午後――巽屋
中華料理屋を出た一同は予約していた時間に、同じ商店街の中にあった染物屋に来ていた。
店の中には反物からスカーフまで色々な染物が置かれているが、出迎えてくれた店主の女性が染めるのは奥の作業場だと言ってメンバーをそちらに連れて行く。
しかし、それでは店が留守になるのではと思っていれば、女性は奥の部屋に向かって大きな声で呼びかけた。
「完二、お客さんの相手をしてるから少しだけお店を見てて頂戴」
「はぁ? せっかくの休みになんで店番なんかしなきゃいけねぇんだよ」
「連休中グータラしてたんだから少しは手伝いなさい」
奥から聞こえてきたのは男の声。声変りはしているようだが、口調も含めてどことなく生意気そうで、会わずとも相手が年下だろうと湊たちは予想出来た。
少し待っていれば足音が近付き、暖簾をくぐってタンクトップ姿の金髪の少年が現れる。
どちらかと言えば老け顔だが、肌の様子等から判断にするにやはり相手は年下なようで、背は湊よりも低いが中学生で一七〇後半もあれば高校までに一八〇センチを超えるかもしれない。
そんな色々とインパクトの強い少年は面倒臭そうな様子でやってくるなり、店内で待っていた湊たちを見て驚きの声を上げた。
「ったく、休みだってのに……って、うおっ!? 赤髪とか外人とかなんの集まりだ!?」
「こら、お客さんに失礼でしょ! こちら東京から染物体験にいらした月光館学園の皆さんよ。高校生であんたより年上なんだから口のきき方には気を付けなさい。どうもうちの馬鹿がすみません」
謝罪してくる女性に佐久間が外向けの顔で気にしないでくださいと返す。こういった場面での変わり身は流石で、ルックスの良さと備えた知性を組み合わせ、彼女は都会の有名進学校の美人教師として旅行先などでは円滑に会話を進めていた。
佐久間が大人の相手をしているのなら、湊は反対に子どもの相手をしておこうと、チドリの髪やターニャにラビリスをチラチラと見ている少年に話しかける。
「休みの日に騒がしくして悪いな」
「いや、別にババァに文句言っただけなんで……」
湊たちが年上だと分かると大人しいもので、少年は気まずそうにしながらも湊からの謝罪に照れた顔をした。
見た目は厳つく身体も大きい方だが、反応からすると不良というよりはヤンチャなだけに違いない。
そういうタイプの方が関わるのも楽だと、湊は鞄から包装紙で包まれた紙箱を取り出し、相手の言葉遣いを諌めつつそれを少年に渡した。
「母親をそう悪くいうもんじゃないぞ。まぁ、東京から買ってきたものだが、これでも摘まんでおいてくれ」
「お、あざっす!」
湊が渡したのは駅の土産屋で売っていた“江戸っ子バナナ”というお菓子。個人商店で染物体験をすると分かっていたことで、ちゃんと手土産として買っておいたのだ。
受け取った少年は甘い物もOKなようで、早速包装を破って一つ取り出して食べている。少年が「うめー!」と喜んでいるのを見て、気に入ってもらえたのなら良かったと湊は女性に案内されて作業場の方へ移動した。
すると、移動中に前を歩いていたラビリスが振り返って、中華料理屋や先ほどの手土産について感心したように話しかけてくる。
「湊君、さっきから準備ええなぁ」
「……まぁ、仕事で色んな人間に会うからな。基本的にこちらが上になることが多いが、話を円滑に進めるには子どもに好印象を与えた方が楽に済むってのが経験で得た答えだ」
「ハラショー、ミナトはとても親切デスね。チリフォーンでおばさんもミナトは良い人だと言ってました」
「残念ながら、それは都合が良いって意味がきっと含まれているぞ。ナタリアはそういうヤツだ」
湊は元々不得意をなくすように能力を伸ばしていたので、専門家には及ばないが多方面に高い水準の能力を持っている。
何か困ったことがあれば弱者救済のために手を貸すので、本人のそういった性質と能力を合わせれば、便利屋として非常に重宝するのだ。
仕事屋としてならともかく、彼の経歴等を理解した上で使おうとする人間は少ない。けれど、ナタリアは青年を生意気な子どもとして見る事の出来る数少ない人物であった。
直接的には二万人以上、間接的には十万人以上を殺している人間に、大切な姪っ子を預けてきたのが何よりの証拠で、湊がそれに気付いて悪態を吐くところまで想定済みに違いない。
年の功かは知らないが本当にいい性格をしていると思いながら、湊は奥の作業場まで進み。他の者らと一緒にやり方を聞きながら染物体験に勤しんだ。
――高級別荘地・桐条別邸
湊たちが地方の町へ旅行している頃、美鶴は英恵の暮らす屋敷に赴いていた。
連休と言えど休んでばかりもいられないが、身体が弱いために静養している母親に会う時間を作るくらいは出来る。
何より、以前から伝えねばならないと思っていた湊の事を話すには、この大型連休は丁度いい機会だと思ったのだ。
幼い頃から英恵に仕えている執事の荒川に案内され、美鶴は部屋の前までやってくるとノックし、相手の返事を聞いてから扉を開けて中に入る。
そこには白いワンピースに花柄のストールを羽織って本を読む英恵の姿があった。
「いらっしゃい、美鶴」
「お久しぶりです。お母さま」
起きていて大丈夫なのかと少し心配するも、近くで見た英恵の顔色は健康的で今日は調子がいいのだろうと安心する。
小さな円卓を挟んで英恵の向かいに座り、女中が二人の前に紅茶とお茶菓子を置いて部屋を出て行ってから、美鶴は本題を切り出す前に世間話で会話を始めた。
「顔色がよくて安心しました。身体の調子はよろしいのですか?」
「ええ、まだ春のぽかぽかとした陽気の日が多いから、部屋の中で日向ぼっこしたりしてるのよ。冬眠の時期よりも目覚めの季節の方が眠くなるなんて不思議よね」
うふふと明るい表情で笑う英恵につられて美鶴も笑みを浮かべる。
髪の質やスタイルの良さなど母親から受け継いだ部分も多々あるが、可愛らしい雰囲気の母親に対して美鶴は美人系だ。
対極な雰囲気になったのは父親の切れ長な目が遺伝し、桐条に相応しい厳しい教育を受けて育った事が大きいが、美鶴本人は母の様な全てを包みこむ暖かく柔らかな空気を自分も一パーセントでも纏えればと考えていた。
ほとんど会話した事がないのであまり記憶には残っていないが、八雲の母親もお茶目で可愛らしいタイプだった事は美鶴も覚えている。
幼少期は実子の美鶴より八雲の方が英恵と会っており、そんな母親二人から愛情を受けて育った彼は母性を感じさせる女性に懐き易いだろうと、青年との会話を諦め切れていない美鶴は密かに母性を手に入れる方法などを研究していた。
もっとも、一部の女子からは美鶴も十分過ぎる母性の象徴を装備していると、マジギレに近い半ギレでツッコミが入りそうだが、人柄や雰囲気と胸の豊かさは精神的な母性と肉体的な母性で全く別の話なので、美鶴自身は相手の言葉に困惑しつつ自分の求めるものとは異なると返すだろう。
彼女が求めるのは相手を安心させる空気や包容力だ。実際に親にならなければ持てないものかもしれないが、以前、湊が出場したバスケットボールの試合の応援で会った鵜飼桜は、未婚で出産経験もないのに自分の母に似た雰囲気を持っていた。
相手に対する愛情などがそうさせたのか、生来の気質なのかは分からない。けれど、血の繋がりが関係ないことは母や桜を見ていれば分かるので、美鶴も自分の母から学べるものは積極的に学ぼうと考えながら笑顔で相手を見ていると、紅茶のカップを手にとった英恵が口を開いた。
「それで今日はなんの話かしら? 話したいことがあるのでしょう?」
言われて美鶴は心臓をドキリと跳ねさせる。
どうして分かったのか。今日は連休中に会いに行くと伝えてやってきただけだった。話したい事があるとは伝えていない。
美鶴は驚いて瞬きをしながら何故分かったのかと聞き返す。
「分かるんですか?」
「フフッ、貴女は分かり易いもの。人払いはさせているから大丈夫よ。ゆっくり貴女のペースで話して頂戴」
本人は上手く隠せているつもりだろうが、悩みがあると美鶴は表情に出る。会う機会は少なくとも英恵は母親で、娘のそういった癖をしっかりと理解していた。
というよりも、桐条武治も似たようなタイプなのだ。桐条グループの犯した罪、桐条武治が犯した罪、そのどちらについて悩んでいるのかは知らないが、一人でいるときの彼は死に場所を探す様な瞳をしている。
そして、英恵と共にいるときには、それとは違った酷く申し訳なさそうな顔をする事もあった。
他の者には隠せても二人を知る英恵には隠せない。親子揃ってそんなタイプだけあって、英恵は気付くのは簡単だと笑って美鶴に自分のタイミングで話す様にいった。
ある程度話して場を整えてからと考えていた美鶴は出鼻を挫かれるが、内容が内容だけあって切り出しにくくもあったので、相手が既に聞く態勢になっているのならありがたいと話すことにした。
「その、八年前、いえ九年前というべきでしょうか。当時、死んだと思われていた八雲が見つかったんです」
「……あら」
影時間に関わる話だと思っていたが予想が外れた。そんな意外そうな顔をする英恵に、美鶴は見つかった百鬼八雲の現在についてを伝える。
「現在は名前を変えていますが、有里湊が八雲だったんです。そして、彼とそのご両親を事故に巻き込んだのは、我々桐条グループでした」
ただの交通事故だと思われていた百鬼一家の死亡事故。それは交通事故ではなくシャドウによって引き起こされたものだった。
英恵から親友と息子を奪ったのは、彼女の夫や義祖父の行っていた研究が原因だったのだ。
しかし、それを聞いても英恵は取り乱したりせず、落ち着いた様子のまま美鶴がそのことを知った経緯を尋ねる。
「……貴女はそれをどこで知ったの?」
「昨年の九月二十五日に、彼がムーンライトブリッジで花を手向けていたんです。彼の両親がポートアイランドインパクトで亡くなった事は彼自身が公言しています。そして、ムーンライトブリッジで起きた事故は百鬼家の死亡事故のみです」
彼らを襲った事故以外にムーンライトブリッジで事故は起きていない。ならば、彼の手向けた花は百鬼一家に対してということになる。
それだけならば知り合いだっただけという可能性もあるが、美鶴の記憶に僅かに残る八雲や彼の母親である菖蒲の姿と湊の姿は似ていた。
何より、あの日父親が返した言葉が、彼が八雲である事を証明していたのだ。
「あの日、彼は橋の上でペルソナの暴走を起こしかけました。その事も含めて彼が八雲ではないかとお父様に尋ねると、彼は有里湊でしかないと否定した上で関わるなと告げられました。ただ、八雲が見つかったとお母様に報告すると言った際、お父様が好きにしろと仰ったんです。つまり、お父様は彼が八雲であると知っていて隠していたことになります」
相手が桐条グループと無関係なペルソナ使いで暴走を引き起こす可能性があるのなら、桐条は影時間を生み出した責任として相手に制御剤を与えるなど出来る限りのことをする。
だというのに、あの日の桐条は湊に関わるなと美鶴が彼と接触する事を禁止した。
「私はずっと不思議に思っていました。何故、初のペルソナ獲得者とされる私が使った事のない制御剤が存在するのかと」
桐条も強制するつもりはないようだが、告げてきたときの様子からするに、美鶴の身を案じて相手との接触をやめるように言っていたと考えられる。
美鶴も詳しくは知らないが、百鬼の一族は他の一族から忌避されてきた鬼の一族だとか。龍の一族とされる九頭龍を超える優秀な血を持っているとも聞いており、それは湊の活躍を見ていれば納得がいった。
「実は彼が力を暴走させかけたとき、見えない力が辺りに広がり映像が頭に流れ込んできたんです。彼の記憶らしきものでしたが、横転して燃える車の見える場所でペルソナを使って戦っていました。事故直後に既にペルソナに目覚めていながら、彼が死んだことになった理由を先ほどの話と合わせて考えれば、八雲はペルソナ研究の被験体になっていたんだと思われます」
本当のペルソナ獲得者第一号。両親を失って自身も事故で怪我を負いながら、召喚器も何もない状態で彼は何者かと一緒にペルソナで戦った。
生まれ持っての素質かは分からないが、それだけのことが出来た少年と父を守るために召喚しただけで倒れた美鶴では、どちらが被験体として優秀かなど考えるまでもない。
百鬼一家の事故は全て影時間に起きた事で、八雲がいなくてもそれは事故で一緒に死んだと勝手に処理される。
両親が死んだ以上、八雲には父方である九頭龍家の者以外に親戚はいない。その親戚である九頭龍家も七歌と嫁入りしてきた女性陣以外は、鬼と龍の混血である八雲を忌み子として避けていた。
ならば、彼を愛していた英恵にさえ黙っていれば何の問題も起きない。人々をシャドウの脅威から守るため、世界のために百鬼八雲には被験体という人柱になってもらう。それが組織のトップに立った桐条武治と当時のエルゴ研の生き残りの下した決定だった。
美鶴は自分も能力の拡張のために幼少期にいくつか実験を受けて辛いと思っていたが、彼や同じように身寄りのない子どもの犠牲によって召喚器や制御剤が完成したのなら、自分の辛さなど彼らの受けた痛みの一割にも満たないものだったはずだと胸が苦しくなった。
「桐条グループやお父様への憎しみを思えば、彼が自ら被験体になったとは思えません。つまり、当時のグループが彼を被験体として回収し、お父様は被害者である彼の人生をさらに歪めてっ」
「もういいわ。話すも辛いのでしょう。分かったから、それ以上は言わなくていいの」
悲痛な表情で早口になっていく美鶴を英恵は途中で止める。彼女は父のことを心から尊敬し愛していた。そんな彼女にすれば、自分の父が非道なことを行っていたと認めるのは辛いはずだった。
英恵にそれ以上は口にしなくていいと言われ、美鶴は少々青くなった顔色で紅茶のカップを手に取り口を付けた。
温かい物を飲んで心を落ち着け、美鶴が冷静さを取り戻すのを待ち、英恵はにっこりと優しい笑みを浮かべて八雲に関する情報を教えてくれた娘に礼を言った。
「教えてくれてありがとう、美鶴。でも、実は彼が八雲君だって事には気付いていたの」
「……え?」
驚き美鶴は目を見開く。相手が何を言ったのかは聞きとれたが、どうして彼と会った事もない母が気付いていたのか分からない。
混乱する美鶴をよそに、英恵は娘の反応をくすくすと面白がりながら理由を話した。
「フフッ、不思議そうにしているわね。でも、親ってそういうものよ。瞳の色が変わっていようと、成長していようと分かる物なの。あの子の顔は菖蒲さんに似て綺麗だから分かり易いですしね」
そういうと英恵は席を立って本棚に向かい、そこから何冊かのファイルを持ってくる。
再び戻ってきた英恵はファイルを開き、綺麗にスクラップされた籠球皇子に関する記事を見せた。
月光館学園の男子バスケ部が地区大会を突破したという新聞の地方欄の小さな記事から、雑誌の特集記事まで彼が載っている物は全てあるのではないかと思われる。
英恵が保管している美鶴のアルバムと同じように、とても大切にしているのが伝わってきて、美鶴は母が本当に気付いていたのだと理解した。
だが、それなら何故会おうとしないのかという疑問が浮かぶ。八雲は英恵に懐いていたので、桐条家の人間だとしても例外的に受け入れると思われた。
彼のことをよく知る英恵ならばそれも分かっているはずで、何か会えない理由でもあるのかと聞き返した。
「気付いておられたのなら、どうして八雲に会おうとしないのですか? 彼もお母様のことは慕っていたはずです。桐条家の人間の中でもお母様にだけ例外的に会ってくれると思うのですが」
「八雲君には監視がついているでしょう。それで会ってしまうと武治さんや貴女にも伝わってしまうから我慢していたの。でも、貴女が気付いて武治さんも隠し通せないと思ったなら会いに行ってもいいかもしれないわね」
実際は会っていたし屋敷で匿っていたこともあった。その事を伝えると美鶴が混乱するので伏せておくが、沖縄で会った七歌だけでなく美鶴も湊が八雲であると知り、それを英恵に伝えると桐条に言ってくれたのなら会いに行く事も出来る。
感動の再会という体でいくか、それとも帰省して親戚に会った様な気軽な感じで行くか悩む。
ただどちらにせよ、身体への負担を考えると頻繁に会いに行くことは出来ないので、行くときには何かの行事やイベントに合わせることになるだろう。
英恵がそのように色々と考えていれば、意外にあっさりとした反応を見せた母を不思議に思った美鶴が再び話しかけてきた。
「その、お母様はお父様が隠していたことに対して憤りを感じたりはしないのですか? お母様にとって八雲は実の息子と変わらない存在だと思っていたのですが」
「んー、そうね。隠していた事には怒っているし、八雲君に酷い事をした事を許すつもりはないけど、それで武治さんをどうこうしようとは思っていないわ。それは八雲君自身が決める事でしょうから、私は話を聞いて八雲君の意志を尊重するつもりよ」
隠していた桐条への憤りは確かにある。だが、英恵にとっては彼との再会の喜びの方が大きかった。
百鬼一家の事故がポートアイランドインパクトによるものだと知ったときは、湊が影時間の戦いに巻き込まれている事も含めて、何故愚かな研究に手を出したのかと先代と桐条や研究者たちを激しく言及したかった。
けれど、湊は既に目的を持って自分の意志で歩いている。どれだけ辛く困難な道だろうと、一度こうと決めれば彼はアイギスやチドリが止めようとしても止まらない。
英恵はそれをしっかりと理解して止めることは諦めているので、心配は常にしているが、復讐も含めていっそ好きにやらせてしまおうと考えていた。
母のその言葉を聞いた美鶴は紅茶のカップに視線を落としてから、意を決したように以前チドリから聞いた湊の生きる目的の一つについて口にする。
「しかし、吉野が言っていましたが八雲は最終的にお父様を殺そうと考えています。彼がペルソナを使役して本気で殺しにかかれば太刀打ちできる者などいませんから、お父様が殺される事になります。お母様はそれでも八雲の意志を尊重するおつもりですか?」
美鶴自身、これが卑怯な質問だとは分かっている。愛する息子が愛する夫を殺そうというのだから、父を失うことになる美鶴よりも英恵の方が辛いに決まっているのだ。
ただ、それでも湊の意志が固いことは事実で、彼は既に桐条を殺せるだけの力を身に付けている。
自分、両親、チドリたち被験者、巻き込まれた人々、誰のための復讐かは分からない。全てかもしれないし別の動機があるのかもしれないが、ムーンライトブリッジで彼の憎悪と殺意の混ざった瞳を見た美鶴は、何も知らない自分では彼を止めらないことは分かっていた。
親しかったとはいえ影時間や桐条の研究と関わりの薄い英恵もそれは一緒だろうが、自分よりはまだ可能性があるかもしれない。そう考えて美鶴は母に「そのときは止める」と言って欲しかった。
けれど、英恵は少し悲しげな表情をして、美鶴の願っていた言葉とは別の言葉で返して来た。
「……武治さんはそれを受け入れるわ。でも、多分、あの子は武治さんを殺さない。殺したいほど憎んでいても、赦さず殺さず呪い続けることの方が武治さんへの罰になるから、死に場所を求めている武治さんにあの子はきっと生き地獄を与えると思う」
「そんな、それでは誰も救われないではないですか……。復讐に生きる八雲も、贖罪のために生きるお父様も、どちらも辛すぎます」
「そうね。でも、武治さんは幸せを求めるには罪を犯し過ぎているし、八雲君は日常を失ってから復讐を誓い歪なまま今日まできてしまった。もう簡単には変われないのよ」
桐条も湊も共に過去に囚われている。復讐も、影時間を消すことも、彼らにとってはその先を生きるためではなく過去の清算でしかない。
もっと別の未来もあったかもしれないが、既に他の生き方を選べないところまで来てしまった。
なら、“無関係”である美鶴たちは心の準備をしておくしかない。殺すにしろ生き地獄へ突き落すにしろ、湊はまたいずれ桐条の前へ姿を現すはずだから。
二人の間にしばらく沈黙が降り、美鶴が辛そうな顔をしていると、フゥとゆっくり息を吐いてから英恵が再び口を開いた。
「暗い話になってしまったから、少し別の話をしましょうか。そういえば、去年の夏前に七歌さんが沖縄で八雲君に会ったらしいの。昔の記憶が飛んでるみたいですってメールに書いていたけど、まぁ、会いたくなかったから誤魔化したみたいね」
「そうなのですか? あ、修学旅行で思い出しましたが、このストラップは八雲に貰ったんです。明彦たちへのお土産のついでのようですが、お菓子の箱の上に一つだけ置いて渡してくれたんです」
言いながら美鶴は携帯につけた赤い琉球ガラスのストラップを英恵に見せる。
それほど高い物ではないが色が綺麗で美鶴に合っている。会話は未だにないし視線も合わせないが、彼が中学から月光館学園に復帰して初めての交流と言えた。
機能性を重視するなど遊びを知らない美鶴も、大切な贈り物は常に傍に置いておきたかったのか初めて携帯にストラップを付け、たまに眺めては優しい顔をしている。
復讐のために生きているのも彼の一面だが、人助けやこうやって気を遣ってくれる優しさも彼の一面である。
だからこそ、美鶴たちにすれば複雑なのだが、子どもたちの小さな交流に英恵は目を細めて笑った。
「やっぱり優しい子ね。機会があったら会いに行こうかしら」
「それでしたら、五月の終わり頃に彼が試合に出ると聞いていますから、そのときにお忍びで来られてどうでしょう」
「あら、籠球皇子がまた復活するの?」
バスケットボールは助っ人の時だけと聞いていたので、英恵はまた湊の活躍が見られるのかと興味津々で尋ねる。
湊はテレビ出演も雑誌のインタビューもほとんど受けていなかった。しかし、一度だけ出た年末特番は、テレビ離れが進んでいる昨今の業界としては異例の高視聴率を叩き出した。
それが再びブームに火を点け、彼の人気を延長し、ブームが治まりつつある今でも彼の復活を待ち望む声は多かった。
高校からはさらに試合の内容が高度になるので、そこで活躍すれば本格的にプロや芸能事務所からのスカウトが来るに違いない。
母親としても息子が世間の人気者になるのは誇らしいので、今度の試合についての情報を待っていれば、美鶴は少々複雑な表情を返して来た。
「いえ、それが……今度はテニスみたいで」
「……まぁ」
籠球皇子が別のスポーツに進出する。それは構わないが、またこれは大きな騒ぎになりそうだと、簡単に活躍したスポーツを捨てる湊の天邪鬼さには英恵も苦笑するしかなかった。
――稲羽市中央商店街
染め終えた湊たちの作品を乾かすために干してから、女性は良い出来ですと微笑んで、湊たちを作業場から店の方へ案内しながら作品の受け渡しについて説明してきた。
「では、明日までに乾いているので、またお帰りの際にお立ち寄りください。本日はどうもお疲れさまでした」
「お世話になりました。また明日のお昼頃に伺わせて頂きます」
『ありがとうございました』
佐久間が外向けの仮面で丁寧に応対し、湊たちも女性に礼を言って店を出ようとする。
湊は以前染物をしたことがあったが、留学生のターニャだけでなく他のメンバーも初めてだった事で、色々と楽しかったと満足気な表情だ。
しかし、扉を開けようとしたとき、店番をしていた少年が声をかけてきた。
「外に出るとき気を付けた方がいいっすよ。なんかウチの前に人が集まってるんで。さっき、なに見てやがんだって怒鳴ったんスけど、皇子がどーたらって訳分かんねぇこと言って帰りやしねぇ」
「……すまない、それは俺のことだ。さっき食事したときにでも近所の人間に見られてたのかもな」
外は明るく日が差しており既に晴れている。雨だったら人も集まらなかっただろうが、先ほどの中華料理屋に来ていた人間が話でも広めたのか、確かに店の前には大勢の人が集まっている気配があった。
そのまま出れば揉みくちゃにされそうで、そうなると女性陣が危険になる。
なので、湊は他の者らに自分が出て少し経ってから出た方がいいと告げて、扉を開けて店の外に出た瞬間に悲鳴があがった。
「キャー! 本物、本物の皇子だ!!」
「テレビで見るよりさらに綺麗! すごい、女性より美人って羨ましい!」
「皇子、握手してくださーい!」
大勢の人に囲まれ湊は心の中で面倒だと舌打ちをする。テレビの撮影ならばスタッフが壁になってくれるが、生憎と湊はマネージャーすらいない一般人だ。
登下校時は教師や警備が守ってくれもしたけれど、今回同行しているのは女性の佐久間だけである。
いくら教師と言っても女性を盾にする事は出来ない。それなら身体を鍛えている自分一人でいた方がマシだと、人を避けながら少し移動する事で集まった人間を店の前からどかせた。
すると、途中で人を掻き分けながら一人の中年男性がやってきて、スーツ姿の相手は湊に名刺を渡しながら話しかけてきた。
「どうも、私、町の助役をしている者です。本日はテレビの撮影ですか?」
「いえ、総合芸術部という学校の部活で染物体験をしにきたんです」
助役というのは市長や町長など組織のトップのサポートをする人間で、町の助役ということは彼は町長のサポートをしている人間という事になる。
助役は要職の一つなので、その辺をプラプラと歩いて暇をしているような人間ではないはずだが、わざわざ来たという事は町の代表として話題の皇子に会いに来たのだろう。
そういう事なら、他の者の相手をせず彼と話していればいいので楽が出来る。湊は落ち着いた好青年の仮面を被って助役の質問に返した。
「なるほど、確かにテレビでも芸術分野にも精通しているとやっていましたな。そうそう、今日の宿はお決まりですか?」
「はい、老舗の温泉宿を。今から軽く散策しつつ向かうつもりです」
「この町で老舗となると天城屋さんですな。あそこの温泉はじんわりと身体に沁みてくるいい湯ですぞ」
助役のお墨付きとは中々期待できそうだ。湊は温泉がそれなりに好きで、平気で一時間くらい浸かっていられるため、ここで溜まったストレスは温泉に癒して貰う事に決める。
心の中を温泉でいっぱいにしながら、湊が興味のない相手の話を聞いて返事をしていれば、人を掻き分けながらまたまた一人の男性がやってきた。
「ほら、警察だ。ちょっと通せ。連休中だってのに一体何の騒ぎだ?」
警察だと言ってやってきたのは、袖を捲くったグレーのシャツを着た短髪の男で、相手は騒ぎの中心である湊の下に辿り着くと助役を見つけて事情を尋ねた。
「あー、確か町の助役の。こりゃなんの集まりですか?」
「籠球皇子が来ていると聞いてね。今回は部活で染物をしにきたんだそうだ」
助役の話を聞いて警官の男は湊を見てきた。身長差の関係で相手が見上げる形になるが、長髪や眼帯など湊は特徴的ななりをしているため、そういう事かと相手も納得したようだった。
そして、集まっている野次馬と同じ町の住人として、せっかくの観光の邪魔をしてすまないと申し訳なさそうに笑う。
「確かにテレビで見た顔だな。悪いな、田舎で娯楽が少ないもんで、テレビの撮影だとか芸能人が来ただとかって噂はすぐに広まっちまうんだ」
「一応、ただの学生で一般人なんですが。まぁ、自分は慣れているのでいいですが、この人の多さだと連れが危ないので、少しだけ移動して貰えると助かります」
店の前からは少しずらすことが出来たが、まだ人が多いのでチドリたちは完全には出られずにいた。
そちらに男の視線を向けることで、彼女たちの安全確保への協力を求めれば、男は顎の無精髭を触りながら困り顔を浮かべた。
「ん、連れって女子ばっかりか。随分と羨ましい境遇だな。交通整理に応援を呼んでもいいが、面倒ならタクシーを呼んで移動した方がいいかもしれんぞ。近くにいるやつが応援に来るにも五分か十分はかかるしな」
観光にやってきた人間が危ない目に遭えば大問題なので、相手が芸能人ではなく一般の学生ということもあり、男は交通整理は構わないと告げる。
ただ、応援が駆けつけるのにも時間は必要で、どうせ待つ時間が一緒ならタクシーを呼んで移動してしまった方が早いだろうとアドバイスをくれた。
宿泊先はここらでは有名みたいなので、タクシーの運転手にいえば連れて行ってくれるに違いない。
この様子では町の散策をしながら移動するのも大変なので、距離は近いが佐久間に事情を話してタクシーを呼ばせようとしたとき、
「あ? おい、そこのお前ちょっと待て!」
野次馬の方を見ていた警察の男が怒鳴って野次馬の中に突っ込んだ。
見るとTシャツにダボダボのスウェットというだらしない格好の若い男が逃げている。相手の方が人混みを抜けるのが早く、人が多くて追えない警察の男は相手が逃げてしまうので道を開けろと叫ぶ。
「お前らどけ、追えねえだろうが! あ、クソ、仲間までいやがったか!」
先に人混みを抜けた若い男が行く先には、50ccの原付バイクに跨った若い男がいた。
50ccの原付バイクは二人乗りが許可されていないが、若い男はヘルメットも付けずに窮屈そうにしながらも後ろに乗り、そのままアクセルを吹かして走り出す。
警察を前にいい度胸だと言いたいところだが、追えない警察など何も恐くない。去っていく若い男らは挑発するようにクラクションを二回鳴らした。
そんな舐めくさった相手の態度に警察の男が鋭い目付きになれば、
「――――追います」
後ろから声が聞こえたと思った次の瞬間、湊が人の上を飛び越えて近くの電信柱まで移動し、三角飛びのように電信柱も蹴ってさらに跳躍すれば、完全に人混みを抜けて着地した。
湊の見せた軽業に集まっていた人間は歓声と拍手を送るが、相手が原付バイクで逃げている以上歓声に応えている場合ではない。
着地してすぐに駆け出し、湊は逃げていくバイクを追って行った。
ようやく人混みを抜けた警察の男はそれを見て、
「おいおい、二人乗りの50ccとはいえ原チャ相手に走って追いつくのは無茶だろ」
道は下り坂一直線。重量的に本来の性能を発揮出来ていないにしろ、生身の人間が追い付ける速度ではない。
人混みを抜けた男はバイクと湊を追って走ってゆくが、いくらなんでも無理だろうと半ば諦めムードになる。
しかし、男のそんな考えをよそに、湊は徐々に加速して差を縮めていく。バイクは原付の制限速度以上に出しているというのに、短距離にしても信じられない光景だった。
ただ、このまま進むと道は大通りと合流してしまう。そこは休日で交通量も多いので、必死に逃げているバイクは真っ直ぐ突っ込むに違いない。
車が来ていなければいいが、タイミング悪く来てしまえば大惨事になる。後ろに乗っている男はヘルメットを付けていないので余計に危なかった。
そして、あと少しで大通りに合流するため、男が危険を知らせるようと叫びかけたとき、湊は今までの比ではない加速を見せ、バイクに追い付き並走しながらキーを引っこ抜いた。
「……良い足だな。俺の部下に欲しいくらいだ」
男が呑気に言っている間に、エンジンが停止して急激に速度を落としたバイクは、バランスを取るためにブレーキをかける。
それにより大通りの数メートル手前で止まったが、丁度のタイミングで大型トラックが前を通過して行き、バイクに乗っていた二人は青い顔をしていた。
あのまま自分たちが突っ込んでいたら死んでいたと理解して腰が抜けたのか、若い男たちはバイクから降りて座りこんでいる。
警察の男もそこまで追い付くと、湊がバイクのキーを投げて寄越してきたので受け取り、携帯で応援を呼んでから座っている二人に話しかけた。
「窃盗、ノーヘル、二人乗り、速度オーバー諸々の現行犯だ。お前ら二人とも署に連行する。そういや最近ここらでバイクでのひったくりが頻発してたな。そっちの関連も含めてしっかりと聞くから覚悟しとけよ」
言ってから若い男のズボンのポケットを調べ、先ほどの人混みで盗んだ財布を押収する。
警察の男は湊たちと話していながらも、相手がスリを働いていることには気付いていたのだ。
それは湊も同じですぐに追った訳だが、待っているとパトカーが二台も到着したので、別々に話を聞きつつ財布を持ち主に返し、署まで連行して貰ったところで残っていた男が湊に敬礼してきた。
「窃盗犯の逮捕協力に感謝します。ただまぁ、あんま無茶はするな。一歩間違えたらお前も轢かれてたかもしれん。ああいうときはバイクのナンバーや犯人の特徴を覚えるだけでいいぞ」
「ええ、気を付けます」
協力は助かるがそれで怪我をしては意味がない。現職の警察としてだけでなく、一人の大人として忠告しておけば、湊も素直に気を付けると返事をした。
人混みから脱出し、窃盗犯の逮捕も無事に終えた事で、男は疲れたように肩を回すと「腹減ったー」と呟き商店街の方へと歩き出した。
チドリたちを置いて来てしまったので湊もそちらに戻るが、並んで歩く湊に男は雑談がてら愚痴ってくる。
「さて、ようやく飯にありつけるな。飯を食いに来たってのに、人が集まってるわ、そこを狙ったスリが出るわで散々だ」
「貴方の遅い昼食が犠牲になるくらいで町の治安がよくなったなら良かったじゃないですか。安い投資ですよ」
「馬鹿野郎、こっちは市民の平和のために休日を犠牲にしてんだ。世間は連休だってのに幼い娘と妻をどこにも連れて行けてねぇんだぞ。飯くらいちゃんと食わせたって罰はあたらんだろうが」
警察に休みはない。それは世間が休みの日でも一部の署員らが出勤し、人が常にいる状態にしているから可能となっている。
つまり、今日も仕事で出ているこの男は、世間が休日のときに出勤する役目を負ってしまった人物という訳だ。
勿論、ここで出勤しているので、時期をずらして彼も連休を取得できるようになっているが、しょうがないとはいえ家族にも犠牲を強いている事が今日の散々な目に遭った原因ではと湊は指摘する。
「それは、家族サービスを蔑ろにした罰が当たったんじゃないですか」
「ぐっ……い、いや、ゴールデンウィークが終われば俺も連休が取れるんだ。そしたら、ちゃんと旅行にだって連れて行くさ」
「ご機嫌取りにケーキくらい買って帰った方が良いですよ。旅行とは別に、連休中に父親と遊びたいって思う子もいますから」
「ん、そうなのか? まぁ、今日は早番で帰れるからケーキくらい買って行けるし。試しに買って帰ってみるか」
小学校にも通わず、毎日が夏休みといった感じだった幼少期を過ごした湊だったが、彼が裏の仕事ばかりに行っていると、チドリが遊んで欲しそうにすることが度々あった。
毎日が休みなので、世間が休日だろうと平日だろうと関係ないと湊は考えていたのだが、世間が平日のときばかり仕事に休みを入れていると、彼女はたまには日曜日に出掛けたいと言った。
出掛ける場所によっては曜日ごとのイベントがあったりするが、チドリが日曜日に出掛けたいと言ったのはイベントとは関係なく、ただ休みの日に休みをとって遊びたかったのだとか。
どうしてそう思ったのかは分からないが、とりあえずそう思う子もいると湊はそこで知ったので、昔の自分と同じように世間と休みが合わない男へ、ちょっとしたアドバイスとしてご機嫌取りしておけと伝え、相手も分かったと頷いて返したところで湊が昼に入った中華料理屋の前についた。
「まぁ、なんだ。旅行中だってのにそっちも災難だったな。天城屋まではさっきのとこのバス停から行けるぞ。今日の疲れを癒すためにゆっくり温泉を楽しんでくるといい。じゃあな」
「ええ、さようなら」
男は湊と別れると店に入って行き、湊も先ほどよりも減った人混みを抜けてチドリたちと合流すれば、なんで旅行先でまで人助けしてるんだと呆れられながら、バスに乗って宿泊先である旅館へと向かったのだった。