綺麗な薄紫のアザレアが店内を見渡すように、花弁の1枚1枚がそれぞれ別方向を眺める。
お店の雰囲気とは少し合わないかな?
刻々と進み続ける時計の針が約束の時間の30分前を指し示す。
さて、そろそろ皆さんが来る頃だな。
ウロウロとカウンター内で忙しなく動き回る先輩も時計をチラリと見ていた。
「ふふ。せーんぱい、そろそろ皆さんが到着するんじゃないですか?」
「あぁ。……だな」
先輩はエプロンを外してそれをカウンターに掛ける。
見慣れたその姿はやっぱりそわそわと誰かを待ち望んでいるご様子で、それとなく扉の方へと視線を向けた。
冷たかった季節が嘘だったかのように、そして、未だ溶けない雪は彼女の登場に道を開けたように……。
黒くて長い髪が懐かしい。
纏う雰囲気は変わらない。
大きな瞳から覗く視線は強く、強く。
彼女は……。
雪ノ下雪乃はそこに現れた。
「……ん。いらっしゃい」
「ふふ。変わらないのね。お邪魔します」
「おまえが1番だよ」
「そのようね。……一色さん、こんにちは」
「はい!こんにちは、雪ノ下先輩!!」
彼女は音もなく店内に入ると、どこか決まったルートを歩くかのようにカウンターの一席に座った。
「この席に座るのも3年振りになるのかしら」
「……そんなもんか」
「ふふ。何か言うことはないのかしら?」
「あ?」
「あら、この3年で耳まで退化してしまったのかしら」
「アホか……。はぁ、…おかえり、雪ノ下」
「……ただいま」
そっと、流れた空気が暖かくなった気がした。
雪ノ下先輩は澄ました様子を装いつつも頬を軽く赤らめている。
時間は戻らない。
それでもこの空間はあの時を思い出したかのように記憶を遡り始めた。
.
…
……
………
…………
「それじゃあ!ゆきのんの帰国を祝して!かんぱーい!!!」
「「「かんぱーい!!」」」
店内に響き渡るグラス音。
喫茶店だったその場所は、活気と酒気により賑やかなバーへと変貌したようだ。
それでもやっぱり、先輩の定位置はカウンター内のようで。
彼はシャンパングラスを小さく傾けながら店内を見守っていた。
「それにしてもさ!ゆきのん美人になったよねー!」
「そ、そうかしら」
「うん!3年前も十分美人だったけど、今はなんてゆうか、もっと美人になったよね!」
「……由比ヶ浜。おまえは変わらんな」
「な、なにさ!ヒッキーだって変わってないじゃん!」
空間を切り取り額縁に合わせたような感覚。
3人の掛け合いは限りなく自然で、あの頃と変わらずそこにある。
「変わらないことには定評があるからな。俺は」
「比企谷、私の教育が足りてなかったようだな」
「お兄ちゃん、小町は胸が痛いよ」
下らないと口にはしつつも誰よりも下らないことを引き受ける。
見返りがないとも知っていながら先輩は誰彼構わずに救い続けてきた。
「……八幡。私もそれ飲みたい」
「まだ早い。大人になったらな」
「あーし、高校生の頃にはカクテル飲んでたけどね」
「るみるみ、こんなロクでもない大人になったらだめだぞ?」
「うん」
「あんた達ぶっ飛ばす!」
だからこそ、その優しさが誰かの目に止まり、こうして大きな輪が出来た。
今、ここにある幸せは、彼が作り出したもの。
そんなあなただから、私は好きになって、好き過ぎて、好きで好きで。
私は店内に広がる暖かさに身を委ねつつ、涙が出そうになる目に力を込めた。
泣いちゃだめだ。
泣いたら、また先輩は私を救いに来てしまうから。
気配を消しつつ、私は店の出口に足を向ける。
「……いろは」
「っ……。は、葉山先輩」
「何処に行くんだ?」
店の出口を塞ぐように、葉山先輩は腕を組みながらそこに立っていた。
「あ、あははー。ちょっと酔いすぎちゃまして。外で夜風に当たってきます!」
「そうか。……なら、俺も一緒に行こうかな」
「……」
「……。やっぱり止めとくよ」
「え、あ、……そ、そうですか」
「うん。だって……」
葉山先輩は小さく微笑みながら私の肩をそっと叩く。
「怖いお姉さんが先に居るみたいだからね」
と、葉山先輩がそこを立ち去ったと思うと、出口の外から悪魔が現れた。
皮肉にも、女神のような美貌を浮かべて。
「やぁ、いろはちゃん」
「陽乃さん……」
「出し抜けると思った?」
「出し抜こうなんて思ってないです」
「……あなたのおかげで雪乃ちゃんは救われた。比企谷くんは自由になれた。私も荷が下りた。お礼を言わなくちゃかな?」
「……別に」
「あっそ。だったら言わない。……私、ちょこっとだけ怒ってるんだー」
「みたいですね。顔に出てますよ」
「あははー!比企谷くんみたいな反応だなぁ。やっぱりペットは飼い主に似るのかな?」
「ぺ、ペットなんかじゃないです!」
少しだけ声が大きくなってしまう。
まるで威嚇するわんちゃんのように。
そんなわんちゃんは、大きな熊を前にすると後ろず去ってしまう。
だって、私の前に立つ大きな大きなツキノワグマが、鋭く尖った牙をニヤリと見せるんだもの。
「……ペット以下だよ。君は」
「……っ」
「勝手に転がり込んで、養ってもらって、好きに振舞って。……終いには何も言わず居なくなろうとしてる」
「…わ、私は先輩にこれ以上……」
「違うでしょ?雪乃ちゃんやガハマちゃんを理由に逃げたいだけ」
「そ、そんなこと!」
「居場所違いだと言われる前に、君は比企谷くんの前から逃げ出したいだけでしょ?」
ひやりと身体を突き抜ける冷たい風に、私は足の指先から頭のてっぺんまで凍りついてしまう。
綺麗な理由を身に付けて逃げようとした自分を彼女に指摘されたから。
先輩は優しいから私をそばに居させてくれる。
好意じゃない、懇意のために。
「けじめくらい着けたら?」
バタンっ。と、扉は閉められる。
大きな物音に、店内に居る全員の目が私を貫いた。
「……一色?」
「せ、先輩…」
今日までありがとうございました。
この一言が喉から出かけているのに口が開こうとしない。
「……おまえ、何かあったのか?」
先輩はカウンター内から出てくる私の顔を不審に覗く。
「な、なんでもないです。……あ、あの、私……」
大好きなあなたと居れて幸せでした。
優しく頭を撫でてくれて幸せでした。
暖かい手を繋いでくれて幸せでした。
だから……。
私は……。
「……わ、私、帰ろうと思います」
もう、あなたの優しさを独占しないため。
そして、あなたの幸せを願って。
先輩は少し驚いたように目を大きくさせる。
後ろに居た陽乃さんは興味が無さそうにそっぽを向いてしまった。
「……そうか。…そう、だな。その方が良いかもな」
「……はい」
また、抱き締めて。
私を引き止めて。
そんな小さな願いは頭の中から掻き消した。
「婚約の挨拶。行かなくちゃだもんな」
……。
…?
「は?」
「「「「は?」」」」
話が噛み合っていないのは気のせいか。
そこに居た先輩以外の全員が固まっている。
「まずは一色のご両親に挨拶した方がいいよな?そしたらウチの両親に報告して……、ん?なに?なんで固まってんだよ?」
「ちょ、ちょっと待ってください!せ、先輩、なにを……」
「……職業は小説家の方がいいよな?喫茶店のマスターって将来不安だもんな」
「た、確かに……。って、そうじゃなくって!!」
すると、先輩は私を宥めるように、いつもと同じ手を私の頭に乗せてくれる。
触れた部分が溶けそうなくらいに熱を帯びていて、今にも私の目からは涙がこぼれ落ちそうだ。
「……おまえの考えることくらい分かってる。無駄に気を回すところも、誰よりも計算高いところも」
「……せ、先輩は、私と居ちゃ……」
私と居ちゃいけないんです。
相応しい人がそこに居るんですから。
私のことなんて……。
「俺はおまえと一緒に居たいんだ」
「わ、私は……っ!!」
「結婚……。してくれるんだろ?」
そっと、先輩は私の左手を持ち上げる。
暖かい手のひらからは小さな幸せを創造した指輪。
私の薬指にぴったりの指輪は、先輩の手によってハメられた。
「……照れるわ。やっぱり俺には水が合わん」
「こ、これって……」
「……そのうち渡そうと思ってた。でも、ぐだぐだしてたら、おまえ何所かに行っちまいそうだし」
「っ!」
「好きだ。誰よりも。おまえのことが」
するりと交わされた言葉に、私の涙は堪えずに溢れ出てしまう。
そんなに暖かい言葉を言われて我慢できるわけがない。
私の腰に回された手は力強く先輩の胸に引き寄せられる。
恥ずかしいです。
皆んな見てます。
それでもやっぱり、私は。
……
「わ、私も。……私も先輩が大好きです!!」
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