ふと思いついたFate/zeroのネタ作品   作:ふふん

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そして俺は……

 耳障りな悲鳴だった。その声を聞けば、魔術師であっても地獄の存在を信じてしまいそうな程に。

 最初は、一人からなる複数の声だった。どれだけ鳴り響こうが、所詮は一人。ならば、どれほどおぞましくとも断末魔にしかならない。哀れで、惨めで、妄執的で。何世紀も聖杯という奇跡に縋った男の最後という意味にしては、上等すぎる。

 蟲の群体が上げた間桐臓硯の声は、どれほどもせずに静まった。蟲の形が崩れ、群が個に戻っていく。外観だけで言えば、黒いスライムに。実体がそんな可愛げのあるものでない事は、誰もが分かっていた、のだが。

 予想以上だった。

 臓硯が発したような、鋭い悲鳴では無い。低く唸るような、声と判断するのも難しい音。

 苦痛、怨念、殺意、憤怒、あらゆる感情、それも人を殺すに足るものばかり。数万の人間を一度に焼き殺しても、そうはならないだろうと思わせる煉獄の具現。なによりも、その全てが死を促してくるのだ。

 そこの石に頭を叩き付けて死ね。建物から飛び降りて死ね。首を切り裂いて死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。

 一つ一つの声が、死を望む。そして、殺すことを望む。完全無垢な悪意。

 ありとあらゆる死を寄せ集めた、世界最悪の絞りかすだった。

(もっと危険なのは……)

 ウェイバーは、そっと首筋に手を添えた。いや、無自覚に指を突き立てようとしてた。

 慌てて、手を首から離し、両手の指を組むようにした。こうしておけば、少なくとも自分で自分を害する心配はぐっと減る。

 最も危険なのは、人を死に向かわせる強制力だ。しかも、洒落にならないことに、それに魔術的な効果は含まれていない。つまりは、単純に大きな意思をぶつけるだけで、人を狂わせているのだ。しかも、大きな塊からおよそ百メートルほど距離を開けていてこれだ。近くに居たらと思うと、ぞっとする。

 魔術や神秘による効果では無いので、魔術で防ぐこともできない。元より、魔術干渉抵抗能力などあってないようなものだったが。

 とにかく、意思を強く持つ。そして、如何に奴を攻略するか、それを強く考えた。何もしていない状態、精神に空白があれば、容赦なくそこに割り込んでくる。

 それは、唐突であり、分かりきったことでもあった。

 急に、空間がひび割れた。大きくドーム上にヒビは広がっていき、大きな卵が割れるように決壊する。ぱらぱらと、降り注ぐ空間のガラス。それが地面に落ちる前に消えるのを、ただ呆然と見続けた。

 ライダーの固有結界。崩壊は、同時にライダーの敗北を強く印象つけさせる。分かってはいたのだ。ラインが消失した、その時から。しかし、それは納得できるかどうかとは、また話が違う。相棒の消失を理解するのと、受け入れるのとは、全く別問題なのだ。それが死なのだから。

 同時に、今までライダーが封じてきたもの。蟲としての原型を失った、黒い泥の塊。それを見て、暗い感情が溢れそうになった。

 赤くなりそうだった視界を、必死に自制する。感情を無理矢理胸の内に抑えつけ、走り出しそうだった体を堪えた。組んでいた指は、両腕に。血がにじみそうなほど、強く握りつけた。興奮を抑えながら、声に出して念じる。

「落ち着け……ここで我を忘れれば、思うつぼだ。分かっているだろう、ボク。もう失敗はできない。先生とライダーに、無様な姿は見せられないんだ」

 今、ウェイバーが抱きかけていた感情。それは、間違いなくアヴェンジャーの分野だ。一度流されてしまえば、後は転げ落ちるように破滅へと向かう。最善も、魔術師の義務も忘れて。周囲を盛大に巻き込みながら、多くの死を生み出すために走り出してしまうだろう。

 冷静さを取り戻して、少なくとも本人はそうだと信じて、前を見る。

 固有結界に取り込まれていたそれは、大分量を減らしたように思えた。蟲と泥では、空白のあるなしで大分差が出てくる。正直、あまり当てにならない目算だった。だが、それが正しいと、少なくともウェイバーは、ライダーを信じた。彼は勇敢であり、そして強かった。あらゆる意味で相性が悪い相手でありながら、削って見せるほどに。

 既に、ここで敵が量を増すというのは、あまり意味がない。臓硯という厄介な端末は消滅したが、それで物量に変化がある訳では無い。依然、周囲一体を飲み込むのに十分な量がある。多少増えた所で、変化はなかった。どうしようも無いという意味でも、対処法は変わらないという意味でも。

 時を置けば、さらに厄介になる。だから、勝負をかけるならばここしかない。

 だが。

 ポケットに手を入れて、中身を取り出した。冷たく固い、水銀の塊。一つは半起動状態の円柱、もう一つは待機状態の球形。希代の天才、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトが残した、最後の魔術礼装。それを使用するためには、もう一人の魔術師が必要だ。

 残された意思を再確認して、ウェイバーは走り出した。無意味にでは無く、目的を持って。

 よたよたと、おぼつかない足取りなのは、アーチャーだ。底に寄り添う、一人の子供。つまりは、マスター。

 黄金の、恐るべき力を持っていたサーヴァントに、しかし今はそれを感じられない。象徴のようだった鎧は既になく、左腕をなくし体中を食い荒らされて血を流している。何より、存在していた覇気が、最初からそうであったかのように消えていた。まるで、ただの人間なのでは、そう思ってしまいそうな程に希薄。

 しかし、ウェイバーはそれを深く気にしなかった。いや、気に出来なかった。

 なぜならば、彼の視線は、アーチャーの無事な右手に持たれた剣。それに吸い寄せられていたのだから。

「お前のだろ」

 差し出されたそれを、手に取って。そして、零れる涙を止めることができず、抱え込んだ。

「助かったよ」

「大したことは、してないよ」

「それでもだ」

 ウェイバーは数秒だけ、そのままでいた。

 感傷を終えて、顔を上げる。いつまでもそうして居られない。持っていた剣を、地面に突き刺した。

「それより、その子の力を借りたいんだ」

 指名された少女は、声を掛けられた瞬間、僅かに動いてアーチャーの背後に隠れた。表情は全く動いていないので分かりづらいが、もしかして怯えたのかも知れない。

 しかし、今のウェイバーに、それを考慮している余裕はなかった。二つの礼装を見えるように持ち上げる。

「これが、先生の用意した対アヴェンジャー用の礼装なんだ。原理はよく分からないけど、多分波長の違う魔力が必要とか……つまりは、魔術師が二人必要なんだ。ボクと、あとキミがいれば、聖杯からアヴェンジャーを切り離せる」

 少女の反応が薄い。まるで、よく分からないとでも言いたそうな雰囲気だ。

 答えたのは少女ではなく、庇うように立っていたアーチャーだった。

「この子は、魔術師じゃない。魔術回路を持っていて、その起動くらいはできるが……逆に言うと、それしかできないんだ」

「そんな……!」

 答えは、ウェイバーを失意に追い込むのに、十分だった。

 魔術回路があり、かつ起動までできておいて、魔術師ではない。まずあり得ない事だが、そういう存在が居ないわけではないというのも、知識だけはあった。つまりは、外付けの魔力タンクのようなものだ。魔術回路の代わりに人間を使っている、言葉にしてみればそれだけだが、まともな手段では無い。

 一瞬、その子の境遇を想像しかけて、やめた。何を考えても、所詮は妄想にしかならない。同時に、いい想像にもならない。外付けの魔力タンクに、魔術礼装ではなく人間を使うというのは、つまりそういう事だ。人道とはほど遠い。

 そして、今考えるべき事は。アヴェンジャーに対抗する手段が失われたという事だ。絶望しかけた脳を必死に回転させ、打開策を練る。

「そ、そうだ! アーチャーはギルガメッシュであってるだろ? なら、魔術が使えるんじゃなのか?」

 最古の、魔術の原型とも言えるそれが、果たして現代の礼装で同じように機能するかは分からない。だが、他に手は無いのだ。

 縋るような言葉に、しかし返ってきたのはまたしても否定だった。

「無理だ。俺の魔術は、恐らく宝具扱い。キャスターとして呼ばれてない以上、使用できない。それに、そんな魔力もない」

 アーチャーの姿はぼろぼろだ。彼ならば、自分を治療できる宝具の一つや二つ持っていてもおかしくない。それで治療しないというのは、つまり。それが出来ないほど、魔力を消費してしまった。そして、供給が間に合わない速度で失っているのだろう。

 うなだれるウェイバーに、声がかかる。

「それは二人居なきゃだめなのか?」

「多分。ボクが作ったわけじゃないから、断言できないけど。でも、あの先生がボクを使ってまで二人で使用すると言ったんだから、一人で使用する、なんて賭はできない」

「そのケイネスはなんでここに居ない?」

 辺りを見回すアーチャーを、直視できなかった。ただ、顔を伏せる。

「……そうか」

 小さく、肯定でも否定でもない。ただ漏れただけの声。そこに、どんな感情がこもっているかまでは分からなかった。

 そう言えば、アーチャーはケイネスと同盟を結んでいた。それを思い出す。

 和気藹々とした関係で無かったのは確かだろう。しかし、短期間であっても付き合いがあったのだ。その死に、思うところがあったのだろう。

「他に対処法は?」

 あるわけがない。静かに、首を振った。

 銀珠の礼装は、そもそも一流の魔術師が運用することを前提に作られている。と言っても、使用自体にさほど技量は必要ではない。それでもケイネスほどとは言わずとも、自在に使うならば二流程度の腕は必要だろう。ウェイバー程度の魔術師が使うことは、想定されてないのだ。それこそ、彼でも発射するだけが関の山だろう。

 魔術回路が起動できるだけの人間。それを、今から礼装が使えるようにするなど不可能だ。それが出来るようになる頃には、少なくとも日本が終わっている。

「仕方が無いか……」

「何か手があるのか!?」

「手なんて言うほど、大層なものじゃない。宝具を使って、辺り一面薙ぎ払おうかと思っただけだ」

 そう言えば、とライダーの言葉を思い出す。アーチャーが持っている、宝具の可能性を。古今東西、あらゆる宝具の原型を持っているならば、可能性はある。

 だが、と。ウェイバーは、改めてアーチャーを見た。

 彼から感じられる魔力、それは恐ろしく少ない。大ざっぱにしか魔力感知をできない、ウェイバーから見てもだ。

 宝具とは、基本的に範囲や威力に比例して消費する。それは、大宝具ばかりを持っていたライダーを見れば明らかだ。最高峰と言ってもいい宝具二つ、それを使った後の魔力消費は凄かった。直接宝具を使用したわけでは無いのに、強烈な倦怠感を覚えたのだから。 今のアーチャーに、それだけの魔力があるとは思えない。財宝の使用すら躊躇するくらいなのだ。大宝具など発動しようものなら、それが形になるまえに魔力切れで消滅するのは分かりきっている。

(何か、魔力を工面する方法が……令呪か!)

 そう、サーヴァントには、令呪といういかさまがあった。使い切った上に、ライダーもいなくなってすっかり忘れていた。魔力切れの消滅を度外視すれば、確実に一発は撃てるだろう。

 ウェイバーの知る限り、アーチャーは令呪を使用していない。一つ、もしかしたら二つくらいまだ持っている可能性がある。

 しかし、それで問題が全て無くなったわけではない。

「なあ、それで確実に倒せるのか?」

 そう、範囲の問題だ。

 既に、泥は冗談なまでの広範囲に拡散している。聖杯がこのへんにある可能性が一番高いのは確か。しかし、理論の上で言えば、アヴェンジャーが存在する場所のどこにいてもおかしくない。ただでさえ、この辺り一帯の泥を全て吹き飛ばそうと思えば。セイバーの聖剣や、ライダーの戦車でも余るのだ。それだけの広域を覆える宝具というのは、想像が難しかった。

 さらに言うと、少ない数ではあったが、市街地にも泥が潜り込んでいる。それまで何とかしようと思えば、それこそ街を丸ごと吹き飛ばす必要があった。

「安心しろ、ってのも変だが……もう街を丸ごとなんとかするような力はない」

 いつの間にか、顔を青ざめていたウェイバー。それを安心させるように、アーチャーが言った。

「この辺を八割吹き飛ばすのが限界だろうな」

 しかし、続く言葉で再度顔を青ざめた。

「……その中に、聖杯がなかったら」

「祈れ、あるように」

 つまり、今度こそどうにもならないという事だ。

 一番可能性の高い場所を当たってすら、二割失敗する。数千万、下手したら億単位の人間の命を背負ってその失敗率は、あまりに大きい。しかもだ。もしウェイバーが聖杯を操っていたら、臓硯の脱落を知った瞬間に身を隠すだろう。成功を期待していい状況では無い。

 賭けてはいけない状況、しかし賭けざるをえない状況。

 どうにかして、少しでも勝率を上げる方法を考えなければならない。しかし、そんなに都合のいいものが、急に浮かぶわけが無かった。

 時が経てば、アーチャーの宝具が発動する。焦りに満たされた頭脳では、碌な考えが浮かばない。

 その時、視界に映るものがあった。日本では殆ど見なかった、銀色の長髪。さらに言えば、顔も見たことがある。

「魔術師を見つけた! 少しだけ待って!」

 絶叫を置き去りにして、全力で走り出す。

 あの銀髪は、間違いなくセイバーのマスターだ。偶然か、それとも理由があってか、はたまた神の悪戯か。とにかく、何でも言い。重要なのはただ一つ、ここにもう一人の魔術師が現れた、その一点だけだ。

「アイリスフィール、待ってくれ!」

 よろよろと、左右にぶれながら走る彼女。しかし、その速度は思っていた以上に早かった。魔力もなく、素の体力だけで勝負しなければならないウェイバーには、少々荷が重い。

「待って! 待てって!」

 それでも全力で追いかけて、声を張り上げる。彼女は四度目の呼びかけで、やっと背後を確認し、ゆっくりと立ち止まっていった。

 彼女の元へ行く頃には、既に息が上がっていた。非力すぎる自分の体に苛立ちながらも彼女をみて、ぎょっとした。アイリスフィールの顔色は、青いを通り越して土気色。疲れに汗ばんでいなければ、既に死んでいると誤解しただろう。

 大丈夫なのか、と声をかけそうになったが、ぐっと堪えた。駄目そうだ、と言われたとして、どうにもならない。労ることすらできない。どんな状態であっても、彼女には魔術を行使して貰わなければならないのだ。

 どう声を掛けようか、言葉を選び、肺を落ち着ける。しかし、それが完了する前に、アイリスフィールが掴みかかってきた。

「ねえ、あなた切嗣を知らない!?」

「ちょ……っ、まっ、て」

 がくがくと、疲れに喘ぐ体が揺すられる。同じく体力を消耗しきっているとは言え、相手の方が少しだけ身長が高い。ましてや、魔術を行使しているのならば天地の差だ。

 服に絡まる指を無理矢理引きはがし、投げ捨てる。

「待ってくれ、そもそも切嗣って誰だよ!?」

 怒鳴られて、アイリスフィールは我に返る。心臓のあたりをぎゅっと握りながら、平静の顔に(しかし苦しげに歪んでいるが)戻った。

「ごめんなさい。切嗣は、ええと……身長は170センチ半ばくらいの、寝癖っぽい短めの黒い髪型で、くたびれたコートを着てるの。あと多分、たくさんの火器を持ってるわ」

「それって……」

 脳裏に、一人の姿がよぎった。敵の中心部へと向かっていた、セイバー一味と思わしき男。ごちゃごちゃしたものやら箱やら、とにかく大量に背負っていた。何を背負っているか、までは分からなかった。言われてみれば、確かにあれは火器だったかもしれない。

「知ってるの!?」

「ええと、あっちの方に」

 言ってから、失言だと気がついた。

 飛び出そうとしていたアイリスフィールを、飛びついて止める。ただの女性であれば、それで止められただろう。しかし、彼女は魔術師。力に負けて、ずるずると引きずられ始めた。

「待てよ! もう大分前の事だ! 今から行っても、意味なんてないぞ!」

 体感では、あれから数十分が経過している。もう少し前後するかも知れないが、だいたいその程度だ。突入して、綺礼に会えたのかも知れないし、その前に死んだかもしれない。どちらにしろ、決着がつくには十分すぎる時間だ。

「それに、今あんな所に行ってみろ! 無駄死にするだけだぞ! ここでしか出来ないことがある! その方が、遙かに役に立つんだ!」

「でも!」

 蟲のように、整然とした理性を感じさせる動きはなくなった。泥のスライムに戻ってからは、全くの無軌道。単純に、避けるだけならば今の方が容易いだろう。その代わりに、何が起きるか分からない恐怖がある。早い話が、事故死の確率が格段に上がっているのだ。

 それに、元々近寄っていいものではない。ましてや、今の精神が限界に近いアイリスフィールでは、アヴェンジャーにつられて破滅しかねない。やっと見つけた魔術師を、こんな形で失ってはたまらない。

 しかし、彼女は止まらなかった。さらに進むべく、体に力を込める。

 また駄目なのか? 心の中に、諦めの感情が表れる。

 自分の力を認めさせると、勇んで時計塔を出てきた自分。しかし、その結果はどうだ。やることなすこと、全てライダーにお膳立てされている。その姿を見れば、誰もが思っただろう。ウェイバー・ベルベットは、所詮ライダーのおまけ。相手をするに値しない、と。何一つ、己の力で成してはいない。

 これもそうだ。礼装は、ケイネスがお膳立てをした。ウェイバーはその使用者を探すだけ。しかしそれすらも失敗して、結局嘆くだけ。

 ……それでいいのか? ライダーとケイネス。似ても似つかない二人。しかし、ただ一つだけ共通点があった。死を前にしても、決して折れなかったこと。彼らの背中を見ておきながら、ここで折れる?

 そんなこと、出来るわけが無い。

「待、ってぇ!」

 もう一度、体に力を入れ直す。少しでも、進行を遅らせるために。

「あれをなんとかする礼装があるんだ! けど、二人居なきゃ使えない! オマエがいれば、その切嗣って人の、何よりも助けになるんだ! それにオマエも魔術師なんだろ! 魔術師の義務を果たせよぉ!」

 言い終えて、ついに食らいつけなくなり、どさりと落ちるウェイバー。行かせてはいけない、とすぐに顔を上げる。しかし、その必要はなかった。彼女は既に、立ち止まっている。

「ねえ、その話は本当なの? アヴェンジャーをなんとかできるって」

「ああ。けどこれは、二人で使わなきゃいけないんだ。オマエがいないと、使用できない」

 肘をついて、体を持ち上げる。口の中にまで入った砂と葉を、つばと共にはき出した。

「……そうね、貴方の言うとおりだわ。焦りすぎていたのね、ごめんなさい」

「気休めかも知れないけどさ。さっきから、アヴェンジャーの動きが鈍いんだ。だから、多分大丈夫だよ」

 さっきから、思っていたこと。アヴェンジャーは蟲の時と変わらず、増殖を続けている。しかし、動きが極端に少なかった。

 臓硯という端末を失った影響は大きいだろう。綺礼本人が操るには、令呪という媒介を通さなければならないのかもしれない。数に限りがある以上、そう迂闊に使えないというのは分かるのだが。しかし、アーチャーが健在である今は、間違いなく使わなければいけない時だ。彼さえ倒せば、対抗できる存在が、少なくとも近くに居なくなるならば尚更。

 なのに、沈黙は保たれたまま。何か、こちらの知らない事情があるので無ければ、可能性は二つ。未だ交戦中か、もしくは既に討たれているか。

 前者であるならば。ここでアヴェンジャーを奪うのは、何よりも助けになる。

「これ」

 良いながら、起動状態の方の礼装を渡した。

「これを二人で同時に、大きなアヴェンジャーの塊に当てなきゃいけないんだ。聖杯とか、そういうのを狙う必要は無い。大きな塊なら、どこでもいいんだ。射程距離は……安全を取って、40メートルくらいには近づきたい。使い方は分かるか?」

「ええ、多分。使い方自体は、ありふれた礼装みたいだし」

「じゃあ、早く行こう。これが失敗したら、アーチャーが宝具で吹き飛ばす手はずになってる。時間が経てば経つほど、向こうの勝率が高くなるからな」

 言うだけ行って、ウェイバーは近くの塊――ライダーの固有結界から出てきたもの――に近づいていく。アイリスフィールの事は確認しない。放っておいても、勝手に付いてきてくれるだろう。

 距離が100メートルを切ったあたりで、慎重に進む。そこいらの建物よりはよっぽど大きな塊、それが崩れれば、ものの数秒で飲まれるだろう。ちょっとやそっと距離を開けたところで、全く安心できない。あと半分、たった50メートルそこらの距離が、ひたすら遠い。

「ねえ」

 慎重に周囲を警戒(どれだけ効果があるかは分からなかったが、やらないよりはマシだ)していると、ふいに声を掛けられた。まさか、話しかけられると思っていなかったウェイバーは、びくりと肩を震わせる。

 努めて平静を装い、動揺を隠しながら、声だけで返答する。

「なんだよ」

「これ、私でもすごい高度な礼装だって分かるわ。あなたが作ったの?」

「いいや、作ったのは先生だ」

 そんな事か、思いながら足を進める。アヴェンジャーに対する恐怖で、足を笑わせながら。

 あれは、いわゆる根源的な恐怖だ。感情的なものよりも、野性的なものよりも、もっと深くどうしようも無いもの。アヴェンジャーを恐れ、排斥せぬ人間などこの世にいない。それはもう、人間ではないだろう。

 それなのに、この女性には全く気負いが見えなかった。なぜ、これだけ接近して、アヴェンジャーのプレッシャーを感じないかのように振る舞えるのか。異質な存在、それに対する恐怖までもが生まれそうになり――しかしすぐに消えた。アヴェンジャーに対する感情は、彼女に抱いた些細なものなど比較にならないためだ。

 発射地点まであと数十メートルの距離。その程度の道を意識したことなど、生まれて一度も無い。恐怖だけでは無い。失敗すれば……人口一億と少し、二、三国家分の人口。それを背負っているという重圧。

 ウェイバー・ベルベットという、ただの矮小な人間に。それを気にするなと言うのは、不可能だった。

「そう、あなたの先生は、すごい人だったのね」

「……。ああ、そうさ。最低だけど、最高の先生だったよ。ボクにはもったいないくらいの」

 もしも、ここにいるのがケイネスであったならば。このように怯えることは、無かったのだろうか。もしくは、ウェイバーが彼のように死んでいたら。きっとあのように、潔くは死ねなかっただろう。無様に惨めに、泣き叫んでいた筈だ。

 ただのいけ好かない教師だとばかり思っていた。しかし、現実は全然違った。ウェイバー・ベルベットの目は全く持って、節穴だ。

「魔術師の義務を果たせっていう言葉、すごいと思ったわ。私は、そんな事考えたこともなかったから。あれも?」

「先生だよ。ボクに礼装を託して、死んでいった」

 つま先が浮つく。膝から下に、現実感が無い。それと反比例して、アヴェンジャーから感じる重圧が増していく。

 あんなものは、人間が立ち向かうようなものではない。完全に、英雄の領分だ。

「私は、冷静にやるべき事を選んで、私を止めた貴方は、先生に負けてないと思うわ。それに、今こうしているのは貴方でしょう?」

 ふと、ウェイバーは目を丸くして、背後を確かめた。アイリスフィールは、まるで子供にそうするように、微笑んでいる。

 もしかして、励まされたのだろうか。なんとなく釈然としないし、納得も出来ない。だが、少しだけ体が軽くなった気がした。

 既にこの世には存在しない二人。もう声を掛けられる事は無くとも、その背中は目に焼き付いている。それでも――いや、だからこそ。彼らに背くような姿は、見せられない。ここで死んでも、そうじゃなくても、悔いが残っても。しかし、せめて誇れる自分でありたい。

「ここだ」

 目算で、およそ50メートル弱。大きな対象に当てるには、十分すぎる距離。

 既に起動状態の礼装を構える。隣では、アイリスフィールが同じように構えている。

「ボクの合図で」

「ええ」

 撃て――そう言おうとした瞬間だった。恐れていた事態が、現実となる。

 大きな山となっていた泥の塊が、いきなり崩れ始めたのだ。それも、自分達の方に向かって。雪崩のように押し寄せるそれに、一瞬逃げそうになる。必死になって、腰と、そして精神力を支えた。

「まだなの!?」

 隣のアイリスフィールが、悲鳴を上げる。思わず、それに引っ張られて焦りそうになった。開き賭けた口を、無理矢理閉じる。

 全てが一繋がりである以上、捕捉の最低量を心配する必要は無い。元々、難易度自体は蟲よりも遙かに低いのだ。

 ならば、考慮すべき点はただ一つ。攻撃を、同時に当てると言うこと。タイムラグがどれほど許されるか分からない。それでも停止していれば、心配する必要はなかったが。崩れてしまったら、万が一がある。ならば、それをなくす方法。最も簡単な対処だ。限界まで引きつければいい。

 一秒を細かく刻んで、黒の雪崩が襲う。一瞬で、既に20メートルの距離が消えた。あと30。まだ遠い。

 かなり進んでも、流れるペースは変わらなかった。粘性があるように見えながら、しかし水のように柔軟。さらに一瞬で、20メートルが消える。しかし、まだ遠い。あと少し。

 そして、残り10メートルで。黒の先端が、平均化した。

「今だ!」

 絶叫と同時に、銀の帯を引きながら、二つの小さな弾丸が直進。同時にアヴェンジャーへと突き刺さった。

 ウェイバーは、顔を両腕でガードし、体を小さく丸める。高速で迫る、超質量の壁。それを相手に、人体などひとたまりも無い。だが、頭さえ無事ならば、万が一が存在する。

 その希望に縋った行為であったが、結果だけ言えば、それは全くの無駄だった。雪崩は、銀弾が突き刺さった瞬間に、ぴたりと止まっている。

 いや、そこだけではない。全てのアヴェンジャーが、時間が停止したかのように動かなかった。

 アヴェンジャーが激しく蠢く。形だけは、相変わらず固まったままなのに、中の黒だけが、激しく動いているのだ。幾度も、苦しみかき混ぜられるように走り続け。そして、その隙間から。光が、零れた。

 ウェイバーは、自分の目を疑った。世界中の地獄を集めたような泥、それから光が生まれるなど、冗談じみている。うごめきはさらに大きくなり、比例して光の量も大きくなっていった。光は強くなり、闇は弱くなり。まるで居場所を追いやられるように、ひび割れていくアヴェンジャー。

 そして、ついに二つは分離した。

 光は、その場に残った。追放された闇は、容量の半分を持って、宙へ飛ばされる。同時に恐ろしい勢いで、一点に集中した。

 怨嗟が、人間にとっての地獄全てが集まる。ある意味、聖杯の中にあった時よりも、遙かに純粋な悪意と憎悪の集合体。

 君臨したのは、人間の終末を告げる黒い太陽だった。直径は、優に100メートルを超える。直視しただけで、目が焼かれてしまいそうな殺意が降り注いでいた。長くその場にいるだけで、気が狂ってしまいそうだ。

「……あとは任せたぞ、アーチャー」

 呟きながら、ウェイバーは反転した。アイリスフィールを連れて、もう黒い太陽は見なかった。

 

 

 夜が終わる。長い永い、聖杯戦争の夜が。

 目の前には、暗黒の太陽があった。日食よりも深く、月よりも大きくその存在を誇示して。今も、光の代わりに呪いを降り注いでる。常人が直視してしまえば、それだけで狂ってしまいそうだ。

 しかし、各地に拡散している時よりも、遙かに与しやすい。なにせ、一カ所に纏まってくれていれば、あとは吹き飛ばせば良いだけ。あれを現在進行形で見ておきながら、その程度の感想。つくづく、俺も常人離れしたものだ。思わず、苦笑が漏れた。一般人の枠を出たつもりはないが、しかしまともとも言い難い。

 魔力の殆どが失われた体に、しかし力を込める。もう、宝具を降り注がせるなどと言った、派手な行動はできない。いくつか放っただけで、消滅しかねなかった。

 腕を、空間のゆがみに突き刺す。それでまた、少ない魔力がごっそりと減った。しかし、問題はない。必要なのは、ただ一降りの剣。円柱を重ねたような、剣とは思えないそれ。不格好なそれは間違いなく、星が鍛え上げた聖剣にすら勝る、世界最高の剣だ。

 無限の幻想。あらゆる剣の原型にして頂点。神が――もしくは、それ以上の何かが――デザインした、この世に在らざる宝物。名も無き乖離剣、もしくはエア。世界の破壊と創造を司る、世界最古の宝。

 剣を構える。と言っても、持ったそれを垂れ下げているだけ。

 黒い太陽を意識しながら、体を確かめた。両足は、やけに浮ついている。だが、一歩踏み込むくらいならば問題ない。腰も力が入れづらいが、許容範囲。左腕はもうない。しかし、右腕はほぼ完全だ。つまり、剣を振るのに不足無い。

 つまりは、足りないのは魔力だけ。それさえあれば、この魔術師が始めた下らない騒ぎを、終わらせられる。

 目の前にある呪いの集塊は、圧倒的物量を誇っている。それでも、しぶとく強欲に、その体積を増そうと蠢いていた。

 しかし、どれだけ彼らが勢いを増そうと無駄なこと。

 どれだけ膨れ上がろうとも、所詮は怨念。この世を構成する人間の、さらに感情の一部を集めた程度のものでしかない。世界全てを手中に収めた剣に比べれば、まるで足りなかった。そう確信させるだけの力強さが、右手から伝わってくる。まるで意思を持っているかのように脈動する剣は、まるで意思を持って敵を断たんとしているようだ。

 俺は振り返る。そこには、当然と桜がいた。

 相変わらず無表情な少女がそこにいる。しかし、少しだけ人間の温かさを得た。僅かに歪んでいる表情が、その証だろう。

「桜」

 俺の呼びかけに、びくりと肩を震わせた。目を伏せて、視線を合わせないようにしている。

 何を言おうとしているのか、分かっているのだろう。いや、当然か。鈍い俺でも、この状況なら察することが出来る。

 目を合わせようとしない彼女に合わせて、しゃがみこんだ。頭の位置が同じになる。目と目が合って、また少女はびくりと震えた。瞳に映るものは何だろうか。多分、恐怖と戸惑いか。

 思い返す。彼女との日々を。それは、決して長い時間でも、誇れる時でも無かっただろう。ただ、日常ごっこなりに、濃密ではあった。

 初めて触れあうタイプの相手。付き合い方を模索して、戸惑って、しかし殆どは逃げだった。我がことながら、情けない限り。それでも、表面上家族の体裁を作れていたのは……きっと桜が、俺が思っていたよりも遙かに大人だったからだ。全く持って、中身が子供のまま図体だけでかくなった馬鹿とでは、比べものにならない。

 だから、言わねばならない。

「ありがとう」

 言葉に対する反応は、戸惑いだった。雰囲気は不安そうなまま、小さく首を傾げている。

 揺れている瞳を、しっかりと捕らえ、焼き付ける。だって、この目を見ることはもう、二度と無いのだから。

「俺は一人だったら、絶対にこんなにがんばれなかった。勝手にマスターなんて役割を押しつけた俺と、一緒に居てくれた。だから、ありがとう」

 ただ、生きたいという欲求。理由も何もかもを置き去りにして、そればかりが先行していた。ともすれば、呆気なく折れてしまいそうだったそれ。支えてくれたのは、他の誰でも無い、目の前の少女だった。

 付き合っていく内に、同情と罪悪感を覚えた。生きたい、ではなく生きなくてはいけない、と思うようになった。彼女一人を、置き去りにしてはいけない、という義務感。同時に、常に感じていた、俺はこの世界に一人だという孤独と、どこか希薄な現実感。それが和らいでいく。いつしか義務感は消えて、どこかに桜がいるのが当然になっていた。

 きっと、そこに居るのは誰でもよかった。他の誰かでも、俺はそうなれたのだろうと思う。でも、こうまでして俺に付き合ってくれるのは、彼女だけだった。そう断言できる。

 だから――

 言おうとして、口をつぐんだ。わざわざ、彼女に言うことではない。

「これから、あの暗黒の太陽を破壊する」

 ぶんぶんと、髪を大きく振り乱しながら首を振る桜。ついぞ見られなかった、感情の動きに根ざす行動。だからこそ、安心できた。

 間桐桜は、心を閉ざしていた。しかし、決して死んでなどいない。

「頼む、俺に令呪で命じてくれ。全力で宝具を放て、って」

「い……いや」

 首の動きは、小さくなっていた。その代わりに、少しずつ角度が深まる。まるで、地面以外何も見ないようにするかのように。

 例外は、右腕だった。左手で大事そうに抱えながらも、それを誇示するようにする。その内側にある、令呪を意識して。

「す、ぐに治ってって、頼む……」

「けど、桜はそれをしないだろ?」

 それで令呪を発動するならば、もうとっくに使用している。また保持しているのは、彼女も分かっていたからだ。今が使い所ではないと。それが分かっていたというのは、まだ令呪を持っているのが何よりの証拠だ。

 彼女にそこまで思われていたと言うのは、素直に嬉しいと思う。誇っていい事だろう。だから、それを最後まで裏切ってはいけない。

「う……ううぅぅぅ……」

 俯いたまま、小さくうめき始める少女。俺の、剣を握ったままの右手を、そっと掴んできた。

 握り返す事は出来ない。もう、その資格は失った。

「や……だぁ。いっ、行かな……いで……」

「……ごめん」

 言葉が途切れる度、小さく嗚咽が漏れる。ぽたり、ぽたりと涙が零れては、荒れた芝生に落ちていく。

 嬉しかった。桜が、ここまで感情を取り戻してくれた事が。悲しかった。結局、俺は彼女を笑わせる事が出来なかったのが。

 受肉を目論んでいた俺。償いは、全てその後ですればいいと思っていた。普通に、人並みの生活をしつつ、少しずつ歩み寄っていけばいい。全部上手くはいかないだろうけど、そのうち心を開いてくれる。そして、いつか普通の人のように、普通に笑えるようになってくれるだろう、と。

 夢だ。

 それも、願い続ければ叶う類いのものではなく。いつか覚めて、置き去りにしなければいけない。ここが、夢の覚める場所。

 俺たちが、同じ道を歩くのはここまで。これからは、別の道。

 世の中には、確かに存在する。覆しようのない、圧倒的な現実が。それは誕生であったり、死であったり。子供の頃の、進路やらもそれに当たるだろう。親には逆らえない。血や社会のしがらみ、逆らえない事なんて、いくらでもある。それと同じだ。圧倒的な現実――人を滅ぼしかねない悪意の太陽。降り注げば、今俺を生かしたところで意味がない。取れる選択肢は一つ、対城以上の宝具を持つサーヴァントが、全力で吹き飛ばす。例え、行き着く先が自身の消滅だったとしても。

「頼むよ。俺はもう、間違えたくない。それに、桜を殺させたくない」

 俯いたまま、顔を見せてくれない桜。未だに、涙は流れ続けている。しかし、嗚咽だけは止まっていた。

 ここで、震える手を握り返せれば、どれほど楽になれただろう。それだけはできない。決断が揺らいでしまう。俺が、死ぬための決断が。

「おかしなもんだな……」

 思わず、笑いが漏れた。あれだけがむしゃらに、生きることだけに固執していた俺が、今は死ぬ覚悟を決めている。

 数々のものを失った。ただの日常と、親しい人からただの顔見知りまで。後は、見たことも無い何かも含めて。それは、置き去りにしたのかされたのかは、まあどちらでも良いだろう。なくした物の大きさは、恐怖心を抱かせるのに十分だった。

 そして、桜に出会った。これで俺が死ねば、また誰かを置き去りにしてしまう。喪失だ。今度は――今度こそ、俺は命を喪失する。それでもいいと思えた。

 失うのが恐ろしいから、生きることに執着した。そして、失うのが恐ろしいから、誰かの為に死ねるのだ。

 家族を失うのは怖いだろうか? 怖いに決まっている。だから、命を賭けられる。親が、子が、兄弟が、家族にそうするように。俺も、そうする。ただそれだけ。誰もがそうする、当たり前の決断。

 この世界に来て、ギルガメッシュになって、現実感がまるで欠けていたのだろう。心のどこかで、まだ物語だと思っていたのかも知れない。いや、そうでなくとも、収まるところに収まると思っていた。なまじ情報を持っていたら。運命というものが、本当にあるのだと。そして、俺は部外者だと。

 馬鹿馬鹿しい事だ。運命なんてものはない。だから、皆が足掻いている。確かに、最初は部外者だったかも知れないだろう。しかし、桜を死なせたくないと思ったその時から、俺は部外者で居られなくなっていた。

 後悔はある。しかし、躊躇は無い。剣を振れる。

「泣かないで、とは言えないけどさ。けど、君を苦しませるものはもう無いんだ」

 家という牢獄も、魔術という足かせも、もう存在しない。血脈という鎖でさえ、この混乱があれば誤魔化せるだろう。

 間桐桜は、もう自由になっていい。誰かに振り回されて、何かのために生きなくていい。自分の事を考えて、自分のために生きたっていい。

 泣くのは、これが最後でいいんだ。

 だから、

「この先を笑って生きてくれ。今は笑えなくても、いつかきっと」

 唸るような声が上がった。嗚咽を無理矢理堪えて、ただの音に変えている。これは泣き声ではない、そう言うように。かちかちと、歯が鳴っている。鼻を啜る音もする。瞳は、水で揺れ動いている。目元を強く擦って、後から溢れ続ける水を、決して零さないように。でも――泣いていなかった。

 俯いていた顔を上げる。くしゃくしゃで、瞼は腫れ上がり、目も赤く、頬にはたくさんの跡がついている。不格好な表情で、しかし桜は、精一杯顔を歪めた。

 まるで、笑っている様に。

「だい……じょっ……だから。もう、だいじょぶ……だっ、から」

 唇を噛んでいる。放っておけば、悲しそうに歪んでしまいそうなそれを、必死に制御するように。端から血を流すほどに、強く。そこまでして、笑顔を見せてくれている。

 咄嗟に桜を抱きしめようとして、左腕が無いのに気がついた。何とかしようとして、必要ないと思い返す。

 彼女はもう、自分の足で立っているのだ。人形のようだった彼女が、心を閉ざして、感情を捨てていた桜が。俺のために、感情が戻った事を見せてくれている。

 あとは、歩くだけだ。俺も桜も、それぞれの道へ。あるべき場所へ。

「――感謝する、間桐桜。お前は最高のマスターだったよ。付き合ってくれたこと、感謝している」

「わた、し……も……!」

 そして、俺は立ち上がり、振り返った。

「うう……うううう……ううううぅぅぅぅぅぁぁぁぁぁ……!」

 堪えきれなくなった嗚咽が、背後から届く。それと共鳴するように、俺の瞳から、一筋涙が溢れた。

 どうしようも無い人間。普通と不可能を言い訳にして、非道を容認していた愚か者。我がことながら、最低の人間だった。だから、最後だけは、いい人で終わらなければいけない。桜との時と涙と笑顔を、嘘にしないために。

 黒い太陽はこの短時間で、さらに一回り大きくなっていた。冗談のような量と怨念は、それが落下するだけで街くらい軽く全滅出来るだろう。それでも、まるで問題にならないが。

 剣が、甲高い音を立て始めた。不揃いな回転の振動が、右手越しに伝わってくる。同時に、発散される圧倒的な圧力。黒い太陽のように、怨念という不純物が混ざったものではない。至極単純で純粋な、ただ力という名の圧力。世界を滅ぼした、それを象徴する膨大な因子の塊。

「桜、お前のサーヴァントとして、最後の力を振るう」

 宣言をしながら、しかし背後は向かない。もし振り向いてしまえば、それは無理に笑ってくれた彼女の努力を、無駄にする事になる。

 それに、最後に焼き付けた。間桐桜の、とても無様で、けど渾身の笑顔を。土産に持って行くには、十分すぎるだろう。いや、こんな俺には上等すぎるくらいだ。

「これで、さよならだ」

「ちが、う」

 小さな声と共に、服が引っ張られる。

「――またね」

 ああ。その通りだ。

 勝手に会って、勝手にマスターにして、そして勝手に別れる。そんな勝手ばかりの話があるものか。

「また会おう。いつかどこかの巡り合わせで、必ず」

 しっかりと、言葉で約束を交わす。また、嘘に出来ないことが一つ増えた。もう一度彼女の前に現れるために、何とかしなければいけないな。

 もう、既に一回、別人として別世界に行く、なんてあり得ない経験をしているのだ。或いは願えば、もう一度くらいあるかも知れない。無かったら、やっぱり自分で何とかしよう。何とかならなくとも。

 たった数日、しかし俺の人生で一番濃い日々。

 無理矢理戦争に巻き込まれたし、逃げたら即死亡だし、殺人事件には巻き込まれるし、過去の英雄と戦わせられるし、最後にはアヴェンジャーの相手なんてさせられるしでさんざんだった。血なまぐさい癖にやたらファンタジーだしで、そりゃ俺でなくても現実逃避くらいする。

 でも、無ければ良かったとは、思えない。アーチャーにならなければ良かったなんて、思わない。

 元の世界の俺は、どうなったのかな。死んだのか、それとも普通に生きてるのか。死んでいたとしたら、向こうの知り合いに謝らなくちゃいけないな。

 こっちに、大切な家族が出来てしまったよ。彼女を置いては帰れない。だから、ごめん。これで本当に、さようならだ。

 父さん、母さん。あとは、俺が会った全ての人達。俺はもう居なくなるけど、貴方たちは、これからも生きてくれ。

「これで後はなんもねーよクソッタレ。地獄に叩き込んでやるぜ」

 空の上で恨めしげに浮いているアヴェンジャーに、届かぬ言葉を投げつける。恨めしいのは俺の方だ。

 けど、もし俺がアーチャーになった事に、アヴェンジャーが影響しているのならば。その点だけは、感謝しなければいけない。最悪の経験で、最高の出会いだった。

「桜、頼む」

「……はい」

 大きく、左足を踏み込む。アイドリング状態だった剣の回転が、爆発的に加速した。

 甲高い音が、周囲に響き渡る。互い違いの回転に引きずられるようにして、風も逆回転の渦を作っていた。渦に収まりきらない風は鋭い牙となり、地面に接触、抵抗もなく軽々と抉り落としていた。

 それも当然だ。剣が生み出している風は、ただの空気の塊では無い。いや、そもそも空気ですらなかった。回転が生み出したのは、擬似的な空間の断層。空間そのものを攻撃している以上、ただの物質で抵抗する術などある筈がなかった。

 少しずつうなり声を大きくしていくエア。出力が上がるにつれて、存在感が希薄になっていく俺。自覚できるほどに迫っている、死の瞬間。

 踏み込みに合わせて、腰を落とす。剣を思い切りなぎ払えるように、後ろに構えた。地面と剣の距離がさらに近くなり、派手に抉られる大地。巻き散らされた土と小石が、夜空に舞う。

「アーチャーさん……」

 桜の呼び声に、令呪が呼応する。魔力が爆発的に膨れ上がり、同時にエアも臨界点近くまで出力を上げた。

 いつでも渾身の一撃を放てる状態。それを作り上げながら、空を睨み付けた。正確には、その先にある黒い太陽を。斜線上には何も無い。おぞましさを余すところなく伝える、空白だけが漂っている。

「聖杯戦争を、終わらせて」

 そして。願いは正確に、俺に届いた。

 流れ込む魔力に、桜のあらゆる感情が乗せられていた。悲しみと、喜びと、あとは感謝と。言葉に出来なかった事が全て。

 俺に。俺の軽率な行動に。彼女はこんなにも救われていたのだ。彼女の想いに見合う何かなど、全く返せていないのに。ありがとう――念じながら、万全の状態よりもさらに充実した体に、力を込めた。

 この一撃で。その全てを、桜に返せるように。

「天地乖離す(エヌマ――」

 甲高い音は、ついに耳障りな騒音へと変わった。空間が引きずられ、断裂していく音。

 アヴェンジャーがやっと危険を察知したのか、大きく揺らめく。しかし、ケイネスが死を賭して作り上げた魔術は、その程度では破れはしなかった。球形をどうしても崩せず藻掻く太陽。

 すまない、とは思う。アンリマユは人間に対する絶対的な悪。だからといって、俺はそれを弾劾出来るほど大層な人間では無い。だが、俺には他の何よりも優先しなければいけない事がある。お前の事を考えることも、哀れむ事もできない。

 間桐桜を取り巻く全てのしがらみを、消し飛ばすように。俺は、腕を大きく振り抜いた。

 そして――

「――エリシュ)開闢の星」

 ――聖杯戦争は、終わりを告げた。


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