【完結】PERSONA3 Re;venger   作:清良 要

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第四百七十五話 過去への扉

――古の路マレボルゼ

 

 今回の事件に巻き込まれたアイギスたちは、自分たちが何と向き合うべきなのか本当の意味で理解出来ていなかった。

 影時間の戦いは終わった。この世界から影時間は消滅し、シャドウも現われなくなった事で無気力症患者たちも徐々に回復して元の生活へと戻っていった。

 月光館学園を卒業した者たちは新たな環境へ移る準備を進め、新学年に上がる者たちも先を見据えて動き始めていた。

 戦いの記憶を取り戻しておよそ一ヶ月、確かに彼の事は今も忘れられずにいる。

 しかし、感知型の少女たちでも見つける事が出来ず、生きているのかどうかも分からない。

 そんな状況では自分たちにはどうにも出来ない事も分かっている。

 だから、彼女たちはそれぞれの道を歩み出すため、徐々にだが仲間たちとは疎遠になりつつあったのだ。

 先の事を見続ければ、そのために動き続ければ、自分が前に進んでいる実感が得られる。

 そうすることによって、自分たちと彼で繋いだ明日を生きている事を証明出来る、と彼女たちは無意識に信じたため過去を象徴する“仲間”と距離を取ろうとしたのだろう。

 その行動の結果がこんな事態になるとは欠片も思わずに。

 

《次のフロアで行き止まりのようです。シャドウの反応はありませんが注意して下りてください》

 

 転送装置で一度寮に戻って休憩を取ったアイギスたちは、再びダンジョンに戻ってようやく最後のフロアへ着こうとしていた。

 ここへ来るまでにも何度か彼の姿をした人影を見ることがあったが、フロアボスとの戦い以外でシャドウと戦っている場面には遭遇する事はなかった。

 あれだけが特別だったのか、それとも自分たちが苦戦する相手だけを倒してくれたのか。

 アナライズをした風花とチドリによればシャドウではないとの事だが、その正体は不明のまま彼女たちは最下層に辿り着いた。

 自分たちよりも先に進んでいたなら最下層にいると思っていたため、人影がいない事を警戒しながらアイギスたちは階段を下りてゆく。

 これまでよりも長く続く階段を警戒して進み、少しすると出口と思われる場所から漏れる明かりが見えてきた。

 これまで探索してきたフロアはタルタロスと同じように薄暗い通路が続いていたため、最下層に到着する前から雰囲気が異なることは理解出来た。

 敵の反応はない。けれど、何もないとも思えない。

 何があっても反応出来るよう警戒し、前衛たちが先に階段を下りきれば、そこには地下とは思えない光景が広がっていた。

 

「何だここは? 本当に地下なのか? 上も下も果てが見えないぞ」

「気ぃ付けて進めよ。この橋から落ちたらどうなるか分かんねぇぞ」

 

 階段から続く通路を進みながら真田が呟き、荒垣が後ろをついて行く者たちに注意を促す。

 彼らが進んでいる通路はタルタロスのエントランスのように手すりのない橋のような構造になっており、その下は霞がかっていて底が見えなかった。

 そんな危険な通路を慎重に進みながら、一同は不思議な構造をした最下層の景色を見渡す。

 階段から伸びる通路は途中で広さに変化があるものの、最後に待ち構える巨大な扉まで一本道になっている。

 しかし、その周辺、どことも繋がっていない空中に建物や通路などの床がポツリポツリと浮いているのだ。

 それらは静止しているためその場所に固定されているようだが、天地が逆さまであったり、アイギスたちから見ると垂直に建っていたりする。

 タルタロスという異常な建造物を知っている彼女たちでも驚く、まさに異界としか言えない光景だ。

 荒垣が言う通りここで通路から落ちればどうなるか分からない。

 全員が慎重に進み、これまでの通路より広い床が広がる場所に辿り着くと一息吐く。

 

「ここにも転送装置があるな。山岸と望月もどうせなら合流して直接調べるか?」

 

 さらに奥にある扉を見つめながら美鶴が通信越しに尋ねる。

 ここへ下りてくる前に風花も言っていたが、確かに最下層には敵の姿がなかった。

 ならば、丁度良く存在する転送装置を使って扉の間へと繋ぎ、寮からこちらを探っている風花を連れてくれば、より詳しくこのフロアを調べられるのではと思ったのだ。

 同じ感知型の力を持つチドリよりも、情報を深く読み取る事に関しては風花の方が優れている。

 ゴシック建築を思わせる荘厳な造りをした建物や、中世の宮殿のような装飾が施された床や扉など、どうしてそういった造りなのか探ることでこの場所について分かる事もあるかもしれない。

 戦闘能力を持たない彼女を連れてくる事の危険性は勿論分かっている。

 だが、しっかりと調べずに通路の先にある扉を開くのは恐ろしい。

 そうして、美鶴が相手の答えを待っていれば、少し考える間を置いてから返事が返ってくる。

 

《そうですね。皆さんの周囲には何の反応もありませんし。そちらに行って調べてみようと思います》

《申し訳ないけど、僕は寮に残らせて貰おうかな。何が起きるか分からない状況で寮を無人にするのは少し恐いからね》

 

 風花は現地に向かうことを了承するも、綾時は万が一の場合に備えて留守番する事を告げてきた。

 確かに、時の狭間にある扉からシャドウが出てきて、無人になった寮へと上がってくる可能性がないとは言い切れない。

 そういう事なら戦闘力のある綾時が残ってくれるのはありがたいため、美鶴は転送装置を使って扉の間とここを繋ぐと風花だけを連れて戻ってきた。

 最下層にやってきた風花は早速ペルソナを呼び出すとフロア内を調べてゆく。

 その間、他の者たちは休憩しながら警戒に当たるが、調査の結果どうやら本当にここには敵も罠も存在しないという事が判明した。

 

「ここには私たちのいる通路や周りに浮かぶ建物しかないみたいです。天井も底も無限に広がっているように見えますが、空間自体は途中で途切れているみたいでその先は分かりません」

「じゃあ、ここの建造物とかについては何か分かった?」

「ごめんなさい。“そういう物”としか情報が読み取れなかったの。ただ、奥にある扉だけは何か強い力が宿っているのが分かりました」

 

 七歌の質問に申し訳なさそうに風花が答えるが、質問した七歌自身もその答えは予想していたようで気にしないで返す。

 タルタロスもそうだったが、一定範囲ごとに内装の変化はあれど意味などは特になかった。

 もしかすると、特定の分野の学者であればそれらの意味を理解出来たのかもしれないが、チドリやラビリスも湊からそういった話を聞いていないそうなので、由来があったとしてもギミックとしての意味はないらしい。

 そのため、ここも同じだろうと思った七歌は奥の扉を見つめると、他の者たちと一緒に通路を進んでその近くへと移動した。

 

「てか、途中で転送装置を使えたにしても結構な深さだったよね。これを扉の枚数分繰り返すとかだったら笑えないんだけど」

「マジでそれな。つか、なんでここシャドウがいんだよ。無気力症とかキレイさっぱりなくなったって話だっただろ」

 

 転送装置を使って寮で休憩を取ったにしても、ここまでくるのに丸一日ほどの時間が掛かっていた。

 その間に何体もシャドウを倒しており、無気力症患者がいなくなったのにどうしてシャドウがいるんだよと順平が愚痴を溢す。

 彼らの認識ではシャドウは無気力症患者から抜け出た心の一部という認識だ。

 影時間の消滅によって無気力症がなくなったなら、当然シャドウたちもこの世界から消えているはず。

 しかし、時の狭間にある扉の奥にはシャドウたちが存在していた。

 他の者たちも同じ疑問を持っていたようで、この世界について他の者よりも詳しいメティスにその視線が集中する。

 

「私も詳しい事は分かりません。でも、恐らくここは心の世界側なんだと思います」

「心の世界側っていうのは?」

「ペルソナを使っているのに知らないんですか? 元々、世界は人々が暮らす現実世界とシャドウたちの存在する心の世界で成り立っているんです」

 

 以前、綾時や湊からも似たような話を聞いていたが、はっきりとは理解出来ていなかったため七歌がメティスに聞き返す。

 彼女は七歌たちがそれを知らない事を不思議に思ったようだが、知らないのであればと素直に質問に答えてくれる。

 

「それらはコインの裏と表。背中合わせだけど混じり合わない形で存在していました。ですが、とある実験によって世界のバランスが崩れ、限定的に心の世界が現実世界を侵食していたのが影時間です」

「という事はシャドウは今も世界の裏側に存在するの?」

「それはそうでしょう。実際、皆さんもペルソナは失っていないじゃないですか。ペルソナはシャドウの変異体。世界から生命が消えない限りシャドウが消える事なんてあり得ませんよ」

 

 説明を受けた七歌たちは愕然としながらも、どこか納得がいったためそれぞれ複雑な表情を浮かべる。

 湊からシャドウと無気力症の関係を聞いた際、ペルソナは制御されたシャドウだとも聞いていた。

 影時間が消滅してからも自分たちがペルソナを使える以上、確かにシャドウは存在し続けている事になる。

 ただ、自分たちが影時間の適性を持っているようなもので、ペルソナも現実世界の適性を持っているから力が残っているのだとばかり思っていた。

 メティスの説明によってそれは否定された訳だが、そうなると今回のような事態が起きれば再び自分たちが戦いに駆り出される事も可能性としてあり得る事が分かってしまった。

 

「なんでよ。私たち、平和な世界を取り戻したくて。元の日常に戻りたくて必死に戦って来たんじゃないっ。なのに、またこうやって戦う事になって、これからも何かあれば戦わなきゃ行けないかもしれないってどういう事なのよっ」

 

 その事実を知ったゆかりが取り乱し、どうして自分たちばかりが貧乏くじを引かされるのだと叫ぶ。

 

「折角、前を見て生きていこうとしてたっていうのに。いつまで戦えばいいかも分からなかった昔に逆戻りって事でしょ。そんなの……影時間の時と一緒じゃない……」

 

 言い終わると同時にゆかりが俯いて座り込み、慌てて美鶴が駆け寄っていく。

 元々、ゆかりはシャドウとの戦いだけでなく、ペルソナを呼び出す“自殺”を模した行為も恐れて踏み出せずにいた。

 そんな少女が恐怖を押さえ込み、必死に歯を食い縛って戦い抜いてようやく得た平和が、一時のものになる可能性があると言われれば虚無感を覚えてしまうのも無理はない。

 ゆかりほどではないが、最年少としてチームの足を引っ張らぬよう頑張ってきた天田も、先が見えない戦いはつらいと愚痴を漏らす。

 

「確かにそうですよね。僕が入った時はアルカナシャドウを倒せばいいって方針がありましたけど。理事長が裏切った後は、いつまで戦えばいいのか分からなくてすごい不安でした。本当に、昔に戻ったみたいです」

 

 別に誰が悪い訳でもないのだろう。だからこそ、彼らは自分たちの不満をどこにぶつけていいか分からずモヤモヤとした気分になる。

 同じ境遇にある仲間たちが何も言えずにいると、そんな彼らをジッと見つめていたメティスが扉に近付きながら話す。

 

「ここは時の流れがおかしな場所。皆さんが過去を強く意識してしまうのも無理はありません。そういう物に触れる切っ掛けなんて、ここにはいくつもあるんですから」

 

 それを聞いた仲間たちが意味を問う前にメティスが扉に触れる。

 すると、開いた扉の隙間から光が溢れ、全員がその光に飲まれると一瞬の浮遊感に包まれた。

 

 

???――ポロニアンモール

 

 強い光が扉から溢れ出し、一瞬の浮遊感に包まれたアイギスが目を開けると、そこはダンジョン最下層ではなく彼女もよく知るショッピングモールになっていた。

 

「ここは、ポロニアンモール……?」

 

 桐条グループが出資して作られた大型商業施設“ポロニアンモール”。

 先ほどまでダンジョン内にいたはずなのに、どうしてこんな場所に転移しているのかとメティスを除く全員が目を丸くしている。

 細い路地の奥、本来は壁があるはずの背後にはダンジョン奥にあった大きな扉があり、どうやら扉を通じてこちらにやって来たことが分かる。

 自分たちが寮に閉じ込められたのは深夜だったが、どうやら今は営業中のようで広場の噴水の水音や人々の話し声が聞こえてくる。

 感知能力を持っているためか、人より先にそれに気付いた風花が嬉しそうに笑顔を浮かべた。

 

「皆さん、人がいます! ちゃんとお店もやってて、外に出られたみたい!」

「よっしゃー! とりあえずは寮からの脱出成功って訳だな!」

 

 風花の言葉によって状況を把握した順平も大きくガッツポーズをして、早速行こうぜと他の者たちを誘う。

 先ほどまで沈んでいたゆかりと天田も少し元気を取り戻し、そこに七歌も加わって後輩組が路地から広場へ向かおうとする。

 だが、今のままでは拙いと気付いた荒垣が駆け出そうとする者たちを止めた。

 

「おい、待て! お前ら武器持ってんだぞ! アイギスのリストバンドに預かって貰ってからにしろ!」

「そういえば、そうだな。ナックルの俺や手ぶらの山岸以外はアウトだろう」

 

 先輩二人から言われて一同はアイギスに武器を預けてしまって貰う。

 そして、今度こそとばかりに駆け足で広場へと出て行き、他の者たちは苦笑しながらそれを追う。

 風花が先ほど言っていた通り、広場に出れば自分たち以外にも買い物に訪れた客たちの姿が見えた。

 どうしてここに繋がったのかは不明で、謎の扉は残っているが外に出られた事は間違いないらしい。

 その事を喜んでいると巡回から戻ってきた様子の黒沢を発見し、真田は自分から挨拶に向かう。

 

「黒沢さん、こんにちは」

「ん? お前たちか。平日の昼間から集まって学校はどうした?」

「大学の入学式はもう少し先なんです。こいつらは春休みで」

「春休み? 何の話をしているんだ。今は六月だろうが」

 

 真田が入学式や春休みという単語を出すと、途端に黒沢は訝しんだ顔になって今は六月だぞと交番の掲示物のカレンダーを指した。

 言われて視線を向けると、そこには確かにカレンダーも掲示物も現在が“二〇〇九年六月”である事を示している。

 黒沢の反応は勿論、それらの掲示物も偽物だとは思えない。

 だが、もしもこれが現実であるならば、自分たちは過去の世界に居る事になる。

 どうしてそんな事になっているのか分からず、真田たちが困惑して黙っていると、黒沢が少しだけ呆れた様子で声をかけてくる。

 

「お前たちにも色々と事情があるのは分かる。それはお前たちにしか出来ない事だろう。だが、だからと言ってお前たちの学生という立場がなくなる訳じゃない。今もただ遊んでいる訳ではないようだし見逃すが、もしもそれらを何かの口実に使うようなら補導するからな。忘れるなよ」

 

 事情を知ってくれている黒沢は釘を刺すだけで済まし、話を終えると交番へと帰っていった。

 見逃して貰えた事で真田は何とか「ありがとうございます」とだけ返せたが、今も頭の中は何が起きているのかと混乱している真っ最中だ。

 

「おい、美鶴。今は本当に六月なのか?」

「……どうやらそうらしい。周りの人間の服装を見て見ろ。春先にしては薄着だろう。それに黒沢さんもそんな事で冗談を言うタイプじゃないのはお前も知っているはずだ」

 

 真田は特別課外活動部に入る前から黒沢に世話になっていた事もあり、他の者たちよりも相手の性格もよく知っている。

 その性格は雰囲気通りに固いようで、親しい者しかいない場では意外と冗談を言ってくるタイプでもある。

 ただ、先ほど真剣に釘を刺してきた事から、六月という発言は冗談ではないようだ。

 となると、いよいよ過去にやって来たという話が真実味を帯びてくる訳だが、事情を知っていそうなメティスは仲間から離れて一人で噴水をジッと見ている。

 何がそれほど彼女の興味を惹いたのか分からないが、説明を求めてアイギスが声をかけた。

 

「メティス、ここが過去というのは本当なの?」

「え? えっと、状況的にそうだと思います。皆さん、補給について考えていたし。それに応えて補給出来る場所に空間が繋がったんだと思いますよ」

 

 言われてみれば確かにここでなら物資の補給は可能だ。

 外に出られた事に喜んでいたが、完全に事態を解決した訳ではない以上、物資を補給してから再び探索に向かう必要がある。

 また、ここが過去だとすれば、外に出られたという部分も正確ではない。元の世界にある寮に戻ればあちらはまだ時の空回りが続いているはずだから。

 色々と飲み込めていない事はあるが、とりあえず物資を補給する目処は立った。

 当初の懸念事項が解決した事を今は喜ぼうと頭を切り換えた七歌が場を仕切る。

 

「よし。じゃあ、一旦解散して好きに見てまわろうか。落ち着いたら集合して補給について話し合うって事でいこ」

「そうだな。事件に巻き込まれた事で、自分たちが思っている以上にストレスを感じていたはずだ。そう長くは時間を取れないが、考えをまとめたり気持ちのリフレッシュくらいは出来るだろう」

 

 七歌と美鶴の言葉に他の者も頷くと、二、三人単位で分かれてモール内の散策に出る。

 知っている場所ではあるが、寮に閉じ込められていた事もあってモール内の景色も新鮮に映る。

 アイギスもどこかのお店に入ろうかと移動しようとすれば、周りをキョロキョロと見渡しながら一人で移動するメティスの姿が見えた。

 自分も最初は見る者全てが新鮮で珍しく見えたものだが、彼女の同じなのだろうかと少しだけ懐かしく思う。

 ただ、人間社会での活動経験がほとんどない彼女を一人で行かせるのは危険だ。

 今もここは何だろうかと首を傾げながらお店に入ろうとしている。そこは知り合いの女性が営む店だが、影時間の活動における協力者の店だけに迷惑もかけられない。

 アイギスはすぐに駆け出すと中に入ろうとするメティスを追いかけた。

 

「ごめんくださーい。って、ここ何屋さんなんでしょう? 雑貨屋?」

 

 入る際に挨拶をしているメティスに、随分と丁寧な事だと考える。

 ただ、やはり知識はあっても経験がないらしく、看板などもちゃんと見ていない事で何の店なのか分かっていないらしい。

 そういう部分は学ばせていかなければと、追い付いたアイギスは勝手に彷徨く相手を注意しながら続いて店内に入る。

 

「メティス、勝手に色々な場所に行ってはダメでしょう! それにここは雑貨屋じゃ、なくて……」

 

 皿や壺だけでなくタペストリーや民芸品など、普通の店では扱っていない様々な品物が並ぶ骨董品屋。

 店内に入ったアイギスはメティスが商品を雑に触っては危険だからと止めようとしたが、店主の女性がいる店内奥のカウンターに視線を向けた時、そこにいる人物の姿をみて思わず言葉を止めてしまった。

 あり得ない。そう、本来ならば彼がここにいるはずがない。

 黒沢も言っていた。今は六月で、学校のある平日の昼間だと。

 しかし、視線の先にはここにいるはずのない彼の姿が確かにあった。

 パソコンで何やら作業していた青年は画面から顔をあげ、視線を真っ直ぐこちらに向けてくると二度と聞くことはないと思っていたその声で話しかけてくる。

 

「……ようこそ、古美術眞宵堂へ」

 

 懐かしいその声を聞いた途端、アイギスは我慢出来なくなり大粒の涙を流しながら彼に駆け寄っていた。

 

「八雲さんっ」

 

 カウンターに座る彼の許まで駆け寄り、アイギスは縋り付くように抱きしめると声をあげて泣く。

 抱きしめた彼の感触は本物で、先ほど聞いた声も、いま鼻腔に届く懐かしい香りも彼がこの場に存在している事を証明してくれている。

 姉の突然の反応に困惑している妹を放置し、相手の迷惑を考える余裕もないままアイギスが抱きついて泣いていれば、小さく嘆息したその青年、有里湊は彼女が泣き止むまでその頭を優しく撫で続けていた。

 

 

 


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