なでしこたちを休ませてあげたいところだが、早急に動かなければならない。彼女たちには悪いが、もう少しだけ頑張ってもらおう。
直ぐにはけと連絡を取る。ものの数分で白装束を着たはけがリビングに現れた。相変わらずフットワーク軽いっすね。今はすごくありがたい。
はけにお婆ちゃんを大至急こっちに連れて来るようお願いをすると、驚いた表情を浮かべる。
「宗家を? 今からですか?」
「ん。今すぐ」
訝しげに首を傾げていたはけだったが、俺たちの切羽詰った様子からただ事じゃないと悟ってくれたのだろう。真剣な顔で頷いてくれた。
「――分かりました。すぐにこちらへお連れいたします」
「頼んだ」
静かに一礼すると虚空に消えるようにしてその場を去るはけ。それを見届けた俺は次いで仮名さんと連絡を取るべく、携帯電話を開いた。
一昨日聞いた話だと今日は非番のはず。予定がなければいいけれど。
二度コールが鳴ると電話が繋がる。
『もしもし』
「仮名さん。川平だけど」
『おお、川平か。どうした?』
「……大変なことが起こった。すぐこっちに来てほしい」
『大変なこと?』
「お婆ちゃんも呼んだから、みんな揃ったら説明する。とにかくヤバい」
口じゃ説明し難いし、二度手間だ。みんな揃ってから改めて話したほうがいいだろう。
それに直接見てもらうのが一番だ。
『……宗家もお呼びしたとなると、ただ事じゃなさそうだな。わかった、直ぐに向かおう』
「助かる。それと赤道斎いる? いたら連れてきてほしい」
あいつがいれば何か分かるかもしれない、そう思い聞いてみたんのだが。
『赤道斎は不在だ。なんでも新たなロマンの予感がするとかで昨日旅立ったぞ』
こんな時になに旅に出てるんだよアイツは! つっかえねぇぇぇ!
いないものは仕方ない、仮名さんだけでも来てもらおう。
「……仕方ない。仮名さんだけでも来て」
『分かった。三十分ほどでそちらに到着する予定だ』
「了解。待ってる」
おばあちゃんがこっちに来るのに、大体二時間くらいかな。全員集まるまで時間があるな。
その間、少しだけ仮眠を取ろう。なでしことようこにもそう伝えると彼女たちも頷いた。やっぱり疲れてるよね。
仮眠は一時間ずつ。最初になでしことようこ、次に俺という順番になった。
「んじゃあ、ちょっと寝てくるねぇ~……お休みぃぃぃ」
「すみません啓太様、お先に失礼しますね。お休みなさい」
「……うぃ。お休み」
ようこがふらふらと自室へ向かっていくとなでしこもその後を追った。二人が二階へ向かうのを見届けた俺は革張りのソファーに背中を預け、大きく息をつく。
それにしても、この短時間で色んなことがありすぎて精神的に疲れた。なんだよ平行世界とか。しかも家の地下から見つかるとか、あり得ないって。徳川の埋蔵金が見つかったほうが良かったわ。
とりあえず、お婆ちゃんと仮名さんが来たら事情を説明して、その後その目で見てもらったほうがいいな。何気に【絶望の君】との最終決戦よりラスボス感あるんだけど、どういうこと? なんか決戦前夜みたいだし。そんなことないよね?
その後、三十分経つと時間丁度に仮名さんがやってきた。本当に几帳面だよねこの人。
「来たぞ川平」
「……ん。ありがとう。お婆ちゃんはあと一時間ちょっと掛かると思う。来たら説明するから、それまで寛いでて」
「では、そうさせてもらおうかな。そういえばなでしこくんとようこくんが見えないが?」
仮名さんにお茶を出す。なでしこやようこなら急須から淹れられるけど、俺は無理なんで作り置きで勘弁ね。
「なでしこたちは寝てる。俺もこの後少しだけ寝る予定。色々あって疲れた」
「そ、そうか。たしかにどことなく生気がない顔をしているな……。大丈夫か?」
え、マジッすか? あー、厄介なもの見つけちゃったから責任感じてるのかね。わっかんね。
「……大丈夫。それに、仮名さんも何れこうなる」
問答無用でな。
「ん? おいちょっと待て、それは一体どういう――」
「……お茶菓子持ってくる~」
「おい待て川平っ」
あー、聞こえない聞こえないー。
その後も仮名さんをからかって遊んでいると、一時間経ったのかようこたちが二階から降りてきた。うん、ちゃんと寝れたみたいだな。顔色もよくなってる。
「いらっしゃいませ仮名さん」
「あ、仮名さんだ。いらっしゃ~い」
「ああ、お邪魔しているよ」
んじゃあ俺も寝てくるかね。あ、そうだ……!
普通にベッドで寝るよりも確実に安眠が取れる方法が思い浮かんだ。ナイスアイディアだ俺!
と、いうことで。なでしこー、枕になって~。
「えっ?」
驚いた顔をするなでしこ。なでしこ枕希望!
「ええっと……ですけど、ここには仮名さんもいらっしゃいますし」
なでしこは困惑した様子で俺と仮名さんを見比べる。
「コホン。あー、君たちは婚約者同士なのだから、別にいいのではないかね? 私が邪魔だというならしばらく席を外すが」
出来る男の仮名さんは、空気を読むのにも長けていた!
仮名さんがこう言ってるんだからいいじゃん。それになでしこの方が普通のベッドより気持ちよく寝れるんだし。
「……はぁ。もう、本当に困ったお方です。では、準備しますのでお二人とも目を瞑っていてください」
「うぃ」
「あ、ああ、枕ってそういうことか……。わかった」
仮名さんと一緒に回れ右をする。後ろで衣擦れの音が聞こえ、パサッと衣服が落ちたのが分かった。
そして、ぱしゅっと霊力が放出され、穏やかな風がリビングの中を吹き抜ける。
背後を振り返ると、本来の姿である犬の化生に戻ったなでしこがそこにいた。美しい灰色の毛並みはふっさふっさで我が子を見守る母のような慈愛の篭った眼差し。しなやかな肢体だが、その実、全てを包み込む柔らかさを兼ねておりまるで外敵から身を挺して守る母の姿を幻視しそうで彼女に抱きつくとまさに母の腕の中にいるような安心感がある。いぬかみって犬の化生と聞いたけど、ぶっちゃけ犬の神なんじゃないかと本気で思うよマジで。ほら、漢字で書くと犬神だし。そうだよねきっと。じゃあなでしこたちは犬の神様なんだやっふー!
眠りやすいように横たわったなでしこに早くも抱きつく。ああ、このもふもふ感がええんじゃあ~。ほんのり感じる体温といい、なんとも言えない安らぎが…………zzz……zzz……。
1
「なんて姿勢で寝るんだ川平……」
ケモノの姿に戻ったなでしこに抱きつき、そのまま眠りについてしまった啓太を見て苦笑する仮名。
本性に戻ったなでしこは美しい毛並みを持つ艶やかな犬だ。約三メートルの体長は大型犬では納まりきれない大きさだ。絨毯の上に横たわり、そのお腹に啓太が抱きついた状態で眠っている。寄り添うように抱きつくのではなく、飛び掛るように手を伸ばした状態のため、Tの字のようにも見える。
「その状態でよく寝れるね、ケイタ……」
ようこも苦笑いしている。彼女はそっと啓太の腕を外すと、優しく仰向けにしてなでしこのお腹に頭を乗せてあげた。次いで、しゅくちでタオルケットを引き寄せると啓太の体に掛けてあげる。なでしこのお腹を枕にして眠る。これが啓太お気に入りの“なでしこ枕”である。ちなみに亜種として“ようこ枕”も存在する。
自分のお腹を枕代わりにしてすやすやと眠る主を優しい目で見つめるなでしこ。起こさないようにそっと舌で啓太の頬を舐めた。
「ごめんね仮名さん。ちょっと色々あって、ケイタ疲れてるの。少し眠らせてあげて」
良妻っぷりを見せたようこは申し訳なさそうに仮名へ頭を下げた。それを見て仮名は慌てて手を振る。
「いや、構わないよ。川平の様子からただ事じゃなさそうなのは承知していたからな。刀自が来るまでゆっくり寝かせよう」
「うん」
その後は最近の出来事など話したり、はけとようこで雑談をして過ごすこと一時間。ようやく宗家たちが到着した。なでしこの代わりにようこが出迎えに行く。
「お婆ちゃん、はけ! いらっしゃい!」
「おお、ようこ。久しぶりじゃな」
元気なようこの姿に皺のある頬を緩める宗家。はけも穏やかな顔でようこを眺めていた。
「さ、入って入って!」
「うむ。ではお邪魔するぞい」
「失礼しますね」
ようこに促されて家に上がる。リビングに促された二人は自分たちの他に仮名がいることに驚いた。啓太がこれまでに何度か宗家と仮名を家に招くことがあったが、いずれも非常事態と言っていい切羽詰った状況だったからだ。今回も面倒な事件に巻き込まれたのではと話を聞く前から疑うのも仕方ないだろう。
「仮名様」
はけの声に顔を上げる仮名。
「おお、刀自にはけ。到着したんですね」
「うむ。仮名くんも呼ばれたようじゃな。啓太からは何か聞いているかの?」
「いえ。皆が集まってから説明するとのことです」
「なるほど。して、その啓太はどこじゃ? なでしこもいないようじゃが――」
「ああ、それなら――」
首を傾げる宗主に苦笑した仮名が窓の方へ顔を向ける。
そこには啓太の枕になっているなでしこが、なんとも言えない顔で宗主たちを見ていた。
「――ここです……」
啓太を起こさないように小声で己の存在を知らせるなでしこ。犬神を枕にして眠る孫の姿に宗主は額に手を当てた。
「こやつめ……まったく、仕方のないやつじゃな。ほれ、起きんか啓太!」
「ん、んぅ…………あ、来たんだ。ふぁぁ、よく寝た……。ありがと、なでしこ」
「よく寝れたのならよかったです」
「……快眠だった」
枕になってくれたなでしこを労い、彼女の頭をよしよしと撫でる。
気持ちよさそうに目を細めて受け入れるなでしこだが、宗家は呆れたような顔をしていた。
「まったく。相変わらずじゃなお前は」
「……もち。さて」
なでしこが着替えのためリビングから出る。啓太はざっと場を見回し、全員揃ったのを確認した。
やがて人化したなでしこが戻ってくると、宗家が早速が本題に入った。
「それで? わしらを呼んだ理由を聞こうかの。仮名くんまで呼んだんじゃ。重大な話なんじゃろ?」
宗家の言葉に全員の視線が啓太に集中する。緩んでいた気持ちを引き締めた啓太は重々しく頷いた。
数時間前に起こった出来事を時系列順に語る。倉庫を整理していた時に壁の色が一部違うことに気がついたこと。試しに壊してみると、その奥からコンクリートで出来た階段があり延々と地下へ続いていたこと。その先には巨大な扉があり何故か啓太が触れると開いたこと。扉の先は研究所のような施設に繋がっていたこと。その先の退廃した世界のこと。なでしこの日記を見つけ、そこには未来の出来事が書かれていたこと。
啓太が語った内容は正直、理解の範疇を超えるもので作り話のような荒唐無稽と言ってもいい話だった。よその人が聞けばふざけていると思われても仕方ないだろう。
しかし、この場にいる者たちは啓太がそのような嘘や冗談を無意味に口にするような人間ではないと知っている。それになでしこも補足するように説明したり、ようこも真剣な表情で頷いているため、真実を語っているのだと理解した。
全てを聞き終えた宗家が難しい顔で腕を組む。仮名もことの重大さを理解したようで一緒になって腕を組んだ。
「俄かには信じられない話ですが、これは……」
「ううむ、平行世界のぅ。俗にいうパラレルワールドというやつじゃな。流石のわしもそんな話聞いたこともないの」
「しかし、本当にそこが平行世界で今も繋がっているとなると大変な事態を招かねんぞ。下手をすれば世界同士が干渉し合って消滅するかもしれん」
「……ん。だからお婆ちゃんたちの意見も聞きたかった」
そう言って啓太が取り出したのは向こうで回収してきたなでしこの日記。薄汚れたピンク色の日記帳だ。
「これがそうなのか?」
「ん。平行世界のなでしこがつけていた日記。未来のことが書かれている」
仮名の言葉に頷く啓太。宗家が読んでもいいかとなでしこに尋ねると、彼女は真剣な顔で頷いた。
「では失礼して――」
仮名がページを開き、周りに聞こえるように声に出して読む。許可を出したとはいえ自分の日記を音読で読まれる羞恥になでしこは顔を真っ赤にした。啓太とようこがそんな彼女を慰めるように頭を撫でる。
初めは微笑ましい内容に仮名や宗家、はけも表情を柔らかくしていたが、未来の話になったあたりで顔つきが厳しくなる。仮名が読んでいるところは丁度、未来で異変が起き始めたと書かれたページだった。
静けさに包まれるリビングの中、仮名の声だけが響き渡る。皆、真剣な顔で話を聞いていた。
そして、最後のページを読み終える。しばしの沈黙が場に下りた。
「…………なるほどの。啓太が言うところの平行世界とやらをまだ見ておらんからまだ何とも言えんが、そちらではそのような異変があったのじゃな」
「しかし、世界規模の異変ですか。そんなことが……」
宗家とはけが難しい顔で何かを考える。仮名は想像を絶する内容に絶句していた。
日記に書かれていた内容によると、二〇二四年の四月十五日。この日、世界中で不可思議な現象が同時に観測されたらしい。
初めに観測されたのはアメリカとロシアだった。首都のワシントンとモスクワが突如、謎の空間によって包まれた。その空間内にあったもの――建物や植物などはすべてモザイク状のブロックに変異してしまったらしい。この現象は空間そのものに作用するらしく、ブロックはその場に残り続け移動することが出来ない。つまりは研究所などに持ち帰り解析することが出来ないのだ。この謎の現象によりワシントンとモスクワは一夜にして滅んでしまったのだ。この一報は世界中に衝撃を与え、科学者たちはこの謎の現象を浸食現象、侵食された空間を浸食空間と名付けた。
しかも、この現象の恐ろしいところは、人間や動物などの生物が被害にあった場合――浸食空間に取り残されてしまうと、それらはモザイク状のブロックにはならず、まったく未知の何かに変異するのだ。その未知の何かというのは実際に目にしていないからよく分からないが、なでしこの日記には生物のような形をした何からしい。
ワシントンとモスクワで初めて観測されたのを切っ掛けに、世界中で浸食現象が多発。不思議なことにアメリカやロシア、中国、ドイツ、フランス、イギリスなど世界に影響を及ぼす国の首都では大規模な浸食現象が発生している。
ある学者の話だと浸食されたブロックは現在の科学では解明できないようで、通常兵器でも破壊は困難。そのため、瞬く間に世界は混乱に陥り、世界中の人々がいつ発生するか分からない未知の現象に怯えた。しかし、その浸食現象以上に人々が恐れている存在が――。
「浸食体、か……」
ぽつりと呟く仮名に、皆深刻な顔で押し黙る。
そう、浸食現象に巻き込まれた人たちや動物が厄介なのだ。浸食体と名付けられた彼らは非常に攻撃的で他の生き物を見ると問答無用で襲い掛かってくるらしい。彼らの攻撃で傷を受けるとまるでウイルスに罹患するかのように被害者も同じ浸食体へと変貌してしまう。ネズミ算式で際限なく増えていくのだ。その上、彼らは恐ろしいほどに耐久力があり、通常の重火器では傷を負わせられない。対戦車ライフル並みの威力がある攻撃でようやく倒せるらしい。これを読んだとき思ったね。向こうの世界、完全にオワタ、と。
「ここに書かれている、啓太様の様子がおかしくなったというのも気になりますね」
それな。向こうの俺に一体何が起きたし。
日本で初めて観測された浸食現象は大阪と横浜だった。その時、向こうの俺は丁度横浜にいたらしい。幸いなことに現場と少し離れたところにいたらしく、浸食現象の餌食にはならないで済んだようだが、なでしこの日記ではこの日を境に様子がおかしくなったのだとか。
血走った目でぶつぶつと独り言を呟いたり、突然錯乱して意味不明なことを叫んだりと。何度か病院に通って検査を受けたがどこにも異常は見られなかったらしい。日記を読むと即なでしこに定期的に病院に通うように懇願されたもの。
「確かに、この川平の様子も気になるところではあるな」
「錯乱するケイタなんて想像できないよ。一体何があったんだろう……」
「わかりませんが、相当なことが起きたのでしょうね。すでに異常な事態ですから」
そう言う仮名、ようこ、なでしこ。
「……実際に見てみない分には何とも言えんが、そのような者が存在している世界と繫がっているとなると、本当に世界の危機だぞ」
仮名の言葉に宗家が重々しく頷く。
「うむ、これは一刻を争う事態じゃな。啓太よ、すぐにその平行世界とやらに案内してくれ」
「ん」
祖母の言葉に頷いた啓太は立ち上がり、皆を地下の倉庫室へ案内した。
延々と続く階段を前に皆の顔が引き締まる。
「では、皆の衆。覚悟はよいな?」
宗家の声に皆が頷く。それを見て宗家も重々しく頷いた。
「では行くぞっ」
2
お婆ちゃんたちを先導する形で再び長い階段を下っていく。ようこが照らしてくれる火が唯一の光源だ。
「……ここが、話にあった研究所か。確かに研究施設のように見えるの」
「施設全体が脆くなっていますね。どの機器も損傷が激しい」
開けっ放しになっている扉を超えて研究所エリアに突入する。話には聞いていたが、階段の先に未知の研究施設があって皆驚いているようだ。崩れ落ちそうな天井や床、壁などに注意しながら進む。広い施設で一見すると迷いそうな感じがするけど、意外と通れる場所って少ないんだよね。瓦礫で道が塞がっていたり、床が抜け落ちていたりしていて。
ほぼ一方通行の研究施設を進んでいくと出口が見えてきた。ここも扉が開いたままだ。
「……この先。ここも同じくらいの距離」
予めこの階段がどのくらいの距離なのか伝えておく。知っていると知らないとじゃ全然違うからな。
「わしもまだまだ現役なんじゃが、やはり歳には勝てんのぅ……。さすがに体力が持たんわい」
「無理はなさらないでくださいよ」
降りるのは大丈夫だったお婆ちゃんも流石に上りはきついようで、はけにおぶってもらっている。ここまで自分の足で来れるだけでも十分すごいと思うよ。もうすぐ九十だよね?
それでも年寄りと思われたくないのか「わしはまだまだ現役じゃからな?」としつこく口にしていた。
そんな祖母の姿に苦笑しながら階段を上ること約十五分。出口に差し込む光が見えてきた。
「ついたようだな」
「ん。ここが平行世界の吉日市」
仮名さんと言葉を交わしながら出口に向かう。
そして――。
「……え?」
山の一部に出た俺たちであるが、そこから見える光景に思わずそんな声が出た。
「なんだ、これは……!?」
仮名さんが絶句する。その隣ではけの背中から降りたお婆ちゃんも、目の前に広がる光景に目を大きく見開いていた。あの冷静沈着なはけでさえ大きく息を呑んでいる。
一度来ている俺たちでさえ言葉がない。なんだよ……なんだよ、これ……!
「ここが、平行世界……」
緑は枯れ果て、多くの建物が倒壊し崩壊していた敗退の世界。その、およそ半分以上が浸食現象によりモザイク状のブロックへと変質していた。
三分の二以上がモザイク状のブロックとなったビル。屋根だけがモザイク状のブロックになった民家。地面も、なにもない空間も、そして空でさえ、所々が浸食現象によりモザイク状のブロックに変異してしまっている。
まさに世界が終わろうとしてるかのような、そんな光景。ゾッと背筋に冷たいものが走った。
俺たちが元の世界に帰ってからまだ二時間ちょっとしか経過していないのに、もうここまで浸食されたっていうのかよ……! 明日には世界のすべてが浸食されたと言われてもおかしくないぞ!
「……啓太、お前が来たときは浸食現象とやらは見られなかったんだね?」
お婆ちゃんの言葉に頷く。俺たちが最初に来た時は退廃してはいたものの、どこにも侵食空間は見られなかった。祖母は厳しい顔で沈黙するなか、はけが鋭い視線をとある方向へ向ける。遅れて、俺もその気配を感じた。
「皆、隠れてくださいっ」
はけの言葉に全員が物陰に隠れる。そっと顔を覗かせると、そこには人の形をしたナニかが徘徊していた。
「なんだ、あれは……」
困惑した声を漏らす仮名さん。その人型は全体的に黒く、赤い筋のようなものが体の所々を毛細血管のように張り巡っている。体長は三メートルほどで、手足が異様に長く手のひらが大きい。妖ではないだろう。というか、生物なのかあれは?
生き物の理から外れたような、明らかに異質な空気を纏っている。そいつは牛歩のような速度でのったらのったらと歩いていた。俺たちには気が付いていないようだ。
「啓太様、もしかするとアレが浸食体というのでは?」
「……だと思う」
十中八九そうだろう。浸食現象に巻き込まれるとああいう風になるのか……。
「無闇な戦闘は避けたほうがよいじゃろう。日記に記述してある通りであればアレに手傷を負わされたらお終いじゃ」
そうだな。自ら危険に飛び込まなくてもいいだろう。全員同じ意見なのか異論はなかった。
しばらく物陰に隠れて浸食体が去るのを待つ。やがて人型のソレは視界から消えていった。
もしあれが跋扈しているとなると、地上は危険だ。ここは空から行った方がいいな。そう提案するとお婆ちゃんやはけも頷く。
「そうじゃな。気づかれる可能性はあるが、地上を歩くよりは安全じゃろう」
「では」
はけが本性に戻り、ケモノの姿になる。はけのその姿は久しぶりに見たな。基本、化生に戻った犬神は皆似たような姿をしているが、それでも差異というものはある。主くらいでないと気が付かないくらい些細な点だけれど。はけは透き通った灰色の毛並みが特徴的で、なでしこは全体的に女性的な柔らかい印象があるといった感じだ。
はけの背に乗るお婆ちゃん。そういえば、はけ服着たまま戻ったけど、大丈夫なんか? なに、霊力で出来てる? なにそれ初耳なんだけど。
俺はなでしこ、仮名さんはようこに乗せてもらうことになった。
一先ず目をつむり、着替えるのを待つ。いいですよと声が掛かり目を開けると、美しい灰色の毛並みを持つなでしこと金色の毛色のようこがケモノ姿でお座りしていた。
早速それぞれの背中に乗る。
「では、行きますよっ」
はけに続いてなでしこ、そしてようこが飛び立った。徐々に高度を上げていき、やがて高層マンション並みの高さまで上る。
空から見下ろすと、吉日市の状態がよく分かる。
「これは酷いな……」
「話には聞いておったが、ここまでとは……」
仮名さんとお婆ちゃんが痛ましそうにつぶやく。俺もまったくの同感だ。
まるで大災害が起きた後のような有様なのにその上、浸食現象というわけの分からない現象のせいで混沌と化している。空から見下ろすとよく分かるが、地上には十数体ほどの浸食体がうろついていた。見下ろす限りでは人の姿は見られない。家の中に隠れているのか、それともここからすでに避難しているのか。
「あれが啓太様のご自宅ですね。確かに酷い有り様だ……」
はけの言葉に視線を下げる。丁度、俺の家の上空を通過したところだった。幸いと言っていいか分からないが、浸食現象の餌食にはなっていない様子。改めて倒壊した自分の家を見ると、こう胸にくるものがあるな……。
「……一度、わしの家に向かおう。こちらの世界のわしらが現在どうなっているのか分からんが、この目で確かめねばならん」
お婆ちゃんの提案に頷く。こっちの皆はどうなっているのか心配だ。
静岡の実家へ向かおうとする。その時、一瞬、気になる光景が視界に過った。
「――っ! ちょっと待つ!」
咄嗟にそう呼びかけると先頭を飛んでいたはけがその場に留まった。
「む? どうしたんじゃ?」
「啓太様?」
なでしこの訝し気な声。俺は目を凝らし、視界に映ったその場所をジッと見つめる。
――うん、恐らく間違いない。
「なでしこ、あそこに寄って」
指で示す方向をなでしこたちも見る。街の外れにある広い敷地の場所。上空からだと小さな点がまばらに散りばめられている。
「あそこは……?」
なでしこの問いに、俺は呟くような声量でこう答えた。
「……おそらく、墓地」
街外れというのもあってか、浸食体の姿は確認されなかったため一度地上に降りた。
広い空き地。学校のグランドほどのスペースがあるそこには、十字に組まれた木の枝が地面に立てられていた。広い空き地の一面に、ずらりと。その数は優に三百を超えている。
それは、明らかに墓標だった。十字架を模して造られた木の枝が等間隔で地面に立てられている。遺体を地面に埋めて、十字架の代わりに木の枝で組んだ墓標を立てた、即席の墓地。
それが、校庭のグランドほどのスペースがある空間を埋め尽くしているのだ。あまりの凄惨な光景に皆の言葉が失われる。
「これほどの死者が出たというのか……」
消え入りそうな声でそう呟く仮名さん。
なでしこやようこは痛ましそうな顔で視線を反らした。
お婆ちゃんとはけは真っ直ぐ墓地を見つめている。まるで、これが現実なんだと受け止めるように。
そして、俺は――。
「……? 啓太様?」
ふらふらと歩き出した俺の跡をなでしこたちが追ってくる。
覚束ない足取りで歩み寄った先には一つの風変りな墓標が立っていた。木の枝で作られた墓標に紛れて、ここだけ一緒に刀が地面に突き刺さっているのだ。
「刀? ここの人の持ち物だろうか?」
訝し気な顔で呟く仮名さん。なでしこが何かに気が付いたように大きく目を見開いた。
「も、もしかして、その刀は……っ」
その刀から感じる霊力。それは紛れもなく、俺自身のものだった。
墓標にはこんな文字が刻まれている。
【川平啓太、ここに眠る】
「ケイタの、お墓……」
どうやら、この世界の俺はこの下で眠っているらしい。
「――あぁ……」
「しっかりなさいなでしこっ」
ふらっとなでしこの巨体がふらつき、その体をはけが自分の体で支える。ようこが泣きそうな声で言った。
「うそ……。こっちのケイタ、死んじゃったの……?」
「――どうやら、亡くなったのは啓太だけではないようじゃぞ」
お婆ちゃんの声に振り向く。厳しい表情の祖母は顎で隣の墓標を見るように促した。
無言の催促に俺たちは隣に立つ墓標を見る。
そこには――。
「……っ! 私の名前……」
「うそ、私のお墓まであるの……!?」
なでしことようこの墓標が並んでいた。
あの世でも家族三人でいられるようにと、そう願うように。