ふと思いついたFate/zeroのネタ作品   作:ふふん

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二人は分かり合えない

 体に魔力を通し、魔術を発動する。上手く動けば足は速くなるが、その分負荷が増す。失敗しても、少しばかりの苦痛があるだけ。

 どちらの方がいいのかと問われれば、成功した方がいいのだろうが。どちらであっても、不毛な事には変わりない。終わりの見えない道を歩く時は、いつもそうだ。当ての無い道を彷徨いながら、しかし考えることもできない。とにかく、何かが、どこかに届くことを願って、いつも。しかし、立ち止まることだけはできない。

 いや、そもそも明確に『終われる』道など、見えたことが無い。切嗣は自嘲しながら、崩れたコンクリートと鉄骨の山を走った。

 常に人を救おうと走っていた。満足したことは無い。どれほど上手くこなしても、必ず不満があったのだ。不満を解決できぬまま、救おうとする人はさらに多くなり。不満はやがて、強迫観念となって襲いかかり始めた。

 皆は救えない。だから、より多くを救う為に、少ない者達を切り捨ててきた。例え、そこに悪が無かろうとも、誰かを救うために殺し続けてきた。

 いつからだろう……立っているのすら、こんなに辛くなったのは。いつからだろう……進む先が見えなくなったのは。

 ぼやけた思考に浮かぶ疑念、その全て切り捨てた。いつものように。

 山のような屍を築いた。後戻りなど、とっくに出来やしないのだ。いつも思ってきた事。今ここで倒れて、奪ってきた命を無意味にはできない。

 踏み込んだ足が笑う。それは、体重に匹敵する重装備を背負っているためか。それとも、精神的なものが理由なのか。結構な距離を無茶して、魔術の補助で無理矢理進んでいる。どちらであっても、おかしくない。

 歩みそれ自体には、迷いが無かった。まだ何も分かっては居ない。理論を求められたら、答えられないだろう。傍目に見れば、闇雲に走っているだけだ。しかし、切嗣は近づくにつれて確信していた。この先で待っている敵は誰かを。

 当然、言峰綺礼の居場所を知っている、などという事は無い。ただ、いるであろう場所に確信があった。根拠のない自信。しかし、確実にいる。

 近い……それを感じ取って、破壊された壁の影に隠れた。

 静かにしゃがみ、物陰からそっと覗く。世界はまだ夜の闇。しかし、魔術師であればそんなものは、どうにでもできる。慎重に目を凝らせば……いた。

 音を立てないように、慎重に荷物を置いた。体重が一気に半分近く減る。悲鳴を上げてきた肩が、無くなった負担に歓喜の声を上げていた。

 ひっそりと、物陰から身をさらす。周囲を見回して、ちょうどいい残骸を見つけた。その上に、持ってきた装備の中でも最大火力の一つ、アンチマテリアルライフルの銃身を乗せて、固定する。

(まあ)

 スコープから覗く言峰綺礼の横顔は、涼しいまま。今、街の一角をまるまる占拠して行われている戦争、それすら気にしていないように。ただ、夜風に靡かれるまま、直立している。額にうっすらと伸びていた汗が、すっと引いた。不安定だった意識が、その瞬間だけはフラットになる。いつもの、人を殺すときに自分を鈍化する作業。

 狙うのは胴体。当るならば、場所はどこでもいい。どうせ、どこに当たったって粉々だ。

(無意味だろうけどね)

 諦めながら、引き金を連続で引き金を引き絞る。瞬間、銃口と綺礼の進路上に現れる、黒い壁。セイバーがサーヴァントだと言っていた、何かだ。

 対応される事は無論、近くにまで寄っていた事まで、知られているのは予想済み。なにせ、ここに付くまで、蟲の襲撃を一度も受けていないのだ。意図的に避けていたとしか思えない。

 音を置き去りにする弾丸が、サーヴァントの群れへとめり込む。それで対象がどうなったかなど確認しない。しようも無い。とにかく、連続して引き金を引いた。暗闇には目に痛いマズルフラッシュ、光量に比例する圧倒的火力。弾丸には、対サーヴァント用として用意した純粋魔力弾頭――対魔力に関係なく、サーヴァントの防御を貫ける。音速近くで動き、音速の十倍ある速度の攻撃に対応するサーヴァントに、使う機会があるかは分からなかった装備。そんなものを、予備弾倉を含めて、全て叩き込んだ。

 蟲の壁は分厚い。全弾消費し切っても、向こう側にいる筈の言峰綺礼は見えなかった。

 用が無くなったアンチマテリアルライフルを、その場に投げ捨てて。地面に転がしておいた大筒を二つ、肩に担いだ。対戦車ロケット、個人携帯兵装では最大火力に部類される。対サーヴァント効果はライフル弾よりも劣るが、当たれば威力は絶大。

 照準をつけた所で、一瞬迷う。ここで、奴を殺した所で、一体何の意味がある? 既に、聖杯の行方は己の元より失ったに等しい。それでもやるのか――愚問だった。迷っても、何も見えなくとも、ただ足を進める。いつもそうしてきたように、今日もそうする。それだけだ。

 ロケット弾は吸い込まれるように、壁に着弾する。闇夜に一瞬咲く、煉獄の花。人間どころか、現代の主力戦車すら仕留める兵器。

 しかし、それすらサーヴァントの前には、無力だった。火炎が花のように広がったという事はつまり、瀑布と高熱が奥まで届いておらず、その場で拡散した事の証憑。

 もう役に立たない、ただの筒になった発射台を落とす。蟲の壁が崩れて、内側の男が姿を現す。それを確認して立ち上がった切嗣に、やっと綺礼は視線を向けた。

「終わりか?」

 至極どうでも良さそうに、言う綺礼。

 こんな男では無い。少なくとも切嗣の知る言峰綺礼という男は、一切の余裕を失って、自分に執着してくる男だった。今の状況を無視するような男では、絶対にない。

 彼にどのような心境の変化が訪れたのか。全く理解できなかったが、しかし。とりあえず、切嗣は足を進めた。

 それは、自殺行為に他ならない。しかし、攻撃されないという自信があった。

 接近して、言峰綺礼を殺せそうな武器は、まだある。全く使う気になれなかったのは、サーヴァントの反応速度を超える自信がなかったから。そもそも、言峰綺礼自体が、恐るべき手練れである。反撃されれば、一ひねりにされるだろう。

 目の前、数歩分の距離をあけて、切嗣は立ち止まった。

「お前には、聞きたいことがある」

「私に、聞きたいことだと? それはまた、立場が逆転したものだ」

 何に向けているか分からない笑い方。そんなところばかりは、以前の言峰綺礼らしい。

 それが、隙なのかは判断に困った。そもそも、今の言峰綺礼は隙だからに見える。だが、とにかく切嗣は、経験に従った。つまり、右手に持っていた短機関銃を跳ね上げて、男に向けて乱射。

 蟲は余裕を持って、全ての弾丸を受け止めた。その上、短機関銃にも取り付いて、破壊し始める。急いで手を離して、なんとか接触だけは避けた。

「ずいぶん厳重に、自分を守っているな」

「守っている? ああ、勘違いするのも仕方がないな。これは私が命じているのではなく、勝手にやっている事だ。仮にも依り代である私に死なれるのは、都合が悪いのだろう」

 つまりは、言峰綺礼はある程度こいつらに命令できる。その上でこれは、綺礼を守るために、自動的に動く。厄介な機能だ……それこそ、宝具のような。

 チッ、と舌打ちをして。切嗣は、左手に持つ銃も手放した。ライフルやロケットすら通用しなかったのだ、こんな豆鉄砲が通る筈が無い。少なくとも、サーヴァントの制御が一瞬でも途絶えるまでは、何もできない。意味が無いから持っていなくても同じだ。それに、もし武器一つ捨てただけで油断をしてくれれば、御の字である。

 切嗣は攻略に失敗した。いや、最初から成功させる手立てがなかった。

 誰かが、この状況を変えるまで。そして、一瞬でも隙ができるまで。切嗣は生きていなければならない。

「それで」

 まるで、銃で撃たれた事など無かったかのような対応。いや、声の質から何から、綺礼には一切影響を与えられていなかった。

「聞きたい事があるなら、早めにした方がいい。別に急いではいないが、時が来れば中断させる」

(なぜお前は、そんなに穏やかなんだ)

 思わず口から出そうだった言葉を、無理矢理飲み込んだ。

 言峰綺礼は、切嗣の殺意に全く反応しなかった。できなかったのではない。分かっていて、反応しなかったのだ。奴は、銃を向けられた瞬間、確かに視線をこちらに飛ばしてきていた。おそらくは、単純な反応速度であれば、切嗣以上。接近戦では勝ち目が無いだろうと思わせる、それほどの反射神経。

 ならば、蟲を過信しているのだろうか……それも否。彼の言動からも、様子からも、蟲を信じている様子は全くない。

 何より、確信があった。言峰綺礼は、銃弾が当たるとしても、そこで佇んでいただろうと。まるで――聖者のように。

 頭が混乱する。以前感じていた危機感は、もう覚えない。目の前にいる男が言峰綺礼だと、自信が持てなくなっていた。何があれば、人はこうまで変化するのだろう。指は、自然と引き金を探していた。誰かを助けるためでは無く。ただ、自分に都合が悪い者を消すため――己の悪意の為に。

(まだだ……ひとつずつ確実に、時間を引き延ばす。確信に迫るのは、後でいい)

 呼吸を落ち着けた。綺礼が悪意に無反応だろうと、虫は敏感だ。今も、切嗣のそれに反応して、ざわめいている。

 感情を消すのに苦労は無かった。元より、命の危機を感じず、敵意もない相手。自分さえ誤魔化してしまえば、あとはどうにでもなる。一番根深いものが、恐怖であっても。

「お前はなんで、アイリを生かしたんだ? 聖杯を奪うならば、心臓ごと抜き取った方が簡単だった筈だ。いや、それ以前に、聖杯の事はどこで知った?」

「聖杯については、間桐臓硯が仕入れてきた。奴は、アーチャーから盗み聞きしたようだが。おおかた調べ物でもしていたのだろう」

 綺礼は、黄金の杯を眼前まで掲げた。親指で撫でて、器を回しながら言う。

「聖杯も完全では無い。端末を介しなければ、追加で力を寄り寄せられん。少し、欠け落ちがあるのだろうな。これがアーチャーの仕業である可能性は高いが……これ以上は知らん。知りたければ、本人に聞くのだな」

 つまりは、このような事態になったのは、アーチャーが原因であり。同時に奴のおかげで、ギリギリのラインで踏みとどまっている。

 とにかく、やたらに聖杯戦争をかき回す奴だ。あれのせいで、最初からイレギュラーばかりが起きる。なまじ強いせいで、倒すことも出来ない。

「それと、アイリとはアインツベルンの女の事であっているな? ならば、奴を生かした理由は簡単だ。そもそも殺すだけの理由が無い」

「殺すだけの理由がないだと? ……はっ」

 吐き捨てるように、笑い飛ばす。全く持って、面白くない冗談だ。

「元代行者が、理由が無いから殺さないだって? 嘘にしたって、もう少しましなものがあるだろう」

 言わば、聖堂教会の殺し屋。神を信仰しながら、その名の下にあらゆる敵を殺し続ける反逆者。奴らにとって、敵や怪しき者は、とりあえず殺す対象でしかない。魔術師とは別の意味で、頭のおかしい者達が集まっているのだ、聖堂教会という場所は。まあ、そうでもなければ。魔術協会と、延々殺しあいをしたりなどすまい。

 そして、殺すだけの理由。わざわざ心霊医術で、丁寧に心臓を傷つけぬよう、聖杯を取り出すなど。そんな面倒と手間がある時点で、殺して奪うだけの理由になる。なにより、アイリスフィールをいたわる理由が、何も無かった。

「ふむ」

 顎に手を当てて、悩み始める綺礼――あるいは、ポーズだけそうして見せている。どちらにしろ切嗣は、彼の事などよく知らない。表情筋一つ動かさないのでは、その内心までは読み取れない。

「嘘をついたつもりなどないのだが。そもそも、だ。衛宮切嗣。私は、誰一人として殺すつもりはないのだよ」

「――は?」

 何を言っているのだろうか。

 台詞はあまりに理解しがたく、まともに反応を返せない。

 殺すつもりがない? この、命を浪費しているような男が? 冗談だとしても、馬鹿馬鹿しすぎる。

「今現在も、正体不明のサーヴァントを使って虐殺を繰り返しているお前が言える事か」

「そこでも食い違いがあるか。お前が言うところの正体不明のサーヴァント、アヴェンジャーは無形。故に、間桐臓硯という端末を利用して、この世に形を作っている。そして、飲み込んだ者達は聖杯に蓄えられる」

「聖杯、だと?」

 なぜか。怒りがわき上がった。ぞわりという、背筋を震えさせる悪寒。理由の分からない警戒心が、膨れ上がり続ける。思わず、敵意が漏れた。当たるはずの無い銃すら、向けたくなってくる。絶対に、それは聞いてはいけない。そんな気がしてならなかった。

「その通り、聖杯だ。サーヴァント、アヴェンジャー。誰からも望まれなかったもの。無であるが故に、限度も無い。人々は殺されたのでは無く、魂ごとアヴェンジャーに同化しただけだ」

「……知っている」

 だから、言うな。声は、乾いた喉に阻害された。上手く言葉にならない。

 アイリスフィールから、既に話は聞いている。それが聖杯からあふれ出たものだという事も、臓硯を吸収して今の形になったと言うことも。だから、何だと言うのだろう。自分でも分からなかった。

 もしかしたら、聞かなければ、まだ可能性があるかも知れない。確定で無ければ不確定。ならば、まだ信じる余地があるのではないだろうか。愚かしいを超えて、哀れさすら感じる願望。

 しかし。

 言峰綺礼は、無慈悲であり、無感動であった。

「かつては違ったのかも知れない。しかし、今はもう、こう違ってしまったのだ。アヴェンジャーという、無垢に汚れたものへと」

 ……馬鹿な。

 アヴェンジャーは、言峰綺礼、間桐臓硯という二人の外道によって。あるいは、他の誰かによって変質されられたもの、そうでなければいけないのに。それこそ。最初から汚れたものが、英霊の具現という奇跡を起こしていたと言われるより、遙かに説得力がある。そして『取り返し』がつく。少なくとも、そう思える。

 それがどうしようもなく汚れたものだなどと、そんな事があっていい訳がない。

 無垢なる奇跡。万能の釜。そして、勝者の願いを叶える鏡。それが聖杯である筈だ。その中身が、美しいものである筈だ、とは言わない。しかし、あのような、おぞましいものであっていい筈が無い。もし、それが本当であるとしたら――どんな風に、願いが叶えられると言うのだ。世界の恒久的な平和という願いが。

 こんなものが、結末だと言うのか。あらゆる過去を置き去りにして、無意味にして。妻子すらも犠牲にしようとした。そこまでもしても、平和が欲しかった。もう誰も涙を流さず、不幸を嘆かない、そんな世界を。求め続けたと、言うのに。

 その、最後の希望が。

 これなのか。

 聖杯は、求めたものではなかった。衛宮切嗣の願いを届け、世界を光で満たすようなものでは。ならば、もう彼に。動く理由は無い。

 揺れる体は、そのままたれ込みそうになって。何故だろう、自分でも分からぬうちに、踏みとどまっていた。足に力など入らない。今でもふらつき続ける。それでも立って、言峰綺礼を睨み続ける。

 許されないのだ。衛宮切嗣という、正義の味方が倒れることは。今まで犠牲にしてきた者達の魂、背中で嘆き続けるそれを、無意味にしてしまう。

 数多の命を無価値にしても、無意味にはできなかった。まだ、折れることはできない。少なくとも、聖杯をなんとかするまでは。衛宮切嗣が正義の味方をやめる事は、許されなかった。

「お前は……そんなものを持って、何を企んでいる」

「何も」

 端的に答える綺礼の言葉は、半ば予想したものではあった。

 彼の事を理解したわけでは断じてない。ただ、思い知っただけである。言峰綺礼は、絶対に理解できないと。思考は理解できずとも、言っている事が理解できるのは、幸いと言っていいのか。少なくとも、切嗣には幸運と思えなかった。

 す――と、綺礼の視線が滑り、切嗣のそれと交わる。彼の目を見て確信できる事、奴は聖人か、さもなければ死人だと言うことだ。どちらであろうとも、常人にとってはただの狂人。

「主の召されるがままに――誰にも望まれなかった命、その誕生を祝おうとしただけだ。他の誰もがそれを憎んだとしても、私だけは」

「神だと? 下らない」

 吐き捨てるように言った。いや、実際につばを吐き捨てながら。

 この世界を見て、まだ神に縋れると言うのか。誰もが泣き、誰もが呪うこの場所で。未だに、神の加護とやらを期待している?

 衛宮切嗣は、とうの昔に断言していた。神などいない。もしいたとしても、それは役立たずのクソッタレだ。鉛玉一発にも劣る御利益しか持たない。だから、聖杯を求めたのだ。意思もなにもない、ただ願望を反映するだけの機能。神に願うだけの価値が無いなど、幾度も刻まれている。

 そんなものに依ると、言峰綺礼は言った。

 だからだろう。

「そうだな」

 肯定の言葉が返ってきたのは、予想外だった。

 切嗣は、小さく驚いた。その時だけは確かに、聖杯が汚れていた事の絶望すら薄れさせて。ただ、大きく目を見開く。

「何を驚いている。そうおかしな事でもあるまい。私のような、聖職者であれば特に」

 視線を外すと、綺礼は前を見る。どこにも焦点が合わなく、そしてどこも見ていない。見ている世界は、常に内側にしかなかった。

 つまるところ。言峰綺礼は、とっくに見限っていたのだ。

「神は実在する。サーヴァントという存在が、それを証明してくれたのだ。所で、知っているか? 奴らは神の血を引いていながら、あの程度の力しかないそうだ。なんともまあ、矮小な神だ」

 嘲る。切嗣がそうするのとは、全く別の理由で。

 確かに、英雄は気に入らなかった。殺戮者でありながら、その事実から目をそらして己を誇っている所が。しかし、綺礼のそれは、事情が違う。

 彼は英霊の行いそのものには、何ら感情を抱いていない。いや、英霊そのものを、一般人よりも力が強いだけ、程度にしか思っていないのだろう。問題は、英雄と呼ばれる存在の多くに、神に連なる者達がいると言うこと。そして、神に通じておきながら、その力も、精神も、不完全極まりない。

 完璧である筈の神が。不完全な者を量産し、是としている。

「――馬鹿にしている。そうは思わないか? 我々のような、救いを求める者達を集める、その根元が……これだ」

 言いながら、綺礼は胸元に手を入れた。取り出されたのは、使い込まれた――しかし、しばらく手入れをしていないのか、薄汚れたロザリオ。

 それに力を入れて、チェーンを引きちぎった。零れた鎖の破片が、小さな音を立てて転がる。その後を追うように、ロザリオも廃墟から転がり落ちた。見送る綺礼の瞳から、初めて強烈な感情を感じる。侮蔑だった。

「神は人を救わず、道も示さない? 違うな、救えず示せないのだ。そんな力など、はじめから持っていなかったのだよ。思い知らされた。私の空虚を、埋めるものはないと」

 もう一度、綺礼は切嗣を見た。

 感情に染まった視線に捕われながら、何故か切嗣は安心した。恐るべき敵であり、理解しがたい狂人。なのに、安堵できたのは、綺礼がいままでより、余程人間らしかったから。

 そのはずだ。だから、

「分かるだろう、衛宮切嗣。最初は、お前は私の見つけていない答えを持っているのだと思った。次は、私とお前は全く違うのだと諦めた。そして今は、最も遠い隣人だと思っている。それを受け入れるかどうかは別の話にして――私を理解できるとすれば、それはお前をおいて他に居まい」

 この狂人の事など。理解できたから安らいだ、などという筈が無い。

 皮肉でも何でも良い。とにかく、何かを言い返そうとして、しかし言葉は浮かばなかった。せめて、と何かをはき出そうとして、渇いた喉ではつばも出ない。

「私とお前の違いは、詰まるところ本質の違い、それだけだった。壊れた行動、壊れた思想、壊れた願い。何もかもが異質でありながら、近い。ただ、求めたものだけが、決定的に違う。人のために自分を捨てた聖人よ。私にはお前が眩しく見えていたのだろう――私は、自分のために人を捨てることしか出来なかったのだから」

 お前の事など、理解できないし理解するつもりもない。

 だから。早く。

 その口を閉じろ――理解をして、しまう前に。

「私の妻は、私の為に死んでいった。私が、人を愛せると証明するために。……涙が出たよ。その悲しさが、一体どのような意味のものであったのかは、分からなかったが」

 言峰綺礼は、願いが分からなくなんかない。殆ど、分かっていたのだろう。それに蓋をして、見なかった事にしただけで。深く深く感情を沈めていく内に、いつしか悲しみの理由に悩んだ事すら埋没させて。彼は、ただの求道者に戻った。

 しかし、結局は業から逃れられなかった。

 もし、そこで普通に愛せていたなら。そうでなくとも、普通に愛していると、自分を偽り続けられていたら。こんな所で、壊れている事もなかっただろう。それが、できていないと言うことは。つまりは、妻が死を賭しても、まだ分からなかったのだ。

 かつて姉のように思っていた人がいた。かつて母のように思っていた人がいた。そこに淡い恋心があったのかもしれないし、無かったのかもしれない。成就したかも知れないし、失敗して涙したかも知れない。ただ、一つ。分かっているのは。もし、そんな夢の続きを見ていられたのならば。

 こんな所で、衛宮切嗣などしていなかったであろう。そういう、もしも。

(違う)

 否定する。それが、どれだけ無意味でも。そうすることで、確かに差異があると信じる。

 自分と、言峰綺礼は。絶対に同種などではない。

「彼女の死を無意味にはしても、無価値にはしたくなかった。だが、それでは満足できなかった。彼女の死に、意味を作りたかった」

「それは、さぞや聖女のような女だったんだろうな」

「――分かってくれるか」

 皮肉のように言った言葉。しかし、返ってきたのは肯定だった。

 そうだろう。それ以外ない。なにせ、切嗣だって同じだったのだ。アイリスフィールのような女で無ければ、きっと彼は、妻を妻と思うことができなかった。自分を自分たらしめる、最重要な欠片の一つ。自分がそうだったのだから、相手のそれが分からない筈が無い。

 綺礼の顔が、何の含みも無い笑顔になる。

「信仰を続ければ、何かに尽くせば、もしくは、他の何かで。いつか、報われると思っていた」

 そんなわけがなく、それが分からない筈も無いのに。それでも縋り続けたのか、もしくは認められなかったのか。

 切嗣と綺礼。二人が強く拳を握り込んだのは、殆ど同時だった。

「しかし、いつも裏切られる。自分が苦悶でしか満たせない、ただの空虚であったと再認させられた。嘘をつき、縋り続けた神ですら、それに足る存在で無いと思い知らされる」

「そんなものは、信じる方がどうかしているんだ」

 やっとの思いで口に出せた言葉は。誰かに向けたようで、その実、自分に向けた諦めの文句だった。

「その通り。全く持って。しかし、それが分からなかったからこそ、別の答えを持っているように見えたお前を、必死になって追ったのだろうな。現実は、全くの勘違いだったが」

 惨めに転がる十字架、それに蟲が群がっている。神を移し見るための偶像を汚されて、しかし気にする者はここに居ない。いや、本当は。世界の誰も、そんな事を気にしやしないだろう。宗教家が信じているのは、本当に神なのか? 本当は、宗教という枠で集まる金や権力なのではないか? そうだとして、誰が責められる?

 彼らはいつだって曝されている。神がいかに無力で、矮小であるかを。人に神という希望を信じさせながら、常に現実に身をすり減らす。

 それでも、頑なに信じようとしない者がいた。神を、ではない。現実が無情で、どこまでも現実的であるという事実を。それが、言峰綺礼であり――衛宮切嗣である。

 切嗣は、それを貫き通した。ならば、綺礼はどうしたのだろうか。

「――それでも、私は神を信じる」

 その言葉は、ここに来てから。本当の意味で、初めて予想外だった。思わず、ぽかんと口を開く。

「驚くことはあるまい。お前だってそうなのだから」

「……生憎と、僕は神を信じたことが無くてね。一緒にされても困る」

 そういう事では無い、と分かっていながらも言う。自覚があるのを知られているようで、それに言峰は反論しなかった。ただ、不気味な笑顔だけがそこにある。

 吐き気すら覚える会話から、意識を無理矢理逸らす。これ以上続けてしまうと、本当に頭がおかしくなってしまいそうだ。正常化(できていない)脳で考えたのは、それでもやはり、言峰綺礼の事だった。どうにかして、奴を倒さなければならない。少なくとも、聖杯を奪って、その制御の半分を喪失しなければ。そのために、奴を殺す。絶対に殺す。

 そうすれば――もう余計な事を、自覚する必要はない。

「私が信じるのは、虚像の神だ。断じて、現実に存在する超越者が、あたかも創造主のような顔をしてふんぞり返っているような、そんなものではない。お前だって、そうだった筈だ。皆が謡う、ありきたりで誰も救われない正義など信じない。誰もが救われる、己の思い描いた正義を行使してきた――そうだろう?」

 うるさい男だ――時計に視線を落とす。さっきから何秒も進んでいない。時間は敵だった。だからといって、それを見続けてどうなるものでもない。ただ、そうしていれば、綺礼を殺す事に集中していられる気がした。

 切嗣が綺礼を理解する必要など無い。同じように、理解を示される理由だってなかった。理由が無いのならば、そうされてはいけない。ただの敵だ。それでいい。そうであってくれ。

「戯れ言はたくさんだ」

 その言葉が、相手を気にしている何よりの証拠になると分かっていても。口から勝手に、飛び出ていた。

「神は虚像こそが良い。そうすれば、無遠慮に縋ることも、非難することもできる。例えば、真に信仰を捧げることも。私の醜悪な本性、それに蓋をして虚無となっても、構いはしない。一生何かに届かないと理解してしまっても、無条件に信仰し続けられる神が居るのであれば。私はこの世で、誰よりも敬虔な信者だ。もう、己の本性が何であろうと、存在しなかろうと、悩む必要は無い。全て、神に捧げたのだ」

 だから。自分は救われたとでも、言うつもりなのか。御託だ。そんなものでは、どこにもたどり着けない。

「うるさいと言っている……!」

 腰の手榴弾に伸びた手を、ありったけの自制心で止めた。ピンを抜くよりも早く、蟲達が反応する。感情よりも、義務感と経験が勝った。

「おかしな奴だ。自分で始めた話だと言うのに。ましてや……お前にも心当たりがあるだろう?」

 薄く笑って言う綺礼に、しかし揶揄している様子は無い。あくまで、当然の事として語っている。

 認めてしまえば、それは否定する余地無く正しくなってしまう。絶対に肯定など、出来るはずが無い。出来ることならば、今すぐにありったけの火力で、言峰綺礼を殺してしまいたかった。

 なにより。その先は、絶対に聞いていけなかった。

「そうすれば。私は妻の死を、無駄にも無意味にも、しなくて済むのだから」

 それは。

 願いを決意してからの、妻との時間を。憎しみの無い世界を祝った、娘との約束を。その全てを裏切ってしまった切嗣に対する、最悪の皮肉だ。サーヴァントを失い、そして聖杯もまがい物だと分かり。もう、どこにもたどり着けない。どうしたところで、もう彼女たちの犠牲は、無駄にしかならない。

 同時に、怒りがこみ上げた。理不尽だが、それを取り繕う気にさえなれない激憤。胸の中に、ふつふつとわき上がる。なぜ、お前が。

 なぜ、衛宮切嗣の願いは断たれて。言峰綺礼の願いは、成就されようとしているのだ。奴の願いが叶っていいならば、自分の願いが叶っても良かったはずだ――

 彼は気付かなかった。いや、またしても、目をそらした。

「アヴェンジャーは、言わば無形無意識、霊長類にある負の感情の映し鏡。その本質は、呪いのエーテル塊にある。これによって全人類が飲まれれば――真の平等が訪れる。誰かが誰かとの違いに悩み苦しむ事もない。全てが隣人となれる。これは、救いだ」

 その思考は、根本的な方向という意味において、綺礼と同じだと認めている、という事に。

 切嗣はそのおぞましい姿に、体を震わせた。彼は、これほどまでに驚異的な存在であった。同時に、自分もそういう存在で在ると、知ってしまった。

 無形の怪物。善意でも悪意でも無い。独自の思考と意思によってのみ機能する、出来損ないの機械のようなそれ。つまりは、それによってもたらされるもの。害でも利でもなく、ただの異変。善悪も利害もひっくるめた、異常しかもたらさない。そんな訳が無い。人を救うために動いてきたのだ。それが、無意味な事だったなど、そんな事、あっていい筈が無い。

「世迷い言を!」

「嘘だな」

 切嗣が発した否定の言葉は、即座に否定される。

「お前は私の考えを、戯れ言だなどと思っていない。私とお前の違いは、苦痛か享楽か、その程度でしかないのだから」

 胸が、痛む。

 原因不明の激痛。そして鈍痛。心臓よりもなお奥深く。決して手の届かぬ場所で、それが痛み続ける。

「僕は……ただ世界の平和の為に」

「私も、ただ信仰の為にだ」

 両断するような勢いの言葉。

 いや、切嗣がそう感じただけだ。彼は、ただ自分の考えを言っただけであり。それ以上にも以下にもなっていない。もし、それ以上の何かを感じたとするならば。確実に、受け取った側の問題だ。

 アヴェンジャーに飲まれた世界、そして聖杯に願いを届けられた平和な世界。超越した存在の干渉を受けたそれらに、どのような差があると言うのか。

 肉体のあるなしか。世界に満たされたものが、幸福か怨念かだろうか。それとも……笑ってしまうような話だが、そこに至る過程を作った人間の違いでも、論ずるべきか。そうであったとして、そこに意味を見いだせる存在はどこにいるのか。どちらであったとして、どうであったとして、無意味に帰すと言うのに。

 価値の崩壊に、優劣を決定づける最終手段の喪失。つまりは、完全なる平等。そこで得られる感情がどのようなものであれ、全ての人間に割り振られる。普通だ。平坦に整列した感情、それ以外に何もない。種類による違いを考えたところで、どうしても実りある結論にはたどり着けないだろう。

 行き着く先は、どちらも同じ。ただの――停滞だ。緩慢に過ぎゆくだけの世界が待っている。

 独りよがりな正義か。独りよがりな信仰か。どちらであっても押しつけるだけ。自分が絶対的に正しいと、誰に認められるわけでも無く、自分だけが信じて。一人しか居ない、完璧かつ簡潔した世界。

 誰が望む?

「…………っ!」

 何を言えばいい。どんな反論をすればいい。分からない。

 この世は地獄だ。欺瞞に満ちている。いつだって、誰かが救いを求めている。幸福の分だけ、不幸が量産されて。それがどうしても許せないから、正義の味方になった。

 言峰が成そうとしていることは、間違いなく悪だ。切嗣が対立する理由は、それだけで十分。だが、行き着く先の光景に差を見いだそうとして、どうしても成功できない。地獄のような光景と、天国のような光景。地獄には地獄しか、天国には天国しかないならば。不幸と幸福の差すらあり得ない。

 間違っていないはずだ。衛宮切嗣の願いが、こんなに醜悪である筈が無い。

「私に目的などというものがあれば、結局はその程度のものだ。神が囁くままに、神が正しいと言った事を遂行する。そこに、私の感情が介入する事は無い。それでいい」

 木に型を作って、無理矢理ガラス玉をはめ込んだような。人形だ。とても不出来な、人間のふりをした人型。どれほど人間のふりをしたところで、絶対に人間にはなれない。

 一つ、だだの人形と違うのは。意思を反映するのが他者では無く、自己だという点だ。所詮それを遂行するための道具でしか無い以上、やはり人形以上にはなれないが。最初から分かりきってる事。そんなものに、人間を理解できるわけが無い。理解を出来ているならば……切嗣は自嘲した。もう少し、利口なやり方があった。あるいは、人が死ななくて済むような。

 人形であり、信徒である言峰綺礼。

 殺人鬼であり、正義の味方である衛宮切嗣。

 どこにもたどり着けず、何者にもなれない愚か者。ただの願望成就機関。

「衛宮切嗣、私を止めるか? 私が成そうとも、お前が成そうとも、違いはないぞ」

 分かっている。人に理解されず、理解できない存在だった。人のような何か。おそらくは、人と交ざって生きるべきではない。そして、こんな事は誰も望んでいない。助けるべき相手ですら。望まれていないのに、小さな差異を論って何になる? 意味など無かった。そのまま倒れたところで、何も変わらない。

 それでも、衛宮切嗣は。立ち続けて、そして銃を握った。

「駄目だ。僕はそれを許せない」

 綺礼は、納得したように首を縦に振る。

「ああ、よく分かるぞ、衛宮切嗣。そうだ、私が逆の立場でも、きっと許せなかっただろう」

 指の間に、刃なしの柄が握られた。今はなくとも、少しでも魔力を通せば、それに呼応した長さの刀身が現れる。

 誰かが見れば、差など無きに等しい、と笑うだろうか。笑うだろう。それは、きっと笑い飛ばしていい程度のものだ。

 だが、そんなものが、何よりも大切だった。誰かの為に。世界に平和を。誰もに幸福と笑顔を。血の流れない地を。祈って祈って祈り続けて、身をすり減らして来た。それが、例え地獄と大差ないと知った後でも。人々が幸福である事への祈りを、今更やめるわけにはいかない。

 何より、それで断念出来るのであれば、ここまで来ていないのだ。途中で諦められなかった。機械がプログラムされた命令を、達成し続けようとするように。

 狂った人間。壊れた人形。衛宮切嗣と言峰綺礼。小さな違いに妥協できるようには、出来ていない。

「一つ、お前を煽っておこう。アヴェンジャーの真名は、アンリマユ。この世の悪を煮染めた存在だ。アンリマユと、それに与した私。お前の敵になる存在に、これ以上は居まい」

「遠慮無く戦え、とでも言うつもりか?」

「遠慮無く殺しに来い、と言ったつもりだ。まあ……」

 綺礼の手にある黒鍵から、刃が伸びた。指二本で支えているのに、両手剣と言われても違和感ない長さと太さ。それが、計六本。

 彼の魔術師的素養はどの程度かと問われれば、対したことはないとしか言えない。舞弥よりはいくらかマシ、という程度だろう。ただし、魔術を使用した戦闘となれば話は違ってくる。

 切嗣の戦闘経験は、他者の追随を許さない。目の前の男と比べても、勝っている自信があった。ただし、それは総合的な戦場での能力、という意味だ。狙撃や罠などの、近代兵器に精通しているというだけではない、近代戦術にも通じているからこその戦歴。それを生かせない状況とは、自殺行為に等しい。

「私に勝てるとは、とうてい思えんがな」

 乏しい火力で、圧倒的物量に対抗する術など知らない。格闘能力に勝る相手に、接近戦を挑むセオリーなどは無い。

 若年ながら、歴戦と言っていい代行者。その真骨頂は、吸血鬼と殴り合って殲滅できる格闘技術だ。切嗣にも、心得は一応ある。しかし、彼には吸血鬼と殴り合うような力は、間違っても存在しない。そもそも現代戦争において、サブウェポンが届くような距離で戦うこと自体、最後の手段なのだ。

 つまり、周囲を大量の蟲が囲んでおり。数歩で拳が届いてしまうような距離は、切嗣が戦っていい距離では無い。アヴァロンのバックアップがあって、初めて接近戦で張り合える相手だ。セイバーが居なくなった時点で、望みが無い。

(最初から知っていた事だけどな。今になって再確認したところで、勝算が生まれるわけでもない)

 だからこそ、最初から会話で引き延ばそうとしていた。相手がその気になった時点でご破綻なのだから、諦めるしか無い。

 自分の機能を、一つ一つ確認していく。

 足に問題は無い。会話していた時間は決して長くはなかったが、短くもなかった。疲労が多少蓄積していたくらいならば、十分すぎる時間。魔術に耐えられる回数が一度増えるというのは、大きな差だ――ただし、言峰綺礼相手ではどれほど役に立つかは、未知数だが。

 呼吸は整っている。体も、軽い興奮状態。すぐに動かすには、ほどよく暖まっていた。装備も、個人で持てる程度の近距離戦闘と考えれば、及第点をやれる。

 精神面。この上なくぼろぼろだった。目的も希望も失い、それでも命令を達成しようとする姿は、まるで生ける屍。もはや、切嗣は感情を原動力に動くことができなかった。思考の一切を海に沈めて、肉体の制御を経験と機能に委ねる。衛宮切嗣という個人から、ただの殺人機械へ。つまりは、万全。

 感情と行動を切り離す。今は何も考えなくていい。考えるならば、まずは言峰綺礼を殺してからだ。

「全ての生き物が飲まれたら、最後は私が飲まれる。慰めになるかどうかは知らぬが――安心してくれていい」

 全く持って、慰めにならぬ言葉だ。

 懐から銃を取り出して構える。その威力を思い出そうとして、諦めた。どれほど魔力で強化しようとも、純粋魔力弾頭の対物ライフルに勝ることは無い。防がれた時点で無意味になるのは同じだ。無論、今持っている銃より威力のある装備はあるが。どれも、やはりアンチマテリアルライフルや対戦車ロケットに勝るものでは無い。魔術を含めて。

(あいつの言葉を信じるならば……)

 周囲に気を配る。気を遣うのが馬鹿馬鹿しくなるほど、八方から無数の気配。幸いと言っていいのか、距離は僅かに開いている。どんなに急いでも、綺礼の二撃目より早いという事は無いだろう。少しの牽制で、あと二発分の余裕を生める。

 綺礼と接近戦をするためには、魔術全開でいくしかない。時間経過するだけで、体は壊れていくだろう。勝とうと思うならば、どう戦うにせよ短期決戦しかない。

 頭に照準をつけて(胸だと一撃で殺せない可能性が高い)左手を懐の、先ほど使わなかった手榴弾を二つ。安全ピンを引き抜いて、レバーを握り込んだ。

(アンリマユはサーヴァントでありながら、一部聖杯の特権を持っている。エーテル体のサーヴァントには、相当厄介な敵の筈だ。しかも、魔力を吸収する能力まである。どんなサーヴァントでも、こいつに弱くない者はいない。最悪、現時点で全滅している事も考えられる)

 比較的有利に戦えそうなセイバーも、恐らく脱落済み。時間稼ぎの意義が、限りなく薄くなった。

 外の状況を知る術は無かった。使い魔の一匹でも置いてくるべきだった、と意味の無い事を考える。やらなかったのでは無い、魔力がないからできなかったのだ。機械を置いてきた所で、舞弥と雁夜が居ない以上、操作も連絡もできる人材がいない。どちらにしろ手詰まりだった。

 チャンスなど一度も無い。多分、ゴミのように殺される。戦力の差を覆す余地が与えられているのは、ゲームだけだ。現実は現実に、いつだって非情。鉛玉は人を避けてくれないし、夢で空腹は満たされない。聖杯と、臓硯と、言峰綺礼。この組み合わせを破るにはダース単位でサーヴァントが必要だという現実も、覆らない。

 それでも戦えるのは、別に勇気があるからではない。そもそも、立ち向かっている自覚すら無い。ただ、自分はかくあるべしと言う指令の下に。ただの機械として律する。

「行くぞ」

 綺礼の短い宣言。振りかぶられる黒鍵が、辺りに銀光を撒き散らす。

「固有時制御、三倍速」

 出し惜しみなしの大魔術。瞬間、世界は停滞したように鈍くなった。その視界であっても、綺礼の腕は十分早い。大きく舌打ちをする。綺礼の能力は、予想以上だ。

 投擲された黒鍵を避けるために、大きく左に飛んだ。同時に、手榴弾を一つ右側に投げる。着地と同時に、今度は左に。

 爆発よりも早く、綺礼は目前まで迫っていた。手に持った銃を発砲、弾は正確に顔面へと飛翔するが、当然蟲が壁になる。彼は避ける仕草さえしなかった。しかし、これは予定調和。

 近接戦闘能力に優れた綺礼。ましてや格闘戦ともなれば、何倍速しようとも切嗣に勝ち目は無い。しかし、ただ一つだけ。いかに彼が優れようと、絶対に届かない領域がある。固有時制御で加速されれば、こと反応速度に限って、同等の技術なしには絶対に追いつけない。攻撃のモーションさえ見れれば、ガード自体は難しくない。

 腕を十字に構え、後ろに飛ぶ。彼の拳は、正確にその中心点を捕らえた。

 みしり、と両手の骨が悲鳴を上げた。いや、それだけに留まらず、肋骨に守られた内臓にすら届く。肺から強制的に、空気をはき出された。浮遊感によって失われる方向感覚。必死に足を伸ばして、なんとか地面を噛んだ。

 酸素の欠乏とダメージでぐらつく頭を強制制御、なんとか現状を把握する。飛ばされた距離は、想像よりも短かった。喜べる事ではない。それは、彼の一撃がより体に上手く浸透した、という事なのだから。

 加速が切れた。急激な時差の自覚に、またしても脳が悲鳴を上げる。疲労感がどっと押し寄せ、体中が痛い。

 同時に、両サイドで爆発が起きた。置き去りにした手榴弾が、ここで弾けたのだ。

 蟲に圧殺される未来は、とりあえず遠のいた。変わりに、撲殺の危険性が遙かに上昇する。それを証明するかのように、地面すれすれを疾駆してくる綺礼。

(狙いは足か?)

 機動力さえ失えば、何倍速しようと捌くのに限界が出てくる。多少の無理をしても、壊すのに十分な対象。

 回避。足を持ち上げようとして。

 次の瞬間、彼の足が跳ね上がった。

 しまった――思う余裕もない。口は、悲鳴を上げるように絶叫していた。

「二倍速!」

 強引な魔術行使の負担は、三倍速の比では無い。骨も、肉も。全身が悲鳴を上げた。

 体を反る、間に合わない。首を捻る、間に合わない。ハンマーよりも遙かに鋭い回し蹴り、それが、左眉間のあたりを、頭蓋骨すら削りながらごっそりと持って行った。

 前に出るか? 駄目だ、蟲に食い殺される。出血よりも早く決断、倒れ込むように後退した。

 追撃がなかったのは、余裕のためか。それとも窮鼠を警戒してか。

(奴を普通の相手と見るな。こと近接戦闘においては、悉く僕の上を行くと思え。甘く見た油断の結果がこれだ)

 自戒しながら、牽制の弾丸を放った。ダメージにはならなくとも、頭部に放れば視界を遮れる。

 開く、数歩分の距離。綺礼が一秒未満で肉薄するには、十分な距離。切嗣が一手講じるのも、ぎりぎり間に合う。優位に立つ者のギリギリ妥協できる位置。

 抉られた肉から溢れる血。しかし、気にしている余裕は無い。例えそれが、視界を遮ると知っていても。弱みを見せれば、その瞬間に切嗣の頭は吹き飛ぶだろう。なによりも、肉体の損傷が酷い。頭部こそ派手に出血しているが、総合的なダメージなら上回る場所が、体の各所にある。つまりは、戦闘継続能力の大幅な減衰。

 あと一度。勝利を願うならば、言峰と接触できるのはそれだけ。それ以上は、例え攻撃を食らわずとも、体が耐えられない。

 ならば。切嗣は、構えることすらしなかった。

 慣性が収まりきらぬまま、流される。僅かに、綺礼の目が開いた。

「固有時制御、二倍速」

 右手の銃を撃ちながら、服の内側に配置した手榴弾全てのピンを引いた。全部で十五ある手榴弾が、その場に転がる。

 弾が切れた銃をその場に捨てた。今度は両手で銃を構えながら、背後に飛ぶ。追撃は、鋭く心臓を抉ろうとする。だが、視界が遮られている事、そして慣性に影響された分だけ、目算から外れる。

 突き刺さる拳は、だが浅い。肋骨を抉られたが、それだけだ。苦痛という意味において、魔術の負担に劣る。

 距離を幾ばくも空けていない場所で立ち止まる。それでいい。開きすぎては、今度は接近できなくなる。

「固有時制御……三倍速」

 全身に、何かがのしかかったような違和感。深海に沈められれば、こうなるのではと思わせる。つまりは、体の壊れ行く感触。

 それはなにも、肉体だけではなかった。ただでさえ枯渇寸前だった魔力が、ついに底を尽きる。

 ここで魔術が停止してしまえば、もう逆転の目は無い。魔力を失っても魔術を行使するならば、手は一つのみ。誰でも、それこそ半人前でも知っている手段。切嗣の魂は、喪失の音を立て、がりがりと削れていった。

 とにかく、弾をばらまく。一瞬の合間も見せない。手榴弾の中心点で、綺礼を釘付けにする。

 二秒、そして三秒――今だ。持っていた銃を捨てて、懐にある残していた焼夷手榴弾に手をつけた。安全ピンは、手榴弾を落としたときに、既に抜けている。爆発タイミングの合わせられたそれを、頭上四方に投げる。

 綺礼が反応するよりも早く、蟲が囲んで守った。しかし、それでいい。

 あとコンマ数秒で爆発する、そのタイミングで、切嗣は飛び出した。コートを盾にして、爆心地に飛び込む。

 これが彼の、最後の手段だった。全方位からの攻撃により、蟲の盾を少しでも薄くする。それさえ抜けてしまえば、あとは綺礼本人の防御力しか無い。

 そして、爆発の瞬間に。切嗣は確かに見た。蟲が苦しみにうめきだし、完璧な統制を崩れさせたのを。確かに聞いた。

「――なに?」

 言峰綺礼の、戸惑いの声を。

 冗談のような話だ。まさかここに来て、物語のような展開。ゲームで用意されたかのような、逆転の手口。それこそ神が用意したかのような、陳腐な奇跡。

 強く足を踏み込んだ。一斉に絶叫する手榴弾。弾ける金属片も、灼熱の爆風も、全てに押されながら進む。肌どころではない、喉すら焼けた気がするが、知ったことか。とにかく、宿敵にして隣人の前へ。

 なんだこれは、と思わず笑った。世界の運命を賭けたような一戦。奴は自分を悪だと言い、そして切嗣を正義だと言った。それらしい因縁もある。あらゆる面で負けていて、あと少しで死ぬところだった。苦し紛れの戦略は、意味を成さず敗れる筈だった。しかしそこで、仲間だか何だかの行為により、ここ一番で機会が訪れる。

 まるで――ヒーローのようだ。

 なら、勝たなきゃな。切嗣は笑った。少しだけ、自分が肯定された気がして。

「固有時制御……っ! 四倍速!」

 無茶を通り越して、無謀な魔術行使。それ自体すら、魂を消費し切って死んでもおかしくない。全身の負担は言わずもがな。

 しかし、意味はある。蟲の壁から飛び出た、綺礼の足刀。三倍速に合わせて、正確に膝を破壊しようとした。僅かな、速度の差。それが壊すはずだった膝を回避して、太ももの骨にヒビを入れるに留まる。折れてないのならば、まだ進める。

 蟲壁に右腕を叩き込む。それと同時に、視界が飛んだ。四倍速に耐えられなくなった視神経が、ブラックアウトする事で自己を保とうとする。何も分からない、それでも進む。

 もう視界は、さほど重要では無い。ただ、右手を伸ばし続けた。服の上から抉られているのは肉か、それとも魂を変換した魔力か。だが、それも重要では無い。

 ただ必要なのは、手のひらからの感触だ。何かに触れて、感じなければいけない。触れる場所はどこでもいい。とにかく、言峰綺礼のどこかに、右手を接触させる。

 探る余裕も無い。どこかに触れられると信じて、とにかく手を伸ばす。

 そして、右手に感触を感じて。

 見えないはずの視界で、確かに綺礼が微笑んでいた。

 

 

 

 気付けば、空を見上げていた。どこまでも透き通ったような、濁った空。

 星は殆ど見えない。人工的に作られた光と、空をうっすらと覆う化学廃棄物。それらの幕は、意外に分厚かった。人の営みがそうさせたのだと思うと、腹を立てる気にもならない。いや、元々そんなものに、何かを感じたことはなかったが。

 しかし、不思議なものだ。今になって、何故か夜空と重ねて、蒼天を想う。夜空と同じく、感情が動かされた事などなく、ましてや感動などない。ただの空。昼か夜かの違いだけ。たおやかに流れる雲に、風情を感じられるだろうか。答えは否。だからこそ、言峰綺礼はこうなってしまったのだ。

 今、手を伸ばす先にあるものが、青空だったら良かったのに。こんな事を願う事があるなど、思いもしなかった。些細な願いに、苦笑する。自分はこんな事も考えられるのだと、知りもしなかった。

 実際に手を伸ばそうとして、それは無理だと気がついた。体が寒い。全く力が入らない。なにより、右腕の感触がなかった。

 そのまま寝てしまうと言うのは、実際魅力的な提案だ。しかし、苦労をしながら意識を保つ。あと少しだけ、そうしている理由があった。

 動かない視界に、一つの遺物が混ざる。収まりの悪い髪に、無精髭の生えた顎。まだ、ギリギリ青年と言っていいであろう年齢。しかし、その表情から漂う雰囲気は、今にも死にそうな老人のそれだった。瞳は当然のように死んでいる。むしろ、それ以上彼に似合う目はないだろう。世界から取り残された、迷子の目つき。

 自分と同じような。

 戦わねば。それが、同類に立ちふさがる者としての義務だ。

 体を起こそうとして、やはりそれは失敗する。いや、実行に移すことすらできない。相変わらずの虚脱感は加速する。まるで、命を失っていくかのように。

 そこまで感じて、やっと綺礼は気がついた。決着は、もう付いていたのだ。自分の敗北という形で。

「衛宮切嗣……私は今、どういう状態だ……?」

「……右腕が、胸元からごっそりと消し飛んでる」

「なるほど……体が動かぬ訳だ」

 どれほど意識を失っていたかは分からない。が、長くはないだろう。四肢の一つが無くなるほどの怪我ならば、長時間放置されて無事なわけがない。長くて一分程か。

 結局、何をされたのが全く分からない。蟲に作られた暗闇の中に、腕を差し込まれたのまでは覚えている。

 首を動かすのも億劫だ。眼球だけを動かして、なんとか切嗣の上半身を視界に納めた。見るも無惨な姿だが、その中で目立つのは、大きくこそぎ落とされた額。そして、異様にへし曲り出血している右腕。

「腕に……何か仕込んでいたか」

「ライフル弾を、発砲できるように、していた。白兵戦の、切り札としてね。まさか、咄嗟に体を捻られるとは、思わなかったけど……十分致命傷だ」

 息も絶え絶えに、切嗣は言葉を発した。

 なるほど、記憶が飛ぶほどの衝撃になるわけだ。納得しながら、血の溢れ続ける右肘に注目する。

 銃器の扱いにそれほど聡いわけでは無いが、基本くらいならば心得ていた。ライフル弾というのは、衝撃拡散構造をした専用の鋼鉄を、全身と固い床で支えながら使用するのだ。間違っても、固定もされていない腕一本で使用していいものではない。ましてや、少しでも隠密性を高めるために、衝撃吸収構造を犠牲にしたならば。今腕が繋がっていることすら、奇跡と言っていい筈だ。

 勝とう、などと意識はしていなかった。だが、負けるとは思いもしなかった。

 何が勝敗を分けたのか。こんな壊れ者同士の戦いで、意志の強さ等というものが影響した訳でもあるまい。ましてや、運命か何かが作用したなどと、考慮するだけでも馬鹿馬鹿しい。苦笑すら浮かべられないほどに。人間としての運命から弾き出された者が、それに左右されて良い訳が無い。それを信じることも、あってはいけない。

 そういう関係だった。ただそれだけ。

「聖杯は……どうした? もう、破壊したのか?」

「いいや、あの後すぐ泥に、崩れた蟲が、飲み込んだ」

 予想できた事ではあった。アヴェンジャーが、より完璧になろうと、聖杯を取り込むのは。

 下らぬ屑みたいな命を賭けた勝負の結末がこれとは、なんとも締まらない。そして、これ以上に相応しいものもない。

「そうか……。私の制御を離れたアヴェンジャーは……もう急所を隠しや守りはせん。アーチャーかライダーでも残っているならば、倒すのは容易いだろう」

 もっとも、アヴェンジャーが現界している量、それが宝具の限界を超えていなければ。それは口に出さなかった。そうであるならば、知ったところで意味があるとは思えない。

 言葉に、切嗣は眉をひそめた。

「何の、つもりだ?」

「景品だ。そうだろう……? 我々には、最も無意味な、勝者の証」

 本当の意味で、今の世界などどうでもいい者達にとって。今の世界を保つための手段ほど、無意味なものはない。

 世の中が今のままである事を望む者は、この場には居ないのだから。

「参考までに、聞かせてくれ」

 綺礼の言葉に、切嗣の反応は薄い。いや、気配すらも。まるで、枯れた老木がそこにある程度にしか思えなかった。

「勝利の気分は、どうだ?」

「……はっ。分かって、いるだろう。……最悪だ」

 くくっ、と笑った。全力を絞って、いかにも皮肉げに。なるべく、切嗣が悔しがるように。

「そうか。私は、最高の気分だ。やっと……脱落できる」

 この、何もかもが自分とずれた世界から。

 生まれてから今まで、一秒として違和感を感じなかった時はない。世界は、自分と致命的に食い違っていた。どちらが正しかったのか――多分、正しかったのは世の中。言峰綺礼という人間が、壊れているから悪いのだ。どれほど強く自覚したところで、決して埋めることの出来ない乖離。

 正しく在る事はできた。しかし、ついぞ正しく感じる事はできなかった。周囲にある正解をトレースする毎日。人間で居られるように、ごまかし続ける。そして、そのたびに己が逸脱した存在だと思い知らされた。息苦しさに悶えることもできない。もしかしたら、生きている実感すら失っていたのかも知れない。正しく感じたことがないのでは、そうであったかすら判断できないが。

 例えば、衛宮切嗣のように。己を定めることが出来たとして、その違和感は失せてくれないだろう。

 唯一の解放方法が、やっと現れてくれた。もう、何も感じなくて済む。

 それが、死だ。

「馬鹿な奴だ」

 切嗣の侮蔑。肯定しようとして、喉が苦しくなった。それを誤魔化すように、口元をつり上げる。上手く、無様に負け犬のように、笑えただろうか。

「お前は、自覚していれば、良かったんだ。例え、それがどんなに、醜悪であっても。妻の死から……目を背けずに」

 一瞬、本当に一瞬だけ、息が止まった。疲れをごまかせないほど明確に。綺礼の根元を抉る。

「――ああ、そうか」

 なぜ、こんな簡単な事に。言われるまで、気がつかなかったのだろう。

 彼女と出会って、それほど長い期間、夫婦をしていたわけでは無い。ましてや、綺礼のような人間では、理解など望むべくも無かっただろう。だが、最後まで付き合った。本当に、最後の時まで。命が、こぼれ落ちるまで。

 あの時の、妻の言葉は何だったか。結局、愛せていなかったと言った己に対して。そうだ……確か「――いいえ。貴方は私を愛しています」と言ったのだ。こんな事すら、忘れていた。彼女の死がありながら、こんな、忘れてはいけない事まで忘れていた。何よりも重要な、心の根元に埋められていた筈のもの。

 それに比べて、人生のどこに価値があったと言うのか。死に意味を作ることに価値があった? それとも、神の追求にあったのだろうか? あるいは、己の信じた信仰を貫く事がそれであった? 違う。全てが、全く持って見当違い。彼女の死を秤に掛けて、釣り合うものなど断じてない。

 瞳から、涙が溢れた。悲しみの為ではない。

「私は彼女の死を、無意味ではなくとも、無価値にしてしまったのだな」

 なんという、下らぬ結末。泣きたくなるほどに、つまらぬ回答。

「つくづく、救えぬ人間だ」

 後悔がわき上がる。あの時、忘れなければよかった。認めがたい事であっても、認めてしまえば良かった。目先の苦痛を受け入れて、生涯の苦痛を失うべきでは無かった。やり直したい。もう一度、あの時に戻って。今度こそ、苦痛を忘れぬ様に、胸に強く抱きながら生きたかった。

 愚かしさと、無念が。自分のために、そんな資格がないと知りながらも。止めどなく、瞳から溢れる。

 馬鹿馬鹿しい。自分のために泣いているという、その事実が。この期に及んで、最後に流す涙が、自分を労る為だなど。それすらも、地獄のような苦しみとして、綺礼に突き立つ。

(……せめて、これくらいは)

 受け入れよう。今度こそ、忘れぬように。

 一人の、馬鹿な破綻者。大事なことから目を背け、下らぬ事ばかりを追求し。見当違いな事ばかりを夢見てきた。いつしか、重要な事の根源すら閉じてしまいながら。

 間違いばかりを犯して生きていた。いや、むしろ間違っていない部分など、存在しなかった。ただの一つとして正解すること無く、的確に不正解ばかりを選択して。愚かしいばかりの人生。独りで完結しながらも、一人で生きることが出来なかった、弱い弱い人間未満。

 それでも、願いが叶うならば。ただ一つだけ。潔くなどなれず、無様に泣き叫んで、それで叶えられると言うならば。

 祈りと贖罪を捧げる。人生を間違い続けてきた、言峰綺礼という存在の。最後の、己の人生に対する反逆を。間違い続けた人生が、確かにここにあったと刻みつけるために。

 安らかさとはほど遠い、死に様。それは多分、人生で初めての正解だろう。破綻して生まれてしまったのだから、破綻して死ぬ。至極、摂理にあった死に方。

「衛宮切嗣、走れるか?」

「……」

 酷く重たい沈黙だ。枯れ木のようだった気配が、さらに薄まる。最早、朽ち折れて風化したそれと、さして変わらない。

「……ああ」

 返ってきたのは、なんとも曖昧な肯定。

 衛宮切嗣が嘘をつくとは思えない。そうする理由がなければ尚更だ。しかし、と綺礼は思い出した。

 彼に当てた攻撃は三発。どれも、クリーンヒットにはほど遠い。一つ目は、防御されたものの、確かに内蔵に届くのを感じた。二つ目は、かすっただけ。時間が経てば視力と血液は奪えるが、その程度。しかし、三つ目。失敗したとは言え、足のダメージは大きい。足刀から届いた感触を信じるならば、歩行はまず不可能だ。

 普通であれば、救急車で運ばれていてもおかしくない。

 それに、彼はまがりなりも、接近戦で綺礼と張り合った。技術は元より、下地となる身体能力すら天地の差。それを、魔術で無理矢理埋めたのだとすれば。体への反動は計り知れない。もしかしたら、綺礼が与えたもの以上の可能性もある。

 感じ取れる魔力が全くないのも、気になった。聖杯から多少なりとも恩恵を得ている綺礼と違って、直前まで戦闘をしていた切嗣。魔力の余裕などあるまい。元々、魔術師としての才能に富んでいたわけでは無いのだ。だからこそ、銃弾等に、はじめから魔術的効果を付与するといった戦法を選んだ、とも思える。魔力などとうに枯渇し、己の魂を代償に動いていたのかもしれない。

 そう言えば、最後の一瞬だけは、想定していた速度の限界を超えていた。機能の限界を超えた能力は、致命的な損傷を起こす。彼は間違いなく、蝕まれているはずだ。

 あと一秒でも戦闘が長引いていれば。勝者と敗者は、逆だったのかも知れない。

 そして、アヴェンジャーなどいなければ、そうなっていただろう。

(己が鍛え上げたものではない、強い力など、持つべきでは無いな。勘を鈍らせる)

 残念ながら、その教訓が生かされる日は来ないであろうが。

 どちらにしろ、本当に走れるかどうかは――自覚のあるなしも含めて――本人にしか分からない。ならば、考えるだけ無駄だ。額面通り信じよう。

 と、その前に。一つだけ、聞くことを思い出した。

「もう一つ、お前は……まだ生きるか?」

 つまらない問いかけではあった。しかし、重要な質問でもある。

 ただ、生きていく。それだけの行為が、とても息苦しく、辛い。拠り所がない事だけを、拠り所に生きる。指先に触れたものが何か、それを知るのもおぼつかない。ほんの僅か、しかし確実に、ガラス一枚隔てた感覚。生きている、という実感を奪うのには、十分すぎる仕打ちだ。死の際になって、初めて気がつく。異質と言うのは、それを抱えて生きると言うのは、これほどまでに辛いものだったのだ。

 だからこそ、言峰綺礼は問うた。ここは、チャンスなのだ。

「聞くまでも、ないだろう」

 切嗣は、大きく、確かに首を振った。否定的に、横へと。

「僕はまだ、脱落できない。誰も、それを許さない。それに……待っている人が、いるからな」

 ――お前と違って。言外に込められた皮肉は、今度こそとても痛かった。それを無為に捨て去ってしまった身としては、余計に。

 間違った願望を持ち、間違って聖杯戦争に望み、間違ったまま志し折れる。それでもなお、頑なに死んだように濁った、強い瞳を維持し続けている。折れ曲がった所で、走り続ける事だけはできるのだ。また、間違った方向に進もうが。

 綺礼は笑った。これも、分かりきった事だった。やはり、自分でも同じ答えを出しただろうから。

 つまらない問いかけは終わった。

「ならば、早くこの場から離れるのだな。ここが消し飛ばされるのも、そう遠くはないぞ」

 臓硯は上手くやっていた。その物量を十全に生かし、全てのサーヴァントを封じていたのだから。しかし、奴がいなくなればそれも終わる。大火力を発揮できるサーヴァントが解放され、汚染された泥全てを薙ぎ払おうとするだろう。聖杯の位置が不明な以上、それ以外に取れる手は無い。

 つまりは、アヴェンジャーの中心地とも言えるここは、正しく死地。真っ先に狙われるであろう場所だった。ここに留まっていて、助かる可能性は限りなく低い。

「お前に、言われなくても、すぐに行くさ」

 重い吐息を破棄ながら、切嗣。今にも倒れ込みそうな姿が、嫌に鮮明に見えた。

 いや、気のせいではない。動く左指先を確認しながら、気がついた。

「ついでに、しっかりと私にとどめを刺していけ。どうやら、アヴェンジャーは私をしぶとく生き残らせるつもりらしい」

 震えて、こぼれ落ちそうな左手を持ち上げた。いかにも弱々しい動作だが、しかし動く事を知らせられれば十分。それが、理由になる。

「まかり間違って、生き残ってしまってもかなわん」

 せっかく、やっと、人生から脱落できるのだから。

「そうか……そうだな」

 一瞬だった攻防。銃を使い切るには、短すぎた時間だ。

 右腕に比べればまだ無事な、左手を懐に潜り込ませ。取り出されたのは、一丁の拳銃だ。お世辞にも口径が大きいとは言えない、魔術師に対抗するにはいかにも頼りないそれ。だが、死にかけを仕留めるには十分だ。眼球を狙えば、十分脳まで届く。いかな聖杯と融合したアヴェンジャーとて、脳を破壊された人間は蘇生できない。

 それが、構えられた。視線の先には、小さく深い空洞。つまりは、正確に眼孔に狙いを定めている。

「さよなら、言峰綺礼」

「さよなら、衛宮切嗣」

 言いながら、綺礼は静かに目を閉じた。

 衛宮切嗣。宿敵と言って差し支えない相手。そうしてやる義理もないのだが、まあいい。これからも続くであろう、地獄のような人生を、せめて祝ってやる。

 生と死は等価だ。死んだような生に、死んだような死。何も違いは無い。

 それでも、生きることに固執する。ブリキの人形が、人間になりきって、人のそれではない願いや感情を抱きながら。違いを知りながらも、訂正する事もできず、する気もない。どこまでも惨めな人もどき。

 敗者となった事で、初めて捨てることを許される。安らぎの無い、悔いだけが残る終わり。

 まあ、相応しくはあった。最後に安らかさを得るなど、贅沢に過ぎる。

 だから。

 終末の鐘が火薬の炸裂音だったのも、なんらおかしくは無い。

 まぶたの裏はまるで暗闇、何かを思い返す事など出来ずに。一瞬で沈んでいく意識に身を任せた。


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