午後――月光館学園・屋上
少し早い桜の開花によって、新たな門出を祝福されているかのように無事卒業式は終わった。
友人や恩師、先輩後輩との別れに涙を流しつつも、最後は晴れやかな表情で生徒たちは学校を去って行った。
解散した後に校内や校門前で写真を撮っていた生徒や保護者も既に帰り、そうして、校内もようやく静かになった頃、屋上には数名の少年少女が集まっていた。
卒業式に参加していたメンバーだけでなく、コロマルに案内されるままに学校へ来た天田も記憶を取り戻しこの場にいる。
帰路についた生徒たちとは対照的な、怒りや悲しみ、悔しさを滲ませた表情を浮かべ、街を一望出来る位置まで進んだ真田が感情のままに目の前のフェンスを殴りつける。
「クソッ!!」
殴りつけたフェンスが激しく揺れ、拳をぶつけた箇所がその威力に負けて僅かに拉げる。
ボクサーの命とも言える拳を痛めようと気にしない。そんな事を気にしていられない。
普段、学校行事などそれほど思い入れはないと考えていた真田も、高校生活の最後を飾る今日という日は楽しみにしていた。
中等部から数えれば六年も通っていたのだ。母校としての愛着もあり、思い出が多く残った学び舎を胸を張って出ていこうと朝までは考えていた。
しかし、彼やその仲間たちは全てを思い出した。美紀が言っていた自分たちが忘れてしまっていた記憶を、あの最後の戦いのことを。
「確かに世界は平和になった。俺たちは明日に辿り着くことが出来た。こうやって再びこの場所に集まるという約束だって果たすことが出来た。だが、こんな結末は望んじゃいなかった!! 仲間を犠牲にして得た結果になんの意味があるっ?!」
戦いに臨むとき、全員で未来に辿り着ける可能性は低いと思っていた。
幾月やストレガたちだって必死だった。本気で自分たちを殺そうとして、彼らも彼らの望む滅びへ辿り着こうとしていたのだ。
数で勝っていようとも殺しを躊躇わない者たちを相手に、何人が無事でいられるかなど分かるはずもない。
それでも、あの日の戦いで七歌たちは全員が勝利を拾ってニュクスと対峙する事が叶った。
もっとも、七歌たちに出来たのはそこまで。敵の力の一部を使って戦っていた七歌たちでは、最初からニュクスと戦う事など出来なかった。
「……そういえば、飾ってあった写真。いつの間にかなくなってたわ。多分、湊君が回収か処分したんやろうね」
「なら、有里の野郎は最初から自分が帰って来れないって知ってたって事かよっ」
影時間に関する記憶を失っている間の自宅の光景を思い出してラビリスが溢す。
彼女が湊と暮らしていたマンションの部屋は、いつの間にか一部屋空いていて、そして自室に飾っていたはずの写真などがいくつかなくなっていた。
記憶を失っていたラビリスは、巌戸台分寮を出たアイギスが引っ越してくるから空けていたと認識していたが、どうやら戦いに出る前に湊が密かに自分の痕跡を処分していたらしい。
影時間の記憶を失うだけであれば、湊が自分の痕跡を消さずとも勝手に記憶の補整が掛かって誰も何も気にしないまま日々を過していたはず。
それなのに、彼は私物だけでなく自分が写っている写真まで処分していた事から、戦う前からこうなると分かっていたに違いない。
ラビリスの言葉からそれを察した順平がなんでだよとやりきれない気持ちのまま叫ぶ。
すると、泣いて目を赤く腫らした七歌がベンチに座ったまま、他の者に聞こえるようにあの戦いの途中で立ち寄ったベルベットルームでの事を話し始めた。
「タルタロスの頂上でシャドウの群れに呑まれた時、意識だけがベルベットルームに行ったの。そしたら、そこに八雲君がいてさ。契約を果たして、最後の鍵を取りに来たって言ってた」
「八雲さんの契約には死にまつわるものがありました。そして、最後の契約は“命のこたえを見つける”だったはずです。それらを果たし終えたという事は、やはり最初からニュクスとの戦いで自分の命を使うつもりだったのでしょう……」
あの時、湊と共にベルベットルームにいた七歌は、彼が全ての契約を果たし終えていた事を知っている。
今のあの部屋の主であるイゴールが言っていたのだから間違いはないだろう。
そして、彼の契約内容を知っていたアイギスは、それらの契約が果たされる意味を理解し、彼だけはあの戦いの先を見ていなかった事を知った。
どうして、と問いたい気持ちが心の中で渦巻き続ける。
今更悔やんだって意味はない。あの時、彼以外にニュクスと戦える者はいなかったのだ。
本人だって生き残る方法があればそうしたに違いない。
であれば、彼に心の力を送るくらいしか出来なかった者たちが何を言おうと、彼のとった行動と選択こそが最も犠牲が少ない解決法だったという事だ。
無論、頭ではそう理解しても素直に納得出来る訳ではない。一歩離れた場所で腕を組んで黙っていた荒垣が口を開く。
「……美紀、お前は何も聞いてなかったのか?」
「……はい。ですが、他の皆さんは聞いていたそうです。ニュクスとの戦いで勝つために命を使うと」
この場には美紀も来ていた。他の者たちが記憶を失っている間、記憶を保持していた大人たちと影時間に関するやり取りをしていたのは彼女だけ。
記憶を取り戻したばかりの者らには、色々と説明が必要だろうとこの場に同席していた訳だが、湊が死ぬことを知っていたのかと聞かれた彼女は首を振って知らなかったと返す。
もっとも、特別課外活動部の者たちが記憶を失っている間、美紀は栗原たちから少しだけ湊の話を聞いていた。
曰く、保護者たちは湊が死ぬつもりだと聞かされていたという。
地球の生命と繋がっているニュクスは倒せないが、他の方法ならば滅びを回避して勝つことは出来る。そのためには命を使う必要があると本人が語ったらしい。
美紀自身もその話を聞いた時は声を荒げて栗原を問い質したが、やはり他の者も同じように感じたのだろう。俯いていたチドリが立ち上がって美紀に向かって叫ぶ。
「なんで、なんで聞いてたなら止めなかったのよ! 八雲にばっかり背負わせたくないって言ってたくせに、どうして最後まで八雲にそんな事っ!?」
「止めたに決まってるじゃないですかっ!! 誰が好き好んで息子同然の子どもを死に向かわせるって言うんですか!!」
湊を止めなかった桜たちを責めるチドリの言葉に、美紀も珍しく声を荒げて言い返す。
桜や英恵は勿論、他の大人たちだって止めたに決まっているだろうと。
「私だって栗原さんたちに言いましたよ。なんで知ってて見送ったのかと。でも、それしか方法がなかったんです。ただ一人挑むことを許された有里君でもそれが限界だった。ニュクスを殺して彼だけ生き残るか。彼の命を使ってニュクスに勝利し他の生命を生かすか。他の選択肢はなかったんです!」
ニュクスを殺せば地球最後の生命として湊だけは生き残る事が出来た。
だが、湊の命を使ってニュクスに勝てば、一人の犠牲で地球の生命を救う事が出来る。
チドリやアイギスが平和な世界で生きられるようにと戦っていた青年にすれば、戦いを終えて自分が生きていようとも他の者たちが死んでは意味がない。
となれば、最初から選択肢などあって無いようなものだ。
他の者たちがどれだけ止めようとも、こんな物で良いのならと湊は自分の命を使うことを欠片も躊躇わなかった。
彼の事を知っていれば、当然そんな風に行動してもおかしくないこともすぐに理解出来る。
影時間が消えて平和な世界になったとしても、湊はどうせチドリやアイギスの前から消えるつもりだった。
彼女たちのいる温かな光の当たる世界と、手を汚し続けてきた自分がいるべき世界は対極な場所にあると考えていた。
世界が平和になったのなら戦いの象徴である自分は消えるべき。そう考えて彼は最初から姿を消すつもりだったと、彼の性格を把握していたチドリたちも気付いていた。
ただ、この結末は違う。美紀に八つ当たりしても意味はないと分かっていながら、それでも誰かに感情をぶつけずにはいられなかったチドリがベンチに再び腰を下ろして呟く。
「……別に、八雲がどこかに行っても良かった。一人で色々と決めつけて、戦いが終わったら自分は去るべきだって、そう考えて海外に行くだろうとは思ってたから。でも、これはそうじゃない。生きているのか死んでいるのかも分からない。何があったのかも分からない。こんなの納得出来る訳ない」
様々な感情が胸中で渦巻いているせいで、その感情をどこに向けて良いのか分からないチドリが呟けば、他の者たちも同じ気持ちなのか視線を俯かせる。
彼女の言う通り、ここに彼の遺体でもあればニュクスとの戦いで力を使い果たしてしまったのだろうと納得も出来た。
しかし、あの戦いの最後で湊がどうなったのか誰も分かっておらず、生きているのか死んでいるのかも判断がつかない。
これでは“もしかしたら”という可能性に縋ってしまい。戦いが終わったと割り切れそうになかった。
考えても答えなど出そうにないが、それぞれが複雑な胸中から黙っていると、ニュクス側の存在としての考察として綾時が口を開く。
「……正直、僕もニュクスの端末でしかなかったから、神であるニュクスを倒す方法が存在することすら分かっていなかった。平和になった今の世界を見ても、湊がどうやって神に勝てたのか分かっていない。だから、これはあくまで僕個人の推測だ。いくつか存在する可能性の中で、比較的可能性が高そうというくらいのものだと思って聞いて欲しい」
全員湊が何をしたのか分かっていないのだ。綾時の予想でしかなかったとしても、影時間側の存在だった彼の方がニュクスについて詳しい。
そんな彼の予想であれば聞く価値は十分にあると、全員の視線が向けられてから綾時は話し始める。
「湊はニュクスを殺せないと言っていた。物理的には殺せるけど、そうなると僕たちも死ぬから出来ないと言っていた。だから、殺していないとすれば、彼に出来たのはニュクスの再封印だと思う」
「封印にはなんか必要なん?」
「強いて言えばあれを抑えるだけの力があれば十分さ。というか、目覚めたニュクスを再び封印するなら心の海に沈めるくらいしか方法がない。あちらに繋ぐ門を用意出来る湊なら十分に可能ではあるけどね」
ニュクスを倒していないとすれば、湊に出来たのは敵の再封印である可能性が高い。
原始の地球に生命が生まれ始めた頃に封印されてから、ニュクスはずっと心の海に居続けた。
再封印を果たすことが出来れば、チドリたちが生きている間はニュクスの脅威に怯える必要はない。
湊がそんな風に考えて最後の戦いに臨んでいた可能性は十分にあり得るだろう。
「あちらの世界に落ちれば肉体も魂も情報を失い続けいずれ消える。もし、今も湊がニュクスを抑えているのなら、そのままあちらの世界で消える事になると思う」
極僅かな時間であれば肉体を持ったまま死後の世界にいても問題はない。
しかし、あちらは魂だろうが肉体だろうが、持っている情報が徐々に世界に溶けていく性質がある。
そんな場所でニュクスを抑え続けるのだから、最後は朽ちて世界に溶けて消えるだろうと綾時は言った。
人々が死後の世界と呼んだりもする場所が、そんな世界だとは知らなかったアイギスがタイムリミットまでに救う方法はないのかと尋ねる。
「八雲さんが消える前に救う方法はないんですか?」
「…………ないよ。同等の神の力を持っているから抑えられるんだ。その湊が離れればニュクスは再び降臨するかもしれない。なら、湊は絶対にその場を離れない。あんな奇跡をもう一度起こすなんて不可能だろうしね」
最後の戦いで起きた不思議な現象。人々の心が湊に集まり、それによって強化されたドラゴン型のペルソナがニュクスを宙へと押し戻した。
影時間に関わる記憶を失ったことで、この世界の人々は湊の事を忘れてしまっている。
なら、再びニュクスとの戦いが起こったとしても、人々は誰とも知らない者を信じて命運を託したりはしないだろう。
それが分かっている湊も当然ニュクスの封印から離れたりはしない。
無論、彼がニュクスを封印しているというのは綾時の予想に過ぎないのだが、どちらにせよ生きていようがいまいが彼を救う方法がない事だけは理解出来た。
「つまり、俺たちはあいつの犠牲を受け入れて生きていくしかないって事か……」
小さく呟いた真田の言葉が全員の心に突き刺さる。
世界は平和になった。自分たちは未来を掴んだ。だが、それは決して心から喜べるようなものではなかった。