4月7日(金)
朝――第八研・被験体用寝室
ベルベットルームより戻ってきた八雲は、起きると自分の左腕に黒いリストバンドが巻かれている事に気付き、今までのことが夢ではないことを確信した。
そして、ゆっくりベッドから出ると洗面所へと向かい準備を終える。
そうして、ベッドに腰掛けたところで、入り口の扉が開いた。
「グッドモーニング、少年。君はいつも良い時間に起きていますねぇ」
「身体が勝手に目覚めるんだよ」
「それはそれは羨ましい体質です」
準備を終えた丁度のタイミングで飛騨がやってくると、八雲を見て楽しそうに相手は話し始める。
しかし、それほど話す気のない八雲は静かな表情のまま適当に返し、途中で話を切りあげて案内するように伝え。
飛騨も気にした様子もなくそれを了承した。
――第八研・飛騨専用開発室
飛騨の後について案内されたのは第八研の最奥の部屋ではなく、その手前の用具室だった。
だが、この用具室自体に用がある訳ではない。
実は、第八研の用具室には棚の後ろに隠された扉があり、本当の目的地はその扉の向こうにある。
そして、少し離れた場所に隠されたハンドルを回す事で棚を動かす。
普段、あまり人が寄りつかない第八研の用具室などまともに調べる人間もいないため、いままでは隠れた研究は全てこの場所でやっていたと語るのを聞きながら八雲は部屋に入った。
隠された研究室は、部屋自体がそこそこに広く、ここもまた簡易キッチンやトイレにシャワー室など、最低限の生活が出来る設備が整っている。
加えて、メインが研究と開発であるため大きな機材やシートを被せられた何か分からないようなものが一番大きな部屋には置かれていた。
「ンッフッフ、驚きましたか? ここは私専用のラボです。ですので、ここで作られた物はエルゴ研製ではなく飛騨製と呼ぶようにしています。まぁ、誰にも見せていないんですがね」
「……それで、計画は考えてくるって言ってたけど、最初は何から始めるの?」
「んー、つれない反応ですねぇ。本当ならばもっとオーバーリアクションでいってもらいたかったのですが」
研究者にはコレクターが自身のコレクションを自慢するように、自分の研究環境や研究対象、研究に扱う器具に最終的には研究結果を他人に自慢したがる者もいる。
飛騨もその一人であり、いままで誰にも見せた事のない研究室に対する感想として、八雲の素っ気ない態度は少々気落ちするものだった。
しかし、本題についても忘れている訳ではないので、奥にある大きな機材と手術台の様なものを準備しながら八雲へと説明を始めた。
「まーず、最初にするのは電気刺激によって貴方の筋肉を強制的に鍛えます」
「え? それって通販にある腹筋を鍛えるベルトみたいなのと大差ないんじゃないの?」
「ええ、やることは同じですよ。流石に今のその貧弱なボディでは体力もつけれませんし。体力がなければ手術にも耐えられません。そう言う訳で、超回復なんてものも無視して無理矢理に筋力の復元に努めます」
言い終わると、飛騨は八雲に手術台に寝るようジェスチャーで示し。さらに身体に取り付けるベルト型の器具を複数用意した。
八雲は素直にそれに応じて仰向けに寝そべるが、外科医療的な施術をすると思っていただけに少々気落ちする。
飛騨の言う事は尤もであり、いくらメッチーの回復スキルを使おうが元の体力がなければ回復する前に死ぬ。
しかし、それでも少しでも早く戦える身体になりたいと思っている八雲にとってはもどかしさを感じずにはいられなかった。
だが、そんな八雲の気持ちを見抜いてか、四肢にベルトを巻き、腹筋と胸部に機械とコードで繋がったパッドを張り付け終わった飛騨は笑みを浮かべて新たな機材を取り出した。
「そーんな顔をしないでください。筋力増強の他にも同時進行で肉体の改造はします。これは、貴方の神経伝達速度を速めるために持ってきたものです。電気刺激で筋肉を鍛えるので、本当ならば併用してはいけないのですが。これをそれぞれの指の先にはめて微弱な電気を流します。すると! それにより神経に脳からの信号と似た物が流れ、神経自体が強化されるというものなのです」
「神経の強化って、感覚が鋭敏になり過ぎたら普通よりもダメージの負担が大きくなるんじゃないの?」
「ノンノン。感覚を鋭敏にするのではなく素早い電気信号の行き来を神経に慣れさせるのです。続けていけば、人の反射限界を僅かに上回れるかもしれません。見てからでも余裕で反応出来るなんて当たり前というくらいにね」
手足の全ての指に機材とコードで繋がったキャップのようなものを取り付けながら飛騨はそう言った。
慣れたところで反射神経が良くなるのかと疑問を感じつつも、八雲は結局は自分に医学的なことは分からないとして飛騨に任せる事にした。
そして、全ての準備を終えたところでカウントダウンが始まった。
「では、3・2・1、スタート!」
パチンっ、
「っ!? がぁああああああああああああっ!?」
電源を入れたと同時に八雲の全身を激痛が襲った。
手足は震え、身体は痙攣しながら跳ねる。さらに、指先から直接神経に電流を流され、脳にも焼けつくような痛みを感じていた。
自分で頼んだことだが、こんなにも苦しい事だとは思っていなかった。
痛みで目の前が真っ白になるが、神経に電流を流されているので意識を失いかけても強制的に覚醒させられる。
飛騨の説明では半年後には自然に以前の状態くらいには回復すると言っていた。ならば、そうなってからでも遅くはなかったのではないかと後悔しかける。
「……辛いですか? 止めても良いですよ。半年後には元の身体に戻れるのです。何も寿命を縮めてまで、子どもの君がこんな事をする必要はない」
突如、聞こえてきた飛騨の声は低く真面目な口調だった。
その声色の通り、いつもの胡散臭い笑みはなりを潜め、自分たちの研究が多くの子供らの命を奪っていることを認めたときのように、悲しげな表情をしている。
そう、まるで八雲に止めると言って欲しいかのように。
「っ!? お、れは、俺はチドリを助けたいんだ!」
先ほどまで焦点の定まっていなかった瞳に強い意思を宿らせ八雲は続ける。
「こん、な……場所じゃない。もっと、チドリが、ちゃんと笑える場所へ、連れていくんだ。だから、俺は絶対にやり遂げるっ」
額に脂汗を滲ませ、痛みで呼吸すら満足に出来ていない筈の八雲は、言い切って以降どれだけ続けても歯を食いしばり叫び声を上げることはなかった。
大人でも我慢できないほどの激痛を子どもが意志の力で捩じ伏せる。
そんな驚異的な精神の強さを見た飛騨は、本当に八雲ならばやり遂げるだろうと思い。
期待と同時にその茨の道をゆく少年の痛々しさに思わず目を背けそうになりながらも、八雲の意思を酌んで計画を進めたのだった。
???――ベルベットルーム
現実世界で飛騨の改造を受けるようになって数週間。扉が無いために夢を通じてベルベットルームにやってきていた八雲は、今日もまたベルベットルームの住人であるエリザベスとテオドアに戦闘の手ほどきを受けていた。
「攻撃を喰らっても目を閉じてはなりません。周りの状況を見れていれば、攻撃を受けても直ぐに態勢を立て直す事が出来ます」
拳を握りしめ、体勢を低く保ったまま駆け寄った八雲を見ながら、エリザベスは真剣な表情でレクチャーする。
それを聞きながらも、八雲はテオドアの連続蹴り躱しきれず、攻撃を受けた際に目を閉じ吹き飛ばされてしまう。
「ぐあっ!?」
「フム……」
筋力が戻り、なんとか戦えるようになったとは言え体力はまだ戻っていない。
加えて、体力が戻ろうがいまはまだ年相応の子どもの筋力でしか無い。
そんな脆弱な存在が相手であれば、テオドアはさらに追撃をする事も可能だったが、ただ意識を刈り取っては何の訓練にもなりはしないと追撃をしなかった。
「目を閉じてはなりませんと申した筈ですが?」
「っ!?」
しかし、二人の鍛錬を傍らで見ていた姉は違う。
八雲が本物の強さを得るためならば、甘さから来る情けや容赦は一切掛けないつもりでいた。
そのため、いまもまた攻撃を喰らい目を閉じた八雲へ、罰の意味も込めて高く飛び上がった状態で踵落としを決めた。
「ハァッ、ハァッ、グ……ハァッ」
「……よく回避が間に合いましたね」
踵落としを決めた際に出来たクレーターの中央に静かに立ちながらエリザベスは呟く。
そのクレーターの外には、回避したものの巻き上がった土と共に外へと押し出された状態で倒れた八雲が、肩で息をしながらエリザベスを睨んでいた。
喰らえば一撃で意識を刈り取られ、骨や内臓にダメージを負い重体になる威力なのは、この数日で既に学習している。
罰の意味でしかないため、それ以降の追撃をしてくることはないという事も分かっている。
ならば、いくら体力が尽きかけているとはいえ、強化された反射神経をフルに使えば直撃を避けることくらいは出来るようになっていた。
そして、そんな様子を見ていたテオドアも、うつ伏せになりながらも顔だけを上げてエリザベスを睨んでいた八雲を助け起こしながら素直に褒める。
「咄嗟の反応速度に関して言えば、八雲様は我々よりも遥かに速いです。身体が小さいので、その分、脳からの信号が身体の末端まで届くのが早いというのも当然ありますが。それよりも、純粋に伝達速度が反射に近い域に達しています。これも例の改造の成果ですか?」
「ぐっ……ああ、うん。神経に微弱な電流を流して、脳からの信号がスムーズにいくように調整してるんだ。飛騨さんがいうには見るのと同時に思考して、ラグ無しで対処行動をとれるようになるって」
「それは……。しかし、肉体がついてこれないのでは?」
八雲の話を聞き、そんな事が本当に可能なのかと思わずにはいられないテオドア。
今の反射レベルの反応に合わせた動きでさえも、八雲の肉体は完全には合わせれないでいる。
それも、ただ合わせられないのではなく、肉体がその動きについていけず。関節や筋繊維に続けての行動に支障をきたしかねない負担をかけているのだ。
エリザベスの攻撃を回避した際にも、座っているというのに手足が痙攣するほどの負担が掛かっている。
テオドアはペルソナ全書からピクシーを召喚すると、ディアラハンで回復してやりながら八雲の言葉を待った。
「……身体も後で調整するよ。今は体力作りと神経伝達速度のアップ。それから毒に対する免疫とかをつけてる段階だから」
「毒への免疫でございますか? それならば、毒の効かないペルソナを装備していれば、ある程度は防ぐ事も可能かと思いますが」
「かもしれない。だけど、多分、改造が終わって表に出たら、他の研究員に狙われると思うから。食事を自分の分だけ別に用意するとチドリが心配してくるかもしれないしさ。彼女にはなるべく心配とか不安な想いさせたくないんだ」
苦笑気味にそう答える八雲の表情は疲れているにもかかわらず、どこか楽しげで年相応のものだった。
父と母を失った少年は、力を得て、今度こそ大切な物を守りたいと願った。
そして、いま少年は一人の少女のため、自分の全てを賭けて守る事を誓い。更なる力を、守るために必要な全てを求める。その想いが少年に新たなる力を授けた。
「これは……?」
光を纏いながら目の前に現れたのは『XX・審判』のカード。
クルクルと回りながらゆっくり降りてきたそれを、八雲は他のペルソナを呼び出すのと同じように握り砕いた。
《我は汝……汝は我……》
初めてオルフェウスを召喚したときのように、水色の欠片の様なものが集まってペルソナが形作られてゆく。
可能性の芽に出会ったわけでも、ペルソナを合体した訳でもない。
にもかかわらず、八雲は新たなペルソナを自分の内から目覚めさせた。
それは完全にイレギュラーな事態であり、自身の担当する客人のそんな異常事態を本来ならば気にやむべきなのだが。エリザベスは少年が自分の前に敵として現れる未来への期待から、口元に笑みを浮かべるのを我慢出来ずにいた。
「これが人の可能性。やはり、八雲様は……」
「……姉上」
「っ、失礼致しました。八雲様、そのペルソナも新たに登録なさいますか?」
いつか訪れる戦いのときを想い気持ちが昂ったのか、エリザベスが周囲に闘気を放ち始めたので、それを軽く諌めるテオドア。
姉と同様にテオドアも自分が何者であるかを常に知りたがっている。
だが、いま目の前にいる客人はエリザベスの担当であり、またテオドア自身も姉たちほど好戦的な性格という訳でもない。
故に、多少は共感できる部分があろうと、テオドアにとって八雲はイレギュラーの多い客人という扱いでしか無かった。
そうして、今は自分自身が強くなる事に精一杯の少年は、最低限動ける程度には体力が回復したので、新たに得たペルソナのカードをエリザベスに手渡した。
「では、少々お待ち下さいませ」
言って、カードを受け取るとエリザベスは白銀細工の栞からペルソナ全書を取り出し。カードを挿んで登録を始めた。
登録をしている間は何もすることがないため、ジッとエリザベスを見ながら八雲は考えに耽る。
(自分の中にいるペルソナたちには変化が無いのに、新しいペルソナに目覚めた。ペルソナは人格の鎧だから、自分の精神に何か変化があれば目覚めるのかも知れない。だけど、俺は何か変わったつもりはない。そんな無自覚な状態でも目覚めるものなのか?)
八雲の考える通り、新たにペルソナが目覚めたのは八雲自身の精神に変化が起こったためだ。
そもそも、チドリのように固有のペルソナを一体しか呼び出せない者たちは、自身のパーソナリティーの根源であり核に当たる部分の精神からペルソナを呼び出している。
心理学用語の『ペルソナ』を語源としているには、全く意味が変わってしまっているが。そういった理由の為、たとえ敵が変わっても『自分』という存在は変わらない、変えられないとして彼女たちは一つのペルソナを使い続けている。
本来ならば、そういったペルソナ使いのペルソナは、強い精神の変化があれば固有ペルソナが変化するのだが、八雲はワイルドの能力を持っていた。
そのため、チドリを守るためなら何でもするという気持ちに呼応するように、足りない部分を補うべく所持しているペルソナ達とは違う力を有しているペルソナを得たのだった。
「……ま、考えてもしょうがないか」
「どうかされましたか?」
「いや、ペルソナの目覚め方についてちょっと考えてただけ。それより、エリザベス。そろそろ、俺の方も時間みたいだ」
そういった八雲の瞼は本人の意思とは無関係に降りはじめていた。
ここへは夢を通じてやってきている。そのため、現実世界の肉体が眼を覚ませば、こちらにいられなくなるという訳だった。
だが、夢を通じて来ているといっても、何も精神だけを飛ばしてきている訳ではない。
こちらで行った鍛錬は肉体にキチンとフィードバックするし、傷を受けたまま目覚めると現実の肉体も同じ場所に傷が出来た状態となってしまう。
そのように、単に夢を通じてやってきているだけで、なんら生身の肉体でやってくるのと違いはなかった。
そして、丁度エリザベスの方も登録が終わったようで、ペルソナ全書を開き挿んでいたカードを八雲に返す。
受け取った八雲はそれを光の粒状にして消すと、二人に今日の鍛錬の礼を言って現実へと戻った。
7月9日(日)
昼――第八研・低酸素訓練室
飛騨の隠し研究室の中には、様々な状況を作り出せるように必要な部屋も用意されている。
これは今のエルゴ研になる前の岳羽詠一朗がトップであったときに許可を取って改造していたので、現在の室長クラスの人間は知らないだけだ。
そして、いま八雲が入っている部屋は低酸素室。気圧を下げる事で空気の密度を低くし、空気中の酸素濃度を下げている。
この部屋を使うのは今日が初めてというわけではなく、動けるようになってからは日課の様なものとなっていた。
「はぁ……はぁ……」
ランニングマシーンで時速およそ十五キロと普通の大人でもキツいペースで走り続ける八雲。
これは成人女子のマラソン選手よりも少々遅い程度の速さで、八雲のいる訓練室内の設定はエベレストの山頂付近並みの酸素濃度となっている。
同じ酸素濃度であっても登山と違って大量の荷物も持っていなければ、室温も空調によって24度に設定されているため、酸欠になる事さえ注意すれば実際の登山よりかは難易度は抑えられていた。
とはいえ、二月前は走る事もままならなかった小学二年生が、一般の成人よりも高い運動能力を有している。
そのことに、外でそのトレーニングの様子を見ている飛騨も苦笑いせずにはいられない状況だった。
《……少年、そろそろ一時間ですよ》
「……うん。じゃあ、クールダウンしてから出るよ」
《では、少し酸素濃度を上げておきますから。出たらシャワーを浴びて昼食を取っておいてください。私は午後の準備をしておきますので》
「うん、了解」
答えて八雲は走るペースを落とし、軽いジョギング程度にする。
急に運動を止めるのは身体に負担をかけるので、その後の活動を考えるとクールダウンを疎かにすることはできないのだ。
(今日の午後は、『黄昏の羽根』とかいうのを移植するって言ってたっけ。データは見たけど、実物を見ない事には分かんないな)
そんな風に考えながら八雲はクールダウンを終えると、そのままシャワー室で汗を流しに向かった。
午後――飛騨専用開発室
シャワーと昼食を済まし、食後の休憩を終えた八雲はいつもの手術台に座っていた。
その近くではゲートから呼び出したメッチーがピョンピョンと楽しそうに遊んでおり。眺めている八雲も優しく頭を撫でてやる。
《チー!》
「気持ちいい? 今日はまた身体をいじるから、終わったら回復魔法を頼むよ」
《メッチ!》
八雲が頼んだのは、手術後の傷口を回復魔法で塞ぐということだ。
いままでも何度か筋肉や骨に内臓といったものをいじるために手足だけでなく、背中や腹部を開いたことがあった。
通常ならばそんな事をした場合、数ヶ月は安静にしながらリハビリをする必要がある。
だが、八雲はその時間すら惜しいと、回復魔法で一気に傷口を閉じて、翌日には日課のトレーニングに励んでいた。
最初は飛騨もその無茶な治療法に難色を示していたのだが、今ではプランの大幅な短縮が可能だとしてある程度は許可していた。
そうして、今日もまた開胸手術を行うため、先にメッチーを呼び出して回復魔法を頼んでおいたという訳だったのだが。丁度、一人と一匹が会話を終えたところで、飛騨が重厚な鈍い輝きの黒い金庫のような物を持って現れた。
「いやはや、お待たせしてすみません。これを保管していた金庫のパスワードを思い出すのに時間が掛かってしまって」
「金庫に金庫を入れてたの?」
「ええ、これはちょっと特殊なものでして、他の研究室に狙われかねなかったものですから」
部屋へと入ってきた飛騨は、手術台の近くの台に持ってきた三十センチ程度の立方体型の金庫を置くと、今度は普段着ている白衣を脱ぎ。
さらに、備え付けのロッカーから手術着を取り出し着替え、手などもしっかり洗うと手袋を付けて戻ってきた。
飛騨が準備を終えたことでもう少しで手術が始まるのだろうと思っている前で、飛騨は置いていた金庫を開け。中から青白い光を発する何かを取り出した。
「これが言っていた黄昏の羽根です。前にも説明しましたが、影時間に動いている機械はこれを組み込んでいるために稼働出来ているのです」
「ふーん。けど、他の人も知ってるならなんでそれが狙われるの?」
「これは少々特別な物だからです。黄昏の羽根はその名の通り、それぞれが羽根の形をしています。ですが、その中でただ一つアイギスに搭載された黄昏の羽根である『パピヨンハート』のみ、二枚の羽根が結合し蝶の様な形をしていたのです」
話を聞き、以前見せられたパピヨンハートの写真を思い出す八雲。
確かに写真に写っていたパピヨンハートは鳥の羽根というよりも、蝶の様な形状をしていた。
それに対し通常の黄昏の羽根は普通の鳥の羽根の形をしており、青白く発光しているそれは、大きさにして十センチから二十センチ程度と大きさもバラバラだった。
そして、いくら普通の黄昏の羽根を二枚使ったところで、パピヨンハートの様な形状にはならないことを踏まえて考えると、アイギスのパピヨンハートは正にイレギュラー中のイレギュラーな存在と言えた。
「そして、私はオーバーテクノロジーの塊である黄昏の羽根で、どうにか人工的なパピヨンハートを作れないかと考えました」
「ああ、それでやってみたら出来たんだ。なら、狙われるかもね」
「……答えが分かっても、私が言う前に言わないでください。はぁー……ま、その通りなんですけどねぇ」
お披露目するよりも先に結果を言われてしまい肩を落として落ち込む飛騨。
しかし、四十になろうかという成人男性が落ち込んでいたところで、八雲はなんのフォローもする気はなかった。
一方で、飛騨も飛騨で八雲のそういった性格をここ数ヶ月で理解していたので、気を取り直すと金庫の蓋を開け。中から人工的に結合された黄昏の羽根を取り出した。
「自分で作っておいてなんですが、これは偶然できた産物です。オーパーツとも言える黄昏の羽根は構成物質からして未知の存在なので、私なりに様々な方法で干渉を試みました。ですが、結果は全て思わしくなく。その日は諦めて放置したのです」
言いながら八雲の元まで持ってきた黄昏の羽根は、パピヨンハートのような特殊な形ではなく。普通の鳥の羽根のまま継ぎ目も無くX字になっていた。
まるで、初めからその形状だったかのように自然に融合してしまっているそれを見ていると、飛騨はさらに続ける。
「と・こ・ろ・が! 次の日に保管していた羽根を見ると、なーんとクロスしたまま融合してしまっているではありませんか。パピヨンハートではありませんが、結合した羽根が出来た事より、自分の苦労が全て徒労に終わったことの方がショックでしたよ」
「けど、性能は普通のよりも上なんでしょ? どんな効果があるか知らないけどさ」
「ええ、それは保証します。これの名前は『エールクロイツ』。一部フランス語であるパピヨンハートに倣って、ドイツ語とフランス語を合わせた造語で『交差する羽根』という意味です。まぁ、見たままの名ですが、これはなんと組み込まずとも触れているだけで、その機械が影時間でも動くという効果があります!」
影時間には全ての機械が止まる。
だが、エルゴ研の計測機器のように影時間だろうと稼働するものも存在した。
何故、影時間であっても稼働するかというと、それは装置の動力部に黄昏の羽根を組み込んでいるためである。
使っているエルゴ研ですら原理は解明されていないが、動力部に黄昏の羽根を入れておくと、その機械は影時間だろうが正常に動く。
しかし、飛騨の持つエールクロイツは動力部に組み込まずとも、ただ上に置いておくだけでも稼働するようになる。
黄昏の羽根は貴重な物で、各研究室に割り当てられる個数が決まっているだけに、組み込まずとも繰り返し使えるエールクロイツは他の研究室も喉から手が出るほど欲しがるような代物であった。
だが、八雲は話を聞いてその価値を理解すると、本当にそんな大切な物を自分の我儘で始まった改造なんかに使って良いのかと疑問を持ってしまう。
そして、少々申し訳なさそうな表情で口を開いた。
「そんな大切な物を使って良いの? 別に普通のやつでも良いと思うんだけど」
「そーうですねぇ、惜しい気持ちもなくはないですが、やはりどうせなら最高の作品に仕上げたいというのが一番の気持ちです。な・の・で、これを使って良かったと思えるほど、少年が素晴らしい存在になってくれるのなら構いませんよ」
「……フフッ、まぁ、そうなれるよう精々頑張るよ」
《メッチー!》
お互いに楽しげに笑うのを見てメッチーも楽しそうに鳴くと、飛騨は本格的に準備を進め。八雲の心臓を包むようにエールクロイツを移植した。
機械に組み込むのと違い、包んだ心臓に負担を掛けないようにする必要があったために手術は五時間に及んだが、包んだ状態で配置を終えたときには一度強い蒼色の光を発するという謎の現象が起きた。
シャドウ兵器シリーズの黄昏の羽根では起動時ですら、そのような報告はなく。飛騨もアクシデントに驚かされたりもしたが、光が治まると本体と同じように発光する太い血管のような物が出現していた。
周囲と繋がるそれに触れようにも、器具も手も全てすり抜けてしまい一切の干渉が出来ない。だが、心臓の鼓動に合わせて黄昏の羽根からその光の血管を通じて白っぽい光が移動していたことから、黄昏の羽根と八雲の間にパスのような物が繋がったのではないかと思われた。
オーバーテクノロジーの塊で、物質にアイギスらのような精神が宿るというあり得ない現象も起きていたので、目覚めた時には別の人格になっていることも危惧したがそのようなことは起こっておらず。
また、最終的に最初から臓器の一つだったかのように八雲の身体に適合したため、移植自体が賭けの様なものだと思っていた飛騨も安堵せずにはいられなかった。
そもそも、黄昏の羽根は日常ではなく影時間に関係のあるモノの為、その影時間へ高い適性を有している八雲ならば、他の者よりも高い親和性を持っていても不思議ではないと思えた。
そうして、手術の傷もメッチーの回復魔法によって傷跡が残らないよう塞がれると、数日間安静にした後、移植に成功した八雲の改造は最終フェイズへと入ったのだった。