――タルタロス・エントランス
深夜零時、世界が緑色に塗り潰されて現われた奈落の塔。
その入口から真っ直ぐ伸びた通路を通って黒服の男たちがエントランスにやってくる。
扉や階段のある中央のエリアのまわりには闇の広がる穴が開いており、中央のエリアと入口から伸びる通路を除いて床は存在しない。
左右に闇の広がる通路に手すりなどはなく、足を踏み外して落ちてしまえばどうなるか分からない。
故に、黒服の男たちは慎重に通路を進み、そんな黒服たちに囲まれて歩く眼帯を付けた男性と頭の左右に縦ロールの髪を垂らした幼い少女もゆっくり確実に歩を進めた。
「ここがタルタロス……」
エントランス中央の広いエリアの到着した黒服の一人が周囲を警戒しながら呟く。
金色の巨大な懐中時計のようなゲートに繋がる上階の階段に、何のためにあるのか分からない柱時計のような物や巨大な扉など、やってきた者たちは場の空気も含めて不思議なこの場所を観察する。
先に調査のためここへ訪れた仲間の話によれば、エントランスは不思議なオブジェなどが並んでいるものの、この不可思議な時間帯にのみ現われる敵性存在などは確認されなかったという。
だが、階段の先にある巨大なゲートを潜るとその先には化け物たちが跋扈しているため、護衛を務めるなら先の階層へは進むなとの事だった。
黒服たちに守られながら中央のエリアに足を踏み入れた眼帯を付けた男性“桐条武治”と赤みを帯びた縦ロールの髪型をした少女“桐条美鶴”は、ここが先日の事故から発生するようになった影時間に現われる異形の塔の内部かと興味深そうに眺めている。
報告にもあった通りオブジェや階段の後ろなどを見ても何もいない。
黒服たちは桐条たちを守ってこのまま警戒を続けるようだが、一応の安全が確保された事で彼らについて一緒にやって来ていた白衣を着た研究員の男が口を開いた。
「ヒヒヒ……オブジェや内装の造形は理解出来るが、おそらくそれらを構成する材料は我々の知る物ではないのだろうなぁ」
白髪混じりの長い髪を雑にヘアゴムでまとめた研究員は、白衣のポケットから工具のノミと小さな金槌を出し、二つを使って床の一部を壊そうとする。
だが、金槌を振るってもノミは床に刺さらず、その表面を滑るだけでサンプルの回収は難しそうだった。
頑張って床に対して垂直に立てて、しっかりと狙いを付けた上で何度か試すもノミは弾かれるか滑るだけで床に傷を付けることすら出来ていない。
見た目はそこまで硬度のある石材には見えないのだが、そもそもここは普通の建材を使って建てられた学校が影時間になると同時に姿を変えた建物だ。
自分たちの世界には本来存在しない謎の物質で出来ていても不思議ではない。
しばらく頑張ってもどうにもならないと分かったのか、研究員は持って来た工具をポケットに仕舞い込み、新たに取り出した掌に収まるサイズの拡大鏡を使ってオブジェを見てまわり始める。
自分たちの所属する組織の総裁とその令嬢がいるというのに、ここまで勝手な行動を取る研究員に黒服たちが眉を顰める。
「おい、あまり動き回るな。お前の勝手な行動が引き金となって、御当主とお嬢様にもしもの事があったらどうするんだ」
「その時はお前たちが身体を張って守ればいい。そのための護衛だろう? ククク、どうせならシャドウの実物も確認しておきたいんだがなぁ。通常兵器が効かない以上無理は出来ないか」
柱時計型のオブジェを見ていた研究員は、動き回るなと言ってきた黒服につまらないことを言うなとばかりに小馬鹿にした口調で返す。
黒服たちは研究員に言われずとも有事の際は命に代えても二人を守るつもりだ。
しかし、敵は通常兵器が効かないのは勿論、特殊な力に目覚めた者の攻撃しかダメージを負わないという。
黒服たちは自分勝手な行動を取っている研究員の所属するエルゴ研の研究成果によって、今いるこの影時間で活動出来るだけの適性は得ている。
だが、研究員が先ほど口にした“シャドウ”という異形の化け物への対抗手段である“ペルソナ”には目覚めていない。
それ自体の存在は確認されており、先の事故より前にはペルソナを人工的に獲得させた兵器を実戦にも投入している。
けれど、ペルソナが確認されたのはそれだけだ。影時間の適性を得た者はいてもペルソナにまで目覚めた者はいない。
ただし、実戦に投入した兵器に記録されていた映像が確かであるならば、影時間に一切関わりを持たなかった一人の少年が、影時間という環境に適応して力の覚醒にまで至っているとの報告が上がっている。
グループに回収されたその子どもが使えたなら研究はもっと楽に進むのだが、残念な事に対象の意識が回復していない。
そんな事情もあって、今日は適性の自然獲得者であり事情を知っている美鶴をこうやって現場に連れて来て反応を見ていた。
力に目覚めれば最高だが、そうでなくても何かしらの影響があれば後の覚醒に繋がるかもしれない。
研究員はそう考えて出来るだけこの場にいる時間を引き延ばそうと、勝手な行動を取るフリをして美鶴の様子を観察していた。
対する美鶴は父の傍で大人しくしながらも不思議そうに周囲を見渡している。
どこまで続いているのか分からない穴や、明らかに人の手では作れないようなオブジェなど興味を惹く物は多数ある。
まわりで警護している黒服たちは落ち着かないのかソワソワしているが、美鶴は不安そうにしながらもどこか好奇心を刺激されている様子だ。
今回は何もなさそうだが、精神的な影響なり適性への刺激はあったはず。ならば、今後の経過を見ることにして今回は諦めるかと研究員が思った時、黒服の内の一人が何やら胸を押さえて苦しみ始めた。
「おい、どうした?」
最も近くにした別の黒服が警戒しながら声をかけるも、苦しむ黒服は何も答えず地面に膝を着く、すぐに異変を察知して桐条と美鶴を守るように他の黒服たちは前に出て構えた。
「う……うぅ……が、がぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
そして、苦しんでいた黒服が突然頭を押さえて叫ぶと黒い靄が身体を覆い尽くし、全身が靄に覆われるとそこには水色の仮面を付けた黒い粘性の身体を持った不気味な化け物がいた。
黒服も桐条たちもグループの研究所でそれを見ていたから知っている。
現われたのはシャドウ、影時間の中で生きる異形の化け物だ。
「くっ、総員構え! 御当主とご令嬢を死守せよ!」
どうして黒服の一人からシャドウが現われたのかは分からないが、黒服の中で最も経験の長い者が指揮をとって二人を守ろうとする。
苦しんでいた黒服は現われたシャドウの背後で気を失って倒れており、シャドウは人数の多いこちらを狙っているためしばらくは無事だと思われる。
ならば、自分たちは何としてでも二人を守らねばと黒服たちは拳銃を抜いた。
エントランスに何度も響く銃声、放たれた弾丸は確実にシャドウに当たっており、仮面に当たった時には衝撃音まで鳴っている。
しかし、敵は怯まない。当たっているのにダメージが通らず、ゆっくりではあるが近付いて来ている。
「そんな玩具がシャドウに通じるものか! 通常兵器は効かないと言っただろう!」
「五月蝿い黙っていろ! 動けるならお前は御当主とご令嬢をすぐに連れて逃げていろ!」
離れたところから研究員がヤジを飛ばしてくるが、シャドウに武器が通じないことなど既に気付いている。
だが、黒服たちは他に武器を持っていないのだ。
徒手格闘が効くのであれば今すぐにでも拳銃を投げ捨てて喜んで身体を張ろう。そう思うくらいには既にいっぱいいっぱいな状況になっている。
最悪な事にシャドウは入口に通じている通路側に現われてしまった。
このままでは桐条と美鶴を逃がすことが出来ないので、出来る限り自分たちがシャドウを奥へと引き寄せて、その隙に二人には回り込んで逃げて貰うしかない。
ハンドシグナルでその作戦を伝え、黒服たちが集まりつつ、桐条たちに逆方向へと移動して貰おうとしたとき、これまでゆっくりと近付いてきていただけのシャドウが勢いよく飛びかかって黒服の一人を殴り飛ばした。
「ぐあっ」
シャドウは飛びかかって殴っただけだ。それなのに殴られた黒服は数メートル吹き飛んで地面に転がる。
生きてはいるようだが、殴られた腕がおかしな方向に曲がっている。
ただ殴られただけで骨折するほどの威力。そんな力を持つ者に攻撃手段もない状態でどうやって対処すればいいと言うのか。
一同の心に絶望が広がりかけると、シャドウは次の狙いを桐条に定めたのかゆっくりと近付いてくる。
自分が狙われていると気付き、桐条はすぐに自分を囮にして傍にいた美鶴を逃がそうとする。
だが、父が娘を想うように、娘も父のことを想ってその身をシャドウの前へと動かしていた。
「危ない、お父さまっ!!」
両手を広げて父の前に立った美鶴の全身から光が立ち上る、半透明な水色の欠片が渦巻き少女の頭上に人型の何かが現われると、その腕を一閃させて敵であるシャドウを消し去った。
目の前で起きた出来事に他の者が呆然としていると、光が消えた途端に少女が倒れ込んだ事で慌てて桐条がその身体を受け止める。
脅威は去った。だが、先ほどの美鶴が発動した力はその脅威と戦えてしまう力だ。
適性を得た時点でその可能性にも気付いていたが、実際にそれが起きた事で桐条が険しい表情をしていると、酷く興奮した様子の研究員が声をかけてくる。
「やりましたな、御当主! やはり、鍵はこの年代の子どもたちが握っている。適性を得た子どもならばペルソナに覚醒するという推論は正しかった!」
回収された少年“エヴィデンス”、そして今回の美鶴。サンプルは二人だけだが、影時間に適応した子どもならばペルソナに覚醒し得るという推論の根拠を補強する結果なのは間違いない。
シャドウに対抗出来るのはペルソナだけだ。なら、今後は適性を持った子どもや、適性を与えた子どもを研究すればペルソナ獲得のメカニズムも判明するはず。
興奮してまわりが見えていない研究員がそんな事を口にしながら美鶴を讃えていれば、美鶴を抱き抱えていた桐条は鋭い眼光で研究員を睨み叱責した。
「何を喜ぶかっ!! 全ては我々大人の罪だ。その贖罪を何の罪もない子どもらにさせようと言うのだぞ!」
確かに今回の発見はシャドウとの戦いに有利に働く。対シャドウ兵器を除き対抗手段を持っていなかった人類にとっては何よりの朗報だ。
しかし、それは自分の娘も含めた子どもたちを人類存続のため犠牲にするというもの。
悔しそうに拳を握る桐条が娘を心配して見つめていれば、先ほどよりも呼吸が安定した様子の美鶴が目を開けて小さく笑って呟いた。
「……心配なさらないで、お父さま。全て分かっていて決めたことですから」
「美鶴……」
それだけを呟くと美鶴は気を失ったのか身体から力が抜けた。
桐条は気を失った美鶴を抱き上げると、今日は引き上げると言ってタルタロスを後にする。
怪我をした黒服たちも仲間に支えられながらエントランスを出ていき、そうして誰もいなくなったところで映像が終わった。
――哀の路トロメイア
視界が戻ってくると全員がお互いを見合わせて無事を確認する。
ただ過去の映像を見せられているだけだが、本当にそれだけで済むかは分かっていないのだ。
とりあえず、全員の無事が確認出来たところで、先ほどの見た美鶴の過去についてゆかりが尋ねた。
「今のって美鶴先輩が初めて力に目覚めた時のですか?」
「ああ、そうなるな。私は影時間の適性は自然に持っていたんだ。そちらはいつからなど明確に手に入れた時期は分かっていないが、ペルソナについては先ほどの映像の通りだ」
メンバーの中で人工的に適性の強化やペルソナの覚醒処置をされたのはチドリだけだ。
他の者たちは時期は違っても自然に適性を獲得し、そのままペルソナにも目覚めている。
しかし、当時は自然に適性を獲得する者も珍しく、グループの報告書によれば美鶴で二例目だった。
空気が読めていなかった研究員だが、そういった当時の事情を考えればあの喜びようも理解出来る。
改めて当時の光景を見た美鶴はどこか懐かしむように笑って、戦いの決意もこの時だったと続けた。
「思えばあれがお父様のために戦いたいと決意した瞬間だったのかもしれない。自分にはお父様を守る力がある。他の事は出来なくても戦う事だけは出来る。事故の後、辛そうにしているお父様の力になれないことを悔いていた時期だった事もあって余計にそう思ったんだ」
「この時点では公式には美鶴さんしかペルソナ能力者はいなかったんだよね?」
「そうだ。八雲の存在は隠されていたし、アイギスたち対シャドウ兵器も稼働しているものはなかったと聞いている」
七歌の質問に美鶴は頷く。対シャドウ兵器の存在を知ったのはアイギスと出会って以降だが、それから調べたところアイギスの再起動を除き、ポートアイランドインパクト以降に稼働していた機体はなかった。
回収されていた百鬼八雲という少年は存在ごと隠され、虎の子の対シャドウ兵器もなかった時期に美鶴が覚醒したことで研究は次の段階に進んだ。
そう。大勢の子どもたちが犠牲になった人工ペルソナ使いの研究が行なわれたのはこの後だ。
湊と美鶴、二人の存在によって近い年代の子どもたちが集められ、大人よりも簡単に適性を得る事が出来たために、その中から特に適性の高いおよそ百人にペルソナ覚醒を促す処置が施されたのである。
エルゴ研で湊と出会うよりも前の記憶をほとんど覚えていないチドリにすれば、映像内の美鶴の見た目から逆算してそういえばそれくらいの時期だったかも程度の感想だ。
だが、やはり美鶴は自分たちのせいでという意識が強いらしく、自分が実験の切っ掛けを作ってしまった事をチドリに謝罪した。
「すまない、吉野。実験の切っ掛けを作ってしまったのは私だ。せめて、八雲が目覚めて話を出来る状態になっていれば被害者はもっと少なかったかもしれない」
「……そうなれば、おそらく八雲が酷使されてたわ。君にしか出来ない、君だけが人々を守れる。そんな風に言って八雲が死ぬまで一人で戦わされていたでしょうね」
「ま、八雲君にはそれが出来ちゃう能力もあっただろうしね。難しい問題だなぁ」
百人近い子どもの犠牲を生む未来か、一人の少年を使い潰す未来か。どちらもまともな未来とは思えない。
ただ、そのどちらかを選べと言われれば、自分も被験体になっていたチドリは前者を選ぶと断言出来た。
「あの実験がなければ八雲に会えなかった。だから、私はこれでいい」
「君たちも、八雲も救われる世界があったとすれば?」
「……今を選ぶわ。だって、それはここにいる私の人生じゃないもの」
子どもたちも湊も犠牲にならないルートの世界があったとしても、チドリは苦しんで辿り着いたこの世界を選びたいと思った。
湊にとってはどちらが幸福なのか分からないが、ここにいるチドリにとっては八雲と出会えた奇跡とそれから得られた幸福は何事にも代え難い尊いものなのだ。
故に、そんな世界があったとしても自分は今いるこの世界を生きたい。少女はハッキリと断言した。
その答えを聞いた美鶴は少しだけ驚いた表情をすると、すぐに楽しげに笑って確かにと頷く。
「そうだな。苦しく辛い事だけではなかった。掛け替えのない出会いという幸福を手放すのは私も惜しい」
マイナスばかりに目を向けても意味はない。それを無かった事に出来るとしても、その選択は被害者の救済より自分が罪から赦されたいという想いが勝っているように感じる。
美鶴はそれではダメだと思い直し。罪を背負い、得られた幸福に感謝しながら、罪を償っていくべきだと考えた。
自分の原点を振り返った美鶴の瞳に強い光が宿る。記憶を取り戻して以降、久しく見ていなかった“女帝”の姿に他の者も思わず笑みを浮かべる。
残り扉は後二枚。ここまで順調だったからと油断せず、気を引き締めていこうと声をかけて一同は寮へ戻っていった。