんと笑えていたかは……定かではありません。
そして月日は流れ。運命の日。
犬神選抜の儀がやってきました。
犬神の山はこの日、いつにも増して賑わっていました。
「どんな人が来るんだろうね?」
「いい主だといいな~」
「いまりとさよかは? 誰か狙ってる人とかいるの?」
「ん~? 私たちはそうだねぇ。イケメンで面白くて、性格もよくて、お金持ちがいいなぁ」
「そんな完璧超人いるか!」
「そうですよ。これは神聖な儀なのですから、ちゃんとした態度で臨みなさい」
「なによー。せんだんだっていつにも増してめかし込んでるじゃん。そのドレスなんて言っとくけど、ここだと場違いだよ?」
「ななな! い、言うに事欠いてなんてことを……!」
「なんだー、自覚してんじゃん」
「見栄っ張りなせんだーん」
「きーっ! お待ちなさいお二人とも!」
楽しそうな声があちらこちらから聞こえる。私はそっとその場を離れました。
だから、後ろの方で続いた会話は耳に入りませんでした。
「そういえばあの子も参加するんだってね」
「だれだれ?」
「ほら、あの人形とか言われてる子」
「あー。たしか川平啓太だっけ」
「アンタどうする?」
「あたしはパスかな。実際見てみないとわかんないだろうけど、聞いてる限りいい話は聞かないし」
「あ、やっぱり? 火の無いところに煙は立たないっていうしね。あたしもパスかなー」
「たぶんみんなパスだろうけど、これで超優秀だったりしてね」
「あはは! だったらあたしら超大損じゃん!」
3
喧騒から一人そっと離れた私の元にはけ様がやって来ました。
「やはり儀式の日は騒がしいですね」
「仕方ありません。みんな願っていた日ですから」
苦笑するはけ様に同じく微笑み返す。
「そういうなでしこはどうするのです? 今回も儀式を見送るのですか?」
「いえ。今回は儀式に参加しようと思います……」
私の言葉におや、と眉を上げるはけ様。
今まで儀式に参加しなかった私が今回突然参加するといったのだから驚いて当然でしょう。
「……そうですか。あなたに何があったかは知りませんが、良い変化だと思いますよ」
「はけ様……」
ふと思いついたことを聞いてみることにしました。
「はけ様は、今回の儀式で注目している方はいらっしゃいますか?」
「私ですか? そうですね。一人、心当たりが在ります」
「それは……?」
空を見上げたはけ様は慈しむようにその名を口にしました。
「我が主のお孫様である、啓太様ですよ」
4
そして儀式が始まりました。やってくる子供を木の陰から眺めていましたが、やはりこれという人はいません。
一人、二人と、他の犬神たちが憑いていく中、私は変わらずその場を動きませんでした。
そしてとうとう、あの方がやって来ました。
啓太様は優雅な姿勢と歩き方で黙々と山の中を歩いていきます。
その姿は犬神使いとして破格なものであると本能で感じました。
うずうずと身体の奥底から湧き上がってくる衝動。今すぐにでもあの方の元に向かいたい気持ちに駆られるからです。
しかし、それらを理性で押し殺しあの方の後をそっとついて行きました。
頂上に向かって歩く中、他の犬神と遭遇する気配はありません。
(この歩く姿を見るだけでも犬神使いとしてかなりのものをお持ちだと判るはずなのに、なぜ他の皆は憑こうとしないの……?)
まだまだ未契約の犬神たちは大勢いるはず。しかし、啓太様の前に現れる犬神は未だ一匹もいませんでした。
頂上にたどり着いた啓太様。やはり一匹も姿を見せなかったのはご本人も相当心にきたのか、落ち込んでいるご様子でした。
なんだかいてもたってもいられなくなった私は隠れるのを止めて啓太様の前に姿を見せました。
「あの……」
「……? キミは……」
「お久しぶりです、啓太様……」
口の中で小さく呟いた「あの時の……」という言葉が聞こえます。
覚えていてくれた。それが嬉しかった。
「どうしてここに……?」
「いえ……少し、お聞きしたいことがありまして……」
変わらずの無表情ですが、どこか困ったような様子の啓太様。
私はどうしても聞きたいこと、聞かなければならないことがありました。
「啓太様は……なぜ、犬神使いになりたいんですか?」
それが第一の質問。
犬神使いになって何がしたいのか、どうなりたいのか。
もし、もしも。
私の本当の姿を目にした時にどのような行動を取るのか、それが知りたかった。
「んー。理由はいくつかある」
「お聞きしてもよろしいですか……?」
「ん。一つは生き抜くため。この先色んな困難、待ち受けてる。俺一人じゃダメ。犬神たちの手助けが必要」
生き抜くため。
なるほど。確かに犬神使いは危険な生業ですからね。そのために私たちの助けが必要と。
「もう一つ。犬神たちと一緒にいたいから」
「……?」
仰っている意味がよく分からないのですが……。
「……犬神たちと一緒にいる。きっと楽しい」
「楽しい、ですか……」
思わずオウム返しで返してしまいました。
しかしそれほど、その言葉は意外でした。
そういえば以前、初めてお会いしたときにも私たち犬神のことを家族と呼んでくれましたね。
今の犬神使いの中でそんなことを仰ってくれる人が果たして何人いるのでしょうか。聞くところによると、中でも酷いところでは体の良い道具や奴隷のような扱いを受けている者もいると聞きます。
(楽しい、私たちと一緒にいることが……ですか)
その言葉を聞いてふと、遠い昔のことを思い出しました。
川平の開祖。慧海様がご存命の頃の話です。
あの方はいつも笑顔でいて、笑っていました。
私たち化生を友と呼び。気さくに声をかけてくれた人間。
そんな慧海様に「貴方はなぜいつも楽しそうに笑っているのですか?」と訪ねたことがありました。
「そりゃお前さん。楽しいからに決まってんだろ。お前たちと一緒にいると楽しいんだよ!」
カカッと笑い飛ばして大きな掌で頭を撫でてくれた。
そんな慧海様と啓太様が一瞬、被って見えました。
「――ふふ、面白い人ですね。性格は全然違うのに、まるであの方のよう……」
豪放磊落な雰囲気の慧海様と、静謐な森林のような雰囲気の啓太様。
二人の性格も真逆と言ってもいいでしょうに、似通っているとすら思えました。
やはり、この人だ。この人で間違いない。
心が訴えるまま、素直な気持ちを表そう。
「申し遅れました。私、なでしこと言います。よろしければ、私をあなた様の犬神にして下さいませんか……?」
「俺の、犬神に……?」
驚いた顔をする啓太様。
「はい。ダメ、でしょうか……」
むくむくと不安が鎌首をもたげてくる。
今まで『いかずのなでしこ』と呼ばれてきた私だ。心に決めた人の犬神になれないかもしれないというのが、こんなにも不安になるだなんて……。
不安を抱える私の手をそっと握った啓太様は力強く断言してくれました。
「ダメじゃない。全然、ダメじゃない」
よかった。安堵の吐息が漏れそうになるが、問題はここからでした。
「あの、それでですね……。一つ、言っておかなければいけないことがあるんです」
「なに?」
「実は私、戦うことができないんです。それ以外でしたらなんでも致します。そんな私でも契約、していただけますか……?」
そう。私は誓いのため戦うことが出来ない。
犬神として致命的な欠点を抱える私。
しかし、啓太様は不思議そうな顔で首を傾げました。
「……? なに言ってる?」
「そう、ですよね。戦えない犬神なんて……」
「なでしこさん戦わないの当たり前。戦うの俺の仕事」
信じられない思いでした。まさかと。
断られて当然なのに、戦えない私を肯定してくれなんて。
もしかして、私は夢を見ているのではないのでしょうか……。
「なでしこさん家事できる?」
「は、はい。一通り心得ておりますが……」
家事は好きなので満足いただけると思います。
「……女神」
無表情なのに瞳の中にキラキラしたものを宿して手を取る啓太様。
「これからよろしく……」
「……はい。不束者ですが、よろしくお願いします」
一生、この方についていこう。
啓太様の犬神として……。
「なによ、それ……」
そう心に決めた私に冷たい声が降りかかりました。
よく知る声。私の数少ないお友達の声。
振り返るとそこには涙目で私を睨む、ようこさんの姿がありました。
5
「ようこさん……」
ようこさんが口にする数々は正しく正当性のある言葉で、私は言い返せないでいました。
彼女が啓太様に寄せる思いは懸想かどうかは定かではありませんが、それに近しい感情であるとは察していました。
毎日を退屈そうに過ごしていたようこさんがあんなに生き生きとした姿で啓太様のことを語っていたのです。
私は、彼女の思いを肯定していました……。
「ねえなでしこ。ケイタをわたしにちょうだい?」
普通に考えたら友達の恋を横取りするような立場であるのは明白です。身を引くべき、なのでしょう。
ですが、ようこさんに言われたその一言が、私の心を深く穿ちました。
(せっかく、せっかく出会えたご主人様を……啓太様を、渡す?)
これ以上の出会いは無い。コレを逃したら、次は無い。
確信にも似た予感が私にはあったのです。
だから、一瞬の迷いは決意と覚悟によって振り切りました。
「……ごめんなさい、ようこさん。私はやっぱり、啓太様の犬神になりたいんです……」
私はずるい女。最低な女。
友達の恋を応援していながら、その相手を渡したくないだなんて考えている。どうしようもなく、ずるい女。
ようこさんとの友情より啓太様を取った。それなのに、私は――。
(ようこさんとも変わらず仲良くいたいだなんて、そんな虫の良すぎることを考えてる……)
なんて自分勝手で都合のいい話だろうか。
だけど、これは私の紛れも無い本心。
これを現実にするのは並ならない苦労と時間が必要でしょう。
ですが、叶えて見せます。私は、ようこさんも好きなのですから……。
たとえ嫌われても、殴られても、罵詈雑言を浴びせられても。
この利己的な考えを貫き通す。三人が笑って過ごせる関係を作る。
それが、私の決意と覚悟です――。
冷静に考えてみると、結構なでしこって酷い立場にいるんですよね。元からようこのケイタに対する思いは知っていたにも関わらず、友情より恋愛を取ったんですから。
ですが、私は一見バカバカしい考えやエゴに満ちた思想でも、それを貫き通せば力になると考えます。
ですので、今回は茨の道とわかっていながらそれでもなお突き進もうとする、なでしこの決意を書いてみました。