――巌戸台分寮
気がつけば七歌たちは寮のエントランスに戻っていた。
彼があの日に何をしたのか、彼が今どういった状態にあるのか、それを知る事が出来たために目的を果たしたとして扉は消えたのだろう。
入口から入ってすぐのフロントのカウンター内にあった扉も消えてしまっていた。
これでもう過去を見に行くことは出来ず、彼女たちは“時の鍵”をどちらの扉に使うかを選択しなければならない訳だ。
けれど、どうするか決めようにも戻ってきたメンバーたちの表情は暗い。
その瞳から涙が溢れるのは悔しさか悲しみか。涙を流してその場に座り込む者もいる。
彼の起こした奇跡は、人類の不始末を彼を人柱にして解決する事で世界を存続させるものだったのだ。
どうして彼だけがそんな目に遭わなければならないのか。どうして彼はそれを淡々と受け入れたのか。
あの戦いを終わらせるためには必要な事だったのだろう。けれど、七歌たちはそれらを素直に受け止める事が出来ない。
そして、誰も何も言えずにいると、涙を流していたゆかりが階段を睨むように見て突然歩き始めた。
彼女の瞳は今も涙を流しているが、そこには危険な決意の色が宿っているのが見える。
このまま行かせるのは拙い。そう考えた七歌は後ろから肩を掴んで止めた。
「待ってゆかり! どこへ行くの?」
「離してっ、今すぐに屋上に行って鍵を使うんだから!」
肩を掴まれたゆかりはその手を乱暴に振り払って先へ進もうとする。
今のゆかりは鍵を手に入れた時よりも確かな決意を持って過去へ行こうとしているのが伝わってきた。
彼女の気持ちも分かる。自分を含めた人類が原因で彼をあんな状況に追い込んでしまったのだ。その結末をどうにか変えたいと思っても不思議ではない。
しかし、彼女も過去の世界で湊から聞いたはずだ。どれだけ願っても彼女たちの望みは叶わないと。
あの日の真実を知って冷静さを失っている彼女に七歌はそれを伝える。
「過去の世界で八雲君に聞いたでしょ。過去に行ってもゆかりたちの望みは叶わないって」
「もう、私の望みなんて叶わなくてもいい! 一生隠れて暮らす事になったとしても、有里君だけは助けたいの!」
だが、七歌がその事実を伝えてもゆかりは構わないと返してきた。
自分たちが過去へ行ったとしても、そちらの世界の自分たちがいる。彼と一緒にいられるのはその世界の自分たちだ。
いくら世界を救えたとしてもその世界の自分たちがいる以上、過去へ行った自分たちは姿を消さなければならない。
同じ世界に二人の自分が存在するとバレる訳にはいかないからだ。
ニュクスを封印して無事に戻ってきた青年に会うこともなく、日本から遠く離れた地で残りの人生数十年を生きるだけの覚悟は疾うに決めている。
あんな地獄に彼を縛り付けたままでいる方が耐えられないと彼女は言った。
そこまでの決意を聞いた七歌は素直に尊敬の念を抱く。彼に対する想いの強さを理解したからだ。
けれど、それでも彼女の願いは叶わない。七歌は静かにその事実を伝え続ける。
「そんな事したって八雲君は助けられないよ。ニュクスの降臨は十年前に決まってて、それを解決する手段がないんだから」
「なら、それを邪魔すればいい。桐条の実験を邪魔して、研究なんか出来なくすれば事故も起きないし、有里君は家族と一緒にいられるんでしょ」
「それも出来ないって。過去へ行くにも力が足りない。せいぜいが数年前に飛ぶのが限界なんだよ」
「だからって諦めろって言うの?!」
時の鍵を使っても恐らくは十年前までは跳べない。
メティスや過去の湊に聞いた訳ではないが、影時間が毎夜零時に発生すると決まったあの事故より後にしか跳べないというのが感覚で分かる。
ゆかりは全ての原因となったポートアイランドインパクトに繋がる研究を妨害し、あの事故その物を無くしてニュクス降臨を防ごうと考えたのだろうがそれも無理なのだ。
そんな風に過去へ跳んでも彼女の望む結果が得られないことを説明していれば、振り返ったゆかりは七歌に対して敵意を向け、今も冷静でいられる七歌には自分の気持ちなど分からないだろうと責めてきた。
「七歌には分からないでしょ、本気で誰かを想った事なんてないから! 自分はどうなったっていいって、それでも彼には生きていて欲しいって、この感情は本気で誰かを想った人にしか理解出来ないもの!」
頭では無駄だと分かっていても感情が納得を許さない事もある。
理屈ではないのだ。どれだけ無駄だと言われようと、実際に行動に移さなければ気が済まない。
この感情を知らない者には決して理解出来るはずがなく、何も知らない者が邪魔をするなとゆかりは叫ぶように言った。
だが、そんな事を言われれば七歌も黙ってはいられない。
感情の昂ぶりで赤くなった瞳でゆかりを睨んで掴みかかり、相手を床に押し倒して馬乗りになって言い返す。
「たかだか四、五年の付き合いで偉そうな事を言うな! こっちはおじ様とおば様が亡くなった十年前から八雲君の生存に希望を持つしかなかったんだぞ! 周りからどれだけ否定されようが、可能性があるなら諦められなくて、八雲君はまだ生きてるって自分に言い聞かせて信じ続けていたんだ!」
大好きだった叔父と叔母を亡くし、その息子である八雲だけは生存の可能性があると気付いたが、本当に無事でいる保証などどこにもなかった。
普通に考えれば小学一、二年生の子どもが一人で生きていけるはずがないと分かる。
それでも七歌は彼の生存を信じた。周りに何を言われても、自分だけは信じ続けるようにした。
そうしなければ、彼の存在がこの世から消えてしまうと思ったからだ。
「八雲君がどれだけ拒んだって私にとっては血の繋がった家族だ! 家族を救えるなら私だってその手段を選ぶし、代償が必要でも自分に払える物なら迷うことなく差し出すだけの覚悟がある!」
ゆかりの告げた覚悟などとっくの昔に七歌だって持っていた。
あの日、ベルベットルームで彼を止められず、現実世界では空へと昇っていく彼を見送るしかなかった七歌がどれだけ己の無力を後悔したかゆかりは知らない。
周りにいらぬ気を遣わせないようリーダーとしてその胸の内を隠してきた。そんな七歌の本心にゆかりは驚いたような顔をしているが、七歌は続けて変える事の出来ない事実を突きつけた。
「でも、それでも、駄目なんだよ!! 過去に戻ったところで八雲君は救えない。私たちの世界を救ったこの世界の八雲君を助ける事は出来ないんだ!!」
過去を変えても封印となった彼は救えない。涙を流しながらその事実を告げた七歌は言い終わるとゆかりから離れ、手で顔を覆ったまま肩を震わせ座り込む。
事前にその話を聞いていたラビリスが七歌の許へ行き、そして、床に倒れたまま呆然としているゆかりの許へ美鶴がやってくる。
「……ゆかり、七歌の言ったことは事実なんだ。過去に戻って未来をやり直しても、救えるのはそちらの世界の彼だけ。私たちの世界の彼とは別の世界線の存在なんだ」
「……どういう……ことですか?」
過去をやり直せば湊は封印にならない。それで彼だけは平和に暮らしていけるはずだった。
しかし、七歌だけでなく美鶴からもそうはならないと告げられた事で、ゆかりも自分が知らない事実があることに気付いたらしく説明を求めてきた。
ならば一番詳しく事情を知っている自分が話すべきだろうとメティスがやってくると、他の者たちにも改めて理解してもらうべく説明を始める。
「兄さんは未来人が来たのは私たちが最初だと言っていました。恐らく、六月以降に別の未来人との接触はなく、そのままニュクスとの戦いに臨んだんだと思います。つまり、この世界は他の未来人が来ていない世界線なんです」
実際に湊本人から聞いた訳ではないが、それ以外の未来人に会ったという説明はなかった。
なら、そこから考えるに七歌たちのいるこの世界は、“昨年六月にだけ未来人が来た世界”というものになる。
それは既に決まった事象であり、その事実が異なればその世界は分岐した別の世界という事になるのだ。
「もし、皆さんが過去に行って影ながらに助けたとしても、別の未来人が来たという結果は変わりません。その時点で世界は分岐している事になるので、そちらの兄さんを助けたところで元の世界の兄さんは封印になったままなんです」
「じゃあ、過去へ跳んで何をしようが無駄だって事?」
「……別の世界の兄さんが封印になるのを防げるだけですね」
ゆかりから聞かれた質問にメティスは頷いて返す。
そちらの世界の彼を救えるという点では無駄とは言えない。大いに意味のある行為だ。
けれど、ゆかりたちが望んでいるのは自分たちの知る青年が救われる事であり、それに関してはいくら過去を変えても意味がないという事になる。
「“過去は変えられない”は大原則なんです。どれだけ力を持っていようと、神なる視点から観測していようと、その結果が出た事実は変えられません。これに関しては兄さんも認めています」
「だから、本当に湊を救いたいのなら、僕たちは元の世界に戻らなくちゃいけない。そっちには彼が言った“希望”が残っているらしいからね」
メティスが既に観測された事象は“過去”として存在するため変えようがない事を伝える。
それだけなら彼女に絶望を叩き付けるだけだが、フォローするように綾時がやって来て元の世界に帰る意味を教えた。
現段階ではそれが何なのかは誰も分からない。彼の行なっていた研究について知っている綾時だけでなく、アイギスやチドリも何も知らされていないのだ。
しかし、彼はそういった事で嘘を吐いたりはしないはずだという信頼がある。
美鶴に支えられてゆかりは立ち上がり、既に涙が止まっていた七歌もラビリスに支えられて立ち上がった。
「……ゴメン、七歌」
「うっせぇ、タコ。謝るくらいなら最初からすんな」
傷ついているのは、後悔しているのは自分だけでなかったと気付いたゆかりが先ほどの発言を謝罪すれば、七歌は口汚く返しながらもそれほど気にした様子はなく立っている。
こういった切り替えの速さは精神的な強さによるものであり、それを思うと本心を隠していた事も含めて、彼女が皆のリーダーであり続けようとしてくれていたことがよく分かる。
友人の優しさに感謝して小さく笑ったゆかりは、皆の方へ向いて先ほどの事について謝罪した。
「皆もゴメンなさい。私、全然余裕無くて周りが見えてなかった」
「んまぁ、ゆかりっちの気持ちも分からねぇでもないからな。あいつがあんな状態って知ってオレも正直どうしたらいいか分からなかったし」
「だが、あいつが希望は残してあると言ったんだ。諦めるにはまだ早い」
順平と真田もゆかりの謝罪を受けて、別に気にしてないと答える。
実は先ほどのゆかりと七歌のやり取りの後半を見て、男子たちは全員がコメント出来ない立場として気配を消していたのだ。
女同士の争いに男は関わるべきではない。それ以上に怒りをぶつけ合う女子たちが恐い。それが彼らの正直な気持ちだ。
だからこそ、落ち着いた状態に戻ったなら彼らは何も気にしていないし、純粋に安堵すらしている訳だ。
そんな彼ら側の事情を知らないゆかりは気を遣ってくれたと思って心の中で感謝し、他の女子たちもまともに話せる状態になったことを喜んでいる。
ただ、このまま雑談している余裕はないこともあって、メティスが全員に時間が無いことを伝えた。
「皆さん、時の狭間の全ての扉が消えた事でこの空間もそう長くは持ちません。決断するなら急いでください」
言われた者たちは視線を交わして意見をまとめる。
ゆかりの暴走時に七歌が告げた事で、全員が過去へ跳んでも意味がないことを理解した。
なら、あとは元の世界へと戻り、彼が言っていた“希望”とやらに賭けるしかない。
既に皆も同じ気持ちになっているらしく、玄関の扉の前に集まるとまずは鍵を一つにしようとなった。
過去の映像によると今回の事件はアイギスの何かが切っ掛けだという話だ。
であれば、彼女の鍵に他の鍵を融合させてゆくべきだと、皆が自分の持つ鍵をアイギスの鍵に重ねて融合させる。
全十三本の鍵が一つになるとアイギスの持っている鍵が光を纏い出す。恐らくはこれで完成という合図なのだろう。
「それじゃあ、鍵を使いますね」
急に鍵を使えば驚かせてしまうため声をかけると、振り返ったアイギスに仲間たちが頷いて返す。
それを見たアイギスは玄関の扉へ向き直り、時の鍵を扉にさし込み回した。
途端、扉は強い光を放ち、その光が全員を飲み込むと、遠くで何かが割れるような音が聞こえてきたのだった。