【完結】PERSONA3 Re;venger   作:清良 要

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第百十二話 母親たちの苦悩

2007年1月6日(土)

午後――高級別荘地・桐条別宅

 

 湊が英恵のもとを訪れてから、年末年始を間に挿み約十日が経った。

 体調を崩しているといって宗家に戻る予定をキャンセルしたことで、夫の桐条や娘の美鶴は何度も心配して連絡してきた。

 桐条は年末年始の社交界などに出席しなければならないが、美鶴は絶対に出なければいけない訳ではないので、自分だけでも英恵のもとへ向かおうかとも言われた。

 けれど、体調を崩しているというのは嘘であり、夫にも娘にも会わせることの出来ない青年を匿っていることで、英恵はその申し出を断り多忙な父の傍にいてやって欲しいと告げておいた。

 父親のことが大好きな美鶴は、母のことを心配しながらも、確かにあまりに多忙そうな父を見て自分に手伝える事があるのならと思ったらしく、年末年始は自分に出来る範囲で桐条を手伝い傍で過ごしていたようである。

 一方、ずっと屋敷の中にいた英恵と湊は、英恵の最も信頼している従者である新川が運んできた紅茶とお菓子で現在はオヤツの時間を楽しんでいた。

 隻眼・隻腕となったにもかかわらず、湊は一切の不便さを感じさせないような動きでクッキーを手に取り頬張る。

 見た目こそ大人びた麗人であるが、記憶と中身が幼くなっていることで、食べる仕草も表情も久しく見ていなかった子どもらしいものとなり、紅茶を呑みながら眺めていた英恵は優しい表情で苦笑した。

 

「フフッ、沢山あるから好きなだけ食べていいわよ」

「でも、お母さんは夜ごはんが食べれなくなるから、オヤツは出された分だけって言ってたよ?」

「八雲君は晩御飯も沢山食べているからいいの。今日は何か食べたい物はある?」

「おばさんと同じものがいい!」

 

 何でも好きな物を頼んでもらって構わないというのに、幼いながら気を遣っているのか、湊は満面の笑みで英恵と同じ物が食べたいと答えた。

 けれど、健康を考えたヘルシーな料理を普段は作って貰っている英恵と同じ物では、育ち盛りで数人前を一人で食べきる湊には物足りないだろう。

 よって、湊の方には肉料理も付けて貰う事に決めながら、英恵は湊に「わかったわ」と笑みで返す。

 湊が来てからというもの、英恵は基本的に湊から目を離さずに過ごし。屋敷の外に出す事は出来ないがなるべく相手のしたいようにさせていた。

 ここには新川をはじめとした使用人らが何人もいるため、風呂やトイレにいくことを考えれば湊の存在を隠しておく事は出来ない。

 また、見た目は女性以上に美人であっても、今の湊は身長一八〇センチを超えた男だ。

 実年齢はともかくとして、十代後半にしか見えない大人びた顔付きの男を部屋に連れ込んでいると思われれば、そのまま悪い噂に繋がりかねないので、英恵は使用人たちに心を病んでしまった友人の子どもを預かることになったと告げておいた。

 相手はそれなりの家柄の子息なので、跡継ぎが心を病んでしまったと知られれば外聞も悪くなる。

 そのため、人目を気にする必要のない都市から離れたこの屋敷で静養させて欲しいと頼まれたので、口外は厳禁であり、例え桐条や美鶴など桐条家やそれに関わる者に訊かれても、何も話してはいけないと厳命した。

 普段はあまり主従の関係を持ちださない英恵が強く命じてきただけあって、長く仕えてきた屋敷の者たちは姿勢を正して了承してくれた。

 よって、突然の来訪者が来ようと、屋敷に招き入れるまでの間に湊をどこかの部屋に匿っておく事は出来るようになったが、英恵本人としては湊の状態が今後どのようになるのか不明なだけに、出来る限り傍から離れようとしていなかった。

 

(いまの状態は神降ろしの反動と見るべきかしら。人格のフォーマットが中途半端に止まった事で、こんな風に記憶を失い。精神的に幼くなったのかもしれない)

 

 最初は影時間の適性を失ったことで、適性を得る以前の状態まで記憶が消えてしまったのだと考えた。

 けれど、湊を部屋で寝かしつけてから簡易補整機である指輪をつけて影時間を迎えたところ、相手はすやすやと穏やかな表情で寝ていたので、影時間の適性はまだ持ったままだと判明した。

 桜から追加情報として湊がペルソナ能力を失ってしまったという話しも聞いたので、影時間の適性も一緒に失ってくれればもう戦いに巻き込まれずに済んだのにと残念に思う。

 守るために力を求めてずっと戦い続けてきた。本当は誰も傷付けず、殺したくもなかったはずなのに、彼を取り巻く環境がそれを許さなかった。

 ならば、辛い記憶を全て忘れている今の状態は、己が平和な世界で生きる事を罪だと思っている青年を唯一平和な世界にいさせる方法なのかもしれない。

 彼はずっと人々のためにシャドウと戦ってきたのだ。あとは影時間を消す研究をしている桐条グループの者らに任せて、このまま戦いから離れて休ませてやってもいいだろう。

 

(アイギスを屋久島の研究所へ送ったことで、八雲君が日本に戻ってきた事を武治さんは知っている。でも、学校にいつまで経っても通って来なければ、右眼と右腕を失ったこともあって何かの事情を抱えていることに気付くかもしれない)

 

 桐条や美鶴もこの屋敷を訪れることがあり、逆に英恵が屋敷を離れて宗家に行かねばならないこともある。

 そのため仮に戦いから離れたところで、出自や桐条家との関わりにおいて微妙な立場にいる湊を、桐条家の者にもばれずにここで匿い続けることは難しい。

 いまの湊は精神と記憶は小学一年生ほどになっている。両親がいないことを不思議に思いつつも、頻繁に会っていたもう一人の母親である英恵がいるからこそ大人しくしているが、英恵から引き離してしまった場合、精神も含めて湊がどのようになるのか予想もつかない。

 無邪気な笑みを浮かべてクッキーを頬張っているが、ここにいるのは最強のペルソナ使いであり、世界から狙われても生き残った真正の名切りの鬼なのだ。

 扱いを誤れば、暴走した鬼の力が猛威を振るい、この世に地獄が具現する可能性も十分にあり得る。

 だからこそ、湊だけでなく世界のためにも、例え夫が相手だろうが大切な息子は守ってみせる。そう決意を新たにした英恵が紅茶のカップに手を伸ばしたとき、控えめに扉をノックする音が響いた。

 やってきた人物と用件は想像がついているが、相手が話すのを待っていると、二拍ほど置いて新川が扉越しに用件を口にしてきた。

 

《英恵様、鵜飼桜様がお見えになられました》

「ありがとう。そのままこの部屋に御通しして。それから、桜さんの分も含めた紅茶とお茶菓子のおかわりをお願い」

《かしこまりました》

 

 返事をすると扉の前から足音が遠ざかって行った。

 湊にはその気配が分かっているらしく、気配の動きを追うように壁の向こうへ時折視線を向けているが、ただの子どもに戻っている湊には不要な力だ。

 よって、それを止めさせるためだと気付かれないよう注意しながら、英恵は少し椅子を湊の方へ寄せると相手の頭を優しく撫でた。

 撫でられている湊は何故英恵が撫でてきたのかは分からないようだが、その行為自体は嬉しい様で照れたような笑みを浮かべている。

 英恵も湊の笑顔に慈愛の籠った笑みで返すが、この後の事を考えると胸中には不安が広がっていた。

 現在の保護者である桜に湊の現状を何も知らせない訳にはいかない。故に、湊を保護している旨を伝えた上で、正月三が日を過ぎてから一度屋敷に来て欲しいと住所を教えた。

 再び行方を晦ました青年が英恵の許で保護されているとの情報に桜も戸惑ったようだが、事情があって今の湊を屋敷から出す事が出来ないと伝えれば、相手は素直に信じて来訪可能な日を返してきたこともあり、お互いの予定のあう日を決めるのは容易だった。

 ただし、湊の状態が状態だけに、屋敷に入るのは桜だけ、チドリのことは連れて来るのも遠慮して欲しいと言ったときには、あちら側で色々と悶着があったようである。

 影時間関係や裏の仕事関係については英恵もよく知らないが、自分の大切な家族に何かあったと聞けば詳細を知りたがるのは当然だ。

 それを、詳しく話す前から特定の人物にしか話さないと理不尽な事を言われれば、相手を想っている気持ちの分だけ比例して憤りを感じるというものである。

 最終的に、自分しか会わせられない理由があるのかと桜に尋ねられ、今の湊は両親と暮らしていた当時の記憶と性格まで退行している事を英恵は伝えた。

 湊の退行の理由は分からない。けれど、記憶を失っていようが、湊の持つ適性値が残ったままならば、ちょっとした事が切っ掛けとなって能力の暴走が起きる可能性がある。

 関わりが深ければ深い分だけ影響を及ぼし易くなるのだから、影時間に関わる者であり、湊の戦う理由の根幹に位置する少女が最も警戒すべき対象となるのも当然だ。

 そうして、今回は我慢を強いることになったチドリに申し訳ないと思いつつも、湊のことで一杯一杯だった英恵は事情を説明したあとの宥める仕事を桜に丸投げして、あらかじめ決めておいた日付までは連絡を控えて今日を迎えた。

 

《英恵様、お客様をお連れしました》

「どうぞ」

 

 ノックの音と共に新川が入室の許可を求めてきたので、英恵は湊の手を握りながら答える。

 チドリほどではないが桜も湊の家族として長い時間を過ごしてきた相手だ。出会った途端に湊にどのような変化が起こるか分からないので、手を握って落ち付かせておくと、ゆっくり扉が開き黄色の着物にストールを羽織った姿の桜が現れた。

 本来ならば家人としてお客は立ち上がって出迎えるのが礼儀である。

 だが、そうするには湊と手を離さなければならないので、申し訳ないと思いつつ座ったまま対応することにした。

 

「座ったままですみません。どうぞこちらにお越しください」

「はい、失礼します」

 

 部屋に入ってきた桜は、不思議そうな顔できょとんと自分を見つめる湊に僅かに驚いている。

 いくら話しを聞いていても、やはり、自分のことを忘れて他人に対する視線を家族から送られては冷静でいる方が難しいのだろう。

 やや強張った複雑な表情のまま湊の向かいに桜が着席すると、女中が二人ほど入ってきて紅茶の新しいポットとお茶菓子を並べてゆく。

 桜の前にも持ってきたカップを置いて最初の一杯を注いでゆき、「失礼します」と言って女中らは静かに去って行った。

 さぁ、これで話しをする場は整った。だが、どのように話し始めたものかと考えたとき、湊が新しく置かれたお菓子の一つに視線を向けていたので、英恵はそれを皿に取り分けて湊の前においてやった。

 

「八雲君、新しいお菓子も食べていいから、おばさんたちが話している間はお行儀よくしていてね」

「うん!」

 

 元気に返事をするなり、湊は左手でフォークを持って器用にこぼさず食べ始める。

 ときどきフォークを置いてカップを手に取り紅茶を飲んでいるが、その動きにぎこちなさはないため、見つめていた桜は湊の両利きは昔からなのだなと感じているようである。

 そして、とりあえず桜と接触しても湊に変化がなかったことで、英恵は改めて相手に挨拶をすることにした。

 

「今日は来て頂いてありがとうございます。私が桐条英恵です。この子の母親の同級生で、その縁でこの子と親しくさせていただいておりました」

「お招きいただきありがとうございます。鵜飼桜です。本日はみーくんの事をお話してくださるということでしたが、確かに何も覚えていないようですね」

 

 隻眼・隻腕となり、見た目も随分と大人びたものに変わってしまっていたが、お菓子を口に運ぶ湊の顔には幼さの残る笑みが浮かんでいる。

 触れれば切れるような鋭さも、世界から隔絶されたような孤独さも、今の湊には一切見られなかった。

 昔の姿を知っている英恵にすれば、この湊こそが彼本来の性格であり人格であるという認識が強い。

 エルゴ研で目覚めた頃から既に性格の変異は始まっていたが、一度感情の針が完全に振りきれてしまったエルゴ研脱走の日を境に、湊は明るく笑う事がなくなってしまったので、そこから付き合いの始まった桜は戸惑いを隠せないようだ。

 

「いまのこの子はおおよそ六歳になったばかりの状態です。事故のことも、その後に過ごしてきた時間のことも何も覚えていません」

「……そうですか。彼は力を失ったと話していたんですが、適性は残っていましたか?」

「はい。私も簡易補整機の指輪をつけて確認しましたが適性は残っています。といっても、本人は退行していますから、その時間にはすっかり寝てしまっているのですが」

 

 ここで話していれば湊にも聞こえてしまうので、話すときには相手の記憶を刺激するような単語を極力避けて二人は会話する。

 桜はここに来るまでに訊きたい話題を考えていたのか、能力は失っても適性が残っていると聞いて考え込んでいるが、その姿を見て英恵は強い人だと思っていた。

 お互いに湊の保護者の立場で話している訳だが、英恵と桜では年齢が一回り以上も離れている。

 さらに、桜には出産経験もなく、それでいて突然現れた訳ありの子ども二人を引き取って育てているのだから、この人が湊の保護者になってくれて良かったと思わずにはいられない。

 自分が同じように美鶴や湊から忘れられてしまえばショックで倒れるだろう。

 しかし、桜はショックを受けながらも、湊の状態や原因について理解しようと懸命に頭を働かせている。

 辛い状況に追い込まれれば逃げ出してしまう自分は、彼女のこういった強さを見習わなければならないと内心で自嘲的な笑みを小さく漏らし、紅茶に口を付けながら話しを続ける事にした。

 

「現在、桐条グループでは“有里湊”の捜索規模を縮小させて行っています。屋久島でこの子に会ったのは武治さんだけのようで、あの人もこの子を巻き込んだ責任を感じていますから、下手に適性や力を持っているとグループの人間には伝えないようにしているみたいです」

「ですが、グループとしてはみーくんとちーちゃんをマークしているんですよね? 何度か監視するような動きをする人を見かけましたし。それらはどういった理由で行われているんですか?」

 

 今までに何度か出先まで尾行されることがあった。相手は気付かれていないと思っているようだが、護衛も兼ねた運転手として同行していた渡瀬や、探知能力を持っているチドリにはしっかりばれていた。

 下手に撒いてしまえば尾行に気付いたことがばれるので、撒くときにはコンビニやドラッグストアなど小さめの駐車場の店に立ち寄ることで、ある程度の自然さを装いながら相手がついてこれない状況を作り出した。

 最初の一件や二件ならば同じ店に入ることもあり得るが、流石にそれが続けば小さな駐車場だけあって、一般人でも何度も見た車種やナンバーを無意識に記憶し違和感を覚え始める。

 その違和感の正体に気付かれれば、相手は極道だけあって何をされるか分からないため、尾行していた人間も途中で断念して日を改めるしかなくなるのだ。

 これらは全て渡瀬が自然と行ってくれたことだが、実害が出ていないにしろ監視されるのは気分が悪い。

 それも子どもたちを狙っているとなれば、保護者として尚の事黙ってはいられないとして、桜は桐条グループが二人を監視している理由を知りたがった。

 

「二人を監視しているのは適性値の問題ですね。月光館学園が桐条グループの物だという事はご存知でしょうか?」

 

 その言葉に桜は首を縦に振って答える。それを確認して英恵は言葉を続けた。

 

「グループとしてはこの子や美鶴が力に目覚めたことで、同年代の子どもが目覚めやすいと考えています。勿論、それは可能性や確率の話しですから、データとしては大人の物も採取していますが、グループでは傘下の企業や団体の健康診断を利用して個人の適性値も調べているのです」

 

 説明を受けた桜は成程と納得した表情を浮かべる。

 子どもたちの保護者が聞けば怒るだろうが、桐条グループもシャドウの被害拡大を抑えるために戦力を欲している。

 適性値の測定自体は全く健康に影響があるものではないし、勧誘も最終的には個人の判断に任せるので拒否が可能だ。

 桐条武治も子どもたちを巻き込む事は心苦しく思っているが、現状で力に目覚めているのは子どもだけであるため、新たな適性者を見つけて少しでも個々の負担を減らせるよう、グループの人間と月光館学園の子どもたちに黙って測定する事を許可していた。

 

「グループのデータベースに測定結果のリストが存在するのですが、力に目覚め得るほどの適性を持っているのは、二人を除けば美鶴の所属する“特別課外活動部”に男の子が二人いるだけです。ですが、男の子たちは既に所属していますから、グループとしては二人を勧誘したくてしかたがないんだと思います」

「検査は適性の強弱も分かるようですが、みーくんとちーちゃん以外の子はどれくらいなんですか?」

 

 桐条は湊の危険性を考慮して、研究員らに正体がエルゴ研を壊滅させたエヴィデンスだと明かしていない。

 研究員の一部には少数だが旧エルゴ研の生き残りも含まれているため、その正体が解れば絶対に近付こうとは思わないだろう。

 しかし、正体に気付いていないせいで、貴重な高い適性を持った対象として接触したがっているのだから困りものだ。

 桜は栗原から湊とチドリの強さを聞いてはいるが、他のペルソナ使いや一般的な強さの数値に対する理解は低い。

 よって、上が接触を許可せず監視に留めると命令していながら、研究員らが密かに接触する機会を窺うほど二人が特別なのかを知るべく、桜はまっすぐ見つめて英恵の答えを待った。

 

「そうですね。力に覚醒する数値が“1000sp”なのですが、確か、男の子たちは二千くらいで、美鶴が四千だったかと」

「それは強いんですか?」

「男の子たちは目覚めてまもない感じみたいです。美鶴もようやく戦闘に慣れ始めたくらいでしょうか。同じ頃の検査で測ったチドリさんが七五〇〇ですから、まだまだ弱いんだとは思いますけど」

 

 特別課外活動部のメンバーは、最初はペルソナの扱いに慣れるために桐条のラボでシャドウの調整個体との戦闘訓練を行っていた。

 それが終わると今度は街中のイレギュラーシャドウを狩る様になり、徐々にだが実力を伸ばしてきている。

 しかし、シャドウの巣であるタルタロスには数えるほどしか上っていない。

 というのも、現状では探知型の能力を持っているのが美鶴だけで、彼女のその力は補助用の機械を使ってようやく使い物になるレベルなのだ。

 敵がいて危険だというのに、毎日構造が変化するため安全に探索するには補助は必須。だが、機械を持って歩きまわるなど出来ないので、補助をするなら美鶴はエントランスに残るしかない。

 流石にペルソナの扱いに慣れてきたばかりで、ペルソナ使いとしての戦い方までは習得出来ていない者らを二人で探索に行かせる訳にはいかないのだ。

 よって、一人でタルタロスを訪れ戦闘を行えるチドリにはまだまだ及ばないと、英恵は苦笑混じりに説明した。

 

「では、そちらで把握してるみーくんの最新データはどうなっていますか?」

 

 英恵の話しを聞いた桜は、比較対象を得たことで適性値と実際のペルソナ使いとしての強さの関係を想像しやすくなったのか、今度は桐条グループの掴んでいる情報を尋ねてきた。

 グループの持つ最強の駒は適性値四千の美鶴なのだ。それを上回るチドリよりも、さらに力を持っていてマークが厳しかった湊の力を相手はどれほどだと思っているのかが知りたい。

 接触は受けていないが、それでも子どもを付け回されている事実は存在するので、保護者ならばその原因である物をちゃんと把握しておきたいのも当然だろう。

 相手の意志をしっかりと理解していた英恵は、本来は重要機密であるそのデータをまったく隠すつもりもなく告げた。

 

「留学していたので一年生の三学期の健康診断が最新データになりますが、それによりますと三万千となっています。ただ、本人も普段は力を抑えていると言っていたので、実数値はもっと高いかと」

「確かにそうですね。栗原さんという元研究員の方がいらっしゃるのですが、その方の持っている測定器では一年生の時点で九万八千を記録していました。その後に血の力に目覚めていったようですから、既に十万を超えている事までは確定しています」

「なるほど、だから新しい測定器が開発されたんですね」

 

 グループとしては一年生の頃のデータで湊の数値は止まっていたが、仙道と地下駐車場で戦った際に名切りの力が一部目覚めたことで、適性が一万以上上昇したことがあった。

 間に夏休みを挟んでいたものの、二学期の健康診断のときに計測した数値を見た研究員らは、僅か数ヶ月でどうやってこれほど上昇するのかと驚いた。

 その後も湊は抑えたままでありながら、美鶴やチドリよりも遥かに早いペースでの成長が確認されていたので、いつか測定上限に達するかもしれないと思った研究員らは新型の開発を行ったという訳だ。

 

「実はこの子が海外に行っている間に最新の測定器が作られたんです。以前は上限が十万だったのですが、最新型の方は巨費を投じて作ったので今のところは上限がないらしいです。まぁ、あまり高い数値だと本当に正しく測れるのかまだ分からないという問題もあるようですけど」

「みーくんを捜索しに行った方から聞いた話ですが、みーくんに降ろされた神の力は一千万を優に超えているとアイギスさんが話していたそうです。なので、その辺りまでは信用出来るんじゃないでしょうか」

「一千万……想像もつかないですね。そんな存在の受け皿になる事が出来るこの子の力も」

 

 厳密には湊はエネルギー生成の動力炉にされたのであり、湊自身が神の受け皿になった訳ではない。

 しかし、湊の人格をフォーマットし、その魂を動力炉として取り込んだ神は空になった肉体に宿ることになったので、ある意味で湊の肉体は上位存在を宿すだけの機能を有している。

 それらは全て半神半人であった茨木童子と赫夜比売の血によるところが大きいが、詳しく知らない英恵たちにとっては、力を持って生まれたせいで様々な事に巻き込まれる湊を不憫に思った。

 今もテーブルの上に置かれたお菓子を食べて喜んでいるが、彼が過ごしたこの幸せな時代は既に終わってしまっている。

 記憶を取り戻し、人格が蘇れば、彼はまた戦いに身を投じるだろう。大切な少女とその世界のため、自身の幸せを放棄して戦い続ける。

 そんな彼の暗い未来を思えば、桜もこのままでいる方が幸せではないのかと思ってしまった。ワッフルを手に持ち、口のまわりを汚しながら食べている湊に向き直り、桜はどこか悲しさの混じった笑みで問いかけた。

 

「……八雲君は将来の夢って何かあるのかな?」

「夢? えっとねー、たぶんあると思う」

 

 問われた湊はワッフルを皿に置いて考え込んでいる。

 その間に英恵が汚れた口周りを拭いてやれば嬉しそうに笑い、この笑顔が疾うに失われたものであると知っている分だけ見るのが辛く感じる。

 そして、しっかりと数十秒考えこんで考えがまとまったのか、湊はまるで太陽のようなまわりの人間の表情まで照らすほど綺麗な笑みで答えた。

 

「ぼくの夢はねー、みんながしあわせでいられるようにすること。嫌なことがあったら聞いてあげるし、困ったことがあったら手伝ってあげて、それでみんなしあわせだったらぼくもうれしいんだ」

「っ……じゃあ、もし自分に困ったことがあったり嫌なことがあったらどうするのかな?」

「ちゃんと自分でなんとかするよ? お母さんはちゃんと相談しなさいっていうけど、いつも相談できる人がそばにいるわけじゃないし。がんばったら自分でできるからいいんだぁ」

 

 あまりに純粋な笑みから齎される言葉に桜は動揺する。

 将来の夢を尋ねたのは幼少期の湊を知ることで、彼本来のパーソナリティを理解しようと思ったからだ。

 理由などなく、ただ憧れだけで宇宙飛行士やサッカー選手になりたいと聞ければ十分だった。沢山の人を元気にしたいから医者になりたい、といった風に理由まであれば尚良かっただろう。

 そんな、本当にただ相手のことを理解するためだけに尋ねたことが、反対に桜の胸中を複雑に掻き乱していた。

 顔をあげて英恵の方に視線を向けると、相手はやや視線を俯かせて暗い表情をしている。

 そこから察するに、英恵は湊がこんな風に答える事を知っていたようだ。

 

「英恵さん、この子は本当に昔からこんな風に考えていたんですか?」

「分かりません。ただ、菖蒲さんはこの子の将来をよく心配していました。当時は血筋のこともあってまだ子離れ出来ていないのだとばかり思っていましたが、彼女は当時から既にこういった子どもだと理解していたのかもしれません」

 

 誰かの幸せを心から願う優しさは、褒められるべき長所であり美徳ですらある。

 湊は素っ気ないどころかどこか近寄りがたい雰囲気を纏っていながら、登下校中のモノレール内で痴漢から女子を助けるなど、街中で度々人助けを行っていたが、どうやらその優しさは生来のものだったらしい。

 けれど、六歳当時の人格の時点で己よりも他者を優先してしまう考えを持っていたとすれば、確かに親は子どもの将来を心配せずにはいられないだろう。

 ただ他の人の幸せを願うだけならば構わない。自分がそのために協力するのも別にいい。だが、湊はそこに“自分の事を考えず”という要素が加わってしまう。

 自分が幸せになるという考えではなく、他者の幸せな姿をみて自分の喜びとする。こんな事を平然と答える子どもなど普通とは思えなかった。

 

「無償の愛、神の視点、みーくんはやっぱり……」

 

 湊が神の器として選ばれたのは必然だった。そう考えた桜の胸中を英恵も理解していた。

 ただ、このまま退行状態が続けば湊は“百鬼八雲”として人の輪の中にいる事が出来る。

 ここには湊の幸せを願う者しかいないのだ。湊が他者の幸せを願うのなら、湊は自分が幸せになる必要がある。

 ならば、傍にいられない事は悲しいが、桜は湊をここに居させるべきだと考えた。

 

「……この状態がいつまで続くか分かりません。ですが、ここでならみーくんは幸せでいられるんですよね? 戦いから離れて、傷付く事も傷付ける事もなく、ただ静かに暮らせる。そんな未来も今なら選べるかもしれないんですよね?」

「そのための最大限の努力はします。この子が人々のためにしてきた事を考えれば、休んだところで誰も文句は言えませんから」

「ありがとうございます。みーくんのこと、どうかよろしくお願いします」

 

 立ち上がった桜は深々と頭を下げて英恵に湊の事を頼んだ。

 本当は傍にいてやりたいのだろうが、今の湊に桜やチドリと過ごした間の記憶はない。

 赤の他人の中に放り込まれた彼がどのような状態になるか分からない以上、懐いている英恵に託すのが最も湊本人のためになる。そんな彼の幸せを願ったが故の決断だった。

 そうして、湊をこのままここに残すと決めた桜は、二人に挨拶をして別れを告げると、また連絡を取り合う約束だけをして桔梗組へと帰って行った。

 

 

 


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