少年は目覚める。彼自身は気付いていないが二日ぶりの目覚めである。
傍らには見知らぬ外国人とおぼしき男性が座って自分を見ている。
飲み込めない状況に少年は混乱していた。
「やっと目覚めたようだね」
「アンタは……望月朧か」
「記憶はハッキリしているかい? 普通なら死んでいるほどの重傷だったんだよ」
「記憶?」
少年には自分が大怪我をしたという記憶が無い。
体にはどこにも傷はなく言われても信じられない。
「僕のCUREで応急処置をしてから急いでここまで運んで、ヴァン君と交代してやっと一命を取り留めたんだ。まったく、世間的には死んだのに生きているなんて運がいいね」
少年の名は水原鬼八。世間的には死んだことになっていた人間である。まだ犯人が東京エリアの英雄であると報道こそされていないが、その死は東京エリアの報道機関をにぎわせていた。
「ここは何処なんだ?」
「伊豆にある『
朧は簡単ながら天樹の根とここに住むエルモアウッドについて説明をする。
関東開戦の際にサイキッカーの事は一応聞いてはいたが、そのサイキッカーのおかげで生きていられると聞いても鬼八には実感がなかった。
だが朧らにみせられる情報からこの場所がかつては観光地と呼ばれていた未踏査領域、伊豆にあるシェルターだという事は飲み込むことが出来た。残る心配は傍らにいない相方、紅露火垂の事だけになる。
「なあ、火垂はどうなったんだ? 無事なんだよな?」
「それは僕にもわからない。とりあえず状況を整理しよう」
目覚めた鬼八に朧は状況の整理を求める。元を辿れば鬼八が呼び出したのがきっかけで彼の生死の境に立ち会ったのだから当然と言えば当然の要求である。
「どこから話そうかな……」
こうして鬼八は『新世界創造計画』そして『ブラックスワン・プロジェクト』について知る限りのことを朧に語った。『新世界創造計画』についてはほぼ名前しか知らない程ではあるが、一方の『ブラックスワン・プロジェクト』については大方の事を掴んでいた。
ゾディアックガストレア『双魚宮ピスケス』に関連するバラニウム磁場耐性を備えた変異ガストレアを人工的に培養し、なおかつ薬物で挙動を操作することにより東京エリアを襲撃するように修正付けすることによって人為的に東京を壊滅させる計画である。
計画者たちにとって東京エリアは無くなって欲しいモノのようで、鬼八はこの計画から東京エリアを潰すこと以外の目的を見いだせなかった。ただ話を聞いた朧は「面白いことが起きた」と言いたげににやけた表情を浮かべる。
「―――なあ……アンタは嬉しそうな顔をしているが、東京エリアが壊滅してもいいのかよ?」
「そんな訳はないだろう。ただこの状況に興奮しているのは否定しないよ。やはり今の時代は刺激に満ち溢れている」
朧の答えに鬼八は彼が狂っているとしか思えなかった。
確かに一般論で言えば望月朧は狂人そのものである。刺激を求めて危険を好むスリラー体質はいわゆるキチガイなのは間違いない。たが彼は混沌を好むだけで悪人ではない。世界など滅んでも構わないが、自分の世界を構成するピースを壊されることには人並みの正義感を振るう。
「面白い状況だけど、東京エリアが壊滅したら面倒だからね。さてどこから調べようか」
蓮太郎が塀の中でうなだれていた頃、遠く離れた伊豆では渦中の人が動き出していた。
その動きが翌日になって実る。朝になり子供たちと朝食のパンを焼いて齧っていたアゲハの元に一通のメールが入ったのだ。差出人は三日間の雲隠れから開けた望月朧なのだからアゲハも驚く。
協力して欲しいことがある
黒いトリの駆除に協力して欲しい
「やっと連絡がついたと思ったら……黒いトリってなんのことだ?」
「黒にトリ……そうか、これは恐らくアレの事よ」
メールの意味に気付いた桜子は子供たちに知られないように机の下からトランス線を伸ばして思念会話に切り替える。
『ブラックスワン・プロジェクトの事よ。ほら、スワンって白鳥の事じゃない』
『だからと言って回りくどいな。それに何故朧がブラックスワン・プロジェクトの事を知っているんだ?』
『もしかしたら……ちょっと電話してみるわ』
そういうと桜子はアゲハから電話を借りて朧にコールを入れる。子供たちに会話の内容を聞かれないように台所に移動してからと念の入れようである。
「もしもし」
『アゲハ君かと思ったら雨宮さんか。電話をくれたという事はメールは見てくれたようだね』
「ええ。単刀直入に言うわ。アナタ、もしかして水原君と一緒にいるんじゃないの? それにここ三日間連絡が付かなかったのもその絡みなんでしょう?」
『察しがいいね。だったら話が早くて助かる。とりあえずブラックスワン・プロジェクトの事は里見君から聞いているかい?』
「聞いたというより聞き出した感じだけれどね。それよりその言い方だと里見君の現状は知らないみたいね。一体どこに居るのよ」
『伊豆さ。彼の傷が深かったので応急処置だけ済ませて急いで運んだんだ。流石に未踏査領域を人間を抱きかかえて走り抜けるのは骨が折れたね』
「それじゃあ仕方がないわね。いま里見君は水原君を殺した容疑がかかっていて投獄中なのよ」
『それは災難だ。だがキミの事だから既に強奪して横にいるとか言い出しそうだけれど』
「それがそうもいかなくてね。詳しくは後で話すから割愛するけれど」
『それじゃあ詳しくは僕たちがそっちに戻ってからにしよう。それまでの間にあることを調べてもらいたい。トリヒュドラジンという薬物の流通について詳しい人間を探してくれないか。恐らく手がかりになる』
「どういう意味よ?」
『ブラックスワン・プロジェクトに必要な薬だからさ。今では主に新興麻薬の一種として出回っているからアングラ方面から調査をお願いしたいんだ。本来なら薬ということで僕の会社の領分とはいえ、末端の事など製造元は把握しきれないからね』
「わかったわ」
桜子は朧らの東京帰還は後日になることを確認して電話を終えた。
桜子とてブラックスワン・プロジェクトと蓮太郎の投獄には何か関係があると踏んでいる。誘拐によって行方がわからなくなった蓮太郎の後を闇雲に追うよりも朧が示した道標から黒幕に行き着く方が早いと読む。
桜子は知らないのだが警察の監視システムには電話も対称に含まれている。もしこれが衛星通信電話でなかったならば周囲に危険が押し寄せていたのだがそこは幸運と言うべきだろう。
「朧はなんだって?」
「ご飯を済ませたら出かけるわよ。夏世ちゃんと延珠ちゃんは菫先生のお手伝い、私とアゲハは先生との用事を済ませたら望月朧からの依頼の調査よ」
「なに? 仕事だったら妾も手伝うぞ」
「ダメよ。この仕事はガストレア退治じゃないわ。子供連れでは出来ない仕事なのよ」
「う~」
「そう腐らないでください。先生のお手伝いは私たちじゃないと出来ない仕事ですから」
「そうなのか?」
「今日は延珠さんも一緒だからなんだか楽しみです」
「そこまで言うなら妾は夏世を手伝ってやろう。アゲハに桜子も気をつけるんだぞ」
「そっちこそヘマするなよ」
「言われるまでもない」
軽口を叩き合ってから仕度を整えた四人は勾田大学病院にある菫の研究室に向かう。菫の手伝いと言うのは主に雑用で実質的には菫に子供たちを預けている状態と言って間違いない。
アゲハらに託児所扱いされることに辟易しながらも、預かる子供も顔見知りという事もあり菫もそれを承諾していた。
子供たちを遠ざけたところで二人はトリヒュドラジンのことを訊ねる。もちろん前置きとしてブラックスワン・プロジェクトの事と蓮太郎の逮捕がそれに関係した陰謀であることを加えて。
「―――って言うわけなのだけど、先生はなにか知らないかしら?」
「私もそんなに詳しくはないのだけれどねえ……そういう事なら彼らに聞くのが早いと思うよ」
「彼ら?」
「いわゆるヤクザさ。クスリが彼らの資金源なんてことは半ば常識だろう」
「それもそうね。ここらなら光風会に聞けばいいのかしら」
「そういう事だ」
菫が言うにやくざ者に聞けば早いとのことで、アゲハも桜子もすぐにそれには納得した。灯台下暗しと言うべきか、元ヤクザの影虎ら『クスリを稼業にしないヤクザ』になれていたせいで二人はそれに気づいていなかった。
一つの道を示したところで逆に菫が二人に切り出す。
「ところでだ。延珠ちゃんはIISOに連れていかれたと聞いたぞ? どうなっているんだ」
「話すと長くなるから今は掻い摘んで説明するが……一言で言えば別のプロモーターにマッチングされたあとで俺達が引き取ったんだ」
「お役所仕事の割には気が利いているじゃないか」
「まあ、その別のプロモーターってのも知り合いだから出来たことだけどな」
「そうか。とりあえず延珠ちゃんも無事でよかった。あとは……」
「里見君ね。大丈夫、きっと彼は無事に帰ってくるわ。それにブラックスワン・プロジェクトを潰すことが出来たら冤罪だって晴らせるわ」
「そうだな。私がここまで惚れこんだ少年だ。帰ってこなかったら承知しないぞ」
蓮太郎のことを心配する菫の眼は憂いを帯びていた。
そんな菫の憂いを晴らすことも目的の一つと気合を入れて、アゲハと桜子は光風会との接点である光風ファイナンスへと向かった。
半年ぶりですが逃亡者編の最終ピリオドです
もう少しシーソーゲーム風にしたかったのですが難しい