10月15日(日)
夜――港区・繁華街
既に時計の針は九時を回っている。飲み会で店から出てきたばかりなのか、大学生ほどの年頃をした若い集団が話している横を、長い黒髪を二つに縛り眼鏡をかけた少女が一人で歩く。
服装は白のブラウスに、赤を基調としたチェックのスカート、そして緩めた黒のネクタイをしており、どこかの学校の制服のようにも見える。
こんな時間に少女が一人で繁華街を歩いているのが不思議なのか、気付いた集団の女子が何名か心配そうに声をかけた。
「あの、こんな時間にどうしたの? 一人なのかな?」
「危ないからお母さんたちのところに戻った方が良いよ。ここらへんは酔っぱらいとかばっかりだし」
声をかけられた事で、少女は立ち止まり話しかけてきた女子らに視線を向ける。
しかし、表情は変わらない。何の用だと、ただただ面倒くさそうにジッと金色の瞳で見つめ返しているだけだ。
瞳の色も雰囲気もあまりに不思議で女子たちが見入っていると、一緒にいた他の者も、何やら自分たちの仲間が一人の少女に構っていることに気付いたらしく、少女をやや囲むように集まって来た。
すると、少女は見返すのをやめて再び歩き出す。
慌てて引き留めようとする者もいたが、その手が少女の肩に届こうとしたとき、少女は身体を捻り躱してしまう。
掴もうとした目標が途中で消えたことにより、女子は空を切った手に釣られて前のめりに倒れそうになる。
だが、倒れる前に横から伸びた少女の手に受け止められ、女子は前傾姿勢で少女に寄りかかるように止まる事が出来た。
倒れずに済んだ事に安堵しながら、女子は少し照れた様子で身体を離すと自分を助けてくれた少女に礼を言う。
「あ、ゴメンね。受け止めてくれてありがとう」
「……別にいい。それじゃあ、俺はもう行くから」
「え? ……俺?」
少女の言葉を聞いた女子は、恰好と不釣り合いな一人称を疑問に思ったようだが、少女はそれに何も返さずそのまま歩き続けた。
***
繁華街を歩き続け、白河通りの方までやってきた少女の恰好をした湊。
もう少しで十一時になるということで、人通りはかなり少なくなっているが、場所がラブホテル街ということもあって、カップルが何組か歩いている。
場所と時間を考えれば子どもが一人でいること自体が異常なのだが、カップルたちは自分たちだけの世界に入っているのか、湊に視線を送りつつも直ぐに興味を失ったようにお互いを見ながら会話をしていた。
「…………」
そんな状況をむしろ好都合に思いながら、湊はイタリア語で『迷える羊』という意味の名前をした、キリスト教徒に喧嘩を売っているようなホテルの前のガードレールに腰掛け、入り口をジッと見ながら眼鏡の縁にある小さなボタンを押す。
実はいまかけている眼鏡は、小型のカメラを内蔵しており、これを使ってとある会社役員の不倫現場を撮影する事が今日の依頼だった。
依頼人は同じ企業の会社役員で、つまりはライバルを失脚させるためのネタを欲したという訳である。
この程度の依頼は何度かこなしているのでイリスの助けは必要なく、むしろ、一緒にくれば何事も経験だとホテルに連れ込まれる可能性があるため湊は一人で行動していた。
実際のところ、相手の部屋に何度か泊まって無理矢理に一緒に入浴させられたり、同じベッドで寝たりもしているが、イリスに対し貞操の危険を感じた事はない。
それならば、ロゼッタの方が湊の中では危険人物と認識されており。前にイリスの部屋で着せ替え人形にされたときなど、興奮した様子で目を血走らせながらドレスを脱ぎつつ襲いかかって来た。
相手が可愛い少女に興奮しているのか、それとも女装している少年に興奮しているのかは分からなかったが、嫌悪感を抱いたので湊は服を脱がされながらも顎を蹴り、倒れたところをさらに追撃で首を絞めて落とし何とか無事に済んだ。
そう言った事もあり、ロゼッタならいざ知らず、イリスが湊をホテルに連れ込もうと、それはホテルの内装がどんなものか社会勉強として教えることが目的で、子孫を残す機能もまだ備わっていない少年を毒牙にかけることなど先ずあり得なかった。
ならば、湊は何故イリスの同行を拒否したのか?
それはこの後の予定が関係していた。
「いやぁ、十月も中旬になると夜は寒いねぇ」
湊がこの後の予定の事を考えていると、ホテルから脂ぎった顔をした四十代頃の男が、二十代と思われる派手な格好をした女と出てきた。
写真と同じ顔で、その男がターゲットだと分かると、腕を組みながらホテルの駐車場へと向かう二人を湊は撮影し続ける。
車に乗ってからも中々発進せず、楽しそうに車内で話しながら時折口づけをかわしていて。他人の事など基本どうでもいいと思っている湊も、親子ほど年の離れた者同士のそんな物を見続けなければならない事に、生理的に受け付けない不快感を抱き、この眼鏡型のカメラを使えと渡してきたロゼッタに殺意が湧いた。
ターゲットが車を発進させたのは、それからさらに二十分後で、ようやく仕事を終えた湊は、依頼人にデータを渡す前にロゼッタに先ほどの気持ちの悪いラブシーンを見させる事に決め、今日一番の目的地へと向かう事にした。
影時間――巌戸台・港湾部北
世界が緑色に塗りつぶされたころ、湊は波の音を聞きながら岩の上に佇み月を眺めていた。
満月を過ぎた事で、右端が僅かに欠けている。二ヶ月前のあの日の月は似たものだったかと思案に耽っていると、背後でジャリっと砂の擦れる音がした。
見なくても分かる。他の者では湊のステルスを能力で看破出来ないが、その逆は違う。チドリのだろうが、他の者だろうが、能力で気配を隠蔽しても探知のアプローチが異なる湊の能力の目は誤魔化せない。
そうして、振り返ると現れた者たちに声をかけた。
「……久しぶり」
「ええ、お久しぶりです。今日はまた随分と変わった恰好をしていらっしゃいますね」
依頼時の服装のままだった湊を見て、楽しげに笑いながら立っていたのはタカヤ。
そのまわりには、タカヤ同様、研究所の支給品ではなく、市販の洋服を身に付けたジン・マリア・メノウ・スミレが、久しぶりに出会った湊の様子を不思議そうにしながらも、どこか安堵した表情で見つめている。
しかし、脱走時に一緒にいたはずのカズキがいない。
そう思った直後、
「オッラァァアアア!!」
道も存在しない場所から、ナイフを持ったカズキが飛び出していた。
どういった意図があって奇襲をかけたのかは分からない。けれど、わざわざ攻撃を喰らう気はないと、一歩引きながら身体を捻ってナイフを躱し、着地した直後の相手の顔に回し蹴りを叩き込むと、吹き飛んだカズキのいる場所まで跳躍する。
そして、相手の背中を踏みつけ動きを封じながら、マフラーを変化させたネクタイから取り出したコルト・ガバメントの引き金を引いた。
「っ…………」
乾いた銃声が響くと、湊以外の全員が驚いた表情をしている。頭のすぐ近くに銃弾が撃ち込まれたカズキも思わず硬直している程だ。
久しぶりに会った嘗ての仲間に対するあまりに容赦のない反撃に、他の者が言葉を発せずにいると、髪を縛っていた紐を解き、踏んでいた足をどけながら湊が口を開いた。
「奇襲するならもっと多面的に攻めろ。隙を突いてたった一撃叩きこむ準備しか出来てないなら、それは馬鹿な特攻でしかない」
「……テメェ、随分と容赦が消えたじゃねェか」
「実力の差だろ。研究所を出てから、こっちも遊んでた訳じゃない」
言い終えると、湊はネクタイに拳銃を仕舞って他の者へと近付いてゆく。
起き上がったカズキは何か言いたげな悔しさの滲む表情をしていたが、ようやく話せる状態になったことで、ずっと我慢していた様子のマリアが笑顔で湊に抱きついた。
「ミナトー!」
飛びかかるように抱きついてきたマリアを、湊は静かに受けとめた。
そのまま、優しく髪を梳きながら頭を撫でてやると、気持ち良さそうにして胸に顔をうずめているので、他の者にも話しかける。
「それで、この二ヶ月はどうだった?」
「ボクらは基本的にミナト君が言ってたような事をしてたよ。影時間の間にお店に忍び込んだりとか、日中はネットカフェで過ごしたりとかね」
口元に笑みを浮かべているが、言うほど楽ではなかったのだろう。メノウはエルゴ研にいたときよりも少し痩せたようで、他の者たちも似たような感じだ。
安定した生活基盤がないというのは、満足に休息も取れないということであり、時間が経てば桐条の追手が来るのではという不安も増してくる。
エルゴ研の研究員に恐怖感情を抱いていた子どもに、その重圧はかなり堪えたことだろう。
実際のところ、五代や他の情報屋を通じて得ている桐条の動きに、自分たちに対する追手らしきものは見られていない。
だが、何の情報も入ってこない状態で、ネガティブな感情を自分だけで振り払うのは大人でも難しいことだ。
合流したからには、今後はそれをどうにかできるようになればと、湊は少し考えながら、何か言いたそうなスミレに視線を向けた。
「ねぇねぇ、ミナト君。そのお洋服かわいいねー。でも、どうして女の子の格好してるのかなぁ?」
「……日中の仕事のときに着てたんだよ。で、ここに来る前にも一つ仕事入れてたから、着替えずにそのまま来た」
「随分と変わった仕事をされているのですね。私たちでも出来る仕事なら紹介していただきたかったところですが、我々は女性的な顔立ちをしていませんので、貴方のように出来そうにありません」
わざとなのだろう。タカヤは湊の恰好を改めて見回すと口元を歪め、自分たちには同じ仕事は出来そうにないと、さも残念だとばかりに肩を竦めた。
それを聞いて年少組のマリアとスミレは仕事内容が理解出来なかったようだが、他の三人は大凡の想像が出来てしまったのか、複雑な表情をしている。
確かに、湊の容姿は金色の瞳も含めてマニア受けしそうなものだ。少年として、女装した少年として、少女としての三種類の楽しみ方が出来るとは、ロゼッタがイリスに語った言葉である。
しかし、湊は変装として女装させられているだけで、ロリコンやショタコンと呼ばれる人種の相手をしている訳ではない。
よって、面倒ではあるが、マリアが抱きついてきたときにずれた眼鏡の位置を直しつつ、湊はアンニュイな表情のまま答えた。
「仕事の下見で日中は変装してるだけだ。仕事は調査、物品運搬、殺しと色々ある。そっちが望むなら、俺が懇意にしてるのと別口で良いなら仲介屋を紹介する」
湊の言葉を聞いたタカヤは、「それはありがたい」と何やら好奇心を抱いた様に返事をした。
いまの言葉のどこに好奇心を抱く要素があったのかは不明だ。けれど、どこに反応したのかは分かっている。タカヤが反応したのは、仕事内容に“殺し”があると言ったところだ。
自分と同じように殺人衝動がある訳ではない。もしそうなら、目を見たときに分かっているはず。
そう思いながら、湊はタカヤが本当に“殺し”に反応したのか考えるが、結局なにも分からなかった。
なので、話しを切り上げ移動する事にした。
「……移動するぞ。もう、来そうにないからな」
「なぁ、チドリはどないしたんや?」
「家にいる。この時間なら寝てるから、連れて来なかった。そことは全く離れた場所だけど、お前たちが住める場所を用意しておいた。いまからそこに行く」
湊はそういってカードを握り砕くと、スーツェーを呼び出して、六人をペルソナの背中に乗せて影時間の空を飛んだ。
***
空を飛んでやって来たのは、港区の東にある巌戸台南東区。ビジネス街や住宅密集地のある、それなりに大きな特別区の一つだ。
港区ほどではないが、商業施設も多数存在し、それなりに発展していると言える。
そんな中、湊がタカヤたちに用意したのは新たに開拓されたニュータウンではなく、旧街地と呼ばれる昔から存在する住宅地域の一軒家だった。
赤い屋根の洋風の落ち着いた外観のこの一軒家は、バブル期の終わりごろにあるデザイナーが建てた物で、バブルが弾けると仕事が激減し、泣く泣く手放したという経緯がある。
それが安く売りに出されていたので、さらに五代らのコネを借りて値引きして貰い、最終的に一千万ほどで買い取ったわけだが、湊は仕事で稼いだ自分のポケットマネーからそれを出した。
故に、土地も物件も湊が所有権を持っているのだが、本人は近いうちにタカヤにでもくれてやろうと考えていた。
「……ここ。少し前に買って、水道とか電気とか使えるようにしてあるから」
「買ったって、ミナト君そんなにお金持ってたの?」
「……選べば一晩で数百万稼げる仕事もあるから。それは良いけど、とりあえず案内する」
メノウに返事をしながら鍵を取り出すと、それを使って頑丈そうな黒い扉を開けた。
広い玄関に一同は少々驚いているようだが、湊は構わず靴をアンクレットにして家に上がる。そして、そのままリビングに向かおうとすると、玄関で靴を脱いでいたジンが呼びとめてきた。
「ちょ、ちょい待てって。わしらは暗くてよう見えんのや」
言われて振り返ると、タカヤとカズキはついて来ていたが、他の者は暗い玄関で靴を脱ぐのも苦労しているようだった。
影時間が明けていないので電気を点けられず、扉を閉めて月明かりもないとなると、確かに夜目が利かない者には辛いだろう。
そう考えると、湊は手に黄昏の羽根と同じ淡い光を纏って床に触れ、それから玄関の照明のスイッチを入れた。
「っ……電気が、点いた。影時間なのにどうして?」
「俺が黄昏の羽根の代わりをしてるからだ」
「本当にテメェは便利な野郎だな」
エルゴ研では研究所内で使う発電機にも黄昏の羽根を積んで動かしていたが、この家にそんなものはないように思えた。
ならば、湊はこの家だけでなく、電力の供給システムにまで干渉して動かしていることになる。
影時間において、ペルソナよりもこちらの能力の方が遥かに貴重だろうと、カズキが呆れた様に言ってきたが能力の詳細についてはなにも聞かなかった。
湊の能力は始まりこそ天然のペルソナ使いと同じであったが、半年後に目覚めて以降は根本的に変質して異端になっていたのだ。
それはベルベットルームの住人ですら原因や全容を把握できないほどで、観測できて初めて能力を理解できる状態にある。
いま行使している黄昏の羽根の代わりになるという力は、飛騨が持っていたエールクロイツの能力に湊が力を上乗せして、効果の及ぶ対象と範囲を広げているだけだが、ベルベットルームの住人に分からない事をエルゴ研の職員が分かる筈もなく、エルゴ研の職員が分からない事を子どもの被験体らが理解できる筈もない。
よって、詳細など聞くだけ無駄だと、分からないことよりもこの家についてだけ説明を受ける事にしたのだった。
「とりあえず、上に女子部屋と男子部屋を作ってる。着替えも適当に置いておいたから、話す前に入浴を済ませてこい。タオルは風呂場に用意してるから」
「ンだよ、先に話せば良いだろォが」
この二ヶ月の間に起こった事、分かった事についてカズキは湊からすぐにでも聞きたいと思っていた。
本日の出会い頭の一撃、さらに躊躇い無く引き金を引いてきた事。それらは、研究所時代の湊の性格を考えれば、絶対にあり得ないことだ。
だが、今の湊はそれを簡単に出来るようになった。以前の湊はどこか甘いと思っていただけに、カズキにすればとても面白く歓迎すべきことである。
初めて訓練で一方的にのされた時から、いつか本気で殺し合いたいと思っていた。
その夢の相手がより相応しい状態へ成長する切っ掛けがなんだったのかを知りたい。そう思い、カズキは湊に意見した。
「お湯もタイマーで溜まるようにしておいたから、メノウはマリアとスミレと一緒に行ってきてくれ」
だが、湊は二階へと続く階段を指差して、女子らに着替えを取ってきてすぐに入浴するよう勧めている。
幼いマリアとスミレは湊の言う事を素直に聞いて、知らない家の中を軽く探検するような気分で階段を上がって行ってしまった。
カズキや湊のことが気になるが、二人だけを先に行かせる訳にもいかないと、一度振り返ってからメノウも階段を上がって行くのを確認して湊はリビングに進んでゆく。
その背中を見ながらイラついた様子のカズキをみて、ジンがフォローのため尋ね直した。
「なぁ、ミナト。先に風呂を済まさなアカン理由でもあるんか?」
「あると言えばあるし、それほど重要でないとも言える。それでも、一応、意味はあるから、お前らも上で着替えを選んで準備しておくといい。早く話しを聞きたいのなら」
湊はしっかりと他の者の心情を理解していた。理解した上で、こんな焦らすような事をしているのだから始末が悪い。
聞いてゲンナリしたように脱力するジン、気に入らないと舌打ちをするカズキ、楽しそうに静かに笑うタカヤと三者三様の反応を見せ、しょうがなく湊の言う通りに準備をすると、女子たちが出てから順にシャワーを浴びに行ったのだった。
***
順に入浴を済ましているうちに影時間が明けた。
最後に上がったカズキがリビングに戻ってくると、他の者はソファーや床にクッションを置いて座ったりしながら、テレビでニュースを見て寛いでいた。
だが、その中に湊とメノウの姿がない。一体どこへ行ったのかと傍にいたタカヤに尋ねようとしたところで、ある方向から鼻孔に香ばしい匂いが届いた。
「……なンの匂いだ?」
「さぁ? 匂いからすると、生姜焼きではないですか?」
「誰が作ってンだよ」
「ミナトですよ。メノウが手伝いをしていますが、味付け等はミナトがしています」
話しを聞いてからキッチンを覗いてみると、確かに料理をするため髪を縛った湊が無表情で生姜焼きを焼いていた。
その隣ではメノウが片手鍋の中身を混ぜているが、どうやらそれは味噌汁らしい。
温まったのを確認して、用意していたお椀によそってからお盆で運び始めたところで、キッチンの入り口にいたカズキに気付き、メノウが話しかけてきた。
「暇なの? だったら、これテーブルに持って行ってよ」
「待て。先に説明しやがれ」
強引に味噌汁のお椀の載ったお盆を渡され、すぐに戻って行くメノウをカズキが呼び止める。
しゃもじを掴んだところだった相手は、やや面倒そうにしながらも振り返り、素っ気ない口調で返事をした。
「なに? ボクも忙しいんだけど?」
「何じゃねェよ。これは何のつもりだって聞いてンだよ」
「ボクらの食事。ミナト君が作ってくれたから、心配する必要はないよ」
それだけ答えると、メノウは炊飯器からご飯をよそい始めてしまった。
よって、もうこれ以上は何も聞けないだろうと諦め、カズキはリビングに戻るとお盆をテーブルの上に置いてソファーに座った。
カップ麺以外の湯気のたつ料理など久しく見ていなかったため、自然と視線が集中してしまう。
だが、それはリビングにいた他の者も同じようで、寝転がってテレビを眺めていたマリアは起き上がって味噌汁のお椀を見つめていた。
「ごはん?」
「味噌汁だ、馬鹿」
「そういう意味ではないでしょう。我々の食事と言う意味なら、それで合っていますよ」
聞いてきたマリアに子供じみた返しをしたカズキを諌め、タカヤは微笑を浮かべて頷いた。
すると、マリアは隣にいたスミレと一緒に顔を輝かせて笑っている。
この二ヶ月の逃亡生活では、食事は影時間に盗んだ弁当や総菜ばかりで、温かいものと言えば昼に食べるハンバーガーくらいであった。
ファミレスや他の外食の店は大人が多くてあまり入る気になれず、それを避けていてそんな事になっていた訳だが、直接口には出さなかったが、全員がそんな食生活に限界を感じていた。
なので、いま用意されている食事は非常にありがたかった。
「夜食……には少し重いけど、食事作った。話しは食べ終わってからするから、先に食べて」
取り皿と箸とご飯の茶碗を持ってきたメノウと一緒にやってきた湊が、そういって二つの大皿に盛られた生姜焼きを皆の前に置いた。
そして、再びキッチンに戻ってお茶のペットボトルとコップを用意すると、スカートの中が見えないように綺麗に座りながら、他の者に食べ始めるように言う。
風呂で身体を綺麗にして、温かい食事を落ち着いた場所でする事が出来る。ずっと忘れていた“安心”というものを感じながらの食事は、六人に自然な笑みを浮かべさせていた。
***
食事が終わり、湊が洗い物を終えて戻ってくると、他の者はお茶やジュースをテーブルに置いて待っていた。
本当はダイニングに上座と下座を合わせて十人座れるテーブルもあるのだが、子どもたちはリビングにある低いテーブルの方が好みのようだ。
そうして、マリアが自分の隣にクッションを用意していたので、そこに湊が座るとタカヤが口を開いた。
「貴方に料理が出来るとは思っていませんでした。外見的には違和感もないのですが、実に巧妙に隠されていた特技ですね」
タカヤの言った外見的に違和感はないというのは、湊が女装したままでいるためだろう。
実際のところ、このまま身体を鍛えながら成長していけば、体格からもう女性には見られなくなる筈なのだが、残念なことに湊はまだ二次性徴も迎えていない子どもである。
故に、タカヤは数少ない湊をからかえる話題として言ってみたのだが、今回の湊はそれを聞き流した。
「まず、制御剤は既に調合する薬剤師を見つけてある。実際に作らせて、比較して成分に問題も無かったし、金を払えば大丈夫だ」
「アンプル一つでナンボや?」
「発注はダース単位。細かい設定は棚の中のファイルにまとめておいたから、それを各自で読んでくれ」
言いながら湊は、『受胎告知』の画が印刷されたタイルがはめこまれた壁際の棚を指さした。
丁寧に付箋で『薬関係』や『家の管理費の支払い方法』など、それぞれの引き出しの中にどんなファイルを入れているのか書かれている。
エルゴ研では研究データを報告書形式にしていたりもしたので、こういった事務関係のことは性格的にも得意なのかもしれない。
「あ、家事の仕方も書いてある。ミナト君も出来るの?」
「専門的なのは無理。料理だって簡単なものしか作れないし、書いてるのは洗濯では洗剤をどれだけ使うかとか、そんなものだよ」
試しに引き出しを開けてみたメノウが尋ねると、湊は無表情のまま肩をすくめた。
料理など殆ど作った事がないし、家では掃除も洗濯も桜がしている。やり方は知識としては知っているが、実践したことのないものなど上手く出来よう筈もない。
けれど、子どもだけで生活するマリアたちが、ちゃんとした生活が送れるようにと、桜やイリス、眞宵堂に行ったときには栗原にも尋ねて、『子どもでも出来る家事ガイドブック』を製作したのだった。
その“出来る”の基準は、湊が何度か試して出来るようになったかどうかなので、マリアとスミレ以外は年上の人間ばかりのタカヤ達の方が上手くこなせると思われる。
実際のところ、男子はジンを除いて性格的に家事をしなさそうなので不安はあるが、女子で最年長のメノウは中身もしっかりしていて、面倒見も良いためとりあえずは大丈夫だろう。
「今後の予定だけど、とりあえずお前ら全員の戸籍を作る。それがなきゃ、色んな契約手続きも出来ないから」
「それもお金でどうにかなるのですか?」
「ああ。親とかに関しては適当になると思うけど、生年月日と名前は正しいもので作れる」
飛騨がコネを利用して作った湊とチドリのものほど隠すことは出来ないが、ちゃんと正式文書に利用できるものには違いない。
桐条側に見つかる可能性も上がるが、普段の生活でのメリットの方が大きいので、この場に居て話しを理解できている者から異論の声は上がらなかった。
その後も制御剤を調合してくれる薬屋の場所や、ここの周辺がどんな場所かという説明をして、ひとまず話しが終わると、続きはまた追々話す事にし、湊は他の者たちを休ませたのだった。
そして、翌日以降、湊は家での鍛錬、イリスや五代との仕事、ベルベットルームの依頼、マリア達に家事や仕事の仕方を教えるなど、非常に忙しいときを過ごすようになっていった。
――???
明かりのついていない暗い部屋の中にキーボードを叩く音が響く。
唯一の光源は男が操作するパソコンのディスプレイで、その光で部屋の中がわずかに照らされている。
机の上には本や書類が積み重なり、ここは作業中の男の書斎か研究室のようだ。
「ここは……よし、いいぞ……」
男の操作しているパソコンは、別のパソコン本体といくつものコードで繋がっている。
何のためにそんな事をしているのか不明だが、男は作業が上手く進んでいるようで口元を吊り上げている。
「よし、よし……っ、やったぞ! ついに見つけた!」
ディスプレイに一つのファイルが立ち上がっている事を示すマークが表示される。
そうして、少し時間が経ってから、カルテのようなものと、PDFで文章データが表示され始めた。
いままで作業していた男は、椅子から立ち上がりそれらに目を通しながら嬉しそうに笑いだす。
「ハハッ、飛騨データの復元に成功した。これでエヴィデンスの秘密を知ることが出来る」
パソコンを操作する男の名は幾月、彼はエルゴ研から第八研のパソコンを引きあげて自分の家へと持ち帰っていた。
その目的は、飛騨の研究データと、湊の身体に施された改造の詳細なデータの入手である。
他の室長は湊の異常な身体能力をペルソナの恩恵として見ていたが、幾月は飛騨が湊に何かしたと睨んでいた。
もしも、そのデータを見つけることが出来れば、今後、同じレベルの身体能力を有した兵士を作ることも可能となる。
ラボの発足を進めながらも、自宅に帰ってはずっとデータの復元に努めてきた。
そうして、ついにいま、幾月は飛騨のパソコンから、“飛騨データ”と呼称することにした物を取り出し復元することに成功したのだった。
「そうか、そうだったのか。“飛騨製人型特別戦略兵装二式”、それがエヴィデンスの正式名称。神経や筋肉に処理を施し、機能をかなり強化しているな。だが、そのせいで細胞が変異し、十年もせずに急速な劣化が始まると……ふむ」
求めていた情報が手に入り、研究者としての視点から内容を詳しく読みこんでゆく。
そんな手法で施術が可能なのか疑わしいものもあれば、普通ならばまず患者が耐えられないと思われるものも存在する。
だが、データに書かれていることは、実際に全て湊の身体に施されたものであるため、それを行った飛騨だけでなく、耐えきった湊に対しても幾月はある種の畏怖の念を抱いた。
「執念、か。やつも自分の全てを賭けて叶えたい望みが……」
そう呟いたとき、背後で扉の開く音がした。
「お父さん? 大きな声を出してたけど、なにかあったの?」
「
幾月は声の主の方へ振り返ると、席を立って入り口へと近付いて行く。
部屋の入口に立っていたのは、幾月によく似た色の緩いくせ毛の髪を肩まで伸ばした少女で、歳は湊と同じか少し年上と言ったところだろう。
時刻は既に深夜の二時をまわっているのだが、大きな声を出していた父を心配して起きてきたようだ。
夜も遅いというのに自分を心配して起きてきた娘を愛しく思い、幾月は膝をついて目線の高さを合わせて娘の頭を優しく撫でる。
「大丈夫だよ、玖美奈。お父さんは嬉しい事があって少しはしゃいでしまったんだ。起こしてしまって悪かったね」
「ううん、大丈夫なら別に良いの。でも、嬉しい事って?」
「ああ、前に言っていたエヴィデンスの秘密をついに見つけたんだ。やつはね、普通の人間じゃなく、肉体を改造した強化人間だったんだよ」
頭を撫でる仕草も、声色にも娘に対する優しさが感じられる。だが、笑っている瞳にだけは、黒い狂気が混じっている。
娘の玖美奈はそれを見ながらも、気にした様子もなく父に質問を続けた。
「改造って、ロボットってこと?」
「ああ、似たようなものさ。人型特別戦略兵装、つまり人間の姿をした兵器ということだからね。戦術兵装ではないというのがポイントかな。確かにあれは、戦いそのものを終結に導くだけの力を持っている」
エルゴ研の脱走時に湊が見せた力は全てではない。
あれは、エルゴ研を終わらせるために放った一撃であり、施設に残っていた被験体も巻きこんで全研究員を殺す気だったのなら、タナトスの一撃でエルゴ研の周囲数百メートルは全て融解していただろう。
複数のペルソナを同時に操る事も可能ならば、それだけ大規模な攻撃も数回は放てると見て良い。
存在そのものが桐条側を牽制している事も含め、非常に優秀な戦術兵器でありながら、湊はやはり戦略兵器であると言えそうだと、幾月はおかしそうに笑った。
しかし、そんな父の姿を玖美奈は心配そうに見つめて尋ねた。
「……そんな相手に勝てるの?」
「いまはまだ無理だ。でも、これで勝てるようになるかもしれない。何年かかるか分からない。それでも、私たちの夢を、あんな者に奪われる訳にはいかないんだ」
「うん、頑張ってお父さん。私もお父さんに協力するから。だから、絶対にあんなやつに負けないで」
親子二人はお互いを抱きしめ、自分たちの夢を阻む存在への勝利を誓った。
何も知らず生きてきた子どもに負ける事は出来ない。自分たちの夢には世界の滅びが不可欠なのだ。
邪魔をするのであれば、どんな手を使ってでも勝ちに行き、計画を阻まれぬよう命だって刈り取ってやる。
そう固く決意して、この日より、幾月はさらにペルソナの研究を進め、再び滅びが訪れるための方法を見つけ出してゆくのだった。